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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.3.11〜3.15★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.3.15(現地3.14)
●ネン、痛めた右足首も大事には至らず!
ロブ・ネン
ジャイアンツのクローザーであるロブ・ネンがエンゼルスとの試合でファーストカバーに行った際、右足首を痛めてしまい、今後が心配されたが大事には至らずに済んだことがわかった。ジャイアンツとしてはジェフ・ケントを思いも寄らぬ怪我により開幕に間に合いそうにないことから、これ以上は怪我人を出したくないところだ。なお、先発のジェイソン・シュミットも股関節を痛めたがこちらも大した影響はなく、マウンドに戻ってくることになりそうだ。

●キャブレラ、ヘルニア痛で約1週間の安静!
オーランド・キャブレラ
エクスポズはショートのオーランド・キャブレラがヘルニア痛のため、約1週間の安静を必要とするということを発表した。キャブレラは2001年、初めて全162試合に出場し、打率.276、14HR、96打点をマークし、自身初のゴールドグラブ賞を受賞している。エクスポズには欠かせない選手の一人である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.130
クレイグ・ビジオ★クレイグ・ビジオ #7★ ヒューストン・アストロズ

現役選手の中で最も多くの死球を受けている(197死球)選手であるクレイグ・ビジオは、故障者リストに入ったことがわずか1回しかないという非常にタフな選手である。体はどちらかと言えば小柄な方でパワーヒッターでもないが、プレーに対するガッツはチームナンバー1。捕手からセカンドにコンバートした選手で、両方のポジションでオールスター出場を果たしているのはこのビジオのみである。

バグウェルと共に「キラーB’s」と呼ばれたビジオ。ニューヨーク州に生まれたビジオの幼少時の憧れの選手は、ヤンキースのサーマン・マンソンであった。当然のように野球を始めたビジオは、捕手とショートのポジションを守るスピード感溢れる選手として活躍。野球以外にもフットボールのランニングバックとして才能を思う存分発揮していた。1987年の大学3年時には打率.407、14HR、68打点と大当たりし、その年のドラフトではアストロズから1位指名(全米22番目)を受けている。ちなみに大学時代のチームメイトにはモー・ボーンジョン・バレンティンもいた。

プロ入り時のポジションは捕手で、ドラフト指名された年は1Aアッシュビルで64試合に出場し、打率.375をマーク。翌1988年は3Aツーソンで開幕を迎え、77試合の出場で打率.320と高打率を挙げていたビジオにメジャーから初めてお呼びがかかったのは6月26日のことだ。1987年のドラフトで指名された野手として最も早いメジャー昇格となった。そして、6月29日のドジャース戦ではこの年サイヤング賞を受賞することになるオーレル・ハーシハイザーからメジャー初ヒットを記録した。また、この年までアストロズに在籍していたノーラン・ライアンともバッテリーを組んだこともあり、ライアンは捕手ビジオに高い評価を与えている(ライアンは翌年からレンジャーズへ)。

1989年、初めて開幕からメジャーのロースターに名を連ねたビジオは正捕手の座をガッチリと自分の物にした。134試合に出場し、打率.257に終わったが、捕手としてはリーグ2位の13HR、60打点と、リーグトップの21盗塁を記録。攻撃的な捕手であることをアピールしたビジオは、この年シルバースラッガー賞を受賞している。翌1990年は150試合の出場で、アストロズの捕手としては過去最高記録となる打率.276をマーク。

1991年は、4月の月間打率が.359と大当たりし、5月、6月もそれぞれ.311、.309と打ちまくったこともあり、初めてオールスターに選出されることになった。ヒットは打てなかったが、捕手としてエラーを記録している。後半戦に入り当たりは止まってしまったが、リーグ12位となる打率.295をマーク。より打撃を生かすためにセカンドへのコンバートが話としてあがりシーズン途中にはセカンドを守ることもあった。

正式にセカンドへコンバートした1992年、162試合に出場し、打率.277、38盗塁を記録。この年、全試合出場を果たしたのはリーグ内ではビジオとジェフ・バグウェルスティーブ・フィンリーのみである。また、2度目のオールスター選出も果たし、前年の捕手に続きこの年はセカンドということで、メジャー史上初となる2つのポジションでのオールスター出場した選手となった。翌1993年は、155試合に出場し、打率.287、21HR、64打点をマークしている。

既にチームの顔である。1994年はストライキによる短縮シーズンとなったが、39盗塁をマークし盗塁王のタイトルを獲得し、守備面での評価も認められ、初めてのゴールドグラブ賞も手にした。チームメイトのバグウェルもファーストとしてゴールドグラブ賞を受賞しており、チームメイト2人がゴールドグラブ受賞というのは、アストロズにとって1974年以来の快挙である。さらにキャリアハイの打率.318に加え、リーグトップの2塁打44本も記録していただけにストライキによる中断が悔やまれる。

1995年、通算1000本安打を達成するなど、ビジオにとっては区切りのシーズンになった。もはや常連になっていたオールスターには9番セカンドで初めての先発出場し、見事にホームランを放っている。リーグ14位の打率.302に加え、22HR、77打点、33盗塁を記録し、球団史上では1986年のケビン・バス以来のHRと盗塁による「20−20」クラブ入りを果たした。翌1996年、打率.288、15HR、75打点を記録し、2年連続でオールスター先発出場を果たしている。

1997年はリーグトップの146得点を記録。これは1932年にチャック・クレインが記録した152得点以来といえる記録であり、リードオフマンの仕事も務めあげた証明でもある。ちなみに一方のアメリカンリーグの場合は1949年のテッド・ウイリアムスが記録した150得点以降では、1985年のリッキー・ヘンダーソンが146得点をマークしている。前年に続き、全162試合に出場し、4年連続のゴールドグラブ賞受賞に加え、打率.309、22HR、81打点、47盗塁を記録したビジオは、チームの地区優勝にも貢献した。初めてのポストシーズンとなったが、ブレーブスの前にあっさり3連敗してしまい、しかもビジオは3試合でわずか1本しかヒットを打てなかった。

1998年、打率.325、20HR、88打点をマークしたビジオ。リーグトップの51本の2塁打に加えて、50盗塁をマークするなど、2塁打と盗塁による「50−50」クラブ入りを果たす。これは1912年のクリス・スピーカー以来の快挙である。ポストシーズンではあっさり負けてしまうが、MVP投票ではリーグ5位に名前が挙がった。翌1999年も56本の2塁打を放ち、メジャー史上6番目の2年連続2塁打50本を記録。シーズン途中に左肩故障というアクシデントがあったが、160試合に出場し、打率.294、16HR、73打点、28盗塁という数字を残している。

過去ゴールドグラブ賞を受賞したこともあるビジオ。2000年は球団史上初となる通算2000本安打を達成。これまでの球団記録はホゼ・クルーズの1937安打だった。これまで1度も故障者リスト入りしていないタフさがビジオも持ち味だったが、左膝を痛めてしまい、8月に入ってからキャリア初の故障者リスト入りを経験する。奇しくもこの年から本拠地をそれまでのアストロドームからエンロンフィールドに移した新球場1年目として期待されていただけにビジオの離脱は惜しまれた。この年は投手陣の崩壊もあり、4年連続となるポストシーズン進出は果たせずに終わってしまう。

復帰の2001年、ビジオはリードオフマンぶりを発揮し、チームを2年ぶりとなるポストシーズン進出へ導いた。155試合の出場で、打率.292、20HR、70打点という数字に加え、得点圏打率がリーグトップの.388と勝負強さも発揮した。ポストシーズンではブレーブスの前に3連敗し、あっさりとシーズンを終えてしまうが、前年の怪我からの復活を強く印象付けた。

アストロズの選手として14年間も在籍したというのは、ボブ・ワトソン(1966〜79年)、テリー・ポール(1977〜90年)と並ぶ球団最多記録であり、さらに1989年から続いているビジオの13年連続開幕スタメンというのは、もはや球団最長記録であり、今後もそれらの記録更新が期待される。そんなアストロズ一筋のビジオももはや36歳。手が届きそうで届かないワールドシリーズ出場という夢に向かってアストロズを引っ張っていかなければならない。

■2002.3.14(現地3.13)
●マリナーズ期待のR・アンダーソン、2年連続のアウト!
Seattle MARINERS
マリナーズの有望株、左腕ライアン・アンダーソンが左肩の故障から2年連続でマウンドに立てないことになってしまった。アンダーソンは208センチという長身から投げおろすところから、かつてマリナーズに在籍していたランディ・ジョンソンの再来とまで言われるほど周囲の期待は抜群のものがあった。1997年のドラフト1位投手で、2000年には3Aで20試合に先発し、5勝8敗という成績を残し、順当に行けば2001年中にはメジャーで投げているはずだった。

●ロッキーズ、盗塁王ピエールと4年契約!
ホアン・ピエール
強打ロッキーズの先頭打者を務めるホアン・ピエールが4年間750万ドルで契約を交わした。ピエールは2000年途中にメジャー昇格し、2年目となる2002年は156試合に出場し、センターのポジションを確実なものとした。さらに46盗塁でジミー・ロリンズと並んで盗塁王のタイトルも獲得。さらに、打率.327をマークし、リーグ6番目となる202安打も記録した。今後が楽しみな24歳である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.129
ジム・エドモンズ★ジム・エドモンズ #15★ セントルイス・カージナルス

そのプレーぶりは高く評価されているが、怪我が多かったり、気分家と言われる性格からチーム内でもそれほど信頼されているわけではなかったジム・エドモンズ。しかし、2000年にカージナルスへ移籍後は安定した成績を残し、そはやチームにいなくてはいけない存在になった。

カージナルスのセンターを守るエドモンズ。高校時代には野球とフットボール、サッカーに汗を流したエドモンズ。高校3年時に打率.548という高い打撃能力を見せ、1988年のドラフトでエンゼルスから7位指名を受けてプロ入りを決めた。1990年に1Aパームスプリングで91試合に出場し、打率.293という数字を残している。この年は守備面では高い評価を得るが、HR数はわずか3本に終わっている。

1991年は1Aで2度も故障者リストに入るアクシデントに遭うが、持ち前の強肩を生かそうと1試合だけ投手としてマウンドに上がったこともある。翌1992年、2Aミッドランドで70試合に出場し、打率.313、8HR、32打点という成績を残すと3Aエドモントンに昇格し、ここでも50試合に出場し、打率.299、6HR、36打点を記録した。

期待されて迎えた1993年は3Aで開幕を迎え、95試合に出場した中で打率.315、9HR、74打点をマークし、さらに2塁打28本、3塁打4本と大活躍。9月に入りようやくメジャーからお呼びがかかり、18試合に出場した。翌1994年は、スプリングトレーニングで打率.351をマークし、開幕メジャーを果たした。ポジションが固定しないエドモンズは外野の3つのポジションとファーストを守るなどして94試合に出場し、打率.273、5HR、37打点を記録している。

1995年は開幕からセンターのポジションを獲得し、フルシーズンをメジャーで過ごした。ストライキ明けということで短縮シーズンだったが、その中で141試合に出場し、打率.290、33HR、107打点をマークした。リーグ3位の120得点、リーグ8位の長打率.558を挙げ、6月には23試合連続ヒットも記録している。更にこの年、初めてオールスターゲームにも(代打として)出場を果たし、大きな飛躍を果たしたシーズンとなった。

1996年、5月から7月にかけて2回も故障者リストに入るものの114試合に出場し、打率.304、27HR、66打点を記録している。エドモンズが自信を持っている守備では287回の守備機会でエラーはわずか1個であり、守備率にすれば外野手としてリーグ3位タイの守備率(.997)をマークするなど、着実にキャリアを積み上げていった。

勝負強い打撃も注目。1997年は、打っては打率.291、26HR、80打点という成績を残し、守ってはわずかにエラーは5個のみであり(守備率.985)、エドモンズは初めてのゴールドグラブ賞を獲得した。しかし、残念なことにこの年も故障者リストに入ることがあった。しかし、翌1998年は怪我なく1年を過ごし、打率.307、25HR、91打点をマークし、2年連続のゴールドグラブ賞も獲得した。

余りにも怪我が多いため、オフになるとエドモンズの周囲には移籍話がつきまとっていたのは事実である。悪いイメージを払拭したいところだが、1999年は開幕前に右肩を痛めてしまい、復帰は8月までに遅れた。勝負を懸けたいシーズンだったが、55試合の出場に留まり、打率.250、5HR、23打点に終わっている。

そして、2000年シーズン開幕直前にカージナルスとの間で移籍がまとまった。交換相手は前年18勝をマークしたケント・ボッテンフィールドと若手有望株のアダム・ケネディである。突然のカージナルス移籍だったが、エドモンズにとってこの移籍は吉と出た。春先から好調をキープしたエドモンズは、152試合に出場し、打率.295、42HR、108打点をマークし、チームの地区優勝に貢献。伝統あるチームでのシーズン42HRというのは1922年のロジャース・ホーンスビーに並ぶ球団史上4位のHR数である。ワールドシリーズの舞台を踏むことは出来なかったが、存在感をアピールするには最高のシーズンとなった。

2001年は若いアルバート・プホルスの台頭やJD・ドリューの爆発、マット・モリスの復活などがあり、チームは2年連続でポストシーズンへコマを進める。エドモンズ自身は打率.304、30HR、110打点と合格点といえる数字を残している。

前チームではポストシーズンと縁がなかったが、移籍後は2年連続で出場している。2002年はマグワイアが引退したものの代わりのファーストにティノ・マルチネスを獲得するなど、捕球に抜かりがない。2002年秋、ワールドシリーズの舞台に立ったエドモンズの姿が見られるかもしれない。

■2002.3.13(現地3.12)
●ジーターのグラブを盗んで売っちゃったR・リベラ、解雇される!
New York YANKEES
盗人が解雇された。2002年から古巣ヤンキースに戻ってきたルーベン・リベラが、ロッカーからデレク・ジーターのグラブなどを盗み、売りに出していたことが発覚し、球団から解雇されることになった。奇しくもジーターとリベラは10年前には同じマイナーリーグのチームでプレーしていたことがあった。リベラもかつてはジーターと同様に期待されていたプロスペクトだったが、スター街道をのしあがったジーターと比べて、リベラは1997年に伊良部秀輝との交換でパドレス入り後は伸び悩んでいたというのが実状であった。リベラの従兄弟であるマリアーノ・リベラはノーコメントである。

●アンキール、開幕ロースター入りに黄信号!
リック・アンキール
期待の22歳左腕のリック・アンキールが肘の痛みのために来週まで投げられないことになった。最悪の場合、開幕ロースターから漏れる可能性もある。2001年のアンキールは開幕をメジャーで迎えるが投球が安定せず、5月半ばにはマイナーに移ってそのままシーズンを終えた。これはアンキールに実力がないことではなく、大器の片鱗を垣間見せるだけに大事に育てようとした上でとった処置である。球団の期待に何とかして応えたいところである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.128
マイク・スウィーニー★マイク・スウィーニー #29★ カンザスシティ・ロイヤルズ

エクスパンションによる成功チームとして名前の挙がるロイヤルズも、選手の年俸高騰の問題などでかつての勢いはなくなり、中都市に本拠を構える悲哀が浮き彫りになってきた。そんなロイヤルズの主砲として活躍しているのがマイク・スウィーニーである。球団は、契約最終年(2002年)の先の長期契約の可能性を模索中である。

ロイヤルズの顔ともいえるスウィーニー。1991年のドラフトでロイヤルズから10位指名を受けたときのスウィーニーのポジションは捕手であった。プロ入り当初は攻守ともに粗さが目立っていたが、潜在能力は高く評価されていたこともあり、1993年に在籍していたノースウエストリーグ(1A)のオールスターチームに選出された。そして翌1994年、86試合に出場し、打率.301、10HR、52打点という成績を残し、周囲はスウィーニーの将来へさらに大きな希望を抱くようになる。

1Aウィンミントンで開幕を迎えた1995年は、99試合に出場した上で、打率.310、18HR、53打点を記録。見事に首位打者のタイトルを獲得し、リーグナンバー1の長打率(.548)もマークした。そして、シーズン終盤には初めてのメジャー昇格も果たす。シーズン最終戦で代打として打席に立ったスウィーニーは、メジャー初ヒットも記録している(結局、この年はメジャーで4試合だけの出場)。

1996年、2Aウイチタでスタートするが、3割を越える高打率で3Aオマハに昇格。そしてオールスター明けの7月17日にメジャーからお呼びがかかった。7月18日のホワイトソックス戦で初めて指名打者としてスタメン出場を果たし、3打数2安打を記録している。この年は50試合に出場し、打率.279、4HR、24打点をマーク。捕手としては、盗塁阻止率.353(17回で6回阻止)を記録している。

1997年は開幕ロースターから漏れてしまい3Aで開幕を迎えるがすぐに、メジャーへ昇格。正捕手が固まっていないロイヤルズだけにチャンスはあったが、そのチャンスをなかなか生かせずに5月末には再び3Aへ降格。後半戦からメジャーに戻ってきたスウィーニーも、バッティングでは時折勝負強さを見せるが、トータルとして見れば安定感がないのが欠点だった。

1998年のロイヤルズはサル・ファサーノとの捕手のツープラトンの起用でシーズンを過ごすことになる。捕手としての評価は高いものではなかったが、バッティングでは1試合4安打を記録したり、あと3塁打でサイクルヒットを記録ということもあった。スコアリングポジションでの打率は.282だったが、ランナーを3塁へ置くと打率は.333と跳ね上がる。

チームメイトからの信頼も抜群である。1999年開幕の段階でのスウィーニーの評価は3番手捕手というものに過ぎなかった。しかし、5月に入り運が巡ってくる。ファーストを守るジェフ・キングが突然引退を発表したため、スウィーニーの手元にファーストのポジションが転がり込んできたのだ。守備での負担が軽くなったことが影響したのか、水を得たように打ちまくったスウィーニー。結局、150試合に出場して、チームトップの打率.322を始めとし、22HR、102打点をマークした。特に2塁打44本というのはリーグ2位タイ記録である

2000年、初めてオールスターゲームの出場も経験したスウィーニーは、159試合に出場し、打率.333、29HR、144打点と全ての面で前年を上回る数字をマークした。144打点というのは球団新記録であり、この年の打点王のエドガー・マルチネスにわずか1点届かないというものだった。他にも25試合連続ヒットや13試合連続打点などの記録に加えて、ヒット数にしてもダリン・アースタッド(240安打)、ジョニー・デーモン(214安打)に次ぐリーグ3位の206安打を記録するなど、一躍、リーグを代表する打者に名を連ねた。

熱心なクリスチャンとして知られるスウィーニーは非常に真面目な性格で誰からも好かれるというところがあった。しかし、2001年8月10日のタイガース戦でマウンドのジェフ・ウィーバーから吐きかけられた言葉に敏感に反応し、マウンドへ突進。こうして乱闘騒ぎを起こしたというのも記憶に新しい。この年はハムストリングや手を怪我していたことも影響し、打率.304、29HR、99打点という数字に終わり、3年連続100打点を逃してしまった。

練習熱心でチームメイトからも一目置かれているスウィーニーは、まだ28歳と若い選手である。若い選手の多いロイヤルズを引っ張れるのは、このスウィーニーしかいない。

■2002.3.12(現地3.11)
●レッドソックス新監督にリトル氏が正式決定!
Boston RED SOX
新監督を捜していたレッドソックスは、インディアンズのベンチコーチを務めるグラディ・リトルに監督就任を依頼し、正式に新監督として発表された。リトルは1980年から16年もマイナーリーグの監督を経験し、1996年はパドレス、1997年から1999年まではレッドソックス、その後はインディアンズのコーチを歴任してきた実績がある。インディアンズ監督のチャーリー・マニュエルが体調不良で采配を振るえなかったときは代理監督として26試合の指揮を執り、16勝10敗という好成績を残している。

レッドソックスはまるで呪われたかのように83年もの間、世界一の座から遠ざかっている。過去にも世界一目前までいったことあったが、信じられないミスでチャンスを逃してきた。その呪いを振り払えるか、新監督リトルの手腕には注目が集まる。

●期待のボーチャード、右足骨折で開幕アウト!
Chicago WHITE SOX
2001年秋に台湾で行われたワールドカップにアメリカ代表として出場し、注目を浴びているジョー・ボーチャードだが、右足に骨折箇所が見つかり、4週間から6週間の間、試合に出場できないことになった。FAでケニー・ロフトンを獲得したため、開幕ロースターは難しいと思っていた、というのは本人の弁である。スタンフォード大学ではクォーターバックとして活躍したボーチャードをホワイトソックスが指名し、球団最高額の530万ドルで契約を交わしたという球団期待の選手である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.127
ホゼ・カンセコ★ホゼ・カンセコ #30★ モントリオール・エクスポズ??

2001年シーズン終了時点で通算ホームラン数が462本のホゼ・カンセコは、通算500号に執念を見せる。怪我が多いためにカンセコの獲得は非常にリスクが多く、なかなか契約がまとまらない。現在、2002年もメジャーでプレーすることを夢見、エクスポズとマイナー契約を交わした。仮に正式に契約を交わした場合、カンセコにとって初めて指名打者制度のないナショナルリーグでのプレーとなる。

勝負強さは天下一品だが、怪我が多いのが難点。1964年、カンセコはキューバの首都ハバナで生まれた。生後まもなくアメリカに亡命し、フロリダで順調にすくすく育った。高校時代には打率4割を記録したカンセコだったが、1982年のドラフトで指名されたときの評価はアスレティックスからの15位というもので、さほど高いものではなかった。

カンセコが飛躍のきっかけを掴んだのは1984年の1Aモデストでのことで、この年は116試合に出場し、打率.276、15HR、73打点を記録した。そして、2Aハンツビルで開幕を迎えた翌1985年は、58試合で打率.318、25HR、80打点という桁違いの数字を残し、3Aタコマへ昇格。3Aでも60試合に出場し、打率.348、11HR、47打点を記録し、9月に入るとメジャーからお呼びがかかった。

メジャーデビューは代打としての出場で3球三振に終わってしまい、その後も24打席で12三振とメジャーの壁に苦しんだかに思えたが、終わってみれば29試合の出場で打率.302、5HR、13打点をマークする非凡さは、ただ者ではない恐ろしささえ感じさせた。この年はマイナーとメジャーで合わせて41本のホームランを放ったことになる。

満を持して迎えた1986年、シーズン途中で大きなスランプに苦しんだこともあり、打率こそ.240に終わるが、33HR、117打点と恐ろしいパワーを見せつけ、この年の新人王に輝いた。出場は出来なかったが初めてオールスターゲームのメンバーとしても選ばれた。ただ、157試合の出場で球団記録となる175三振という当たりにカンセコのイメージが定着しつつあった。

1987年も159試合に出場し、打率.257、31HR、113打点をマークし、2年目のジンクスというものを感じさせなかった。ちょうどこの年、チームメイトのマーク・マグワイアが49HRを放ち、新人王とホームラン王を同時に獲得したこともあり、カンセコとマグワイアで「バッシュブラザース」を結成し、相手から恐れられるようになったのはこの頃からである。

1988年、打率.307、42HR、124打点をマークしたカンセコはホームランと打点の2冠王に輝き、MVPに輝いた。特筆すべきは40盗塁も記録したため、メジャー史上初の「40−40」クラブ入りも果たしたことである。オールスターゲームではリーグナンバー1の票を集め、さらにチームも地区優勝を果たし、ワールドシリーズの舞台に立つこともできた。ドジャースとのワールドシリーズ第1戦では序盤にカンセコの満塁ホームランで勝ち越したアスレティックスだったが、最終回にクローザーのデニス・エカーズリーが打ち込まれサヨナラ負けすると、そのまま1勝4敗で敗れ去った。残念だったのがワールドシリーズでカンセコが記録したヒットというのは第1戦の満塁ホームランによる1本だけで、打率.053と大きなブレーキになったことだ。

在籍したチームは全てワールドシリーズへ出場している。3年連続で30HR、100打点をマークし、スターダムにのしあがったカンセコも、1989年は開幕前に左手を骨折し、復帰は7月までもつれ込んだ。復帰後、わずか65試合ながら17HRを記録したのはさすがというところか。2年連続でワールドシリーズへコマを進めたアスレティックスの相手はサンフランシスコ湾を挟んで本拠を構えるジャイアンツで、ベイエリア決戦と注目を浴びた。サンフランシスコ大地震の影響で、途中10日間の中止があったが、アスレティックスが4連勝で世界一に輝いた。カンセコも4試合で打率.357をマークし、前年の屈辱を晴らした。

1990年は途中で故障者リスト入りすることもあったが、37HR、101打点をマーク。チームも3年連続リーグ優勝を果たした。しかし、ワールドシリーズではレッズにまさかの4連敗。カンセコは全くの不振のため、途中でスタメンからはずされてしまう。なんと4試合でヒットはわずか1本であった。

1991年、怪我なく154試合に出場し、44HR、122打点をマークし、自身2度目のホームラン王に輝いた。MVP投票でもカル・リプケンセシル・フィルダーフランク・トーマスに次ぐ4位につけた。シーズン40HRはカンセコにとって2回目だが、伝統あるアスレティックスの球団史上、2回以上シーズン40HR以上を記録するのはジミー・フォックス(3回)以来の快挙である。

1992年はカンセコにとって信じられないことが起こった。8月31日の試合、打席に向かうカンセコが呼び止められ、告げられたのはレンジャーズへの移籍だった。あまりにも衝撃的なトレード通告にメジャーリーグ全体へ激震が響いたのはいうまでもない。そして翌1993年の5月29日のこと、大量リードされて負けている試合に志願してマウンドに立ち、1回を2安打3四球3失点と散々な結果に終わった。しかしそれよりも、この日の登板が元で右肘を痛めてしまい、残りのシーズンを棒に振ってしまった。一時は選手生命さえ危ぶまれるほどのひどさだった。

1994年、無事にフィールドに戻ってきたカンセコは、打率.282、31HR、90打点を挙げて復活の兆しを見せるがストライキに阻まれた。そしてシーズンオフにはレッドソックスへの移籍が決まってしまう。レッドソックスへ移籍した1995年、途中に約1ヶ月の故障者リスト入りはあったが、打率.306、24HR、81打点をマーク。オフにFAとなったカンセコはレッドソックスと再契約を交わした。

2002年のカンセコはどこでプレーすることになるのか。そろそろデビュー時のような輝きをもう一度見せたいカンセコだったが、1996年も2度の故障者リスト入りと怪我に泣いてしまう。オフに待っていたのは古巣アスレティックスへのトレードだった。1997年、再びマグワイアとのバッシュブラザーズ復活に周囲は沸いたが、7月末にマグワイアがカージナルスへ移籍することが決まった後、カンセコは怪我に苦しみ、8月以降はほとんど試合に出られなかった。オフにはFAとなり、ブルージェイズと契約した。

怪我ばかりで満足したシーズンを送れなかったが、1998年は151試合に出場し、打率.237ながら、46HR、107打点とカンセコの持ち味である長打力が存分に発揮され、復活を強く印象付けた。1999年はデビルレイズに移籍し、開幕から打棒爆発。4月半ばに通算400号HRを放ち、5月には5試合連続HRも記録。82試合を終えた時点で31HR、69打点を挙げ、前年にシーズン70HRをマークしたマグワイアに劣らぬ打棒を見せるが、腰を痛めてしまい椎間板ヘルニアの手術を受けることになり、惜しくも離脱。8月末には復帰するも勢いは収まっていた。

2000年は5月半ばから約2ヶ月も故障者リスト入り。8月に入りウェーバーにすくい上げられる形でヤンキースへ移籍。しかし、大した活躍は出来ずに終わった。カンセコにとって10年ぶりになるワールドシリーズの舞台も出場機会は代打による1打席のみであった(結果は三振)。

契約続行の意志がなくフリーとなったカンセコは、エンゼルスとマイナー契約を結び、開幕ロースターを目指した。主砲のモー・ボーンが怪我で1年間の離脱が決まったこともあり、カンセコに求められるのはホームランであった。しかし、オープン戦が始まってもホームランが出ないカンセコにエンゼルスから告げられたのは解雇通告であった。その後は独立リーグでプレーしながらメジャー復帰の道を探ることになる。そして、ホワイトソックスのトーマスが怪我をしたこともありホワイトソックスと契約を交わした。76試合の出場で打率.258、16HR、49打点という数字に終わった。

若い頃は映画「ナチュラル」の主人公ロイ・ホップスにイメージをだぶらせながら語られたカンセコ。そのカンセコもすでに38歳になった。多すぎる怪我がネックになっているが、壺に嵌ればまだまだ飛ばす力は持っている。問題は活躍する場所が与えられるかどうかだ。

■2002.3.11(現地3.10)
●先発候補ダミーコ、4球で降板!小宮山、好投で先発に名乗り!
ジェフ・ダミーコ
2002年からメッツの一員になり、先発の一角が予定されていたジェフ・ダミーコがブレーブス戦に先発したが、わずか4球を投げただけで右手首を痛めて降板。当初は3回を投げる予定だったが、わずか1人だけに投げて終わってしまった。メッツはこの試合と別でカージナルス戦も行ったが、そちらで先発した小宮山悟が4回を3安打1失点に抑える好投で、先発に名乗りを挙げた。

●アスレティックス、ヘルナンデスと4年契約!
Oakland ATHLETICS
アスレティックスは正捕手のラモン・ヘルナンデスと4年間9500万ドルで契約を交わした。若い選手が多いチームの中で、ティム・ハドソンマーク・マルダーエリック・チャベスらのように今後何年も主力として活躍しそうな選手達と長期契約を交わしている。ヘルナンデスはこの若い選手達で世界一になりたいと抱負を語った。

●ロイヤルズ、再起をかけたいロサドに解雇通告!
Kansas City ROYALS
ロイヤルズは怪我からの再起をかけていたホゼ・ロサドの解雇を決めた。ロサドは2000年4月30日を最後に左肩を痛めたこともあり、約2年間もマウンドに立てなかった。2002年の復活を目指し、スプリングトレーニングに参加したが、ストレートが130キロ台とロサド本来のピッチングとはほど遠かった。まだ27歳と若いロサドだけに、今後はどうなるのだろうか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.126
デビッド・ジャスティス★デビッド・ジャスティス #23★ オークランド・アスレティックス

2001年シーズン終了後、ヤンキースからメッツへ移籍したばかりのデビッド・ジャスティスは、メッツのユニフォームを着ないままにアスレティックスへの移籍が決まった。ジェイソン・ジオンビーという中心打者が抜けたばかりのアスレティックスにとって、ジャスティスの加入は吉と出るか凶と出るか。

勝負強さは天下一品だが、怪我が多いのが難点。大学時代に野球、バスケットボール、サッカーなどで活躍していたジャスティスは、1985年のドラフトでブレーブスから4位指名を受け入団を決めた。契約したこの年、ルーキーリーグで66試合に出場し、打率こそ.245ながら、リーグトップの10HRを放ち、プロとして最高のスタートを切った。翌1986年、1Aの2つのクラスでプレーし、合わせて3割近い打率を残し、さらに22HRを記録するパワーを見せた。

その後は怪我もあり、プロの壁にぶつかるような形で苦しんだが、随所にパワーのあるところを見せ、周囲の評価を高めていた。3Aで開幕を迎えた1989年は、ずっとライトを守ってきたジャスティスにファーストを守らせるなどメジャー昇格へ向けて本格的な動きが始まる。そんな中、5月末と9月最初の2回、メジャーからお呼びがかかり、ジャスティスはついに新しい舞台に踏み入れた。

新人王候補として期待されて迎えた1990年、打率.282、28HR、78打点と素晴らしい数字を残し、見事に新人王を獲得した。最初はファーストを守っていたが、8月に入り不振のデール・マーフィーをフィリーズへ放出すると、ジャスティスがマーフィーの代わりにライトに回った。本来のポジションに回ったことが幸いしたか、8月は3試合で5HRするなど、月間打率.301に加え、11HR、29打点をマークしている。

1991年は開幕から好調で2年目のジンクスは微塵も感じさせなかった。5月は打率.381、5HR、26打点という成績で月間MVPを獲得。6月末までにリーグトップの51打点を挙げていたが、背中の痛みがありそこから約2ヶ月の故障者リスト入り。8月末にジャスティスが戦線復帰すると、チームは31勝14敗という破竹の勢いで勝ち進み、前年の最下位からリーグ優勝し、ワールドシリーズへ進出。ツインズと7戦までもつれ込む激しい戦いを繰り広げるが、世界一の座を手にすることは出来なかった。

1992年もチームの主軸として、21HR、87打点という成績を残し、チームを2年連続でワールドシリーズへ導いた(しかし、ブルージェイズの前に敗れる)。開幕直後に故障者入りするアクシデントもあったが、メジャーデビュー以来3年連続20HR以上を記録する。これは球団史上、ボブ・ホーナー、マーフィーに続く3人目の快挙である。

在籍したチームは全てワールドシリーズへ出場している。1993年はジャスティスの持ち前の長打力が大きく花開いたシーズンとなった。打率.270、40HR、120打点というリーグを代表する成績で初めてのシルバースラッガー賞を獲得。MVP投票でもバリー・ボンズレニー・ダイクストラに次ぐ3位に付けた。翌1994年も、開幕から好調で、34試合連続出塁という球団記録も樹立。打率.313に加え、リーグ2位の69四球、リーグ4位の出塁率.427をマークしている。ただ、ストライキによる中断が残念だった。

1995年のジャスティスは、左肩の調子が悪く怪我に苦しんだ。わずか120試合の出場に終わり、打率.253、24HR、78打点と物足りない数字でシーズンを終えるが、ハイライトはポストシーズンの最後に待っていた。3年ぶりにワールドシリーズへコマを進めたブレーブス。3勝2敗と王手をかけて迎えた第6戦、ジャスティスは値千金のソロホームランを放ち、この1点をトム・グラビンマーク・ウォーラーズが完封リレーで守りきり世界一の名誉を手にした。チームはアトランタ移転後、初の世界一に輝いたことになる。

1996年、開幕から打率.321と好調をキープしていたジャスティスだったが、5月半ばに試合中に右肩を怪我してしまい、残りのシーズンを棒に振ってしまった。この年もチームはワールドシリーズへ進出するのだが、ジャスティスは打席に立つことすら出来ずに終わってしまう。そして怪我から再起をかけたい1997年の開幕直前にチームメイトのマーキス・グリッソムと共にインディアンズへの移籍が決まった。交換相手はケニー・ロフトンだった。

突然のアメリカンリーグへの移籍にとまどったジャスティスだったが、打率.329、33HR、101打点という成績で、自身2度目のシルバースラッガー賞にカムバック賞も受賞。肘と膝に故障を抱えていたため、指名打者としての出場も非常に目立った。翌1998年、146試合に出場するが、打率.280、21HR、88打点と持ち前の長打力は発揮されなかったが、通算1000本安打に、通算200HRを記録するなどジャスティスにとっては区切りの年になった。

1999年は前半戦こそ調子が良かったが、後半戦に入るとさっぱりの状態で左投手が出てくるとはずされることもあった。打率.287、21HR、88打点と期待された数字を下回っているジャスティスに移籍の噂が出始めるのもこの頃である。そして翌2000年の6月末に、外野手の補強を考えていたヤンキースへの移籍が決まり、ジャスティスはピンストライブに袖を通すことになった。

この年のジャスティスは移籍前のインディアンズで21HRを放っており、移籍後のヤンキースでも20HRを放ち、キャリアハイの41HRを記録したことになる。持ち前の勝負強さも随所に披露し、ヤンキース3連覇に貢献した。しかし、翌2001年は今まで通り怪我に苦しみ、111試合の出場に終わってしまった。打率.241、18HR、51打点という成績から放出が決まった。

数多くのタイトルを獲得しながらワールドシリーズの舞台を経験できずに引退せざるを得なかった大選手は多い。そんな中でジャスティスは、メジャーキャリアの中で在籍したチームがワールドシリーズへ進出するのは7度を数える(出場は6度)幸運に恵まれている。若い選手が多いアスレティックスにはうってつけの選手かもしれない。

余談だが、ジャスティスはオフシーズンになると空手に汗を流し、その他にも水泳、ゴルフ、バスケットボール、ビリヤードと趣味は多彩である。

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