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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.3.5〜3.10★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.3.10(現地3.9)
●カブスの新クローザー、ショウに白羽の矢!
ジェフ・ショウ
カブスは離脱が決まったトム・ゴードンに代わるクローザーとして、FAのジェフ・ショウに白羽の矢を立てた。35歳のショウは2001年ドジャースのクローザーとして3勝5敗43セーブを挙げている。まだまだクローザーとして活躍は可能であるが、高額年俸からドジャースはオプションを破棄した。希望はレッズで、レッズ以外なら引退の可能性も示唆したショウは、カブスの申し出に考え中のことである。

●エラートン、右肩手術で今季絶望!
スコット・エラートン
ロッキーズの先発投手として期待されていたスコット・エラートンが肩の手術で、2002年はマウンドに立てないかもしれない。2001年途中にアストロズからロッキーズへ移籍してきたエラートンだが、思いもよらぬ離脱である。まだ26歳のエラートンは、2000年に17勝7敗という好成績を残しており、かつてはロジャー・クレメンスとのトレード要員に名前が挙がるなど、その将来を嘱望されている投手の一人である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.125
ジム・トーミ★ジム・トーミ #25★ クリーブランド・インディアンズ

かつては大砲と呼ばれる選手が何人もいたインディアンズだが、緊縮財政というチーム方針から次々と主力選手を放出。その中で残された形になったのがジム・トーミである。6年以上30本以上のホームランを放ち、ここ6年で5度も100得点、100打点、100四球を1シーズンで記録している頼りになる大砲である。

インディアンズに残された大砲、トーミ。高校時代は野球の他にもバスケットボールでも名を馳せていた。そして、1989年のドラフトでインディアンズから13位指名を受けてプロ入り。1990年は1Aバーリントンで34試合の出場ながら、打率.373、12HR、34打点という素晴らしい成績を残し、上のランクの1Aキンストンに昇格し、ここでも打率.308をマーク。順調そうなトーミを苦しめたのは怪我との戦いであり、この年は残りの半分を試合に出られずに過ごすことになる。

1991年は2Aでカントンで開幕を迎え、84試合に出場し、打率.337、5HR、45打点をマークし、3Aコロラドスプリングに昇格。3Aで打率.285という数字を残したトーミは、登録選手枠が広がる9月に初めてのメジャー昇格を果たした。デビュー戦で4打数2安打と大当たりしたトーミのメジャー初ホームランは、対ヤンキース戦のことあり、ヤンキースタジアムの上段に運ぶ特大の当たりだった。

更なる飛躍が求められた1992年は、開幕前から右手首を痛めてしまい、故障者リストで開幕を迎えてしまう最悪の結果になってしまった。5月半ばに戦線復帰したはずが、次は右肩を痛めてしまい再び故障者リスト入り。この年は怪我に泣いたシーズンとして終わってしまうかと思われたが、最後に3Aのポストシーズンで12試合に出場し、打率.313、14打点をマークした。

再起をかけた1993年、3Aで開幕を迎えたトーミは、115試合に出場し、打率.332、25HR、102打点をマーク。ホームランこそリーグ3位だったが、首位打者と打点王のタイトルを獲得し、あわや三冠王という大活躍だった。こうしてシーズン終盤に晴れてメジャー昇格。47試合の出場で、打率.266、7HR、22打点という成績を残した。

1994年は初めてメジャーでフルシーズンを過ごしたが、奇しくもストライキによる短縮シーズンだったこともあり、98試合の出場に留まったが、打率.268、20HR、52打点を記録。20HRというのは、サードを守る選手としてはこの年のリーグ最高である。長打力を見せたトーミの課題は、右投手を.304と打ち込んでいるのに対し、左投手には.167と抑えられている点である。

1995年、チームは地区優勝を飾る中で、トーミは打率.314、25HR、73打点をマークした。リーグ5位の97四球もあり、リーグ3位の出塁率.438を記録した。1954年以来のワールドシリーズ進出を決めたインディアンズだったが、惜しくもブレーブスの前に敗れ、世界一になることは出来なかったが、ポストシーズン14試合で、トーミは打率.213ながら、4HRを放ち、さらにチームトップの10打点を記録し、大舞台での勝負強さも見せた。

若いインディアンズを引っ張る。1996年は過去最高の151試合に出場し、打率.311、38HR、116打点を挙げ、シルバースラッガー賞を受賞した。サードを守る選手として打率3割、30HR、100打点を記録したのはリーグ史上、1985年のジョージ・ブレット以来の快挙である。リーグを代表するスラッガーにのしあがったトーミは、球団新記録となる123四球もマークした。

1997年はマット・ウイリアムスを獲得したこともあり、トーミがファーストへコンバートすることになった。その影響もあってか、大台の40HRも記録。ファーストの守備でもリーグ6位となる守備率.993をマークしている。さらに初めて、オールスターゲームにも出場を果たすことになる(結果は代打で凡退)。また、この年は自身2度目のワールドシリーズを経験するが、第7戦までもつれる熱戦の末、マーリンズの前に敗れてしまう。

1998年、5月末からキャリアハイの16試合連続ヒットを記録したりしたが、夏場に手を痛めたことから約1ヶ月の離脱を経験。その中で打率.293、30HR、85打点をマークした。地区優勝を果たしたインディアンズはリーグチャンピオンシップシリーズでヤンキースと対戦し、このシリーズでトーミは打率.304、4HR、8打点を記録したものの、惜しくも2年連続のワールドシリーズ進出はならなかった。

1999年は、33HR、108打点を挙げ、左打者として球団史上初の3年連続の30HRという快挙を達成。しかし、127四球に171三振というのは共にリーグトップの記録。四球と三振がリーグトップなのは、1958年のミッキー・マントル以来のことである。ポストシーズンではレッドソックスとのディビジョンシリーズにおいて、2連勝3連敗で敗れ去るのだが、トーミは打率.353、4HR、10打点を記録した。

2000年はチームに怪我人が出たこともあり、地区2位に終わり、連続地区優勝は5年でストップした。トーミはファーストと指名打者で合わせて158試合に出場し、打率.269、37HR、106打点を挙げる。

2001年、開幕3週間で打率.125と絶不調に苦しんだが、4月21日のタイガース戦で逆転サヨナラ2ランホームランを放ち、きっかけを掴んだ。初めてのホームラン王のタイトルも充分に視野に捕らえていたが、結局リーグ2位の49HRに終わってしまう。チームは2年ぶりに地区優勝を飾ったが、ディビジョンシリーズでマリナーズに敗れてしまう。トーミは打率.158で大きなブレーキになった。

トーミは世界一こそ経験していないがポストシーズンに縁のある恵まれた選手である。ポストシーズンで放ったホームラン数はマントル、レジー・ジャクソンの18本に次ぐ、史上2位の17本を数えている。今後、この数字をどれだけ伸ばせるかはチーム次第である。

■2002.3.9(現地3.8)
●ドジャース石井、2回1安打無失点の4奪三振でデビューを飾る!
見事なピッチングを披露した石井。
2001年のイチローに続きポスティングシステムでドジャース入りした石井一久が、初めてメジャーリーガーとしてブレーブス戦のマウンドに立った。初回、フリオ・フランコにヒットを1本打たれるが、2回を投げ、4つの三振を奪う無四球という最高の内容でマウンドを降りた。

石井の好投に応えるように打線もブレーブス先発のトム・グラビンを攻略した。石井自身もこの日のマウンドは非常に興奮した、と語っている。

●コスキー、左手首を痛めて全治10日から14日!
コーリー・コスキー
ツインズのサードを守るコーリー・コスキーが左手を痛め、全治10日から14日と診断された。チームも開幕に間に合わせるように、コスキーを休ませる方向で考えている。コスキーは2001年、153試合に出場し、打率.276、26HR、103打点を記録している。103打点はチームトップである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.124
グレッグ・ボーン★グレッグ・ボーン #23★ タンパベイ・デビルレイズ

若い選手が多いデビルレイズの中で中心選手としての働きが求められるグレッグ・ボーン。ここ数年は怪我に悩まされているが、このボーンの働き次第ではアメリカンリーグ東地区に大旋風を巻き起こすことになるかもしれない。言うまでもなくメッツ入りしたモー・ボーンとは従兄弟である。

苦しいチームを引っ張るリーダーシップが求められる。カリフォルニア州で生まれたボーンは、地元のチームであるジャイアンツのボビー・ボンズバリー・ボンズの父)、ウイリー・マッコビーに憧れて野球を始めた。フットボールとの掛け持ちをしていたボーンは1986年のドラフトでブリュワーズに1位指名されプロ入りを決めた。1987年、1Aベロイトで33HRを放ち、ホームラン王に輝くと、翌1988年は2Aエルパソでホームランと打点の2冠王(28HR、105打点)に輝く。そして、3Aデンバーで開幕を迎えた1989年も26HR、92打点で2冠王に輝くと、この年の8月にはメジャー昇格を果たした。

順調にマイナーの階段を昇ったボーンだったが、メジャー昇格後はレフトの定位置こそ確保するが、なかなか数字は残せずに打率は2割前半に留まっていた。1993年に打率.267、30HR、97打点と一つの壁を乗り越えたかに思えたが、翌1994年は開幕直後の怪我に悩まされた。

こうして迎えた1996年、トレード期限ギリギリの7月31日にパドレスへの移籍が決まった。この年はそれまでブリュワーズで102試合に出場し、打率.280、31HR、95打点を記録していたが、パドレスへの移籍後は初めてのナショナルリーグの投手に苦しみ、43試合の出場で、打率.206、10HR、22打点という記録にとどまった。

こうして迎えた1997年は、レフトにリッキー・ヘンダーソンがいたため、代打役に回っていた。代打で400万ドルを取るボーンをどうにかしようと、オールスター前にヤンキースとの間で移籍話が持ち上がった。交換相手はケニー・ロジャースマリアーノ・ダンカンというかなり具体的なところまで進んだが、メディカルチェックで右肩に故障が見つかり、ご破算となった。ヤンキースのオーナーであるジョージ・スタインブレナーから「ボーンの肩は手術で使いものにならない」と言う言葉まで吐きかけられ、ボーンは大きくプライドを踏みにじられた。

オールスター後も代打役が続いたが、わずかなチャンスを生かそうとボーンは必死になった。そのうちにヘンダーソンがエンゼルスへ移籍することになり、ようやくレギュラーの座を手にすることになる。この年のボーンは120試合の出場で、打率.216、18HR、57打点という数字に終わった。

怪我なくフルシーズンプレーすることが最初の課題。1998年に入るとボーンは開幕から好調をキープ。チームとしてはケン・カミニティが怪我で戦線離脱するということもあったが、トニー・グウィンウォーリー・ジョイナーらとともにチームを引っ張った。この年はマーク・マグワイアサミー・ソーサのホームラン協奏曲に沸いたが、ボーンも負けてはいなかった。しかし、49号HRの後は2週間近くもホームランが出ずに苦しんだが、最終戦にようやく50号を放つことが出来た。

この年はチームもリーグ優勝を飾り、初めてワールドシリーズの舞台に立つことが出来た。ヤンキースとのワールドシリーズ第1戦には2本のホームランを放ったものの、投手陣がこのリードを守れず逆転負けしてしまう。このまま4連敗でシリーズを終えてしまったわけだが、ボーンがこのシリーズで放ったヒットは第1戦の2本のホームランのみであった。

1999年は開幕前に交換トレードでレッズに移ることになった。そして、153試合に出場し、打率こそ.245ながら、45HR、118打点をマーク。レッズの選手として、45HR、100打点を同時に達成するというのは1977年のジョージ・フォスター以来の快挙であった。この年はシーズン最後のメッツとの1ゲームプレーオフに敗れ、ポストシーズンに進出することが出来なかった。そして、オフにFA宣言し、デビルレイズと契約を結んだ。

デビルレイズに移籍して1年目の2000年は、開幕直前に通算2000本安打を達成し、通算ホームランも300本の大台に乗せた。ボーンの他にフレッド・マグリフホゼ・カンセコビニー・キャスティーヤなどを揃え、周囲も期待して迎えたシーズンも怪我人続出でチームは開幕から低空飛行。ボーンも6月末に故障者リスト入りし、この年は127試合に出場に留まり、打率.254、28HR、74打点に終わってしまった。

2001年も怪我に悩まされ、打率.233、24HR、82打点に終わってしまった。しかし、通算ホームラン数も現役選手の中では13位に位置する344本を放っている。2002年もチームにとっては苦しいシーズンになることが予想されるが、デビルレイズ打線を背負っていくのはこのボーンとベン・グリーブであることは間違いない。1998年のきらめきをもう一度。

■2002.3.8(現地3.7)
●40歳ガララーガ、古巣エクスポズと1年契約!
アンドレス・ガララーガ
FAになっていたアンドレス・ガララーガは、自らのメジャーキャリアの出発点であるエクスポズと1年契約を交わした。すでに40歳となるガララーガだが、レギュラーは約束されているわけではなく、リー・スティーブンスとファーストの座を争うことになる。ガララーガの通算記録は打率.289、377HR、1342打点であり、2001年はレンジャーズとジャイアンツでプレーした。

●ゴードン、右肩手術へ!カブスは代わりのクローザー探し!
トム・ゴードン
カブスのクローザーが予定されていたトム・ゴードンだったが、右肩の状態がわるく手術をすることになりそうだ。しかも、その後復活できるかどうかもわからない状況である。カブスとしては代わりのクローザーとして、25歳のカイル・ファーンズワースか、39歳のジェフ・ファセロを起用する形になる。また、先発が予定されていたフリアン・タバレスをブルペンに戻す案も浮上している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.123
ラファエル・パルメイロ★ラファエル・パルメイロ #25★ テキサス・レンジャーズ

37歳という年齢でありながら、2001年のラファエル・パルメイロは47HR、123打点という打撃を披露。現在、7年連続38HR以上というのは、ベーブ・ルースに並ぶ偉大な記録であり、通算ホームラン数は447本を数えている。レンジャーズの若い選手と共に、未だ手にしていないワールドチャンピオンリングを手に入れるため、パルメイロはプレーし続ける。

2002年レンジャーズの鍵を握ると言っても過言ではない。キューバの首都ハバナで生まれたパルメイロは幼き日にフロリダへ亡命した。高校時代にMVPを獲得するほどの活躍を見せ、メッツから8位指名を受けるがこれを拒否して、大学へ進学。大学時代にはリーグ初の三冠王を獲得するなどの大活躍を見せ、カブスから1位指名(全米22番目)を受けてプロ入り。大学時代のチームメイトにはウィル・クラークボビー・シグペンジェフ・ブラントリーらがいた。

契約したその年、1Aピオリアで打率.297をマーク。翌1986年は2Aピッツフィールドで140試合に出場し、打率.306、12HR、95打点という成績を残し、最多安打(156安打)と打点王のタイトルを獲得した。9月に入り、メジャーの登録枠が広がるとパルメイロはメジャーに昇格を果たし、22試合に出場している。1987年は3Aアイオワで開幕を迎えるが、メジャーに昇格すると、それまで外野しか守ってこなかったパルメイロはファーストも兼用して守るようになった。

1988年はメジャーでフルシーズンを過ごし、152試合の出場で、打率.307、8HR、53打点という成績を残すがシーズン終了後にレンジャーズへの移籍が決まった。移籍後は正式にファーストにコンバートすることになった。移籍1年目の1989年は、開幕からは好調で5月末までは打率.361と打ちまくるが、その後は息切れしたような形で終わってしまう(シーズン打率.275)。

1990年はリーグトップの191安打を放ち、リーグ3位となる打率.319をマーク。1試合で4安打以上記録した試合が6試合を数えるなど、高い打撃能力を見せた。1991年は首位打者争いのトップに立つなどし、初めてのオールスター出場の名誉も手にした(1打数無安打1四球)。結局、リーグ7位の打率.322に終わるが、この年放った49本の2塁打はリーグ最多である。

1992年こそ、打率.268と前年までと比べて大きく落としたが、翌1993年はパルメイロの長打力が大きく花開くことになる。打率.295、37HR、105打点という長打力を見せつけ、さらにリーグトップの124得点を記録。2塁打も40本を数え、盗塁数もキャリア最多の22個をマークした。シーズンで40本の2塁打、30本のホームラン、20個の盗塁による「40−30−20」を記録したのはメジャー史上6人目の快挙で、過去に達成しているのはチャック・クレインウイリー・メイズハンク・アーロンハワード・ジョンソンジョー・カーターという蒼々たるメンバーが揃う。

そして、オフにFA宣言を行ったパルメイロだが、同時にFAとなっていた大学時代のチームメイトのクラークがレンジャーズと先に契約。同じファーストのクラークとの契約にパルメイロは激高し、オリオールズとの契約を決めた。オリオールズへ移籍した1994年は、開幕直後に24試合連続ヒットなどを記録するが、ストライキによる短縮シーズンになったこともあり、打率.319、23HR、76打点に終わった。翌1995年は前半戦から好調で、打率.310、39HR、104打点をマーク。実力のある選手ということは誰もが認めるが、オールスターには選出されず、タイトルも無縁と非常に地味な存在であった。

7年連続35HR、100打点以上は立派の一言。1996年、球団タイ記録の1試合5安打に加え、通算1500安打を記録。パルメイロは打率.289、39HR、142打点(球団史上2位の記録)をマークし、チームをワイルドカードによるポストシーズン進出に貢献。初めてのポストシーズンではリーグチャンピオンシップシリーズまで勝ち進むが、パルメイロ自身は計9試合で打率.206(34打数7安打)をマークするにとどまった。翌1997年、思いも寄らぬスランプに陥ったこともあり打率は.254と落とすが、38HR、110打点でチームの地区優勝へ貢献。ワールドシリーズ進出はならなかったが、守備面の評価が認められ、初めてのゴールドグラブ賞を受賞した。

1998年はオリオールズとの契約最終年ということもあり常に移籍候補に挙がったが、結局フルシーズン、オリオールズのユニフォームを着ることになった。優勝候補に挙がっていたが、選手の高齢化も影響してか周囲の期待を裏切る結果に。その中でパルメイロは打率.296、43HR、121打点をマークし、オフには2度目のFA宣言を行った。そして、古巣のレンジャーズから声がかかり契約。一方、クラークも同じFAという立場で、パルメイロと交換という形になった。

移籍出戻り1年目の1999年は、ケン・グリフィーとホームラン王争いを演じる素晴らしい活躍を見せる。惜しくもタイトルには1本届かなかったが、打率.324、47HR、148打点はいずれもキャリアハイの数字である。ほとんどが指名打者での出場で、指名打者としてのシルバースラッガー賞を受賞する一方、なぜか守備力が認められ、ファーストとして3年連続のゴールドグラブ賞を獲得した(ファーストとしては28試合しか出場していない)。

2000年も、打率.288、39HR、120打点と、チームの主軸として充分な数字を残したパルメイロ。2001年はチームがアレックス・ロドリゲスケン・カミニティアンドレス・ガララーガらと契約し、期待を持って臨んだが、チームは序盤から失速。その中でパルメイロは打率.273、47HR、123打点をマークした。

これまで1度も故障者リストに入ったことがないパルメイロ。1990年代(1990〜99年)の間で最も多くの試合(1526試合)に出場し、メジャー史上2位となる1747安打を記録している。地味ではあるが、非常に頼りになる選手で、残した実績はバリー・ボンズフランク・トーマスらと比べても決して遜色がない。将来的には殿堂入りも充分に可能な選手といえる。

■2002.3.7(現地3.6)
●アロマー、古巣との対戦!GMシャピロには怒りも!
ロベルト・アロマー
メッツの一員になったばかりのロベルト・アロマーが、古巣のインディアンズと対戦した。試合は3対4でメッツが敗れており、アロマー自身は2打数無安打に終わっている。アロマーはかつてのチームメイトと懐かしく話し合う場面もあったが、その一方でインディアンズのGMマーク・シャピロに対しては「裏切られた」とも話している。この2チームの対戦は、6月7日からのインターリーグ3連戦という形で戦うことになる。

●ジョンソン、左手親指を痛める!本人は「10日で大丈夫」と・・・!
チャールズ・ジョンソン
マーリンズの正捕手、チャールズ・ジョンソンが左手親指を痛めてしまった。2日前のエクスポズ戦、3対3で迎えた延長10回に代打として打席に立ったジョンソンがショートゴロを放ち、ファーストへ駆け込む際、相手のファーストのジョー・ビティエロと接触してしまい痛めてしまった。ジョンソン自身は10日もあれば直ると言っているが、チームの要であるため慎重論も出ている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.122
サミー・ソーサ★サミー・ソーサ #21★ シカゴ・カブス

シーズン60HRを3度も記録しているのは、メジャーリーグ史上でサミー・ソーサしかいない。しかし、60HRを記録した年はいずれもホームランキングにはなれず、2000年にシーズン50HRを記録したときのみそのタイトルを手にしている。年齢的にも、その打つペースにしてもハンク・アーロンの歴代ホームラン記録(755本)を抜く可能性が一番高い選手であることは間違いない。

すでに通算ホームラン数は450本を数えるソーサ。ドミニカ共和国に生まれたソーサは、7歳の頃に父親を亡くしたこともあり、子供の頃から靴磨きなどをして生計の足しになるよう働いていた。そんなソーサが何もかも忘れて熱中できる時というのが野球をしている時だった。夢はもちろんメジャーリーグでプレーすること。そして、16歳の頃にレンジャーズと契約を結び、その夢へのスタートラインに立った。着実にマイナーの階段を昇っていくソーサだが、スピード感溢れるプレーは見せるが、打撃は大振りが目立ち荒っぽかった。1989年には1Aシャーロットで打率.229ながら、42盗塁を記録し、リーグトップの3塁打12本をマークしている。

そして、1989年は2Aタルサで開幕を迎える。66試合に出場し、打率.297、7HR、31打点を記録していたソーサが、6月16日に突如メジャーへの昇格を果たす。デビュー戦(対ヤンキース戦)で4打数2安打を記録したソーサは、6月21日のレッドソックス戦でロジャー・クレメンスからメジャー初ホームランを放った。

華々しくデビューしたものの、その後は不振に悩まされ3Aへ降格。そして、7月29日にハロルド・ベインズらとの交換でホワイトソックスへの移籍が決まった。当時のレンジャーズのGMは現アメリカ大統領のジョージ・ブッシュが務めていたのだが、このソーサの放出を後々まで悔いることになるとはこの時は思わなかった。ホワイトソックス傘下の3Aバンクーバーで結果を残したソーサは8月末にはメジャー昇格。復帰第1戦でホームラン1本含む3打数3安打2打点と大当たりした。こうしてシカゴでのソーサのメジャー伝説が始まりを告げた。

1990年は初めてメジャーでフルシーズンを経験。153試合の出場で打率こそ.233だったが、2塁打(26本)、3塁打(10本)、ホームラン(15本)、打点(70点)、盗塁(32個)のいずれもが2桁を記録するリーグ唯一の選手となった。しかし、翌1991年は開幕戦で2本のホームランを放ったものの、シーズン通して不振に苦しみ、途中にはマイナー落ちも経験。結局、わずか116試合の出場で打率は.203にまで落ち込んだ。

1992年からは同じシカゴを本拠とするカブスへ移籍。7月に入ってからは死球が元で故障者リスト入りも経験。戦線復帰後の9試合で打率.385、3HRと大当たりを見せ、怪我に強いところをしっかりアピールしたのだが10試合目に自打球を左膝にぶつけてしまい再び故障者リスト入り。ソーサのこの年のシーズンはこのまま終わってしまった。

かつては「30−30」を2度も達成している。怪我から復帰した1993年はソーサ持ち味のスピードとパワーが充分発揮されたと言える。159試合に出場し、33HRに36盗塁で球団史上初めての「30−30」クラブ入りも果たした。その他にも9打数連続ヒット(球団新記録)や、1試合4盗塁(球団タイ記録)なども記録している。翌1994年はストライキで短縮シーズンとなったが、その中でソーサは打率3割、25HR、70打点を記録し、チーム内での三冠王に輝いた。ストライキ明けの1995年は全試合(144試合)に出場し、打率.268、36HR、119打点、34盗塁で2度目の「30−30」クラブ入りも果たすなど、着実にキャリアを積み重ねていた。

1996年はひとつの死球が運命を分けた。8月末に受けた死球が元で骨折し、38試合を残した段階でシーズン終了となってしまう。この時点で124試合の出場ながら、40HR、100打点をマークしており、もし仮にフルシーズンプレーが出来たのなら、50HR以上は確実に打っていたと言える。またこの年は5月半ばに球団史上初の1イニング2ホームランも記録するなど、荒っぽかった長打力にさらに磨きが掛かった1年ともいえる。

1997年、162試合全試合に出場し(1試合だけ途中出場)、打率.251、36HR、119打点をマークしている。メジャー通算1000本安打に、通算200HRと区切りの記録を達成したソーサだったが、リーグトップの174三振という不名誉な記録を打ち立ててしまう。しかし、これも全て翌年以降に巻き起こる、大きな嵐の前の前触れだということにこの時は誰も気づいていなかった。

1998年開幕前には、1961年のロジャー・マリスが記録したシーズン61HRという記録を誰が破るかが大きな話題になっていた。大本命のマーク・マグワイアは開幕4試合4連発と華々しく打ち放つのに対し、ソーサは静かに開幕を迎えた。5月が終わった段階で、既に27本を打っていたマグワイアの対抗馬としてソーサの名前が挙がってきたのは、6月に入ってからのことである。5月末からのホームランが出始めたソーサは、6月の月間ホームラン20本というメジャー新記録を作り、マグワイアを射程距離にとらえた。2人の打ち合いはシーズン終了まで大いにメジャーリーグを盛り上げた。そして、マグワイア70HR、ソーサ66HRでシーズンは終了した。

打った後のお決まりのポーズ。この年のソーサはホームラン王のタイトルこそ獲得できなかったが、158打点で打点王に輝いた。さらにワイルドカードでチームをポストシーズンに導いたソーサは、MVP投票で1位票を32標中30票も集め、初めてのMVPも受賞するなど、一気にスターダムにのしあがった素晴らしいシーズンになった。

1999年もマグワイアとソーサの協奏曲は続いた。マグワイア65HR、ソーサ63HRと2年続けてタイトルは譲るが、この年制定されたばかりのハンクアーロン賞を受賞している。多くの注目を浴びていたソーサは、8月が終わった段階で55HRを記録。途中でスランプに陥り、記録更新はならなかったが、すでに故郷ドミニカ共和国のみならず、スーパースターとして認知された。ソーサが尊敬してやまないロベルト・クレメンテの意志を引き継ぐような形で、チャリティーにはドンドン力を入れた。

2000年はマグワイアが怪我で離脱したことも原因か、シーズン50HRに留まったが、ついに初のホームラン王のタイトルを獲得した。すでにスラッガーとして名を馳せていたソーサに、新監督のドン・ベイラーは盗塁数のアップを求めるが、それに対し不服を唱えたこともあった。更にこの年はオールスター前日のホームラン競争で優勝も果たしている。

そして、2001年は再び64HRと大台を突破。しかし、バリー・ボンズが73HRととんでもない記録を打ち立ててしまったため、タイトルには手が届かなかった。しかし、160打点で2度目の打点王を獲得し、MVP投票ではボンズに次ぐ2位につけた。打率もキャリア最高の.328をマークし、チームを引っ張る原動力になった。ソーサとの契約も延長が決まり、残りのメジャー人生をカブスに捧げることを決めた。

すでに数々の輝かしい記録を打ち立てているソーサ。しかし、近い将来にそれらを凌ぐとんでもない記録を打ち立てるのでは、という期待感も抱かせる。何年か経った頃、今のソーサは単なるプロローグに過ぎなかった、と言われる日が来ることになるのかもしれない。

■2002.3.6(現地3.5)
●レッドソックス、デュケットGM更迭に続き、ケリガン監督を解雇!
Boston RED SOX
レッドソックスはダン・デュケットGMの更迭に続き、ジョー・ケリガン監督の解雇も決めた。8月半ばに更迭されたジミー・ウイリアムスに代わり、ピッチングコーチから昇格した形のケリガンだったが、今後再びピッチングコーチに戻るかもしれない。後任の監督としては、3塁コーチを務めていたマーク・カバッジの昇格も発表された。その他の候補としてはインディアンズのベンチコーチであるグラディ・リトル、アスレティックスのケン・モッカらが挙がっていた。

●未来のスター選手ヘンソン、フットボールに未練なし!
New York YANKEES
近い将来、ヤンキースのサードを守ると期待されているドリュー・ヘンソンだが、もうフットボールへの未練はないと語った。野球とフットボールで高い才能を見せていたヘンソンを1998年のドラフトでヤンキースが指名。一時はレッズ傘下へ放出するが、その高い才能からヤンキースが取り返し、メジャーでプレーしていない段階で6年間1700万ドルを提示して契約した経緯があった。この時点でフットボールからは足を洗ったヘンソンだったが、あきらめられないフットボールファンに改めて語ったというわけである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.121
トッド・ヘルトン★トッド・ヘルトン #17★ コロラド・ロッキーズ

<written by hiroki>

ナリーグにおいて、打率と得点が共にナンバー1を誇るロッキーズ打線。この打線をラリー・ウォーカーと共に引っ張っているのがトッド・ヘルトンである。レギュラーに定着した1998年から4年連続で打率3割を記録し、ホームランも年々増えている。これといった欠点もなく頼れる4番打者として活躍中である。

打率4割に近い男として挙げられるヘルトン。テネシー州で生まれたヘルトンは高校卒業時にパドレスから2位指名を受けるが、地元の大学へ進学の道を選んだ。大学進学後はファーストを守る一方で、時にはマウンドに上がることもあった。大学3年時には打っては打率.407、20HR、92打点をマーク、投げては8勝2敗12セーブ、防御率1.66と素晴らしい才能を発揮。そして、1995年のドラフトでロッキーズから1位指名(全米8番目)を受けて晴れてプロ入りする。

指名されたその年は1Aでわずか54試合の出場で、打率.254、1HR、15打点と苦しんだが、翌1996年は2Aと3Aの2つのクラスで共に3割半ばの打率を残す。しかし、当時のヘルトンの評価は、「センスはあるが、ファーストを守る選手としてはパワー不足」であった。3Aで開幕を迎えた1997年、打率.352、16HR、88打点という数字を残し、7月末にはメジャーからお呼びがかかった。8月2日のパイレーツ戦において5番レフトで先発したのがヘルトンのメジャーデビューであったが、このデビュー戦でホームラン1本含む4打数2安打を記録する。そして、ヘルトンは翌日の試合でもホームランを放ち、前年の「パワー不足」という評価を覆す。

ロッキーズにはアンドレス・ガララーガという不動のファーストがいたが、この年のオフ、ガララーガとのオプションを破棄し、ヘルトンをファーストとして起用することを決める。チームとしては大きな賭けとなった1998年だったが、その中でヘルトンは152試合に出場し、打率.315、25HR、97打点を記録し、チームの期待に見事に応えた。翌1999年も打率.320、35HR、113打点という記録を残し、2年目のジンクスたるものは全く感じさせなかった。強いて言えば、本拠地クアーズフィールドで残す打率に比べて、敵地での打率が低いことだったが、当時25歳だったヘルトンにとって課題の克服は時間の問題と思われた。

そして、2000年はヘルトンにとって大きな飛躍の年になった。アリーグではノマー・ガルシアパーラ、ナリーグではヘルトンが驚異的な打率を保ち、テッド・ウィリアムス以来の4割かと騒がれる。結局、.372でシーズンを終えたが、打率と打点という2つのタイトルも獲得した。ホームランと打点の両立はよくあることだが、首位打者と他のタイトルを取ったのは、『最後の三冠王』カール・ヤストレムスキー(1967年)の三冠達成以来の快挙である。1998年、1999年にも打率は3割を超えていたのだが、「球場のおかげ」とあまり注目されなかったのも事実であった。しかし、2000年は敵地での打撃成績も上がり、実力を証明した。

史上初の2年連続100長打をマークしたヘルトン。2001年のロッキーズはマイク・ハンプトンダニー・ネーグルらの加入などで、開幕前の予想では優勝も狙えると周囲の評価が良かったのだが、早々と脱落し気がつけば最下位に転落していた。来季に向けてのトレードを考えだした球団に対し、ヘルトンが不満をもらす場面も見られた。しかし、チームの低迷とは関係なくウォーカーとヘルトンは好成績を残した。この年は首位打者こそウォーカーに譲ったが、メジャー史上初の2年連続100長打を達成している。

打撃ばかりでなく、守備も年々うまくなっている。オールスターにもファン投票で選出され、一番最初の守備機会でイチローの打球に飛びつき、長打を阻止した。2001年には、ジャイアンツのJT・スノーの怪我もあり、ゴールドグラブ賞を初受賞。もはや、ヘルトンに足りないのはチャンピオンリングだけではないだろうか。コロラドのファンは熱心で成績は上がらなくても球場にやってくる。そんなファンの期待に2002年こそ応えることができるだろうか。

ちなみに打者天国と呼ばれているロッキーズの本拠地、クアーズフィールドは高地に位置するため、平地よりも気圧が低く、結果としてボールが軽く、遠くへ飛びやすいのだ。この球場でノーヒットノーランを達成したのは野茂英雄だけで、1安打完封した投手も他に見あたらない。これはロッキーズのチーム成績にも表れており、2001年のチーム打率はメジャー全球団でトップだが、チーム防御率はリーグ最下位である。ロッキーズには投手が打たれても、それを倍に打ち返す野球を期待したい。

■2002.3.5(現地3.4)
●ストットルマイヤー、復活のマウンド!ジョンソン、2回5奪三振!
トッド・ストットルマイヤー
2001年の世界一チームであるダイヤモンドバックスだが、ブリュワーズ戦において先発のランディ・ジョンソンが2回を投げ5つの三振を奪い、さらにルイス・ゴンザレスのホームランなどが飛び出し、4対2と快勝したが、一番の収穫はトッド・ストットルマイヤーの復活である。実に2000年9月21日以来のマウンドになったストットルマイヤーは2回を投げ、3安打2失点、2奪三振に1四球1死球という数字を残している。36歳のストットルマイヤーは肘、ヘルニア、膝の手術を乗り越えての復活で、42球を投げ、最速は149キロをマークした。

●期待されていたエスコバル、左膝手術で離脱が決定!
Cleveland INDIANS
インディアンズがロベルト・アロマーと交換で獲得した若手のアレックス・エスコバルが試合中に左膝を痛め、そのまま手術することが決まった。メッツ時代には将来の大器と期待されながら、怪我もありなかなか実力を発揮できずインディアンズ入りとなった23歳のエスコバル。移籍が転機となるかとチームも期待していたが、シーズン開幕1ヶ月前に早くも離脱が決まってしまった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.120
キース・フォーク★キース・フォーク #29★ シカゴ・ホワイトソックス

チェンジアップに特徴のある投手で、リーグ内での5本指に入るクローザーであることは間違いのないホワイトソックスのキース・フォーク。2002年はチームが優勝候補に挙げられていることから、フォークの安定したピッチングがポストシーズンで見られるかもしれない。

一旦止まったかのように見えるチェンジアップがウイニングショット。1994年、ジャイアンツにドラフト4位指名されたフォーク。この年、1Aエバレットで4試合に登板し、2勝をマークしている。1995年は1Aサンノゼで、28試合に先発し、13勝6敗、防御率3.50、168奪三振と素晴らしい成績をマークし、将来のメジャーでの先発ローテーション投手として周囲の期待は高まるばかりだった。翌1996年は2Aシェリーブポートで、27試合に先発して、12勝7敗をマーク。防御率はリーグトップの2.76で、投球回数もリーグトップの182回2/3だった。

1997年、3Aフェニックスで開幕を迎えるものの、5月21日にメジャーへ初昇格。6月9日のマーリンズ戦では先発して、6回1/3を3安打1失点に抑え、さらに8奪三振を奪う好投で初勝利をマークするが、その後は勝てない日々が続き、一時はマイナーへ再降格もした。そんなフォークにトレード期限ギリギリの7月31日に若手選手による6対3の大型トレードでホワイトソックスへ移籍することが決まった。

ホワイトソックス傘下の3Aナッシュビルで1試合だけ投げた後、ホワイトソックスへ昇格。先発ではなく中継ぎとしての登板が続き、8月18日のマリナーズ戦で4イニングを無失点に抑えるロングリリーフでメジャー初セーブをマークした。結局、ホワイトソックスの選手としては16試合に投げ、3勝0敗3セーブをマークして終わった。

1998年からはホワイトソックスのセットアッパーとして安定感のあるピッチングを披露した。肩を痛めたことから8月末に故障者リストに入り手術に踏み切るが、シーズン通してチーム内で2番目に多い54試合の登板が光る。特に開幕直後の4月は10試合に登板し、わずか1失点しか許さない(防御率0.77)素晴らしい内容。またオールスター後は18試合の登板で2勝1敗の防御率2.45という数字を残している。

ホワイトソックスに現れた絶対的な守護神フォーク。1999年、前年の手術の影響を全く見せない好投で、67試合に登板し、3勝3敗9セーブ、防御率2.22という成績で、リーグを代表するセットアッパーとして評価を高めた。投球回数105回1/3で123奪三振というのは、アメリカンリーグの救援投手の中ではトップである。オールスター明けの後半戦だけでの防御率は1.38をマークで、これはヤンキースのマリアーノ・リベラの1.36に次ぐリーグ2位の記録でもある。8月半ばから9月まで17試合の登板の間で25回1/3連続イニング無失点に抑えたりもした。

2000年、開幕直後はセットアッパーだったが、途中からクローザーに回り、後半戦にはその座を確実のものとした。そして、チームは周囲の予想を裏切る快進撃を見せ、見事にリーグトップの95勝をマークし、地区優勝を飾った。その立て役者の一人がフォークを始めとする強力な救援投手陣であることは間違いない。強力なチェンジアップに、フォーム改造による球速アップがフォークを一段高いステージへ押し上げたことになる。正式にクローザーとなったフォークは3勝1敗34セーブを挙げている。

フォークにとって初めてのポストシーズンとなったマリナーズとのディビジョンシリーズ第1戦、4対4の同点のまま9回表からマウンドに上がったフォークは、9回こそは抑えたが、延長10回表にエドガー・マルチネスに2ランホームランを浴びるなど3点を奪われ、負け投手になってしまった。チームはこのまま3連敗してしまい、フォークの2000年シーズンは終わりを告げた。

期待されて臨んだ2001年だったが、移籍のデビッド・ウェルズが腰を痛め満足に投げられないなど、先発投手陣に怪我が相次ぎ、投手陣は崩壊してしまった。その中でフォークはキャリアハイの42セーブ(4勝9敗)、防御率2.33を挙げるなど、充分な働きをしたといってもよい。ただ、若手のマーク・ビュールの台頭もあるなど決して悪い話題ばかりではなかった。

シーズン終了後に契約の2年延長を決めたフォーク。1959年以来、ワールドシリーズには縁のないホワイトソックスを、その舞台へ押し上げるにはフォークの快投なくしてはあり得ないだろう。

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