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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.3.26〜3.30★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.3.30(現地3.29)
●スウィーニー、開幕直前に5年契約を結ぶ!
マイク・スウィーニー
契約問題が話題となっていたロイヤルズのマイク・スウィーニーだが、開幕直前になってようやく5年間5500万ドルで契約を更新した。とはいえ、ロイヤルズが2003年、2004年と共に勝率が5割を割ることになれば、スウィーニーはこの契約を破棄でき、FAになれるというオプション付きである。さらに移籍するということになれば、2004年の時点でFAになるという。仮に移籍するということになっても、スウィーニーが提出した8球団以外とは交渉することは出来ない。さらにこの場合の年俸は1250万ドルに跳ね上がる。

●43歳ヘンダーソン、レッドソックスと1年契約!
リッキー・ヘンダーソン
注目される43歳、リッキー・ヘンダーソンがレッドソックスと1年間35万ドルで契約を交わした。スプリングトレーニングでは17試合で打率.203に留まっていたが、2002年も開幕ロースターに名を連ねることになった。盗塁、得点、四球のメジャー記録を持つヘンダーソンだが、これらの記録にいくつの上積みが出来るだろうか。さらにレッドソックスはレイ・サンチェスともメジャー契約を交わした。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.145
イバン・ロドリゲス★イバン・ロドリゲス #7★ テキサス・レンジャーズ

ここ2年は怪我でフルシーズンのプレーは出来ていないが、10年連続ゴールドグラブ賞、7年連続打率3割と攻守に素晴らしい成績を残しているイバン・ロドリゲス。肩も強く高い盗塁阻止率を誇り、チームの要としての活躍が充分に期待される。1999年にMVPを受賞しているイバンにとって残されたタイトルは世界一のチャンピオンリングのみである。

強肩強打でメジャーリーグを代表する捕手のイバン・ロドリゲス。プエルトリコ出身のイバンは、父の影響もあり、子供の頃から自然に野球と触れあっていた。リトルリーグ時代に投手としてノーヒッターを7度も記録するなどの才能を発揮したイバンは、捕手というポジションに魅力を見出し、それにのめり込んでいく。イバンが生まれ育った町にはホアン・ゴンザレスもおり、幼き日からゴンザレスに負けず劣らずの打棒を見せていた。

16歳になったイバンはレンジャーズと契約を交わし、プロの世界に足を踏み入れることとなる。プエルトリコで生まれ育ったためにスペイン語しか話せずに苦労したが、本人の努力と高い野球センスでこれをカバーしていった。1990年、1Aシャーロットで109試合に出場し、打率.287に盗塁阻止率.390をマーク。この時点でイバンはまだ18歳だった。

メジャーのスプリングトレーニングに参加した1991年だったが、2Aタルサで開幕を迎えることとなる。当時のレンジャーズは固定した正捕手がいない状況もあり、6月20日にメジャーへ昇格させることになった。しかし、ちょうどその日はダブルヘッダーが予定されており、第1試合終了後にイバンの結婚式が行われるはずだった。しかし、メジャー昇格の知らせを聞いたイバンはそのまま婚約者を連れてメジャーに参加。いきなりメジャーでスタメン出場を果たす。非常に慌ただしい中、イバンのメジャー生活が始まることになった。

メジャー昇格後から守備にも打撃にも才能をいかんなく発揮し、正捕手の座を手にするのに時間はかからなかった。当時44歳の大投手ノーラン・ライアンとの25歳の年齢差バッテリーも大きな話題になった。新人王投票ではチャック・ノブロックホアン・グーズマンミルト・カイラーに次ぐ4位に終わったが、この強肩強打の19歳イバンの将来に、周囲は大きな期待を寄せた。

1992年に初めてゴールドグラブ賞を獲得したイバンは、オールスターゲームにも初選出。以降、それらの常連となる。守備面では強肩とフットワークでメジャーリーグナンバー1捕手と呼ばれるだけの実力を見せ、1995年には打率を初めて3割に乗せた(.303)。翌1996年は、打率.303、19HR、86打点をマークし、盗塁阻止率はリーグトップの.489を記録している。チームも地区優勝を飾り、初めてポストシーズンを戦った。ヤンキースとのディビジョンシリーズだったが、イバンは打率.375と大当たりするものの、チームは1勝3敗で敗れてしまった。

1997年、トレード期限のギリギリとなる7月末にヤンキースへの移籍話が浮上する。騒ぎの中、レンジャーズと5年間4200万ドルで契約延長を果たし、生涯レンジャーズも口にしている。この年は盗塁阻止率.560に加え、打率.313、20HR、77打点を記録した。翌1998年は開幕から好調で4月に打率.442、4HR、21打点をマークし、月間MVPを獲得。シーズン終盤の9月15日の対オリオールズ戦において、地区優勝を決定づける貴重な逆転2ランHRを放っている(ディビジョンシリーズではヤンキースに3連敗)。

ジョニー・ベンチに並んだ10年連続ゴールドグラブ賞受賞。1999年、5年連続リーグトップとなる盗塁阻止率.547を挙げる一方、打撃面でも首位打者争いを演じるだけの活躍を見せた。打率.332、35HR、113打点と抜群の成績を残したイバンは、自身初のMVPも受賞している。この年は23勝4敗を挙げたペドロ・マルチネスがMVPの最有力候補だったが、ポイントでは252対239とわずか13ポイント差で振り切った形である。1位票8票のペドロに対し、イバンは1位票7票と少なかった。1位票2位でもMVP受賞となったのは、ハル・ニューハウザー(1944年)、ロジャー・マリス(1960年)、ロベルト・クレメンテ(1966年)に次ぐ4人目のことである。地元テキサスの記者2人は共にイバンには投票していなかったという事実もあった。「投手はMVPになれないのか」という点でもいろいろと議論の分かれるところだが、イバンは1976年のサーマン・マンソン以来となる捕手のMVPとなった。ちなみにこの年、25盗塁もマークし、史上初の20HR20盗塁を記録した捕手にもなっている。

こうして迎えた2000年は、7月24日の対エンゼルス戦で盗塁を刺そうとした際、右手親指を打者のバットに当たってしまい、右手親指を骨折。残りのシーズンを故障者リストで過ごすことになってしまった。この年はわずか91試合の出場で、打率.347、27HR、83打点をマークしている。

2001年、チームはアレックス・ロドリゲスと大型契約による加入もあり期待された中で迎えた。しかも開幕戦は故郷のプエルトリコで迎えるというイバンにとっては最高の開幕スタートとなるはずだった。しかし、投手不足もあり序盤からチームもイバンも低空飛行。さらにはシーズン中に移籍話も浮上し、2度の故障者リスト入りに泣き、わずか111試合の出場に終わってしまう。そんな中でも打率.308、25HR、65打点をマークし、守備面でもジョニー・ベンチに並ぶ10年連続のゴールドグラブ賞は獲得している。

ずんぐりむっくりな体型から、パッジという愛称で親しまれるイバン。メジャーリーグの歴史に残る捕手としてベンチの名前が挙がるが、そのベンチと比べても決して遜色はない。足りないのはただ一つ、世界一のチャンピオンリングを持っていないという点である。オフにFAとなるため、チーム成績によってはシーズン中の移籍も充分に考えられる。世界一という希望を叶えるのはレンジャーズの一員としてか、もしくは・・・。

■2002.3.29(現地3.28)
●開幕戦、午後9時11分に黙祷!シーズン開幕まであと少し!
Major League Baseball
2001年9月11日、メジャーリーグどころか世界中に大きな衝撃をもたらした例の事件の被害者のために、各チームのシーズン開幕戦の試合中の午後9時11分に黙祷を捧げることになった。加えて、セブンスイニングストレッチの際、「God Bless America」が斉唱されることも決まった。2002年のメジャーリーグ開幕はすぐそこにまで来ている。

●ヤンキース、ダントツトップの7億3000万ドル!
New York YANKEES
フォーブス誌が毎年恒例となっている各球団の価値金額を公表した。1位はヤンキースの7億3000万ドルとダントツで、2位のメッツ(4億8200万ドル)に約2億5000万ドルもの差を付けている。伸び率が高かったのは、2004年から新球場に移るフィリーズで46パーセントアップ。2番目は昨年地区2位と躍進を果たしたツインズで29パーセントアップの1億2700万ドルである。最下位はエクスポズで1億800万ドルに留まっている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.144
マット・ウイリアムス★マット・ウイリアムス #9★ アリゾナ・ダイヤモンドバックス

在籍した3チーム全てでワールドシリーズを経験しているマット・ウイリアムス。2001年は3度目の正直で、初めての世界一の名誉を手にした。5年契約の最終年となる2002年、スプリングトレーニングで左足首を骨折。ほぼ前半戦は絶望という状態で後半戦の復活に懸ける。

2002年シーズンは早くも出遅れが決定。ウイリアムスの祖父はバート・グリフィンといい、1922年から24年の間、ブルックリン・ドジャースとワシントン・セネタースでプレー経験のあるファースト兼外野手だった。父親は大工で、子供時代のウイリアムスはバットを振るよりハンマーを振ることの方が多かったという。そんなウイリアムスは高校卒業時にメッツから27位指名を受けるが、大学進学の道を選ぶ。大型ショートとして活躍し、大学3年時の1986年には、57試合の出場で打率.351、25HR、89打点と猛打を発揮。この年のドラフトでジャイアンツから1位指名(全米3番目)を受け、晴れてプロ入りする。

1987年4月11日にショートストップとしてメジャーデビューを果たした。初ヒットはオーレル・ハーシハイザーから放ったが、手首の怪我もあり、満足する成績を挙げられずにマイナー降格。翌1988年、開幕ロースター入りを果たすが、結果を出せずに3Aへ降格。しかし、3Aでは82試合に出場して、打率.271、12HR、51打点をマーク。3Aのパシフィックコーストリーグにおいて、75年ぶりの1試合4HRも記録してメジャーへ復帰。この年はノーラン・ライアンからグランドスラムも放っている。

1989年、ジャイアンツのサードとして開幕を迎えるが、期待に応えられずに5月に入るとマイナー落ち。3Aで76試合に出場し、打率.320、26HR、61打点をマークし、7月にはメジャーへ戻ってきた。3番ウィル・クラーク、4番ケビン・ミッチェルに次ぐ5番を打って、8月には月間11本のホームランを放ち、チームに貢献。見事に地区優勝を果たし、ワールドシリーズへの進出も果たした。近隣のアスレティックスとのワールドシリーズということで注目を浴びたが、サンフランシスコ大地震でまさかの中断。結局、ジャイアンツは4連敗してしまうが、第3戦にはデーブ・スチュワートからホームランを放っている。

1990年、ウイリアムスは初めてメジャーでフルシーズンを過ごした。16試合連続ヒットなど、ジャイアンツのサードとして定着し、159試合に出場し、打率.277、33HR、122打点を記録し、打点王のタイトルを獲得。シーズン122打点というのは、球団史上において1938年にメル・オットーが記録した116打点以来の快挙である(ちなみに球団記録は1929年のオットーによるシーズン151打点)。プロ入り以降、ショートからサードにコンバートしたが、サードとしての守備率もリーグ2位の.959をマークしている。

1991年も157試合に出場し、打率.268、34HR(リーグ2位)、98打点を記録。10試合連続得点に加え、自身初のゴールドグラブ賞を獲得した。シーズン最後には通算100号HRをダリル・カイルから放っている。翌1992年は、146試合に出場するも、リーグのサードとしてブービー賞となる打率.227に、20HR、66打点と成績を大きく落としたが、1993年は、打率.294、38HR、110打点と前年の不調を吹き飛ばす活躍を見せ、MVP投票では6位に食い込んだ。

勝負強い打撃は頼りがいがある。1994年は開幕戦に2HR5打点と最高のスタートを切ると、そのままのペースで打ちまくり、6月が終わった段階で29HR。この年はもう一方のリーグでケン・グリフィーがHRを量産していたこともあり、1961年にロジャー・マリスのシーズン61HRという記録を抜くのではないかと期待がかかっていたが、ウイリアムスのペースはグリフィーを上回った。7月が終わった段階で40HRをマーク。この記録はこの年の時点ではリーグ最速記録だった。しかし、まさかのストライキでシーズン中断。マリスへの記録の挑戦は43HRでピリオドが打たれてしまう。MVP投票ではジェフ・バグウェルに次ぐリーグ2位となったが、ストライキ突入直前にバグウェルが骨折したことを考えると、ストライキさえなければウイリアムスにとってMVPとシーズンHR記録更新の2つを手にしていたかもしれない幻のシーズンとなってしまった。

ストライキが明けた1995年、5月に打率.405、12HR、31打点を記録し、月間MVPを獲得するなど前年の活躍がはったりではないことを証明したウイリアムスも6月にファールチップが元で右足を骨折し故障者リスト入り。シーズンの半分を棒に振ってしまった。翌1996年も開幕早々に通算1000本安打を記録するが、シーズン終盤を怪我で失った。オールスターに選ばれながら、2年連続でフィールドに立つことは出来なかった。

ジャイアンツの人気選手だったウイリアムスも度重なる怪我により、オフに2対4のトレードでインディアンズに移籍することになってしまった。この移籍にはジャイアンツファンからの反発の声が多く聞かれた。そして迎えた1997年は、151試合に出場し、打率.263、32HR、105打点をマークし、チームの地区優勝に貢献。見事にリーグ優勝も果たし、自身2度目のワールドシリーズ進出。マーリンズと戦ったこのシリーズは第7戦までもつれ込む熱戦となったが、第4戦にホームランを放ち、打率.417(24打数10安打)と大当たりしたが、世界一の名誉を手にすることは出来なかった。

復活の兆しを見せたウイリアムスは、翌年から新球団として誕生するダイヤモンドバックスへの移籍を強く希望。というのもアリゾナには前妻との間の子供が住んでいるからだ。そしてダイヤモンドバックスと5年間4500万ドルで契約を結んだ。ふたを開けてみれば家庭の問題に苦しみながらも、打率.267、20HR、71打点を記録している。

1994年のストライキが惜しまれる。1999年は、打率.303、35HR、142打点と好成績を挙げ、球団創立2年目での地区優勝に貢献。この年はウイリアムスの他に、ルイス・ゴンザレススティーブ・フィンリージェイ・ベルも100打点を突破した。メッツとのディビジョンシリーズでは打率.375(16打数6安打)を記録するも、チームは惜しくも敗れてしまった。ちなみにこの年のMVP投票では3位に付けている。

その後は怪我が続き、2000年も2001年もシーズンは共に100試合前後の出場に留まり、限界説も流れた。2001年にチームは地区優勝を果たし、ポストシーズンへ進出するがウイリアムスのバットは湿ったままで、チームに貢献しているとはいえなかった。しかし、カート・シリングランディ・ジョンソンらを中心に勝ち進み、ワールドシリーズへ進出。そしてワールドシリーズ第2戦では3ランホームランを放った。ウイリアムスにとって3番目のチームで、自身3度目のワールドシリーズとなるが、そのいずれもでホームランを放っており、これはメジャーリーグ史上初のことである。第7戦までもつれたこの試合も、熱戦の末、ダイヤモンドバックスが逆転サヨナラ勝ちで世界一を決め、ウイリアムスもその歓喜の輪に加わった。

ダイヤモンドバックス球団創立以来、チームの顔としての活躍が求められてきたウイリアムス。怪我で満足した成績が残せずに苦労したが、球団創立4年目の世界一には貢献したと言えるだろう。出遅れが決まった2002年、厳しいシーズンになることが予想されるが、通算400HRは目前である(現在、通算362HR)。これを励みにもう一踏ん張り見せてもらいたいところだ。

■2002.3.28(現地3.27)
●4対2のトレード!アルフォンセカ、カブス入りへ!
アントニオ・アルフォンセカ
クローザーを探していたカブスは4対2のトレードでマーリンズからアントニオ・アルフォンセカを獲得し、怪我で前半戦絶望のトム・ゴードンの穴を埋める。アルフォンセカと共にカブス入りするのは先発のマット・クレメントであり、カブスからマーリンズに移るのはフリアン・タバレスの他に3人のマイナーリーガー(ホゼ・クエトドントレリー・ウィルスライアン・ホルゲンセン)の計4人である。アルフォンセカは1997年のマーリンズ世界一を経験した選手だが、移籍先のカブスには当時のピッチングコーチだったラリー・ロスチャイルドがいる。

●カンセコ、通算500HRへの道、再び閉ざされる!
ホゼ・カンセコ
エクスポズとマイナー契約を結び、メジャーへの道を模索していたホゼ・カンセコだが、結果を出せずにエクスポズでのプレーは道を閉ざされた。歴代22位となる通算462HRを記録しているカンセコも、スプリングトレーニングでは14試合に出場し、打率.200、3HR、5打点と期待を裏切る成績で、フランク・ロビンソン監督はカンセコの替わりに若い選手を起用することを決めた。37歳のカンセコにとって、通算500HRへの道は非常に厳しいものになりそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.143
ケニー・ロフトン★ケニー・ロフトン #1★ シカゴ・ホワイトソックス

1990年代後半のインディアンズ黄金時代に先頭打者として貢献したケニー・ロフトンが、2002年からホワイトソックスのユニフォームを着ることになった。ここ数年は怪我が続き、満足できるシーズンを過ごしてはいない。背番号もそれまでの7番から1番に変え、5年連続盗塁王を獲得したかつての栄光を、シカゴの地で取り戻すことが出来るだろうか。

ロフトンはかつての栄光を取り戻せるか。大学時代は野球とバスケットボールを本格的にプレーしており、野球では大学通算200盗塁を記録する俊足を発揮し、バスケットボールでもチームが全米ベスト4に入る活躍を見せた。1988年のドラフトでアストロズから17位指名を受けてプロ入りを果たす。マイナー時代から俊足ぶりを発揮し、1991年9月にメジャー昇格。メジャーデビューとなる9月14日のレッズ戦では、4打数3安打3得点と大当たりした。そして、オフにインディアンズへの移籍が決まる。

1992年、初めてメジャーでフルシーズン過ごし、148試合に出場。打率.285に66盗塁を記録し、盗塁王のタイトルを手にする。インディアンズとしては1946年のジョージ・ケース以来の盗塁王である。しかし、新人王投票ではパット・リスタッチに次ぐ2位に終わってしまうが、リーグ2位の14捕殺を記録するなど、外野手としての強肩も見せつけた。前年、3Aで喫した95個の三振も54個に減らした。

1993年も勢いはとどまらず、リーグ4位の打率.325、リーグ3位タイの116得点など先頭打者としての実力をいかんなく発揮。シーズン70盗塁もマークし、2年連続の盗塁王となった。1シーズンで打率.325、70盗塁を記録したのは、これまでタイ・カップウイリー・ウイルソンティム・レインズの3人しかおらず、ロフトンはその中へ仲間入りも果たしたことになる。さらに初めてのゴールドグラブ賞を獲得した。

1994年は4月末からキャリアハイの17試合連続ヒットをマーク。ストライキのため、シーズンは途中で中断されたが、その中で打率.349(リーグ4位)、60盗塁を記録し、球団史上初の3年連続盗塁王に輝いている。さらにMVP投票でも、フランク・トーマスケン・グリフィーアルバート・ベルに次ぐ4位に付けている。翌1995年は、故障者リスト入りしたこともあり、わずか118試合の出場に留まったが、54盗塁を記録し、4年連続の盗塁王に輝き、リーグトップの13本の3塁打を放っている。特にシーズン最後の1ヶ月で22盗塁も記録し、チームを1954年以来のポストシーズン進出に押し進める原動力となった。マリナーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.458(24打数11安打)と気を吐き、チームの勝利に大きく貢献。ワールドシリーズの舞台に立つことも出来た(しかし、ブレーブスの前に2勝4敗で敗れる)。

2002年は舞台をシカゴに移す。1996年、キャリアハイの210安打、132得点に75盗塁を記録。5年連続と盗塁王に、4年連続のゴールドグラブ賞受賞と輝かしい記録に包まれている。オールスターゲームにも過去2度出場しているが、ファン投票で選出されたのはこの年が初めてである。

順調にキャリアを積んでいたロフトンも1997年開幕直前にマーキス・グリッソムデビッド・ジャスティスとの交換でブレーブス入りすることが決まった。開幕直後は好調だったロフトンも左股関節の痛みがあり、満足したシーズンとは言えなかった。この年のオールスターは古巣インディアンズの本拠地ジェイコブズフィールドで行われたが、故障者リスト入りしていたロフトンも選出され、クリーブランドのファンから大きな拍手を受けていた。結局、122試合にしか出場できず、期待された盗塁はわずか22盗塁に終わってしまう(打率は.333で5年連続の3割マーク)。

オフにFAとなり、古巣のインディアンズと契約したロフトン。154試合に出場し、打率.283ながら、43盗塁を記録するなど、本来のロフトンのプレーが見られた(盗塁王は66盗塁のリッキー・ヘンダーソン)。盗塁成功率は84.4パーセント(64回試みて54回成功)であり、ロフトンが得点を挙げた試合では、チームは51勝26敗(勝率.662)と高勝率をマークするなど、理想のトップバッターぶりを見せた。この年、通算400盗塁を記録している。

1999年は右足のハムストリングを痛め、2度の故障者リスト入りがあったものの、打率.301、30盗塁をマークしている。レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦で1塁へ滑り込んだ際、左肩を痛めるアクシデントでオフに手術を受けるほどの大怪我をしてしまう。これが原因で、翌2000年は前半戦絶望かと思われたが、驚異的な回復を見せて開幕に間に合う。しかし、4月末には左二頭筋を痛めて故障者リスト入り。この年は打率.278、30盗塁に終わってしまう。

2001年も怪我の影響が大きく響き、打率.237、16盗塁に終わるなど、かつて5年連続盗塁王だった面影も徐々に色褪せてきた。オフにFAとなったロフトンは輝かしいキャリアを残したインディアンズに別れを告げ、ホワイトソックスと契約。かつてのスピードスターも2002年5月には35歳となる。このまま尻すぼみでメジャー生活を終わらせてしまうのか、正念場のシーズンとなりそうだ。

■2002.3.27(現地3.26)
●メジャーリーグ、2002年中のロックアウトはなし!
Major League Baseball
昨年10月末日をもって労使協定が失効していたメジャーリーグ。未だに新しい労使協定は結ばれておらず、不安定な立場のメジャーリーグだったが、バド・セリグコミッショナーの強い薦めもあって、2002年シーズン中のロックアウトという可能性を強く否定した。問題は山積みだが、オーナー側と選手側で野球を守っていこうと声明が発表された。

●ジョンソン、開幕は故障者リストで迎える!
チャールズ・ジョンソン
左手親指を痛めていたチャールズ・ジョンソンが3週間ぶりに打撃練習に守備練習にと取り組んだ。しかし痛めている手が、捕手としてはミットで受ける側である。打撃よりも守備に大きな影響を及ぼすため、開幕は故障者リストで迎えることが濃厚となっている。代わりにマスクを被るのはマイク・レッドマンになるだろうとラリー・ベインフェストGMは語っている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.142
マーク・グレース★マーク・グレース #17★ アリゾナ・ダイヤモンドバックス

<written by ダイスポ>

マーク・グレース。なんと甘く、美しい響きを持つ名であろうか。そして彼の卓越した打撃技術と一塁守備もまた、メジャー15年目を迎えてますます円熟味を増し、まるで衰えを知らぬかのようだ。

1990年代、最もヒットを打った男。グレースは1964年、タバコで有名なノースカロライナ州ウィンストンセーラムに生まれた。やがて一家はセントルイスを経てカリフォルニア州タスティンに移るが、若きマーク少年は野球とバスケットボールの選手として高校時代を過ごす。野球ではキース・ヘルナンデス、そしてバスケでは地元レイカーズの英雄、マジック・ジョンソンがお気に入りであった。

タスティン高校を卒業したグレースは短大を経て、サンディエゴ州立大学に編入。そこでカブスの目にとまり、1985年ドラフト指名を受けてプロ野球選手としての第一歩を踏み出した。指名順位こそ24巡であったが、彼の才能はいきなり開花を始める。1年目、A級ピオリアで打率.342。そして2年目にはAA級ピッツフィールドで.333、101打点と猛打を爆発させ、イースタンリーグのMVPにも選ばれた。

グレースの快進撃は留まることを知らず、1988年には早くもカブスのスプリング・トレーニングに呼ばれるまでに成長した。開幕こそAAA級アイオワで迎えるが、5月には待望のメジャー昇格。そしていきなりレギュラー一塁手の座を獲得したグレースは、その年打率.296、7本塁打、57打点の活躍を見せ、ナリーグ新人王第二位の投票を得た。

翌1989年には打率.314、13本塁打、79打点を挙げ、心配されていた2年目のスランプは全く感じられなかった。そしてこの年彼の野球人生にとって、最初の正念場が訪れる。カブスが93勝を挙げ、ナリーグ東地区を制したのだ。そしてサンフランシスコ・ジャイアンツとのリーグ・チャンピオンシップに望んだのである。ドン・ジマー監督率いるこの年のカブスは、グレースのほかにもグレッグ・マダックスリック・サトクリフライン・サンドバーグ、そしてアンドレ・ドーソンなど強力な戦力を誇っていた。そんな中でも、若きグレースの打棒は猛威を振るった。全5試合で17打数11安打の打率.647、8打点。特に第1戦、ジャイアンツの先発投手スコット・ギャレルツから粘ったあげくに放った本塁打は圧巻であった。

だがその活躍が報われることは無かった。シカゴでのホームゲーム2試合をタイとして敵地・サンフランシスコに乗り込んだカブスであったが、それからの3試合を1−2点差の接戦に持ち込みながらも全て敗れてしまい、悲願のワールドシリーズ出場を成し遂げることが出来なかったのである。

翌1990年からも、グレースの打撃は安定した成績を残すようになる。1999年までの10シーズンで、3割を切ったシーズンがわずかに2回(1991=.273、1994=.298)。毎年平均170本以上のヒットを放ち、その優れた打撃技術は万人が認めるものとなった。課題だった一塁の守備も徐々に向上し、1992年には遂に念願のゴールドグラブを獲得。以来93,95,96年と同賞を獲得し、リーグ随一のファーストとしての評価までも得るに至ったのだ。

かつてのカブスの至宝、グレース。グレースはまた、1992年には日米野球のため、MLBオールスタ−チームの一員として来日している。ロジャー・クレメンスケン・グリフィー・ジュニア、またセシル・フィルダーなどの豪華メンバーの中でもグレースの存在はかすむことなく、東京ドームで行われた初戦(vs巨人)、そして平和台球場で行われた第6戦(vs全日本)でホームランを放つ活躍を見せて最優秀選手賞を獲得。日本の野球ファンにも、その実力を大いにアピールした。

だがグレースは決して満足してはいなかった。野球選手の夢・ワールドシリーズへの出場は遠のくばかりであったからだ。89年の地区優勝を最後に、チーム成績の低迷、繰り返される監督交替劇、そして優勝には絶対不可欠な戦力であるエース・マダックスをみすみす手放してしまうなど、失望する事ばかりがチームの中で起きていった。そんな中、サンドバーグ達も第一線を退き、グレースは文字通りチームの大黒柱としての地位を確立していったのである。

やがてカブスに新しいスーパースターが登場した。サミー・ソーサである。1998年、マーク・マグワイアとの歴史に残る本塁打競争を演じ世界にその名を轟かしたソーサの活躍が、カブスを再び強豪の地位に引き上げていったのだ。またケリー・ウッドと言うイキのいい投手もデビューし、ワイルドカードで久々のプレーオフ出場を成し遂げたカブスは、アトランタ・ブレーブスと対戦する。しかし結局3連敗を喫し、またしても悲願達成はならなかった。最後の第3戦でカブスの息を止めたのは、かつてのエース、マダックスであった。

翌99年になると、チームは投手陣のけが人続出などで再び沈んでいく。そんな中、グレースの打撃は相変わらず好調で、183安打、打率.309と5年連続3割を達成した。そして西暦2000年、カブスはメッツと共に史上初の日本開幕戦に臨んだ。この試合、5−3でカブスが勝ったが、グレースはまたも東京ドームで本塁打を放ち、日本との相性のよさを見せてくれた。連続3割こそ遂に途切れてしまったが(.280)通算1000打点を記録するなど、区切りのシーズンでもあった。

しかしこの年が、カブスの至宝・グレースにとってシカゴで過ごす最後のシーズンとなった。2000年のシーズン終了後、カブスはグレースと再契約しない事を明らかにした。ファンは残留を強く希望したが、この決定が覆ることは無かった。確かに安打数と打率こそ下がったものの、二塁打は41本と相変わらず多く、三振が28個と少ない上に四球は自己最多の95個を選んでいたわけだから、グレースが相手チームにとって厄介な存在であることに全く変わりは無かったのにもかかわらず、である。

2001年、世界一の美酒を味わう。2001年、FAとなったグレースはアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍する。カブス一筋に過ごしたグレースにとって、野球人生最大の決断であったことだろう。しかしこの決断が吉と出る。ランディ・ジョンソンカート・シリングの超強力2本柱を要するダイヤモンドバックスはシーズン92勝を挙げてナリーグ西地区を制覇。そしてプレーオフでもセントルイス・カージナルスとアトランタ・ブレーブスを破り、遂に悲願のナリーグ優勝、そしてワールドシリーズ出場を成し遂げたのだ。これはダイヤモンドバックスとしては球団創設4年目と言う史上最速の快挙であったが、グレースにとっては実に14年間待ちつづけた瞬間であった。かつてのチームメイトであり、また宿敵でもあったマダックスはリーグ・チャンピオンシップの第1戦、第4戦と先発してきたが連破している。

そして迎えたワールドシリーズ、無敵の王者ヤンキースを相手に劇的な敗北を立て続けに喫したアリゾナだが、ひるむことなく地元に戻った第6戦を取り返す。そして最後の第7戦も、ワールドシリーズの歴史に残る大死闘となった。シリング、そしてジョンソンの鬼神のごとき投球に観客は燃え、打撃陣も期待にこたえた。

9回裏、アリゾナ最後の攻撃。2−1とヤンキースわずかに1点リード、しかしマウンドには守護神・マリアーノ・リベラがいた。ヤンキースの必勝形である。やはり勝てないのか…先頭打者はグレース。グレースはセンター前ヒットで出塁し、ファンのわずかな期待をつないだ。そしてトニー・ウォーマックが同点タイムリー、さらに「ゴンゾ」ことルイス・ゴンザレスが詰まりながらもヒットを放ち、遂にサヨナラ勝ち。歓喜の渦に包まれるバンクワン・ボールパーク。その中に老雄・グレースの姿があった。ワールドシリーズ初出場ながら、遂に勝ち得たワールドチャンピオンの座であった。

2002年、グレースはメジャー15年目のシーズンを迎えた。冒頭に書いた通りまだまだその実力はいささかも衰えてはいないが、いずれはそのポジションを奪われる時がやってくるであろう。それは1988年、自身がメジャーにデビューしたときにベテラン選手のポジションを奪ってスターへの一歩を踏み出したのと同じ事である。しかし彼にはまだ大きな目標がある。それは通算3000本安打の達成だ。現在2343安打、あと657本である。ここ2年、安打数が140本台に落ちてきているのでこのペースだとあと5シーズンは打ち続けないといけないが、その選球眼と右に左に打ち分ける事の出来るバッティング技術がある限り、グレースならきっと大記録を達成してくれるであろう。

そして彼はファンに愛される選手でもある。2001年5月、移籍後初めて古巣リグレー・フィールドに戻ったグレースは、その打席でカブスファンからの惜しみないスタンディング・オベーションを受けた。それは彼に対するカブスファンからの変わらぬ親愛の証であり、グレースがカブスで行って来た事に対するささやかなお返しでもあった。

負け越しのシーズンが続いてそこに希望が無いように見えても、彼は何時も諦めず、闘志を燃やしつづけた。彼こそが、リグレー・フィールドに何時も小さな明かりを灯しつづけた男であることを、ファンは決して忘れてはいなかったのである。

私自身、グレースという偉大な打者の存在を知る事が出来たのはとても幸せな事だと思っている。皆さんももしチャンスがあれば、是非球場でその打撃をご覧いただきたい。「90年代最もヒットを打った男」は、21世紀の今も健在、きっとあなたを美しいヒットで出迎えてくれることだろう。あなたにも野球の神様からの「アメージング・グレース」がありますように。

■2002.3.26(現地3.25)
●ジマーマンが故障者リスト入りで、ロッカーがクローザーへ!
ジョン・ロッカー
レンジャーズはクローザーが予定されていたジェフ・ジマーマンが右肘を痛めてしまい、開幕を故障者リストで迎えることになったため、2002年からレンジャーズ入りしたジョン・ロッカーが開幕からクローザーを務めることになりそうだ。ロッカーにとっての2001年は、シーズン途中にブレーブスからインディアンズに移り、不安定なピッチングでクローザーの座を失うということもあった。ロッカーは248試合に登板し、通算87セーブを挙げている。

●ロッキーズとタイガースで、セットアッパーの交換!
ホゼ・パニアーガ
タイガースとロッキーズの間でトレードがまとまった。タイガース入りするのは28歳右腕のホゼ・パニアーガで、2001年はマリナーズのセットアッパーとして60試合に登板し、4勝3敗3セーブ、防御率4.36を記録しており、オフにジェフ・シリーロとの交換でロッキーズ入りしており、タイガースへの移籍はこの時から噂されていた。さらに交換相手は25歳のセットアッパー、ビクトル・サントスとマイナーのロニー・メリーニ内野手の2人である。

●アンキール、左肘を痛めてしまい、開幕は3Aか!?
リック・アンキール
期待の22歳左腕、リック・アンキールが左肘に痛みを訴え、開幕ロースター入りは難しくなり、おそらく3Aでの開幕となりそうだ。2000年に11勝を挙げたアンキールも、その年のポストシーズンでは4イニングで9つのワイルドピッチを記録するなど制球に苦しんだ。2001年の大半はルーキーリーグで過ごし、2002年にかけていたが、出鼻をくじかれてしまった。

●バーケット、右肩痛で開幕アウト!代役はオリバーか!?
ジョン・バーケット
2002年からレッドソックスのユニフォームを着ることになった37歳のジョン・バーケットだが、右肩痛で開幕は故障者リストで迎えることになった。2001年はブレーブスの先発投手として、12勝12敗、防御率3.04を記録。勝ち星が伸びなかったのは、打線の援護がなかったためである。このため、レッドソックスはブルペン予定だったダレン・オリバーを第5先発投手として起用することになりそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.141
リッキー・ヘンダーソン★リッキー・ヘンダーソン #24(?)★ ボストン・レッドソックス

<written by KG24>

「史上最高のリードオフマン」と言われ、引退後の野球殿堂入り間違いなしのリッキー・ヘンダーソン。42歳で迎えた2001年のシーズンではベーブ・ルースの通算2062四球、タイ・カッブの通算2245得点と、二人の偉大なスーパースターが保持していた「不滅」と言われるメジャーリーグ記録を塗り替えた。

世界の盗塁王、リッキー・ヘンダーソン。1958年のクリスマスにシカゴで生まれ、後にアーカンソー、オークランドと移り住んだヘンダーソンは、幼い頃から野球よりフットボールのほうが好きだった。地元のオークランド工科高校時代には野球での活躍はもちろんのこと、フットボールでもランニングバックとして1100ヤード・ラッシュを突破という素晴らしい数字を残し、20を超える大学から奨学金のオファーが届いた。と同時に1976年のドラフトではオークランド・アスレチックスから4順目で指名され、進路が注目された。

野球を選んだヘンダーソンに影響を与えたのは母親だった。幼い頃、ユニホームを泥だらけに汚して帰ってくるヘンダーソンを、一切叱らず笑顔で迎えていた母親のボビーは、激しいぶつかり合いがあり怪我をしやすいフットボールよりも、できるだけ長くプレーできる野球を薦めたと言う。

1976年にA級ボイジーに所属しプロとしてスタートしたヘンダーソンは、翌1977年のシーズンにはA級モデストで1試合7盗塁を成功させるなど、リーグトップの95盗塁を記録した。また、彼の野球人生で最も影響を受けた人物の一人と言われ、盗塁の心構えを学んだとされる、トム・トレベルホーンと出逢ったのもこの年である。

1978年にはAA級に昇格し81盗塁でリーグトップ、翌1979年のシーズン途中にはメジャーに初昇格し、89試合で33盗塁。翌1980年には、早くも100盗塁をし、盗塁王となった。1981年はストライキの影響で試合数が減少したのもあり、盗塁王となったものの56盗塁に終わったが、翌1982年には、ルー・ブロックが1974年に樹立した、シーズン118盗塁を更新し、今ではお馴染みとなったベースを頭上に掲げ、観客の声援に応えた。最終的には130盗塁をマークし、現在も尚、メジャーリーグのシーズン最多記録となっている。

1983年、1984年は共に盗塁王を獲得したが、1984年の12月5日にニューヨーク・ヤンキースへトレードされることとなる。ヤンキースでのヘンダーソンは怪我が重なる不運とマスコミの「仮病ではないか?」との批判にさらされ、出場試合数が減り連続盗塁王も途絶えた。しかし、在籍中、盗塁王を逃したのは、その一度だけで1989年のシーズン途中までプレーし、トレードで再びアスレチックスのユニフォームを着ることとなる。

その年は、アスレチックスが15年ぶりにワールドチャンピオンとなったシーズンでもあった。また、ノーラン・ライアンの、通算5000奪三振のバッターとなったシーンや、プレーオフからワールドシリーズまで11回連続盗塁成功の新記録を達成するなど、印象的なシーズンとなった。

43歳の今も現役で走り続ける。300万ドルプレーヤーの仲間入りを果たした1990年は、ヘンダーソンにとって最高のシーズンとなる。打率.325(リーグ2位)、HR28本(長打率リーグ2位)、盗塁はもちろん、得点、出塁率でもリーグトップという文句のない成績を挙げMVPとなった。

1991年のシーズンは開幕前から注目されていた。ブロックが持つ、通算最多盗塁記録の938盗塁に2差でシーズンに入り、開幕戦のツインズ戦でいきなり盗塁を決めた。その後肉離れで14試合欠場することになるが、復帰後の5月1日、対ヤンキースで三盗に成功し、最多盗塁記録を更新した。

1992年のシーズンも勢いはとどまらない。1年前に最多盗塁記録を更新した日と同じ、5月1日に、同じ三盗で通算1000盗塁を記録した。

ヘンダーソンは盗塁だけではなく、通算290本塁打、初回先頭打者本塁打78本と、独特のクラウチングスタイルからのパワー溢れるバッティングにも注目だ。1993年の6月16日、対クリーブランド・インディアンズ戦のダブルヘッダーでは80年ぶりとなる、2試合連続初回先頭打者本塁打を記録した。その年の7月31日には、フラッグ・ディールでトロント・ブルージェーズに移籍し、ブルージェーズのワールドチャンピオンに貢献した。

1994年はアスレチックスに三度目の復帰をし、1996年からはサンディエゴ・パドレス、1997年の途中からはアナハイム・エンゼルスへと渡り歩いた。

1998年は、マーク・マグワイアサミー・ソーサのホームランバトルで全米中が盛り上がるなか、39歳となったヘンダーソンは四度目のアスレチックス復帰を果たし、エディー・コリンズの37歳5ヵ月という最年長記録を75年ぶりに更新する、自身7年ぶり12回目の盗塁王を獲得した。

1999年はニューヨーク・メッツと契約し、打率.315、盗塁37。と40歳とは思えない活躍でプレーオフ進出に貢献した。

2002年は舞台をボストンに移す。2000年には、3月29日、30日に東京ドームで行われた、史上初のメジャーリーグの公式戦、「ニューヨーク・メッツ対シカゴ・カブス」戦で来日し、開幕二戦目で盗塁を決め、日本のファンを喜ばせてくれた。しかし、その年の5月にメッツはヘンダーソンを解雇する。解雇の原因は、怠慢プレー、マスコミへの暴言、GMとの確執等、取り沙汰されてはいたが、1999年のチャンピオンシップ中に起こった事件も原因の1つと言えるだろう。ワイルドカードでプレーオフへ進出したメッツは、アリゾナ・ダイヤモンドバックスを破り、リーグチャンピオンシップで宿敵アトランタ・ブレーブスと対戦することになった。90年代最強と言われたブレーブスに3連敗を喫し、追い込まれたメッツはミラクルメッツの本領を発揮し、GAME6まで戻し熱闘を繰り広げた。

ところが途中で交代したヘンダーソンは、出番の無かったボビー・ボニーヤと試合中にクラブハウスでカードゲームをしていたことが後に発覚した。しかも「試合中にカードゲームをしたのか?」と聞くマスコミに「俺は試合中にカードゲームをしたんじゃない。いつもカードゲームをしているんだ」と言い、物議をかもした。

解雇後は、すぐにシアトル・マリナーズと契約しプレーオフ進出に貢献した。2001年はマリナーズの構想から外れ、年俸25万でパドレスと契約したものの、開幕メンバーに残れずAAAで開幕を迎えることとなった。ヘンダーソンにとって、リハビリ調整をした1985年以来のマイナー生活だったが、すぐにメジャーへ昇格し、公式戦最終日、10月7日のコロラド・ロッキーズ戦、初回第1打席でライト線へ落ちる2塁打を放ち、史上25人目の3000本安打を達成した。

昨年2つのメジャーリーグ記録と、3000本安打を達成し、引退を噂されたヘンダーソンだが、迎える2002年シーズンはボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。ルーキー時代と変わらない体型で走り続ける43歳の「世界の盗塁王」に今年も目が離せない!

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