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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.3.21〜3.25★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.3.25(現地3.24)
●注目新人ブレイロック、開幕スタメンをほぼ確保!
新人王候補に挙げられるブレイロック。
レンジャーズは開幕サードに新人のハンク・ブレイロックを起用することをほぼ確定した。ブレイロックは2001年、1Aと2Aの2つのクラスでプレーし、計131試合に出場。打率.352、18HR、108打点という成績を残している。スプリングトレーニングにも参加し、ここまで17試合に出場し、打率.403(62打数25安打)と好成績を残している。これにより当初、開幕サードが予定されていたマイク・ラムは宙に浮いた形となる。

1999年、レンジャーズからドラフト3位指名を受けてプロ入りしたブレイロック。プロ入り前から長打力には定評があり、サードの守備も安心して任せられる。マイナーでは史上初となる1週間で2度のサイクルヒットを記録した才能溢れるブレイロックはまだ21歳の若者である。アレックス・ロドリゲスと三遊間を組む新人ブレイロックには注目である。

●窃盗犯リベラ、レンジャーズのマイナーキャンプに参加!
Texas RANGERS
窃盗が原因でヤンキースを解雇されたルーベン・リベラがレンジャーズのマイナーのキャンプに参加することになった。ヤンキースでのスプリングトレーニングでは8試合に出場し、打率.350にホームランを2本も放つ好調ぶりを見せていた。レンジャーズには問題児と言われるジョン・ロッカーカール・エバレットもおり、タレントは満載となった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.140
ジョン・フランコ★ジョン・フランコ #45★ ニューヨーク・メッツ

41歳でありながらメッツの貴重なセットアッパーを務めるジョン・フランコが左肘にメスを入れ、2002年は故障者リストで開幕を迎えることになった。メッツ投手陣のリーダーとしても、チームを引っ張るフランコの存在は非常に貴重である。あと2試合の登板で通算1000試合登板を果たすフランコは、おそらく2002年5月にはメジャーのマウンドに戻ってくるはずである。

メッツ投手陣のリーダーであるフランコ。ニューヨーク州ブルックリンで生まれ育ったフランコは子供の頃からシェイスタジアムに通う生粋のメッツファンである。サンディー・コーファックスと同じ高校を卒業したフランコは、大学1年時に2度のノーヒッターを達成し、頭角を現す。そして、1981年のドラフトでドジャースから5位指名を受けて、プロの道を歩むことになった。契約したその年に、1Aベロビーチで3試合の完投含む7勝4敗の防御率3.53と好成績を残した。

1982年は2Aと3Aの2つのクラスで11勝(7敗)をマーク。翌1983年は3Aで開幕を迎えるも、5月に入り、レッズ傘下へ移籍することになった。レッズ傘下の3Aインディアナポリスで先発投手として6勝10敗という成績を残す。そして、1984年のレッズの開幕ロースターからははずれるが、開幕間もなくメジャーからお呼びがかかり、4月24日にはメジャーデビューを果たした。ちなみに4月29日には初セーブを記録し、この年はブルペン投手として54試合に登板している。

マイナーでは先発投手として育てられたフランコもメジャーでは救援に徹した。1985年は救援投手として11連勝をマークし、終わってみれば12勝3敗12セーブの防御率2.18と大いに奮闘した。翌1986年、それまでクローザーを務めていたテッド・パワーが先発に回り、フランコは本格的にチームのクローザーとして定着した。シーズン通して74試合に登板し、6勝6敗29セーブの防御率2.94をマークし、初めてオールスターのメンバーにも選出された(しかし、登板機会はなし)。

1987年、開幕から好調で最初に登板した計9イニングを無安打無得点に抑え、救援投手の「ノーヒッター」を達成。最初に対戦した32人の打者のうち、エラーでの出塁による1人を除く31人を凡退に抑え込んだ。オールスターにも2年連続で選出され、オールスター初登板を果たしたフランコは68試合の登板で8勝5敗32セーブを挙げた。このセーブ数はサウスポーのクローザーとしてメジャートップの記録である。

1988年も勢いはとどまることなく、42回のセーブ機会で39個のセーブを挙げ最多セーブ王のタイトルを獲得。レッズとしてはクレイ・キャロルの37セーブという球団シーズン記録を塗り替えた事になる。7月には14試合に登板し、13セーブをマークして、この間の防御率が0.61で月間MVPも獲得。夏場の間には28イニング連続無失点も記録している。翌1989年も4勝8敗32セーブをマークしたが、オフには2対2の交換トレードでメッツに移ることになった。フランコがレッズで記録した通算セーブ数は148個を数える。

生まれ故郷のニューヨークに戻り、憧れだったメッツのユニフォームを着ることになったフランコ。移籍後も見事なクローザーぶりを見せ、5勝3敗33セーブをマークし、自身2度目の最多セーブ王となった。これは1984年にジェシー・オロスコが記録した32セーブという球団記録を越えるものである。しかしこの年、フランコにとって悔しかったのは、フランコが加わったメッツが地区2位に終わり、フランコが抜けたレッズが世界一になったことである。

移籍してきたピアザに背番号31を譲り、45番になった。1991年も52試合に登板し、5勝9敗30セーブを挙げ、通算200セーブもマークした。なんとしてもポストシーズンで投げたいフランコだったが、1992年、1993年共に怪我に泣き、2年とも2度の故障者リスト入りを経験。セーブ数はそれぞれ15個、10個に留まっている。

復活を懸けた1994年、ストライキによりシーズンが短縮されたが、その中で47試合に登板し、1勝4敗30セーブをマークし、フランコにとって3度目の最多セーブ王のタイトルを獲得。通算セーブ数も275個となり、サウスポーのクローザーとしてデーブ・リゲッティの252セーブを抜き去った。さらにメッツ移籍後でも118セーブを挙げたことになり、オロスコがメッツの一員として記録した107セーブを抜き、メッツを代表するクローザーとなった。

1994年から3地区制になり、ポストシーズン進出の希望が叶うかと思われたが、同地区にブレーブスがいたためにその希望はなかなか果たせずにいた。毎年30セーブ近くを挙げるフランコにとってポストシーズンでの登板はまさに悲願でもあった。変化があったのは1999年のことである。開幕早々にメジャー史上2人目の通算400セーブを達成したが、7月に左手中指を痛めてしまい、故障者リスト入り。この間にアーマンド・ベニテスがメッツのクローザーの座をしっかりとつかまれてしまい、戻ってきたフランコにはセットアッパーの座しか残っていなかった。

フランコがセットアッパーになったこの年、チームはワイルドカードでポストシーズン進出。フランコにとっては初めてのポストシーズンであり、計6試合に登板し、1勝をマークしている(しかし、リーグチャンピオンシップシリーズでブレーブスに惜敗)。この年までで通算418セーブを挙げているフランコには、歴代トップのリー・スミス(478セーブ)の記録を抜ける可能性もあるために他チームへの移籍も考えられたが、フランコはメッツ残留を選んだ。

セットアッパーに定着して迎えた2000年には、62試合に登板して、チームのリーグ優勝に貢献。そして、フランコにとっては念願であるワールドシリーズの舞台を踏むことができた。計3試合に登板し、無失点に抑え、第3戦では勝利投手にもなっている。翌2001年も58試合に登板し、6勝2敗の防御率4.05という数字を残したフランコだったが、シーズン終盤のブレーブス戦でブライアン・ジョーダンにサヨナラ逆転満塁ホームランを打たれてしまい、チームの逆転優勝の望みを消してしまう。

身長178センチとメジャーリーガーとしては小柄なフランコではあるが、強気のピッチングスタイルと決め球のスクリューボールである。年齢的な問題はあるが、まだまだマウンドにいて欲しい投手の一人である。

■2002.3.24(現地3.23)
●38歳ビシェット、老いには勝てず、現役引退を決意!
ダンテ・ビシェット
ドジャースとマイナー契約を結んでいた38歳のダンテ・ビシェットだが、スプリングトレーニングでの16試合で打率が.190と伸びず、このまま引退することを決めた。ロッキーズ時代に発揮した打棒は記憶に新しく、1995年には打率.340、40HR、128打点でMVP投票の2位にまで付けた。2001年はレッドソックスの一員として開幕を迎えるが、全盛期のような働きを見せることが出来ずにシーズンを終えていた。通算記録は、打率.299、274HR、1141打点であり、4度のオールスター出場を誇る。

●オファーマン、開幕ロースターからはずされてしまうかも・・・!
ホゼ・オファーマン
レッドソックスは当初、セカンドのレギュラーポジションが予定されていたホゼ・オファーマンを開幕ロースターからはずす可能性が出てきた。4年契約の最終年となる2002年だが、スプリングトレーニングでは打率.211と低迷している。代わりにレッドソックスのセカンドを守ることになるのは、招待選手として参加していたレイ・サンチェスになりそうだ。

●パドレス、タイガースへジャクソンを放出!2対2のトレード成立!
Detroit TIGERSSan Diego PADRES
パドレスはダミアン・ジャクソン内野手、マット・ウォルベック捕手をタイガースへ放出し、交換としてハビア・カルドナ捕手とリッチ・ゴメス外野手を獲得した。タイガース入りするジャクソンはセカンドとして守備率.986を誇っているが、ショートも外野も守れるということでユーティリティプレイヤーが欲しいタイガースにとって、大きな戦力となるはずである。パドレスにとっても守備力は惜しいが、大振りが目立つジャクソンよりもダンジェロ・ヒメネスを選んだ形である。

●マリナーズの先発5番手は誰?ピネイロが一歩リードか!?
Seattle MARINERS
2001年、開幕から破竹の勢いで勝ち進んだマリナーズ。2002年の先発ローテーションはフレディ・ガルシアジェイミー・モイヤーポール・アボットジェイムズ・ボールドウィンの4人は確定だが、5番目としてジョエル・ピネイロが一歩リードしている形である。その他にはライアン・フランクリンジョン・ハラマの名前も挙がっている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.139
デビッド・コーン★デビッド・コーン #36★ ??

通算193勝を記録している39歳右腕、デビッド・コーンが2002年に着るユニフォームは未だに決まっていない。ここ数年は限界説が流れ、引退が近づいてきているのは事実であるが、引退するにはまだ早すぎる。古巣のヤンキースには先発投手が飽和状態のため、現実問題として契約は難しいところだ。果たしてコーンの2002年シーズン開幕はいつになるのか。

まだ引退してはいけない選手である。1981年、ドラフト3位でロイヤルズに指名されてプロの世界に飛び込んだコーン。契約したその年にルーキーリーグで14試合に先発し、6勝4敗、防御率2.55をマークし、早くも頭角を現す。翌1982年は1Aの2つのクラスで投げ、計16勝(3敗)を挙げるなど、順調な成長を見せた。しかし、1983年はシーズン開幕直前の試合で、自らのワイルドピッチでホームへ突っ込んできたランナーとホーム上で交錯。この結果、左膝を痛めてしまい、1年間を棒に振ってしまった。

怪我から復帰し、2A、3Aで投げていたコーンにメジャーからお呼びがかかったのは1986年6月のことで、チームに怪我人が出たための昇格だった。わずか4試合に登板したのみで再び3Aに戻るが、8月末にも再びメジャー昇格を果たし、この年はメジャーで11試合に登板している。いよいよメジャー定着と思われた1987年は、開幕直前に2対3のトレードでメッツへ移籍することになった。5月12日のレッズ戦では4安打2失点に抑える好投でメジャー初完投初勝利を記録している。しかし、この年はシーズン半ばを約2ヶ月半も故障者リストで過ごしたこともあり、5勝6敗に終わってしまう。

こうして迎えた1988年、メジャーリーガーとしてコーンは大きな花を咲かせることになる。メッツの球団史上4人目となる20勝をマーク。20勝3敗の防御率2.22と素晴らしい成績でオールスターゲームにも初出場を果たした。サイヤング賞こそリーグ3位に終わったが、完投が8試合、うち完封が4試合を記録し、この中には1安打完封、2安打完封も含まれており、一気にリーグを代表する投手にのしあがった。チームも地区優勝を飾り、コーン自身初めてリーグチャンピオンシップのマウンドに立った(記録は1勝1敗、チームはドジャースの前に3勝4敗で敗れる)。

1989年、開幕序盤は勝ちに恵まれなかったが、尻上がりに調子を取り戻していき、終わってみれば14勝8敗、防御率3.52という数字を残した。リーグ4位タイの7完投に、同じくリーグ4位の190奪三振を記録している。翌1990年、14勝10敗、防御率3.23をマークし、233奪三振で初めて奪三振王のタイトルを獲得。更にこの年は投手でありながら代打で登場し、見事にヒットを記録している。メッツ球団史上、投手が代打に出ること自体、史上初のことである。

2度のシーズン20勝にサイヤング賞も受賞。1991年、安定感のあるピッチングは見せるものの14勝14敗と勝率は五分に終わる。しかし、241個の三振を奪い、2年連続の奪三振王に輝いた。9月20日のカージナルス戦ではキャリア2度目の1安打完封勝利をマークし、10月6日のフィリーズ戦ではトム・シーバースティーブ・カールトンに並ぶ1試合19奪三振というリーグ記録を樹立している(メジャー記録はロジャー・クレメンスが記録している1試合20奪三振、後にケリー・ウッドも達成)。

1992年は開幕から好調で、8月末まで27試合に先発し、13勝7敗の防御率2.88、完封は5試合と素晴らしい成績を挙げていた。そんな中、優勝を目指すブルージェイズへのトレードが決まってしまう。ブルージェイズの一員となり、8試合に登板して4勝3敗、防御率2.55とチームの地区優勝に貢献。ワールドシリーズにもコマを進め、コーンは第2戦と第6戦に先発する。コーン自身に白星はつかなかったが、チームはいずれも勝利を収め、見事に世界一の美酒を味わうことが出来た。

オフにFAとなったコーンは古巣のロイヤルズと契約。キャリアハイの254イニングを投げたが、11勝14敗、防御率3.33という成績に終わってしまう。というのもコーンの負けた14試合では、チームの援護が計18点しかなかったためである。

1994年は開幕から好調で4月には3試合連続完封に加え、5月22日のエンゼルス戦においてはキャリア3度目の1安打完封を演じている。ストライキにより途中で中断されたシーズンだったが、16勝5敗、防御率2.94と好成績をマークし、初めてのサイヤング賞を受賞した。この年、コーンとサイヤング賞を争ったのはヤンキースのジミー・キーであり、コーンが1位票15票の計108ポイントに対し、キーは1位票10票の96ポイントのと僅差での受賞だった。

1995年、開幕前にブルージェイズに移籍することになった。3年ぶりにブルージェイズのユニフォームを着たコーンは、17試合の先発で9勝6敗、防御率3.38を記録。そして、トレード期限ギリギリの7月28日にヤンキースへの移籍が決まる。7月29日にはピンストライブに袖を通してマウンドに昇り、8回6安打2失点に抑え、移籍初勝利を飾る。そしてヤンキースの一員として9勝2敗をマークし、チームの地区優勝へ貢献。マリナーズとのディビジョンシリーズでは2試合に先発し、1勝をマークした(しかし、チームはマリナーズの前に敗れてしまう)。この年はブルージェイズとヤンキースの2チームでプレーし、計18勝を挙げ、リーグトップの229回1/3を投げた。

1996年、チームの開幕投手を務め、開幕から好調だったコーンも、右腕を痛めてしまいシーズンの大半を故障者リストで過ごすことになってしまう。結局、シーズンでは7勝2敗、防御率2.88に終わってしまう。しかし、シーズン終盤に戦線復帰。ブレーブスとのワールドシリーズ第3戦で先発したコーンは6回を4安打1失点に抑えて、チームに勝利をもたらした。この勝利がシリーズの流れを変えることになり、ヤンキースの18年ぶり世界一に大きく貢献した。

ヤンキース復帰はありえるのか。1997年も開幕投手を務めたコーンは、7月までに11勝をマークしていたが、夏場は肩を痛めたことから故障者リストに入るなど苦しんでしまった。29試合に先発し、12勝6敗、防御率2.82に終わったコーンだが、コーンが先発した29試合のヤンキースは19勝10敗という数字を残している。

1998年、コーン自身10年ぶりのシーズン20勝をマーク。さらに9月に連敗してしまい、コーンにとって連続試合連敗なしという記録は96試合でストップしてしまったが、これは20世紀以降でメジャー史上3番目の記録である(過去に達成しているのはフィルポ・マーベリーの100試合、スコット・マグレゴールの96試合)。チームも記録的な勝ちっぷりで世界一に輝き、コーンもサイヤング投票でクレメンス、ペドロ・マルチネスデビッド・ウェルズに次ぐ4位に付けた。

1999年7月18日のヤンキースタジアムでの対エクスポズ戦。「ヨギ・ベラ・デー」と名付けられ、始球式ではかつてワールドシリーズ初の完全試合を達成したドン・ラーセンが投げ、ヨギ・ベラが受けるという試合前から神秘的な雰囲気が漂っていたこの試合、コーンはメジャー史上15人目となる完全試合を達成。コーンのスライダーが冴えわたり、前年のウェルズに続いての達成である。この年は、12勝9敗の防御率3.44に終わるが、ワールドシリーズでも好投し、チームの世界一に貢献した。

年齢から限界説もささやかれる中、ヤンキースと1年間1200万ドルと高額契約を結んだコーンは、なかなか勝利に恵まれず4勝14敗の防御率6.91に終わってしまう。オフにFAとなり、2002年はレッドソックスのユニフォームに袖を通すことになり復活にかけた。故障者リストで開幕を迎えてしまい、5月半ばに戦線復帰するが、9勝7敗、防御率4.31を記録すると、オフには再びFAとなった。

150キロを超える速球をズバズバと決めるわけではなく、カーブ、スライダー、カットファーストボールを巧みに投げ分け、打者を手玉に取るのがコーンのピッチングスタイル。全盛期には、カウントを2−2、2−3(ストライク−ボール)にして変化球でバッターを打ち取ることが快感だった、とも話している。職人とも言えるコーンのピッチングを再び見ることが出来るだろうか。

■2002.3.23(現地3.22)
●オリオールズ、コナインと2年間の契約延長で合意!
ジェフ・コーナイン
オリオールズはオフにFAとなるジェフ・コナインと2年間の契約延長で合意した。35歳のコナインはオリオールズへ移籍してきて4年目のシーズンを迎えようとしているが、これまでの3年間で通算打率は.296であり、通算HR数は40本、通算打点は218点である。またポジションは、サードにファースト、ライトにレフトとチーム事情にあわせて様々なポジションを守っている。

●ホワイトソックス、開幕へ向けて先発5人を確定!
Chicago WHITE SOX
優勝候補の一つに数えられているホワイトソックスは、シーズンの先発ローテーションを確定させた。マーク・ビュールと移籍のトッド・リッチーが先発の軸であることは間違いないが、3番手、4番手には若いジョン・ギャーランドダニー・ライトを据え、5番手には2メートルを越える長身の注目新人ジョン・ラッシュを置くことを決めた。先発を争っていたジム・パークをブルペンに回し、谷間の先発としての起用になりそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.138
リック・リード★リック・リード #31★ ミネソタ・ツインズ

球団削減問題に揺れていたツインズの中で移籍を希望したリック・リード。2002年3月15日までに他チームへ移籍させるか、新しい契約を結ばなければリードはFAになるところだったが、リードサイドがそれを引っ込めた。とりあえずはツインズの第4先発投手として2002年の開幕を迎えることになりそうだ。

シーズン最後までツインズにいるのだろうか。1986年のドラフトでパイレーツから26位指名を受けてプロの扉を開いた。1987年、1Aメイコンで先発、中継ぎと計46試合に登板し、8勝4敗の防御率2.50を記録する。翌1988年は1Aで開幕を迎えるが、6勝をマークしたところで2Aハリスバーグに昇格し、さらにあっさりと3Aバッファローにも昇格した。夏場の8月に2試合だけメジャーに昇格し、メジャー初勝利も記録している。

3Aで開幕を迎えた1989年、20試合に先発し、9勝8敗の防御率3.72をマークし、7月末にはメジャーへ昇格。この年は15試合に登板(先発7試合)し、1勝5敗、防御率5.60という数字を残している。翌1990年、再び開幕を3Aで迎え、6月にメジャー昇格するも定着できずに8月には降格した。1991年は3Aでリーグトップの14勝(4敗)、防御率2.15と素晴らしい成績を残すが、メジャーではわずか1試合の登板に留まっていた。

伸び悩んでいたリードは1992年の開幕前に解雇されてしまう。即、ロイヤルズとマイナー契約を結んだリードは、3Aで5勝4敗、防御率4.35を記録し、メジャーへ昇格。ロイヤルズのユニフォームを着て、19試合に登板(先発18試合)し、3勝7敗、防御率3.68を記録した。そして翌1993年、3Aで11勝(4敗)をマークするも、8月に入ると再び解雇され、レンジャースとマイナー契約を結んだ。

メジャーに定着できないリードは1994年5月にレンジャーズを解雇。拾われる形でレッズ傘下へ移った。この年はストライキでシーズンが中断してしまったが、経済的に苦しい環境にあったリードにとっては非常に応えてしまう。1995年、オーナー側が代替選手を立ててシーズンを開幕させようとしたが、糖尿病の母の入院費のためにリードは代替選手としての出場を決意。スト破りをしたということで他の選手達からは総スカンを食らってしまう。この年は3Aで11勝(4敗)を挙げるが、メジャーではわずか4試合の登板に留まっている。

オフにはメッツとマイナー契約を結んだリード。1996年はメッツ傘下の3Aノーフォークでフルシーズン過ごし、8勝10敗、防御率3.16をマークした。そして、翌1997年は初めて開幕をメジャーで迎えることになった。先発の一角に名を連ねたリードは、これまでの鬱憤を払うかのような素晴らしいピッチングを披露。開幕から勝ち運にも恵まれ、終わってみれば13勝9敗に、リーグ6位の防御率2.89をマーク。特筆すべきは四球の少なさで、9イニング当たりで1.3人の打者にしか四球を与えていない。これはグレッグ・マダックスの0.8人に次ぐリーグ2位の記録である。この頃には、スト破りをしたということはすでに過去のものとなっていた。

メッツに移ってから才能が開花したリード。1998年も好調を持続し、初めてのオールスターにも選出された(しかし、登板機会なし)。6月8日のデビルレイズ戦では最初の20人の打者を連続して凡退に打ち取り、あわや完全試合という所までいったが、ウェイド・ボッグスをフルカウントに追い込んだ後、センターへ2塁打を打たれてしまい、記録がストップしたこともあった。この年は31試合に先発し、16勝11敗、防御率3.48を記録している。

1999年、開幕直後とシーズン終盤に故障者入りするアクシデントがあった。終始、怪我に悩まされたこの年は、打線の援護もあり11勝5敗と高勝率をマークしたが、防御率は4.58と落ち込んだ。そんな中でチームはワイルドカードとしてポストシーズンへの進出を果たし、リード自身初めてポストシーズンのマウンドに立つことが出来た。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第4戦に先発し、7回を3安打2失点に抑えて、チームの勝利に貢献している。翌2000年も怪我で途中離脱するが、前年同様11勝5敗に終わる。そんな中でチームはワールドシリーズへコマを進め、リードは第3戦の先発としてマウンドに立った。ヤンキースを相手に6回2失点に抑えるが、チームが逆転負けし、世界一の栄冠を手にすることは出来なかった。

チームと3年契約を結んだばかりの2001年は、開幕から好調をキープした。しかし、20試合に先発し、8勝6敗を記録していたリードに告げられたのはツインズへの移籍だった。トレード期限ギリギリの7月31日のことで、周囲の予想を裏切る快進撃を見せていたツインズにとって、リード獲得はプラスになると思われた。しかし、移籍後は12試合の先発で4勝6敗の防御率5.19と期待に応えることは出来なかった。

カットファストボールを決め球にし、内外角を丹念につくピッチングスタイルは若い先発投手が居並ぶツインズ投手陣にとって、学ぶことは多い。いかんせん、怪我の多い点がリードの評価を下げる原因となっているのは否めない。

■2002.3.22(現地3.21)
●デュラゾ、右手首骨折で全治6週間と診断!
Arizona DIAMONDBACKS
ダイヤモンドバックスのエルビエル・デュラゾが右手首を骨折し、全治6週間と診断された。このスプリングトレーニングでは、チームメイトのルイス・ゴンザレスに次ぐ高打率.535を記録し、マーク・グレースのバックアップ選手に留まらない活躍を見せていた。すでに前半戦絶望のマット・ウイリアムスに代わる大砲と期待されていただけにダイヤモンドバックスとしては非常に惜しいところだ。

●薬物所持で逮捕されたカミニティに3年間の保護観察処分!
ケン・カミニティ
かつてMVPも受賞したケン・カミニティが薬物所持で捕まったのは2001年の暮れのこと。そのカミニティに3年間の保護観察処分が告げられた。前年はレンジャーズとブレーブスの2チームでプレーしたが、満足した結果は残せずにFAとなっていた。どのチームからもオファーはなく、38歳のカミニティはこのまま現役引退の道を歩むことになるのか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.137
マイク・ムシーナ★マイク・ムシーナ #35★ ニューヨーク・ヤンキース

得意のナックルカーブを武器にストレートを投げ分けて、勝ち星を重ねていくマイク・ムシーナ。過去5度もゴールドグラブ賞を受賞しているフィールディングも抜群で、毎年のようにサイヤング賞の候補に挙がっている。33歳となったムシーナは円熟味のあるピッチングで、王者ヤンキースには欠かせない投手のひとりに数えられている。

ヤンキース世界一奪回の鍵を握る。高校卒業時の1987年にオリオールズからドラフト11位で指名されるが、それを拒否してスタンフォード大学への進学を選んだ。大学在学中に野球に取り組むのと同様に勉学にも力を注ぎ、わずか3年半の間に経済学の学位を取得。そして、1990年のドラフトでオリオールズから再び1位指名(全米20番目)を受け、プロの道を選んだ。プロと契約したこの年、2Aで7試合、3Aで2試合を投げ、共に防御率1点台に抑える好投を見せている。

1991年、3Aで開幕を迎えたムシーナは19試合に先発し、10勝4敗、防御率2.87と好成績を残し、7月31日にメジャーからお呼びがかかった。8月4日のホワイトソックス戦に初登板初先発し、7回2/3を投げて4安打1失点という内容で、フランク・トーマスのソロホームラン1本に抑えたが、0対1で敗れてしまう。その後も先発ローテーションに入り、シーズン終了までの残りの2ヶ月、新人らしからぬ安定感を見せたムシーナ。打線に援護に恵まれない不運な面はあったが、2完投を含む12試合に先発し、4勝5敗、防御率2.87という成績を残した。

1992年はサイヤング賞投票で4位に食い込む素晴らしい成績を挙げた。32試合に先発し、18勝5敗、防御率2.54をマークし、勝率にすれば.783。これだけの高勝率というのは球団史上4番目となる記録である。23歳8ヶ月という若さでオールスターにも選出されたムシーナは、7月17日のレンジャーズ戦で、この年21勝をマークするケビン・ブラウンと投げ合い、見事な1安打完封勝利も挙げるなど、ムシーナはこの年だけで8完投に4完封を記録している。翌1993年も肩の痛みなどもあり故障リスト入りしたことがあったが、25試合の先発で14勝6敗、防御率4.46という数字を残している。

1994年も開幕から安定感を充分に示し、オールスターまでに球団記録タイとなる13勝を記録。この年はジミー・キーの17勝に次ぐ、リーグ2位の16勝(5敗)を挙げて、防御率3.06をマークし、さらにロードゲームでは8勝1敗の防御率2.04を記録している。翌1995年は、開幕後の11試合の先発では5勝5敗の防御率5.13に加え15本のホームランを献上してしまったが、その後の21試合の先発では生まれ変わったかのように14勝4敗の防御率2.50をマーク、この間の被本塁打はわずか9本である。結局、シーズン19勝を挙げ、初めて最多勝のタイトルを手にし、サイヤング賞を獲得するのも時間の問題と思われる投手にまで成長した。

バネのあるピッチングフォームは注目。1996年もシーズン19勝をマーク。36試合の先発で先発投手の基準の一つに挙げられるクオリティスタート(6回まで投げて3失点に抑えること)を18度も記録するなど内容は素晴らしく、打線の援護さえあれば球団史上1984年のマイク・ボディッカー以来の20勝投手になることも可能だった。ワイルドカードとしてポストシーズンへ出場も果たすが、ワールドシリーズの舞台へ進むことは出来なかった。しかし、この年のサイヤング賞投票ではパット・ヘントゲンアンディ・ペティットマリアーノ・リベラチャールズ・ナギーに次ぐ5位に付けている。更にフィールディングの良さも認められ、初のゴールドグラブ賞も獲得した。

1997年は肘の痛みから開幕に出遅れるが、33試合に先発し、15勝8敗の防御率3.20を記録し、球団新記録となる218奪三振もマークした。通算100勝も記録したムシーナは、この年から始まったインターリーグで、オリオールズの投手としては25年ぶりとなるヒットも放った。チームが地区優勝を飾り、2年連続でポストシーズンのマウンドに立ったムシーナはマリナーズとのディビジョンシリーズで2勝を挙げて、チームに貢献。続くインディアンズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦と第6戦に先発し、計15イニングを投げてわずか1失点に抑えた(しかし、ワールドシリーズへは進めなかった)。

1998年、開幕直後に右手人差し指を痛めて途中降板するなど、序盤に2度も故障者リスト入り。怪我に苦しんだムシーナだったが、その中でも29試合に先発し、投球回数は2年連続で200イニングを超えた(206回1/3)。結局、13勝10敗の防御率3.49でシーズンを終える。翌1999年、開幕序盤こそは本来のピッチングが出来ずに苦しんだが、調子を取り戻した後は素晴らしい内容で、結局、18勝7敗、防御率3.50を記録。サイヤング賞投票でもペドロ・マルチネスに次ぐ、2位に付けた。

順調に勝ち星を重ねてきたムシーナも2000年は勝ちに恵まれずに苦しんだ。34試合に先発し、リーグ最多の投球回数(237回2/3)を記録したが、わずか11勝(15敗)に終わった。メジャー1年目の1991年以来の負け越しとなったが、防御率は3.79である。そして、オフにFAを宣言したムシーナは、ヤンキースと6年間8850万ドルという破格の契約を結ぶに至る。

ピンストライブに袖を通した2001年、開幕3戦目となる4月5日のロイヤルズ戦に先発し、ニューヨークのファンの前にお披露目。7回2/3を投げ5安打無失点に抑える好投を見せ、クローザーのリベラにつないだムシーナは見事に移籍初勝利を手にした。前半戦は打線の援護に恵まれない点があり、一時的に負けが先行することがあったが、夏場に向かうにつれて勝利を重ねていった。

完全試合に手が届きそうで届かないムシーナ。この年のハイライトは9月2日のフェンウェイパークでのレッドソックス戦のことだった。かつてヤンキースの一員として完全試合を達成しているデビッド・コーンと投げ合ったこの試合、ムシーナは8回まで一人のランナーを出さない最高のピッチング見せた。メジャーリーグ最古を誇る89年の歴史を持つフェンウェイパークで未だ達成されていない大記録(完全試合)達成に、33734人の観客は沈黙で見守るしかなかった。最終回のマウンドにのぼったムシーナはあっさり2アウトをとり、あと一人と迫る。ここで打席に入ったのは、スランプでスタメンからはずれていたカール・エバレットだった。代打エバレットを2ストライクに追い込み、あと1球となる。しかし、ここでムシーナの高めの速球を左中間に運ばれてしまい、大記録への夢はここで潰えた。初安打を打たれたばかりのムシーナは続くトロット・ニクソンをセカンドゴロに打ち取り、なんとか完封勝利で締めくくった。

ムシーナは以前にも2度、完全試合ペースで抑えながら、終盤で打たれ大記録を逃したことがある。1回目は1997年5月30日、インディアンズ戦で9回1アウトまで完全に抑えながら、サンディ・アロマーに打たれたとき、2回目は1998年8月4日、対タイガース戦で8回2アウトからフランク・カタラノットに2塁打を打たれたとき、そして、今回が3回目である。ノーヒッターということであれば、1997年6月25日、対ブリュワーズ戦で8回先頭打者のホゼ・バレンティンに初ヒットを打たれたということもあった。ちなみに、フェンウェイパークでのノーヒッターということであれば、1965年9月16日、デーブ・モアヘッドがインディアンズ戦で達成して以来、誰も達成していない。1917年6月23日、アーニー・ショーレが一人もランナーを出すこともなく27個のアウトを奪ったことがあったが、これは完全試合としては記録されていない。なぜなら、先発したベーブ・ルースが初回の先頭打者に四球を与えた後、退場になっており、ショーレの記録は参考記録に留まっているからだ。余談として、ムシーナが大記録を逃した翌日、21歳左腕のバド・スミスがノーヒッターを達成している。

移籍1年目は34試合に先発し、17勝11敗、防御率3.15をマークしたムシーナ。チームも地区優勝を飾り、初めてワールドシリーズのマウンドにも立ったムシーナ。世界一の栄冠を手にすることは出来なかったが、第5戦の先発では8回を5安打2失点に抑える好投も見せた。

ムシーナが手にしていないものとすれば、世界一の名誉とサイヤング賞に加え、シーズン20勝である。ヤンキースというチームにいるだけにこれら全てを1度に達成するかもしれない。

■2002.3.21(現地3.20)
●ベンソン、復帰へ着々と!予定では2002年5月にメジャー復帰登板!
クリス・ベンソン
苦しいシーズンが予想されるパイレーツの浮上の鍵を握るのはクリス・ベンソンが復活できるかどうかである。ベンソンは1996年のドラフトで全米1番目の指名でパイレーツ入団。その将来が嘱望されていたが、2001年はトミー・ジョン手術で1年を棒に振ることになってしまった。そのベンソンが先発のマウンドに戻ってきた。舞台は2Aだったが、レンジャーズ傘下のチームに2イニングを投げ、一人もランナーを許さず、3つの三振を奪った。本人も手応えを感じているらしく、2002年5月のメジャー復帰に照準を合わせている。

●ブレーブス、捕手強化にブランコを獲得!
Atlanta BRAVES
ブレーブスは捕手強化にブリュワーズからヘンリー・ブランコを獲得した。ブランコは打撃面ではあまり期待できないが、守備面での評価が非常に高い選手である。交換相手となったのはホゼ・キャブレラ投手とポール・バコ捕手の2人である。なお、ブリュワーズのGMであるディーン・テイラーは、かつてブレーブスのGMジョン・シャーホルツの補佐として学んでいたこともある間柄だ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.136
ケニー・ロジャース★ケニー・ロジャース #37★ テキサス・レンジャーズ

かつて完全試合も達成したケニー・ロジャース。すでに37歳となってしまったが、貴重な左腕投手としての評価は変わらないでいる。スタミナ面での課題は残っているが、大きなカーブを武器に打者を責めるピッチングスタイルはまだまだ通用する。

レンジャーズ投手陣の柱としての活躍が期待される。ジョージア州の農園に生まれたロジャースは子供の頃から本格的に野球をやっていたわけではなく、家の仕事の手伝いで忙しい少年であった。高校3年時に1年だけ外野手としてプレーし、打率.375をマークするなど高い才能を見せたロジャースはプロのスカウトの目にとまり、1982年のドラフトでレンジャーズから39位で指名される。大柄な体と強肩から投手への転向が薦められ、ロジャースは投手としてプロのスタートを切ることになった。

マイナーリーグで投手としての基礎を教えられていく一方で、ロジャースは主に中継ぎ投手としてマウンドに立っていった。怪我などもあったため順調に昇格とはいかず、メジャーからお呼びがかかったのはプロ入り8年目となる1989年だった。開幕からロースターに名を連ねたロジャースはチームトップの73試合に登板し、レンジャースのブルペンを守った。翌1990年も69試合に登板し、先発も3試合だけ経験。救援勝利9勝を含む10勝6敗15セーブを記録するなど、レンジャースには欠かせない選手となっていた。

1991年の開幕は先発として迎えたが、9試合の先発で4勝4敗、防御率7.53と結果を出せずに6月半ばにはブルペンへ戻ることになった。その後、救援登板で6勝をマークし、シーズントータルで10勝を挙げ、レンジャースの球団史上初の2年連続2桁勝利をマークした左腕投手となった。翌1992年はブルペンのみで81試合に登板。この登板数は1987年のミッチ・ウイリアムスの85試合登板に続く、球団史上2番目のシーズン登板数であった。1993年から本格的に先発に転向し、才能が大きく開花。1試合で5つのボークを出したこともあったが元々牽制はうまく、リーグで最も盗塁を許さない投手として活躍し、この年は16勝10敗、防御率4.10をマーク。特に8月だけで6勝(1敗)を挙げている。

さらに1994年もチームトップの11勝(8敗)をマーク。この年のハイライトは、7月28日の対エンゼルス戦であり、この試合でメジャーリーグ史上12人目となる完全試合を達成した。カーブとチェンジアップが有効で序盤から打たれる雰囲気はなかった。6回2アウトから4人連続でボールカウントが3つまでいくが何とか抑え、さらに最終回にはレックス・ハドラーに右中間へのライナーを打たれるが、味方のラスティ・グリアーのファインプレーで難を逃れ、大記録を達成した。ちょうど本拠地をこの年からボールパークインアーリントンに移した年で、新球場元年に素晴らしい記録を添えることが出来た。

オフにFAになったロジャースは1995年シーズン開幕前にレンジャーズと再契約。ストライキ明けのシーズンだったが31試合の先発で、キャリアハイの17勝(7敗)を記録。シーズン途中には7連勝をマークするなど自らの評価を高めた。そしてオフに再びFAとなったロジャースは、ヤンキースと契約し、ピンストライブに袖を通すことになった。

完全試合も達成しているロジャース。ヤンキースの一員として迎えた1996年、12勝(8敗)をマーク。特にロジャースが先発した30試合で18勝12敗と、チームの地区優勝にも貢献した。5月28日のエンゼルス戦では7回までノーヒットに抑えることもあった(しかし、1対0で敗れてしまう)。チームは勝ち進み、ワールドシリーズへ進出。第4戦で先発したロジャースだったが、この時は2回で5安打5失点と散々な内容で降板となったが、チームは見事に世界一の名誉を手にした。

1997年、開幕から当然のように先発ローテーションに入るが、なかなか結果が出ないことと伊良部秀輝の加入もあり、シーズン途中にブルペンに回ることあり、時には5イニングにもわたるロングリリーフも務めた。結局、6勝7敗の防御率5.65に終わり、オフにはスコット・ブローシャスとの交換でアスレティックスへの移籍も決まってしまう。

1998年は通算100勝をマークし、3試合連続完投など素晴らしいピッチングを披露。16勝8敗にリーグ3位の防御率3.17と抜群の安定感を見せ、さらに7完投も記録している。翌1999年は7月まででわずか5勝3敗と勝ち運から見放されている感があったが、7月23日にポストシーズンに狙いを定めているメッツへの移籍が決まった。交換相手はテレンス・ロングレオニー・バスケスという2人のマイナーリーガーである。

突然のメッツ移籍だったが、その中で5勝1敗という成績を残した。移籍後、ロジャースが先発した12試合でチームは10勝を挙げ、チームをワイルドカードによるポストシーズン進出へ導いた。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦ではリリーフで2イニングを投げ、チームの延長15回の末の勝利に大きく貢献。しかし、続く第6戦でもリリーフのマウンドに立ったロジャースだったが、押し出しの四球を与えてしまう最悪のシナリオでシーズンを終えることになってしまった。これが原因か、オフにFAになったロジャースの元へメッツサイドは積極的に残留を求めてはいなかった。最終的には古巣レンジャーズと3年間2250万ドルで再契約を交わすが、当初、本人はメッツ残留を望んでいたとのことである。

5年ぶりの古巣復帰となった2000年、故障を持ちながらフルシーズン投げ続け、特に5月末からの8試合の登板で6連勝をマーク。シーズントータルでは、13勝13敗、防御率4.55という数字を残し、オフには左肘の手術を決意した。翌2001年も怪我との戦いで、7月半ば以降は故障者リストで過ごすことになった。ロジャースにとって、メジャー昇格後、初の故障者リスト入りである。この年は5勝7敗の防御率6.19に終わる。

ロジャースはポストシーズンでは0勝3敗といいところを見せていない。若い選手が台頭しつつあるレンジャーズで再びポストシーズンのマウンドに立つことが出来るだろうか。悲劇と歓喜の両方を体感しているロジャースがレンジャーズ投手陣の鍵を握る。

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