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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.3.16〜3.20★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.3.20(現地3.19)
●ブラウン、完全にKO!開幕投手はどうなる!?
ケビン・ブラウン
ドジャースの開幕投手が予定されているケビン・ブラウンがオープン戦3試合目(対アストロズ戦)となる先発のマウンドに上がった。しかし、ブラウンは味方のエラーに足を引っ張られる不運もあり、さらにダリル・ウォードの打球を右膝に受けるなど、2回1/3を投げ6安打8失点という散々の内容に終わった。対するアストロズ先発のロイ・オズワルトは6回を1安打無失点と素晴らしい内容を見せた。

●期待の新人プライアー、開幕メジャーに黄信号か!?
Chicago CUBS
2002年注目の新人の一人にあげられるのが、前年のカブスのドラフト1位指名(全米2番目)選手であるマーク・プライアーである。ブリュワーズ戦のマウンドに立ったプライアーは、カレッジワールドシリーズ以来のマウンドであったが、3回を投げ4安打3四球4失点という内容に終わった。開幕ロースター入りも考えられたがおそらく2Aでの開幕となりそうだ。しかし、シーズン中のメジャー昇格は充分に可能性がある。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.135
ジョン・リーバー★ジョン・リーバー #32★ シカゴ・カブス

カブスへ移籍してから、3年連続で200イニング以上を投げているジョン・リーバー。2001年にはキャリアハイのシーズン20勝をマークし、オールスターゲームのメンバーに初選出されるなど、リーグを代表する投手に成長したリーバー。与えた四球の数より奪った三振の数の方が3倍以上も多いという、極めて安定した投手である。

2001年に20勝をマークしたリーバー。アイオワ州で生まれたリーバーは高校時代はドラフトに指名されるどころか、どの大学からも誘われない普通の選手に過ぎなかった。地元の短大に進学したことがリーバーの潜在能力を引き出した。短大卒業後に南アラバマ大学へ編入したリーバーは、カブスから9位指名を受けるに至るが大学への残留を決めた。翌1992年は12勝5敗という成績を残したリーバーは、この年のドラフトでロイヤルズから2位指名されて入団を決める。

1993年、1Aウィルミントンで17試合に登板し、9勝3敗の防御率2.67という好成績を残すと2Aメンフィスへ昇格。しかし、2Aで2勝1敗と奮闘中のリーバーに告げられたのはパイレーツ傘下への移籍だった。パイレーツ傘下の2Aカロライナで4勝をマークし、この年のリーバーはマイナー組織で計15勝を挙げたことになる。

1994年は2Aで開幕を迎えるが、3試合に登板して防御率1.29と桁違いの数字を残すと3Aバッファローに昇格し、ここでも3試合で防御率1.69をマークして、5月半ばにはメジャー昇格を果たす。メジャー初登板となったのは、5月15日のフィリーズ戦で、6回をわずか1失点に抑える好投を見せた(しかし、試合は0対1で負け)。結局、この年は17試合に先発し、6勝7敗の防御率3.73という成績を残した。

1995年はパイレーツの開幕投手を務めるなど期待の大きさが伺えたが、その期待に応えられず負けが先行する形で6月半ばには3Aへ降格。9月に入りメジャーに戻ってくるが、この年は21試合に登板(先発12試合)し、4勝7敗、防御率6.32という成績に終わってしまった。翌1996年、ブルペンで開幕を迎えたリーバーはメジャー初セーブも記録している。シーズン中盤から先発に戻って、7勝をマーク。シーズントータルの成績としては9勝5敗、防御率3.99を記録したが、投球回数142回に対し、28四球と抜群の安定感も示している。

1997年はリーバー自身2度目の開幕投手を務める(しかし、負け投手)。32試合に先発し、11勝14敗の防御率4.49をマークし、投球回数188回1/3に対して51四球というのは、1試合当たり1.6四球という少なさである。翌1998年も無四球試合が7試合と四球の少なさは相変わらずだが、なかなか勝利には結びつかず8勝14敗と苦しんだ。シーズン終盤には故障者リスト入りも経験。オフにはカブスへ移籍することになった。

大きな期待がかかる2002年のリーバー。カブスの一員となった1999年、4月早々に故障者リスト入りするが復帰は好投を続け、オールスターまでの前半戦で8勝3敗の防御率3.26をマーク。後半戦に入るなりいきなり8連敗してしまうが、シーズントータルで10勝11敗、防御率4.07を記録。リーグ8位となる186個の奪三振をマークするが、9イニング換算にすると1試合当たり8.2個となり、これはリーグ3位である。オフには3年間1500万ドルでカブスと契約延長を果たした。

2000年の開幕は日本で迎えた。初めて日本で行われたメジャーリーグ公式戦でカブスの開幕投手を務め、マイク・ハンプトンと投げ合って、見事に勝利を手にする。この年のリーバーは先発した35試合のうち、27試合は7イニング以上投げており、メジャートップの251回を投げたことになる。カブスの投手でこれだけの投球回数を記録したのは1992年のグレッグ・マダックス(268回)以来のことである。結局、12勝11敗、防御率4.41でシーズンを終えた。

2001年、リーバーは20勝6敗、防御率3.80をマークし、一躍リーグを代表する投手に名乗り出た。サイヤング賞の投票でも4位に食い込んだ。この年のリーバーのハイライトは5月24日のカブス戦のことで、この試合でリーバーは1安打完封を記録した。球数はわずか78球で、そのうちストライクはなんと56球を数えた。許したヒットは6回のホアン・カストロのライト前ヒットのみであり、四球はわずかに1個のみ。この日の1安打完封には別の意味もあり、相手のレッズは2000年の開幕試合から208試合連続完封負けなしというナショナルリーグ記録を積み重ねており、それをリーバーが止めたことになる。ちなみに翌日の試合(対ブリュワーズ戦)でもチームメイトのケリー・ウッドが1安打完封を記録しており、同じチームの投手が2試合続けて1安打に抑えたというのはナショナルリーグでは1972年6月18,19日のアストロズのジェリー・レウスラリー・ダーカー両投手が対フィリーズ戦で達成して以来である。

大きく飛躍したリーバーの真価が問われる2002年。若手投手の台頭が目立つカブス投手陣のリーダーとしての活躍も期待されている。確実に15勝は計算できるであろう。

■2002.3.19(現地3.18)
●「レギュラーじゃなきゃ嫌」!パイレーツにベルが訴える!?
デレク・ベル
2001年、怪我が元でわずか46試合にしか出場できず、打率.173に終わったデレク・ベルが、球団のやり方に不満を吐いた。球団はライトのポジションをベルとアーマンド・リオスクレイグ・ウィルソンで争わせるとしているが、ベルが「レギュラーじゃないと嫌だ」とだだをこねる形である。とはいえこのスプリングキャンプでは、27打数4安打(打率.148)の3打点しか記録していない。

●レンジャーズ、ブルペン強化に3A先発投手を放出へ!
Texas RANGERS
レンジャーズは3Aで先発ローテーションに入っていた24歳右腕のジャスティン・ダックシェラーをアスレティックスへ放出する代わりに、アスレティックスのブルペンを守る26歳右腕ルイス・ビスカイーノを獲得した。ビスカイーノはスプリングキャンプで6試合に登板し、計9回2/3を投げ、防御率2.79、無四球の9奪三振と結果を出しているだけにレンジャーズは非常に期待している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.134
マット・モリス★マット・モリス #35★ セントルイス・カージナルス

2001年にシーズン22勝をマークし、見事最多勝のタイトルを獲得したマット・モリスは、カージナルスと3年間の2900万ドルで契約を延長した。怪我を乗り越えカムバック賞を獲得した27歳右腕は、優勝候補に挙がっている2002年のカージナルスのエースとして多大な期待がかかっている。

怪我を乗り越えたモリスはカージナルスの頼れるエース。大学時代から高い評価を受けていたモリスは、1995年のドラフトでカージナルスから1位指名(全米12番目)を受けてプロ入り。1996年は2Aでフルシーズン過ごし、27試合の先発で12勝12敗、防御率3.88という数字を残し、シーズン終盤には3Aで1試合だけ投げている。

開幕メジャーの座を手にした1997年、初めてメジャーのマウンドに立ったのは4月4日のアストロズ戦のことだった。この試合では勝利を手にすることは出来なかったが、6回途中まで投げて7安打1失点に抑える好投を見せている。初勝利は5月1日のことで、相手のマーリンズ打線の最初の17人を連続で凡退に打ち取る快投で手にした。この年は新人でありながら、33試合に先発し、12勝9敗、防御率3.19という新人王の中ではトップの成績を記録した(しかし、新人王はスコット・ローレンに奪われた)。投球回数217回に対して、被本塁打が12本というのはリーグで4番目の少なさだった。

期待されて迎えたメジャー2年目の1998年は肩を痛めてしまい、開幕を故障者リストで迎えることになってしまった。4月半ばに戦線に戻ってくるが1試合に投げただけで再び故障者リスト入り。メジャーのマウンドに戻ってくるのは7月まで待たなければならなかった。7月10日のアストロズ戦でメジャー復帰を果たし、6回を3安打無失点に抑えて華々しく復活を飾る。シーズン終盤にはメジャー初完封も記録した。結局、この年は17試合に先発し、7勝5敗、防御率2.57という成績を残し、怪我だけが惜しまれたシーズンとなった。

更なる飛躍が求められた1999年だったが、開幕直前に肘を痛めてしまう。トミー・ジョン手術を受けることになり、1年間を棒に振ることになってしまう最悪の年となった。2000年は2Aと3Aで調整登板を終えた後、5月末にメジャーへ復帰。5月30日のダイヤモンドバックス戦で3イニングを無失点に抑え、メジャー初セーブを記録。この年は終始ブルペンで過ごし、31試合に登板し、3勝3敗4セーブ、防御率3.57という数字を残した。

本拠地ブッシュスタジアムでは無類の強さを見せる。2001年から先発に復帰したモリス。この年の初登板となる敵地クアーズフィールドでのロッキーズ戦では、3回を投げ10失点(自責点は6点)でKO。この時の防御率はなんと18.00と最悪のスタートを切った。。その後は尻上がりにピッチング内容が良くなり、7試合目の登板となる5月7日の対パイレーツ戦では、自身3年ぶりとなる完封勝利をマーク。散発4安打の6奪三振1四球という素晴らしい内容で、この時点では防御率がリーグ6位の2.25まで下がっていた。そのままの勢いで勝ち進んだモリスは、オールスターのメンバーに初めての選出。しかし、選ばれたばかりの前半戦最後の試合では2回1/3を7安打8失点という内容でKOされることもあった。

10月4日のブリュワーズ戦に先発したモリスは、6回まで投げて3安打3四球の無失点に抑え、10個の三振を奪う好投で、カート・シリングに並ぶリーグトップタイの22勝目(8敗)をマークした。カージナルスの投手で22勝をあげるのは、1970年にボブ・ギブソンが22勝を記録して以来の快挙である。ちなみにモリスはブリュワーズとは相性が良く、キャリア通算で6勝1敗の防御率1.99という記録を残しており、この年は3勝1敗の防御率1.88とカモにしている。また、本拠地ブッシュスタジアムでは15勝2敗の防御率1.62と抜群の相性の良さを見せる。こうして、モリスはカージナルスはポストシーズン進出に大きく貢献した。

ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第1戦では、この年、共に22勝をあげているシリングとの最多勝投手同士の投げ合いとなった。モリスにとっては27歳にして初めてのポストシーズンの登板だったが、7回を6安打1失点という内容でマウンドを降りた。しかし、相手のシリングが3塁を踏ませない3安打完封と素晴らしいピッチングを見せたため、モリスは負け投手になってしまった。2勝2敗で迎えた第5戦に、再びシリングと投げ合ったが、この時も8回を投げ7安打1失点と好投したが、打線の援護がなく負けてしまい、モリスの2001年シーズンは終わった。

モリスにとっての2001年は、サイヤング投票でランディ・ジョンソン、シリングに次ぐリーグ3位となる投票を集めるだけの素晴らしいシーズンになった。2002年のシーズン終了後にFAになるモリスと球団との間で、3年の契約延長を年明け早々にまとめた。まだ、27歳という年齢から考えても更なる飛躍が期待される。

■2002.3.18(現地3.17)
●ホントに洗車中の骨折?ケントの骨折にバイク事故の噂!
ジェフ・ケント
ジャイアンツのジェフ・ケントが洗車中に手首を骨折したと伝えられていたが、実はそうではなく、バイクに乗っての事故だという疑いが出てきた。というのも、選手間でバイクに乗らないという契約があるとのことである。ケント自身はこの疑いを否定しているが、真実はケントのみ知るところである。そのケントは開幕には間に合いそうはない。

●レッズ、クローザーのグレイブズを先発に回す可能性!
ダニー・グレイブズ
レッズは先発投手不足というチーム事情から、クローザーを務めるダニー・グレイブズを先発に回す可能性が出てきた。ボブ・ブーン監督も、前年32セーブをマークしているグレイブズをクローザーからはずすことは非常に大きなマイナスではあるが、素晴らしい先発投手になると太鼓判を押している。代わりのクローザー候補としてはスコット・サリバンスコット・ウイリアムソンらが挙がっている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.133
アーロン・シーリー★アーロン・シーリー #34★ アナハイム・エンゼルス

2001年オフ、FAになったアーロン・シーリーがエンゼルスと3年間2400万ドルで契約を交わした。ポストシーズンに弱いと言われているが、マリナーズに在籍した2年間でトータル32勝15敗という数字を残しており、4年連続200イニング以上投げているタフな投手である。ストレートとカーブを中心に打たせて取るピッチングが持ち味である。

マリナーズから同地区のエンゼルスへ移籍することが決まったシーリー。ミネソタ州に生まれたシーリーは、1988年のドラフトで地元のツインズから37位指名を受けるが大学進学の道を選ぶ。大学在学時の1990年にはアメリカ代表にも選ばれ、キューバナショナルチームを相手に完封も記録している。そして、1991年のドラフトでレッドソックスから1位指名(全米23番目)を受けてプロ入りを決めた。

1992年は1Aリンチバーグで開幕を迎え、20試合に先発して13勝5敗、防御率2.91という好成績を残すとシーズン終盤には2Aニューブリテンに昇格した。翌1993年は3Aに昇格し、初登板の試合で7回を1安打無失点に抑え、最高の3Aデビューを飾った。14試合に先発し、8勝2敗の防御率2.19と桁違いの成績を残し6月末にはメジャーへ昇格した。メジャー初登板で7回を5安打1失点に抑えて勝利を手にしたシーリーは、その後8試合の登板で6勝(0敗)をマークする。結局、メジャー1年目は18試合の先発で7勝2敗、防御率2.74という素晴らしい形でシーズンを終えた。

1994年は前半戦こそ調子が良かったが、後半戦に入り調子を落とし、結局、22試合の先発で8勝7敗、防御率3.83に終わる。翌1995年、開幕からローテーションに入っていたが、最初の6試合に先発して3勝1敗という成績を残していたシーリーが右腕に痛みを覚え、故障者リスト入り。その後、リハビリを兼ねてマイナーで調整登板したが、再び腕に痛みを覚え再び故障者リストに戻ることになり、シーリーのシーズンは終わってしまった。

そろそろ結果を出したい1996年、開幕からローテーションに入り投げ続けるが、8月半ばに故障者リスト入りするなど怪我に苦しんだ。29試合に先発し、7勝11敗、防御率5.32という成績に終わってしまう。メジャーデビューの年こそ素晴らしかったが、その後はずっと怪我に泣いていたシーリー。1997年は初めてメジャーでフルシーズン過ごし、33試合に先発し、チームトップの13勝(12敗)をマークするが、度重なる怪我と防御率5.38という不安定さから、オフにはレンジャーズへ移籍することが決まった。

レンジャーズへの移籍がシーリーにいい影響を与えたのか、1998年は開幕から好調をキープ。4月9日のホワイトソックス戦で散発3安打のメジャー初完封を記録すると、4月21日のデビルレイズ戦でも4安打完封を記録。4月だけで5勝0敗、防御率2.00と勢いに乗ったシーリーは、前半戦だけで12勝(5敗)をマークし、自身初のオールスターゲーム選出も果たした。終わってみれば33試合の先発で19勝11敗、防御率4.23と大活躍し、チームの地区優勝にも貢献。ヤンキースとのディビジョンシリーズ第3戦のマウンドに立つが、5回まで無失点に抑えたが、6回表にポール・オニールにソロHR、シェーン・スペンサーに3ランHRを打たれ、敗れ去った。

ポストシーズンのピッチングだけが不安。1999年も前年の調子を持続し、33試合に先発して18勝9敗と2年連続で好成績をキープ。特筆すべきは3年連続で33試合も先発をしているタフさである。そこには怪我に泣いたレッドソックス時代のシーリーの姿はなかった。しかし、ポストシーズンでは再びディビジョンシリーズでヤンキースの前に敗れてしまう。そして、オフには晴れてFA宣言を行った。2年間で37勝をマークした右腕に数多くの球団が興味を持ち、本来ならオリオールズとの間で契約がまとまるはずだった。しかし、メディカルチェックで問題が発生し、その隙にマリナーズが契約をまとめてしまった。

マリナーズに移籍した2000年は、4月12日のタイガース戦で3安打完封勝利を演じるとその勢いで勝ち進み、前半戦だけで11勝をマーク。マリナーズの右投手としてオールスター前に10勝を挙げたのはこの年のシーリーが初めてである。ポストシーズン進出を目指すチームの中で9月と10月で4勝0敗、防御率2.55と素晴らしい成績を残し、チームのワイルドカードによるポストシーズン進出に大きく貢献した(しかし、リーグチャンピオンシップシリーズでヤンキースの前に敗れた)。結局、この年は17勝10敗、防御率4.51という成績を残している。

2001年も開幕から連勝街道を走るシーリー。5月30日のヤンキース戦では、レッドソックス時代のチームメイトであるロジャー・クレメンスと投げ合い、見事に勝利を収めている。チームも破竹の勢いで勝ち進む象徴となった。シーリーが初黒星を喫したのは6月22日のエンゼルス戦であり、味方のエラーがきっかけだった。この日の黒星が前年の8月30日以来のものである。4月と5月は計10試合に先発し、71回1/3を投げて8勝0敗の防御率2.65を記録していたが、6月は4試合の先発で、21回2/3を投げ、0勝1敗の防御率6.65と成績が落ち込み始めた。その中でシーリーは15勝5敗、防御率3.60という成績でシーズンを終えた。

自身4年連続4度目のポストシーズンではシーズン中の好調のシーリーらしさがなかなか出ない。ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでも第1戦と第5戦に先発するが、共に負け投手になっている。結局、ポストシーズンではキャリア通算で計7試合に先発しているが、0勝6敗と全く結果を出していない。

大試合に弱いというレッテルを貼られてしまったシーリーに汚名挽回のチャンスは果たしてあるのか。混戦が予想されるアメリカンリーグ西地区の中で古巣相手にいかなるピッチングを見せるか、非常に注目して見る必要がある。

■2002.3.17(現地3.16)
●フィリーズ、開幕投手は前年15勝のパーソンに決定!
ロバート・パーソン
フィリーズは開幕投手にロバート・パーソンを指名した。スプリングトレーニングでは結果を出していないパーソンだが、前年に15勝7敗という成績を残し、ラリー・ボーワ監督もパーソンなくして躍進はありえなかった、とまで話している。メジャーでの通算成績は47勝37敗だが、1999年シーズン途中にフィリーズ移籍後は34勝19敗という数字を残している。なお、ネルソン・フィゲロアクリフ・ポリットをブルペンに回すことを決め、これにより第5先発投手の座をデビッド・コギンビンセント・パディーラが争うことになりそうだ。

●メンドーサ、開幕が微妙!B・ウイリアムス、ハムストリング痛!
New York YANKEES
ヤンキースでロングリリーフに先発と便利な役割を果たしているラミロ・メンドーサが背中と首の痛みから本来の投球が出来ず、開幕には間に合いそうもない。2001年のメンドーサは56試合に登板し、8勝4敗、防御率3.75とヤンキースのブルペンには欠かせない。一方、バーニー・ウイリアムスもハムストリング痛を訴え、オープン戦を欠場。しかし、こちらはひどいものではないらしい。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.132
アンディ・ペティット★アンディ・ペティット #46★ ニューヨーク・ヤンキース

常勝ヤンキースの強烈な個性を持つ先発投手陣の中で、生え抜きの貴重な左腕として安定した成績を残しているのがアンディ・ペティットである。196センチという長身から見せるスライダー、カーブで打者を打ち取るのがペティットのピッチングスタイルである。さらに、注目すべきは牽制のうまさであり、ペティットがマウンドにいれば1塁ランナーを1塁に釘付けにすることが出来る。

ヤンキース生え抜きの先発投手、ペティット。ルイジアナ州出身のペティットの憧れは、故郷の先輩ロン・ギドリーであり、ギドリーに憧れ野球を始めた。高校卒業時の1990年ドラフトにおいてヤンキースから22位指名を受けるが契約には至らずに大学へ進学。大学では、ロジャー・クレメンスを指導したというコーチに出会い指導を受けたところから球速が大きくアップ。「左のクレメンス」とまで言われたペティットは大学を中退し、1991年5月に1度は断ったヤンキースとドラフト外で契約し、プロ入りを果たした。

契約したこの年は、ルーキーリーグと1Aの2つのクラスで投げ、合わせて6勝3敗と高い潜在能力を披露。翌1992年は1Aグリースボロでフルシーズン投げ、27試合に先発し、10勝4敗、防御率2.20という数字を残し、1993年も上のクラスの1Aプリンスウイリアムで11勝9敗、防御率3.04をマークしている。2Aアルバニーで開幕を迎えた1994年は11試合に先発し、7勝2敗という成績を残して、シーズン途中に3Aコロンバスへ昇格。3Aでも16試合に投げて、7勝2敗をマーク。この年は2つのクラスで計14勝というもので、その将来に大きな希望を抱かせた。

1995年、開幕は3Aだったが4月29日にメジャーからお呼びがかかった。最初はブルペンからのスタートで5試合に中継ぎ登板を果たすと、5月半ばにはマリアーノ・リベラとの交換で再び3Aへ降格。しかし、5月末には再びメジャーへ再昇格。昇格したすぐ後にメジャー初先発を経験。6月2日のメジャーでの2試合目の先発となるエンゼルス戦で完投を記録した(しかし、試合には負けた)。その後はヤンキースの先発ローテーションにしっかりと名を連ね、終わってみれば、26試合に先発し、12勝9敗、防御率4.17という数字を残した。新人でありながら、マリナーズとのディビジョンシリーズ第2戦での先発も果たしている。なお、この年の新人王投票ではマーティ・コルドバギャレット・アンダーソンに次ぐ3位に付けた。

2年目のジンクスが心配された1996年だが、最多勝となる21勝(8敗)を挙げる活躍を見せた。サイヤング賞投票でもパット・ヘントゲンに次ぐ2位となっている。しかも、ペティットが先発した34試合はチームが24勝10敗という好成績をあげるなど、チームの地区優勝に貢献した。順調に勝ち進んだヤンキースはワールドシリーズへ進出。第1戦の先発を任されたペティットはブレーブス打線に捕まり、2回1/3で7失点と散々な内容に終わるが、第5戦に先発するとジョン・スモルツと激しい投げ合いを見せ、ジョン・ウェッテランドとの完封リレーで1対0と辛勝勝ちした。これでヤンキースは1978年以来の世界一に輝いたことになる。

牽制に関してはメジャーナンバー1といっても過言ではない。1997年のペティットは、4月に5勝0敗と抜群の成績で開幕スタートを切った。ヤンキースの投手で開幕からこれだけの好調ぶりを見せたのは1993年のボブ・ウィックマンの開幕8連勝以来である。7月5日のブルージェイズ戦ではメジャー初完封を記録し、そこから23イニング連続無失点という記録も樹立。この年は35試合に先発し、18勝7敗、防御率2.88をマークした。しかし、インディアンズとのディビジョンシリーズでは第2戦と第5戦に先発し、ともにKOと痛い目にあってしまった。

ヤンキースが球史に残る勢いで勝ち進んだ1998年、開幕投手を務めたのはペティットだった(しかし、負け投手)。ペティット自身、メジャー通算100試合目の先発となった4月22日の対ブルージェイズ戦では、クレメンスと投げ合い見事に完投勝利をマークしている。33試合に先発し、16勝11敗という数字を残し、投球回数も216回1/3と3年連続で200回以上をクリア。これはヤンキースの投手としては、ペティットの憧れだったギドリーが1977年から記録した4年連続投球回数200回以上に次ぐ記録である。ワールドシリーズでも第4戦に先発し、7回1/3を無失点に抑える好投でパドレスの息の根を止めた。

1999年は肘と右足首を痛めて、初めての故障者リストで開幕を迎えるが、4月半ばにはヤンキースのローテーションに戻ってきた。前半戦はペティットらしからぬピッチングが続き、移籍話も具体的に出たりもした。しかし、ジョー・トーレ監督がペティットは必要な戦力である、として移籍話という周囲の雑音を吹き飛ばした。これに気をよくしたか、後半戦のペティットはそれまでと別人のようなピッチングでチームに勝利をもたらし、結局、14勝11敗という数字を残した。注目すべきはレッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第4戦において、ブレント・セイバーヘイゲンに投げ勝ったことである。しかし、ワールドシリーズでは4回を持たずにKOされたのだが(しかし、チームはサヨナラ勝ち)。

2000年、開幕早々に故障者リスト入りするが、32試合に先発し、19勝9敗の高成績をマーク。シーズン終盤にはヤンキースの投手としては史上15人目の通算100勝も達成した。メッツとのサブウェイシリーズが話題になったこの年のワールドシリーズでは第1戦と第5戦に先発し、好投。ヤンキースの3年連続世界一に貢献した。

2001年は6月半ばに故障者リスト入りしたが、開幕から好調をキープ。8月半ばまでで14勝6敗と好成績を残していたが、その後はなかなか勝ち星が伸びず、結局、15勝10敗という成績に終わってしまった。マリナーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2勝をマークしたペティットだが、ワールドシリーズでは第2戦と第6戦の先発としてマウンドに上がったが、いずれもKOされてしまった。

大柄な体の割にはフィールディングも良く、評価も高い。毎年、200イニング以上投げ、15勝以上を計算できるペティットの存在はヤンキースにとって非常に大きい。ヤンキースの他の先発投手陣が偉大すぎるために、ペティットの影が薄いと言われるのは非常に残念なことである。

■2002.3.16(現地3.15)
●ロイヤルズの抱える問題はスウィーニーの契約問題!
マイク・スウィーニー
2002年シーズン終了後にFAとなるマイク・スウィーニーと、契約問題について話し合いたいロイヤルズだが、シーズン開幕後の4月以降の交渉にはスウィーニーサイドが難色を示している。スウィーニー自身、勝てるチームでプレーしたいという希望があり、ジャーメイン・ダイジョニー・デーモンレイ・サンチェスらを次々と放出するチーム方針を目の当たりにしている。ここ3年間で通算打率.320、80HR、345打点を挙げているスウィーニーの下す決断はどうなるのか。

●レンジャーズ、ベルをマイナーへ降格!
Texas RANGERS
レンジャーズは、前年に18試合に先発した若いロブ・ベルをマイナーへ降格させることを決めた、2001年途中にレッズから移籍してきたベルは、レンジャーズで5勝5敗の防御率7.18という数字を残している。ベルは先発ローテーション入りよりはロングリリーフ向きだと見られている。レンジャーズのキャンプからはすでに43人の選手が去り、その中には25人の投手が含まれている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.131
トム・グラビン★トム・グラビン #47★ アトランタ・ブレーブス

抜群の安定感を見せ、アウトコースを丹念についていくピッチングが信条のトム・グラビン。ブレーブス一筋のグラビンは、チームメイトのグレッグ・マダックスと共に将来の殿堂入りが確実視されている投手である。弱いブレーブスと強いブレーブスの両方で中心投手として投げてきたグラビンは、ブレーブスを語る上で欠かすことは出来ない。

そのピッチングスタイルには「クール」という言葉がぴたりとはまる。野球とホッケーを楽しんでいたグラビンは、その両方で高い才能を見せた。1984年ドラフトでブレーブスから2位指名を受ける一方で、NHLのロサンゼルス・キングスからも4位指名され大きな話題になった。結局は野球を選んだグラビンは1985年、1Aサムターで26試合に先発し、9勝6敗を記録し、リーグトップの防御率2.35をマークした。翌1986年には2Aグリーンビルで11勝6敗、防御率3.41をマークし、シーズン終盤には3Aリッチモンドへ昇格も果たした。

1987年、3Aで6勝12敗ながら防御率3.35をマークしていたグラビンにメジャーからお呼びがかかったのは8月半ばのことだった。8月17日のアストロズ戦においてメジャーデビューを果たし、2試合目となる22日のパイレーツ戦において7回1/3を7安打3失点に抑え、メジャー初勝利を手にした。さらに1988年、オールスターまでの前半戦で3勝9敗、後半戦でも4勝8敗となかなか勝利を手にすることが出来ず、リーグトップの17敗をマークしてしまう。というのも、当時のブレーブスは非常に弱いチームで、特にこの年は54勝106敗の勝率.338で、ダントツの地区最下位だったことも影響している。

1989年のブレーブス投手陣を支えたのは当時23歳のグラビンと、22歳のジョン・スモルツだった。苦しいチーム状況の中でグラビンはマーク・ラングストンと並ぶリーグトップの4完封に加え、14勝8敗の防御率3.68をマーク。一方のスモルツも12勝11敗、防御率2.94をマークするなど、この2人の活躍は弱いチームに光を与えた。翌1990年もグラビンは33試合に先発し、10勝12敗を挙げ、14勝(11敗)を挙げたスモルツと共にチームを支えたが、チームは3年連続の地区最下位に沈んでいた。

1991年はグラビンにとって素晴らしいシーズンになった。34試合に先発し、20勝11敗、防御率2.55を記録し、最多勝とサイヤング賞を受賞。ブレーブスとしては1957年のウォーレン・スパーン以来のサイヤング賞受賞であり、アトランタ移転では初である。さらにオールスターゲームでは先発も務め、打撃面でも高い評価を受け、シルバースラッガー賞も受賞。チームも前年までの最下位から一気に躍進し、リーグ優勝を飾った。パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦と第5戦に先発するが、好投するものの援護なく2敗してしまう。しかし、チームは4勝3敗でワールドシリーズへコマを進め、グラビンはワールドシリーズの舞台に立つことが出来た(ツインズの前に3勝4敗で敗れ、世界一の栄冠を手にすることは出来なかった)。

ピッチングだけでなくバッティングもいい。1992年、オールスターでの2年連続先発に加え、リーグトップの20勝(8敗)、5完封を記録。シーズン途中には13連勝をマークするなど破竹の勢いを見せたグラビン。チームも2年連続でワールドシリーズへ進出した(しかし、ブルージェイズの前に敗れた)。翌1993年からマダックスがチームメイトとして加わり、ブレーブス投手陣はますます強力になる。この年は22勝6敗、防御率3.20をマークし、3年連続20勝を記録した。サイヤング賞投票ではマダックス、ビル・スウィフトに次ぐ3位に終わったが、もはやメジャーを代表する左腕であることは誰もが認めていた。

ストライキで中断された1994年シーズン途中に通算100勝をマーク。この年は打線の援護のあるなしがはっきりしており、グラビンが勝った試合は大勝ちするが、負けた試合はほとんど援護がなかったこともあり、25試合の先発で13勝9敗に終わってしまう。

1995年のグラビンは16勝7敗、防御率3.08という成績でありながら、グラビンが先発した29試合においてチームは21勝8敗と高勝率を挙げるなど勝ち運に恵まれていたと言える。さらにバッティング面でもメジャー初のホームランも放ち、自身2度目のシルバースラッガー賞を受賞。チームも3年ぶりにワールドシリーズシリーズへ進出。グラビンは第2戦と第6戦に先発し、計14回を投げて4安打3失点と好投して2勝をマーク。見事にワールドシリーズMVPも獲得した。

1996年は4月末から6連勝を飾るなど好調をキープ。36試合の先発で15勝10敗、防御率2.98という成績を残している。1991年から数えた6年間でグラビンは計106勝を挙げており、これはチームメイトのマダックスの105勝を上回るものである。前年に続いてワールドシリーズへコマを進めたブレーブスの中で、グラビンは第3戦の先発のマウンドに上がる。デビッド・コーンとの投げ合いに敗れてしまうが、7回を4安打2失点と決して悪い内容ではなかった(結局、ヤンキースの前に2勝4敗で敗れる)。しかし、グラビンは過去4度のワールドシリーズの中で7試合に先発しており、計51回1/3を投げて、わずか10失点しか記録しておらず、これは防御率にすれば1.75と歴代の大投手と並べても遜色のない数字である。

サイヤング賞は2度も受賞しているグラビン。1997年、4月に4勝0敗、防御率1.64と素晴らしい成績で月間MVPを獲得する最高のスタートを切る。しかし、夏場にはなかなか勝ちに恵まれず苦しみ、14勝7敗の防御率2.98という成績に終わる。リーグチャンピオンシップシリーズではマーリンズの前に敗れ、3年連続ワールドシリーズ進出は果たせなかった。そして、オフにグラビンは痛めていた膝の手術も行った。

1998年、開幕から好調をキープしたグラビンは、自身4度目のシーズン20勝をマークし、最多勝のタイトルと共に7年ぶりのサイヤング賞を受賞した。オールスターでは1回1/3を投げ、5安打3四球4失点と散々の内容に終わったが、シーズンに入ってのピッチングは素晴らしく、ロードゲームでの17試合の先発で、12勝2敗の防御率1.78と圧巻の内容だった。

1999年はストライクゾーン改正に苦しんだシーズンとなり、防御率4.12とリーグ最多の被安打259本というのがそれを表している。前半戦は特に苦しみ、6月上旬の段階で3勝7敗とグラビンらしさがそこにはなかった。しかし、後半戦最後の15試合の登板で11勝をマークし、シーズントータルで14勝11敗を挙げたというのは、グラビンの環境適応能力の高さともいえる。また、1990年代にグラビンは計164勝を挙げており、これはマダックスの174勝に次ぐ2位の記録である。この年、3年ぶりにコマを進めたワールドシリーズでは、グラビンは第3戦に先発したがヤンキースの勢いを止められずに4連敗してしまった。

2000年、35試合に先発したグラビンは21勝9敗、防御率3.40をマークし、サイヤング賞投票ではランディ・ジョンソンに次ぐ2位に付けた。メジャー史上96人目の通算200勝達成に加え、史上33人目となるシーズン20勝を5度も達成とフル回転で活躍。スモルツが1年間投げられないというチーム状況の中でよく投げたといえる。

2001年もグラビンらしさが発揮されたシーズンとなった。開幕当初は左肩に痛みもあったが、7月には6試合の先発で4勝0敗の防御率1.91と大活躍。チームは貧打に苦しんでいたが、その中で16勝(7敗)をマークし、チームの10シーズン連続の地区優勝に貢献した。

1度も故障者リストに入ることなく、1989年から13年連続2桁勝利を記録しているグラビン。牽制を含む守備面でも評価が高く、マダックスがいなければゴールドグラブ賞を獲得していてもおかしくない。30代後半の活躍が目立つメジャーリーグにおいて、2002年開幕時に36歳となるグラビンの快投はまだまだ見られそうだ。

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