Circle Change

MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.2.27〜3.4★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.3.4(現地3.3)
●プホルス、メジャー2年目の年俸は破格の60万ドル!
アルバート・プホルス
2001年、新人離れした数字(打率.329、37HR、130打点)を残して新人王に輝いたアルバート・プホルスがカージナルスと1年間60万ドルと2年目の選手としては破格の契約を交わした。これはカージナルスとしては2000年に新人として活躍したリック・アンキールが2年目のシーズン前に40万ドルの年俸を手にしたのを遙かに抜いたことになる。しかし、過去には1998年の新人王、ケリー・ウッドは2年目に69万ドルを手にしているという例もある。

●アンキール、2回6失点と散々な内容!
リック・アンキール
エクスポズ戦に先発した22歳左腕のリック・アンキールは、最初の2人の打者を歩かせる相変わらずのノーコンぶり。初回にリー・スティーブンスの満塁ホームラン含む6安打で5失点。結局、2回6失点と散々な内容でマウンドを降りた。アンキールは2000年に11勝をあげたが、そのノーコンぶりが目に余るほどだった。未来の大器であるアンキールを育てようと2001年は主にルーキーリーグで投げていた。アンキールがメジャーで大輪の花を咲かせる日はいつのことか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.119
ダニー・グレイブズ★ダニー・グレイブズ #32★ シンシナティ・レッズ

童顔のダニー・グレイブズは頼りなさそうな印象を与えるが、ピッチングはシンカーを中心に打たせて取る投球で、現在メジャーリーグを代表するクローザーのひとりに数えられる。細身の体には思えないタフさも見せるなど、レッズの頼れるクローザーとして活躍中である。

打たせて取る投球だけに守備力も鍵を握る。ベトナムで生まれたグレイブズは、父親がアメリカ人で母親がベトナム人であるため、風貌はアジア人っぽい感じがする。大学時代からクローザーとして活躍し、大学3年時には1勝1敗21セーブ、防御率0.89と群を抜いた成績を残した。この21セーブは大学記録でもある。そしてインディアンズが4位で指名し、プロの世界に足を踏み入れることになった。しかし、契約後に参加したカレッジ・ワールドシリーズで膝を痛めてしまうアクシデントで、その年はプロの舞台に立つことは出来なかった。ちなみにこの時のチームメイトにはチャールズ・ジョンソンアレックス・コーラらがいた。

1995年、1Aキンストンでプロでのキャリアをスタートさせたグレイブズは、38試合に登板し、3勝1敗21セーブ、防御率0.82という抜群の成績で2Aカントン・アクロンへ昇格。2Aでも17試合で1勝0敗10セーブとクラスの違いを全く感じさせない実力を見せつける。シーズン終盤には3Aバッファローでも3試合投げるなど、メジャー昇格はほぼ時間の問題と思われた。

1996年の開幕は3Aで迎えるが、38試合に投げ3勝1敗17セーブと好成績を残していたグレイブズは、デニス・マルチネスの故障により急遽、メジャー昇格が決まった。こうして、グレイブズはベトナムで生まれた初めてメジャーリーガーとなった。8月9日には3Aへ戻ることになるのだが、その間10試合に登板し、メジャー初勝利も記録している。9月に再びメジャーへ昇格し、さらにポストシーズンの25人ロースターにも名を連ねた(しかし、ディビジョンシリーズでオリオールズに敗れる)。登板の機会には恵まれなかったが、ポストシーズンの空気を感じられたことは非常に大きかった。この年は3Aで計19セーブをマークしており、これはリーグ3位の記録である。

1997年も開幕は3Aだったが、右肩痛に悩まされなかなか思うような活躍はできていなかった。プロ入り初の先発を経験し、模索中だったグレイブズは、トレード期限ギリギリの7月31日に優勝を目指していたレッズへの移籍が決まってしまう。移籍後も3Aで投げ、8月末にようやくレッズの選手としてマウンドに立つが、思うような成績は残せなかった。そして、シーズン終盤には右肩手術を決断した。

ベトナム出身の初めてのメジャーリーガーとなったグレイブズ。1998年、それまでチームのクローザーを務めていたジェフ・シャウがシーズン途中にドジャースへの移籍が決まると、代わりにクローザーを務めることもあった。この年は62試合に登板し、2勝1敗8セーブという数字を残している。翌1999年は正式にクローザーとなり、、この年新人王を受賞することになるスコット・ウイリアムソンとのコンビでチームに勝利をもたらした。チームは最後の1ゲームプレーオフでメッツに敗れ、ポストシーズンへコマを進めることは出来なかったが、グレイブズの記録した8勝7敗27セーブという記録はクローザーとして充分なものである。

2000年は開幕から好調で、オールスターまでの前半戦で、8連勝を含む9勝1敗14セーブ、防御率1.99という素晴らしい成績を残した。後半戦は打ち込まれることもあったが、終わってみれば10勝5敗30セーブをマークし、振るわないレッズ投手陣の中で孤軍奮闘した。翌2001年もチーム状態は悪かったが、その中で66試合に登板し、6勝5敗32セーブを記録した。かつてのレッズのクローザーとして、ジョン・フランコ以来の3年連続25セーブ以上を記録したことになる。

まだ年齢も28歳と非常に若いグレイブズ。優勝からは遠のいた感もあるレッズだが、若い選手の台頭も目立ってきただけに、グレイブズの右腕にかかる期待はいやがおうにも高くなる。あとは先発投手陣がいかにグレイブズにつなげるかである。

■2002.3.3(現地3.2)
●ジオンビー2発でヤンキースデビュー!クレメンス、2回4奪三振!
ジェイソン・ジオンビー
2002年からヤンキースの一員になったジェイソン・ジオンビーが華々しく2本のホームランを放ち、ヤンキースデビューを飾った。ここ2試合ばかり左足ハムストリングを痛めたこともあり、欠場していたがその影響は全く見せなかった。一方、ヤンキースの先発は2001年のサイヤング賞投手のロジャー・クレメンス。クレメンスは2回を投げ、4つの三振を奪う快投を見せ、こちらも準備万全といったところだ。なお、試合はヤンキースが6対3でブルージェイズを振り切った。

●レンジャーズのパク、3回3安打2失点!
パク・チャンホ
レンジャーズと5年間6500万ドルと大型契約を結んだパク・チャンホがレンジャーズの一員としてマウンドに立った。パクは3回を投げ、3安打2四球3奪三振の2失点でマウンドを降りた。パクに続いてマウンドに上がったのは、こちらもレンジャーズデビューであるジョン・ロッカー。ロッカーは1回を1四球無失点に抑え、無難に投げ終えた。試合はレンジャーズが4対3でレッズを敗っている。

●ケント、左手首骨折で、開幕メジャーに黄信号!
ジェフ・ケント
ジャイアンツのジェフ・ケントが自分の車を洗っていたときに左手首を骨折してしまい、全治4週間から6週間という診断が下された。ジャイアンツにとってケントは欠かせない選手であり、なんとしても開幕に間に合わないものかと模索中である。最悪の状況であれば、移籍してきたサードのデビッド・ベルをセカンドに移す案も浮上している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.118
ロブ・ネン★ロブ・ネン #31★ サンフランシスコ・ジャイアンツ

160キロ近い速球に140キロを超える高速スライダーで打者を翻弄するロブ・ネン。ジャイアンツのクローザーとして名を馳せている。かつてマーリンズのクローザーとして世界一を経験しているネンだが、バリー・ボンズにワールドシリーズの舞台を経験させるかどうかはネンの右腕にかかっているといっても過言ではない。

高速スライダーがネンの売りである。父親のディック・ネンはドジャース、セネタース、カブスで活躍した一塁手である(1963年から1970年までプレー)。父親の影響もあり、息子ネンも自然と野球をやり始めた。高校では野球とフットボールで汗を流し、1987年のドラフトでは、レンジャーズに32位指名を受け、プロ入りを決めた。ちなみに当時の高校のチームメイトには、後にメジャーでチームメイトになるJT・スノーもいた。

剛速球を持つ先発投手としてルーキーリーグからキャリアをスタートしたネン。1989年に1Aガストニアで24試合に先発し、7勝4敗の防御率2.41という成績を残した。138回1/3を投げて、146奪三振を記録し、才能を一気に開花させるかと思われた。しかし、常に全力で投げるため長いイニングが持たず、怪我がネンを苦しめた。

1990年、開幕してすぐに2度も故障者リスト入りし、翌1991年には3度も故障者リスト入り。1992年は4月末からシーズン終了まで故障者リスト入りするなど、3年間も満足して投げることが出来なかった。しかし、1993年はメジャーのスプリングトレーニングに参加し、見事開幕メジャーの座を掴んだ。中継ぎでの登板がほとんどだったが、4月末にようやくメジャー初先発を経験。そして、5月2日のブリュワーズ戦で6回を2安打2失点に抑え、メジャー初勝利も記録した。6月に再び右肩を痛め故障者リスト入りが決まってしまう。

メジャーへの再昇格のため3Aオクラホマシティで投げていたネンだが、7月17日にクリス・カーペンターとの1対2のトレードでマーリンズへ移籍することが決まった。移籍後すぐにナショナルリーグでの初勝利を投げたネン。この移籍がネンの転機にもなったのは事実だった。ネンの速球をより生かすために、スライダーをより強力にすることに取り組み、ネンのピッチングの幅は広がった。

1994年、チームのクローザーだったブライアン・ハービーが怪我するとネンがその座についた。5月18日のメッツ戦で2回を完全に抑え、メジャー初のセーブを挙げ、ここからクローザーとしてのメジャー生活が始まった。この年、15度のセーブ機会の登板で全てセーブを記録。スコアリングポジションに背負った28人の走者のうち、1人しかホームインさせないというほぼ完璧なピッチングを披露した。

6年連続30セーブは史上4人目の快挙。1995年はフルシーズンをクローザーで過ごし、前半戦こそ成績を残せなかったが、計62試合に登板し、23セーブをマーク。特に8月は13試合に登板して、自責点ゼロに抑えて9セーブを挙げるという素晴らしい活躍を見せた。翌1996年は75試合に登板し、リーグ6位の35セーブをマークし、防御率も1.95と抜群の安定感を見せた。投球回数83イニングに対し92奪三振ということで、9イニング換算の奪三振が10個を記録。ネンが三振を取れるクローザーであるというイメージは定着した。

1997年、チームはワイルドカードでポストシーズン進出。球団創立5年目にして世界一の座を手にすることになるのだが、インディアンズとのワールドシリーズでは力でねじ伏せて2セーブを記録し世界一に貢献した。シーズンでもリーグトップタイの9勝をマークし、さらにリーグ6位の35セーブを記録しており、セーブ機会42回でのセーブ数としては、この年ジェフ・シャウに次ぐリーグ2位のセーブ成功率を誇ったことになる。

世界一に輝いたばかりのマーリンズだが、緊縮財政の問題からシーズン終了後、ネンはあっさりジャイアンツへ放出された。ジャイアンツのユニフォームを着て望んだ1998年は、初めてオールスターにも選出されるなどネンにとって良い方向に運んだ。78試合に登板し、キャリア最高の40セーブを挙げた。防御率1.52に加え、110奪三振と活躍したもののチームをポストシーズンへ導くことは出来なかった。更に期待を持たれて迎えた1999年は、後半戦以降から右肘痛に悩まされた。そんな中で37セーブ(3勝8敗)をマークしたのはさすがといえそうだが、防御率3.98と前年より大きく跳ね上がった。結局、シーズン終盤に右肘にメスを入れることを決めることになる。

手術明けということで不安があった2000年だが、ふたを開けてみれば66試合の登板で、4勝3敗41セーブ、防御率1.50という成績をマークし、チームをポストシーズンへ導いた(しかし、ディビジョンシリーズで敗退)。セーブ数はリーグ3位に位置し、サイヤング賞の投票では4位につけるなど前年の手術の影響は全くなかった。さらに翌2001年は万全の状態で望んだ。セットアッパーのフェリックス・ロドリゲスとの素晴らしいコンビで45セーブをマークし、最多セーブ王というタイトルも手にした。

「いかにネンを攻略するか」という課題に対して他球団は「いかにネンをマウンドに立たせないか」ということを結論として挙げる。要するにネンが登場してくる前に勝負を決めよう、ということである。つまり、ネンが出てきたらもうお手上げと言うことだ。

■2002.3.2(現地3.1)
●ワールドシリーズ以来のマウンド、シリング3回無失点!
カート・シリング
カクタスリーグのダイヤモンドバックス対ホワイトソックス戦。カート・シリングはワールドシリーズ第7戦以来のマウンドに上がった。この時期でありながら初回に154キロをマークするなど、順調な出来上がりを充分に示し、3回を無失点に抑えた。試合はジュニア・スパイビーの満塁ホームランなどでダイヤモンドバックスが13対6と快勝した。

●ソーサ、右足首痛めるも、2,3日の安静で大丈夫!
サミー・ソーサ
補強により強力になったカブスの打線の軸であるサミー・ソーサが、右足首を痛めるアクシデントにより周囲をヒヤリとさせたが、大事には至らず、2,3日の安静で大丈夫という。2001年はシーズン64HR、160打点を記録しているソーサは、カクタスリーグでジャイアンツと対戦し、1四球1盗塁を記録している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.117
マット・アンダーソン★マット・アンダーソン #14★ デトロイト・タイガース

160キロの剛速球は以前から高い評価を受けていたが、若さからくる(?)不安定さによりなかなか評判通りの実力を出せなかったマット・アンダーソン。2002年シーズン途中にタイガースのクローザーの座をようやく手にし、22セーブ連続失敗なしという記録を打ち立てた発展途上中の選手である。

もう、球が速いだけとは言わせない。アンダーソンは大学3年時に、30試合全てにリリーフで登板し、10勝2敗8セーブという記録を残している。大学最後の登板となったカレッジ・ワールドシリーズでは同点となる2ランホームランを浴びてしまったが、大学通算82試合の登板で31勝14セーブを記録しており、これはアンダーソンが在籍したライス大学の史上最高記録である。

1997年のドラフトでは全米1番目の指名権を持つタイガースに1位指名されたアンダーソン。全米1番目という名誉を手にしたアンダーソンは素直にその喜びを表した。ちなみにこの年のドラフトの目玉はJD・ドリューだったが、タイガースは意図的にドリュー指名を避けたと言われている。そして、ドリューは全米2番目にフィリーズから指名されたが拒否。結局、翌年カージナルスから2位で指名されている。タイガースのこの決断が正しかったかを判断するには最低あと10年は必要である。

1998年、1Aレイクランドでプロとしてのスタートを切ったアンダーソンは、17試合に登板し、1勝0敗3セーブ、防御率0.69を記録し、あっさり2Aジャクソンビルへ昇格。2Aでも13試合に登板し、1勝0敗10セーブ、防御率0.60と桁違いの成績を残し、6月後半には早くもメジャーからお呼びがかかった。

メジャーデビューしたのは6月25日のカブス戦のことで、これは1997年のドラフトで指名された選手の中で3番目に早い昇格を果たしたことになる。この年は42試合に救援登板し、5勝1敗という成績を残している。球速の早さは群を抜いており、シーズン中2度も165キロをマークしたことが2度あったという。将来のクローザーとしての期待は高まるばかりだった。

タイガースがアンダーソンにかける期待は大きい。期待された1999年は制球力に欠いた点もあり、3Aトレドとメジャーで半々投げる結果になってしまった。メジャーでは37試合に登板し、2勝1敗、防御率5.68に終わっている。投球回数38イニングに対し、32奪三振、35四球では、とてもクローザーを任せるにはほど遠い数字だった。

2000年は初めてメジャーでフルシーズンを過ごした。クローザーのトッド・ジョーンズにつなぐセットアッパーとしての役割が求められ、69試合に登板し、3勝2敗1セーブの防御率4.72を記録。奪三振数が前年の約2倍となる71個をマークしている。アンダーソンのメジャー初セーブは9月2日のレンジャーズ戦のことだった。ちなみにジョーンズは42セーブを挙げ、最多セーブのタイトルを手にした。

2001年、開幕から結果を出せず、4月が終わった段階での防御率が14.04と落ち込んでいた。しかし5月に入り、月間の防御率が1.46と突如、安定感を見せた。これには変化球でストライクが取れるようになってきたことも大きな要因である。クローザーのジョーンズが不調で苦しんでいたこともあり、6月からは正式にアンダーソンがタイガースのクローザーとなった。いきなり3試合連続セーブ成功を記録。このまま9月まで1度もセーブ機会の登板で1度も失敗しなかった(しかし、10月に入って2度失敗している)。結局、この年は3勝1敗22セーブとクローザー1年目としては充分な成績を残した。

タイガースもアンダーソンの将来には高い期待をかけており、2002年シーズン開幕前に3年間970万ドルで契約の延長を決めている。開幕から本格的にクローザーを務める2002年、果たしてアンダーソンはどのくらいの成績を挙げるだろうか。160キロを超える速球がコメリカパークに勝利をもたらす。

■2002.3.1(現地2.28)
●レッドソックス、デュケットGMを解雇!
Boston RED SOX
オーナーが変わり変革が予想されたレッドソックスは、現GMのダン・デュケットの解雇を決めた。1993年からGMに就任したデュケットは在籍中3度のポストシーズン進出を果たすも世界一には届かなかった。2004年1月までの契約を破棄しての解雇である。1918年以来世界一の座から遠ざかっているレッドソックスがこれにより変わることが出来るか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.116
トロイ・パーシバル★トロイ・パーシバル #40★ アナハイム・エンゼルス

波乱が予想されるアメリカンリーグ西地区だが、その中で本命ではないが戦力的には整いつつあるエンゼルスでクローザーを務めるのがトロイ・パーシバルである。迫力ある投球フォームから160キロを超える剛速球で打者を抑えきるというのがパーシバルの投球スタイル。かつては長谷川滋利とのコンビでエンゼルスの勝利パターンを作ったが、その長谷川はライバルのマリナーズへ移籍してしまった。はたして、2002年のパーシバルは・・・。

気性の激しさはピッチングにも現れるパーシバル。試合の最後を締めくくる投手のことをクローザー、ストッパーと呼ぶのと同様に『ファイアマン』と呼ぶことがある。これはもちろん火消しという意味に例えられているのだが、パーシバルの父はまさに消防局に勤める本物のファイアマンだった。その父がコーチを務める少年野球チームで、幼き日からパーシバルは『ファイアマン』として試合の最後にマウンドに登つこともよくあった。

とはいえ高校時代は投手ではなく捕手として野球をプレーしていた。1990年のドラフトでエンゼルスに6位で指名されたのも捕手としての評価だった。しかしマイナー時代のその持ち前の強肩をより生かすために、投手への転向を進められる。ちなみに指名されたその年は捕手として29試合に出場している(打率.203)。

本格的に投手となった1991年は、1Aボイジーで28試合に登板し、2勝0敗12セーブという記録をマークしている。その後は持ち前の強肩を生かし、徐々に実力を身につけていき、メジャーへの階段を着実に昇っていった。1994年には3Aバンクーバーで2勝6敗15セーブを記録している。

そして1995年、パーシバルはメジャーの開幕ロースターに名を連ねた。新人パーシバルは62試合に登板し3勝2敗3セーブ、防御率1.95という素晴らしい数字を残した。この年の新人王投票では、マーティ・コルドバギャレット・アンダーソンアンディ・ペティットに次ぐ4位という評価を受けた。投球回数74イニングに対し、奪三振数が94個というのは、9イニング換算で11.4個という多さである。シーズン終盤(9月12日〜10月1日)で投げた6試合、計9イニングで17奪三振を記録する末恐ろしさも見せた。

1996年は開幕からクローザーに定着。開幕からパーシバルの強気のピッチングが良い方向に出て、最初の15試合の登板で11セーブを記録。時には2イニング以上も投げるタフさも披露した。結局、62試合に登板し、0勝2敗36セーブ、防御率2.31をマーク。前年と同じ投球回数でありながら奪三振数を100個の大台に乗せた。オールスターにも初めて選出され、1イニング投げている。

エンゼルスをポストシーズンに導くことが出来るか。1997年、開幕してまもなく肩の痛みにおそわれ、約1ヶ月半も故障者リスト入りするが、シーズンが終わってみれば、55試合に登板し5勝5敗27セーブ、防御率3.46を記録している。9イニング換算の奪三振数が11.78個(投球回数52イニング、72奪三振)を記録するなど、相変わらずのパーシバルらしさが前面に出た。

メジャー4年目となる1998年はキャリア最多の42セーブをマーク。これは球団史上2位の記録(1位は1991年、ブライアン・ハーベイの46セーブ)である。負け数(7敗)こそ多かったが、通算100セーブもマークするなど、パーシバルにとって区切りのシーズンとなった。2度目のオールスター出場を果たし、2個の三振を奪っている。

1999年はシーズン終盤こそ肩の痛みもありセーブ失敗が目立ったが、前半戦の活躍は見事なものだった。結局、4勝6敗31セーブという成績を残している。キャリア最小タイの22四球に抑えたのは見事だが、キャリア最多の9本の被本塁打が目立った。しかし、エンゼルスのクローザーでシーズン30セーブを3度経験したのはこのパーシバルが初めてである。

2000年、夏場の8月に故障者リスト入りし、その間クローザーの座を長谷川に譲ったが、終わってみれば54試合の登板で、5勝5敗32セーブを挙げた。誰もが認めるエンゼルスのクローザーではあるが、防御率が4.50と年々悪くなっていくのが、周囲の気がかりでもあった。もっともこの年は若いトロイ・グラウスの台頭もあり、打線が大爆発。30HRカルテットまで誕生したが、地区3位に終わったのは、10勝投手が長谷川だけという投手陣の責任といわれても仕方のないところである。

2001年、開幕前にモー・ボーンの戦線離脱が決まるなど、不安要素を持ったままでシーズン開幕。低迷する打線に対し、エンゼルスの投手陣は好調をキープ。前年と逆のパターンになってしまった。パーシバルも57試合の登板で4勝2敗39セーブ、防御率2.65をマーク。メジャーデビュー時の勢いが戻ってきた。しかし、チームは地区3位に終わってしまった。

シーズン終了後、エンゼルスはパーシバルとのオプションを行使し、525万ドルで2002年の契約を結んだ。32歳のパーシバルは7年間のクローザー生活で通算210個ものセーブを積み上げた。その間、通算で417試合に登板したことになるが、これはエンゼルスの球団史上2番目となる記録である(球団記録はチャック・フィンリーの436試合)。

■2002.2.28(現地2.27)
●シーズン開幕まであと1ヶ月!オープン戦初戦、ツインズ快勝!
ブラッド・ラドキー
球音が帰ってきた。オフには球団削減問題に巻き込まれたツインズが、グレープフルーツリーグの開幕戦でレッズと対戦。先発ブラッド・ラドキーは2回を完全に抑え、カート・アボットの2ランホームランが飛び出すなど13対0と大勝した。ツインズ打線は20安打の猛攻を見せただけが、一方のレッズは長打といえばルーベン・マテオの2塁打のみで、散発6安打の無失点に抑えられてしまった。

●アストロズ、新球場3年目の名称は「アストロズフィールド」!?
Houston ASTROS
2000年から開場したアストロズの新球場。元々はエンロン社が30年間1億ドルで名称を買い取り、「エンロンフィールド」と名乗っていた。しかし、この度のエンロン社倒産に伴い、アストロズが名称権を取り戻した。今後は新しいスポンサーを探すことになるが、それまでは「アストロズフィールド」と名乗ることになりそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.115
アーマンド・ベニテス★アーマンド・ベニテス #49★ ニューヨーク・メッツ

大きな体から160キロ近い速球を投げ込み、相手打者をねじ伏せるアーモンド・ベニテスはメッツのクローザーである。ランディ・マイヤーズジョン・フランコなどメジャーを代表するクローザーと同じチームでプレーし、2人の背中を見ながら、ベニテスは成長したのである。

怖い感じに見えるが、実は非常に楽しい奴という。ドミニカ共和国出身のベニテスがオリオールズと契約したのは、まだ17歳の頃だった。重い速球を武器にマイナーリーグの階段を一つ一つ昇っていくベニテス。1993年は1Aアルバニーで開幕を迎え、40試合に救援登板し、5勝1敗14セーブの防御率1.52という見事な火消しぶりを見せた。シーズン終盤にはランクが上の1Aフレデリックに昇格し、12試合の登板で3勝0敗4セーブ、防御率0.66と好投した。

2Aボウイで開幕を迎えた1994年、53試合に登板し、8勝4敗16セーブの防御率3.14と好成績を挙げ、7月末にはメジャーからお呼びがかかった。メジャー初登板が、先発マイク・ムシーナを引き継いでのものであり、初めて対戦した打者であるアルバート・ベルから三振を奪い、ベニテスのメジャー生活は幕を開けた。

1995年はメジャーと3Aを何度も往復するシーズンとなった。ちなみに5月17日のタイガース戦でメジャー初のセーブを記録している。そろそろメジャー定着といきたい1996年、開幕メジャーの座を掴んだベニテスだったが、4月後半から8月後半まで故障者リストで過ごすアクシデントがベニテスを苦しめた。しかし、チームがワイルドカードでポストシーズンに進出したことから、ベニテスもポストシーズンのマウンドに立つことができた。インディアンズとのディビジョンシリーズでは2勝をマークし、ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは1セーブを挙げている(しかし、ワールドシリーズ進出はならず)。

1997年は初めてメジャーでフルシーズンを経験。主にセットアッパーとして71試合に登板し、4勝5敗9セーブをマーク。さらに防御率2.45というのは、この年の救援投手陣の中でリーグ8位に位置するものである。チームの地区優勝にも貢献し、2年連続でポストシーズンへ。しかし、インディアンズとのリーグチャンピオンシップシリーズで2敗してしまい、ワールドシリーズ進出はならなかった。

この光景がワールドシリーズでも見ることが出来るだろうか。そして、1998年にはシーズン中盤にはクローザーに定着した。シーズントータル26回のセーブ機会で22セーブをマーク。終盤の9月には3試合の登板で合わせて9者連続三振も記録した。オリオールズのクローザーとしての地位を固めつつあったベニテスが、この年のオフにチャールズ・ジョンソンの絡んだ3角トレードに巻き込まれ、突然のメッツ移籍が決まった。

ナショナルリーグのメッツに移って1年目となる1999年、セットアッパーとしてクローザーのフランコにつなぐ素晴らしいピッチングを披露。フランコが7月に離脱すると、ベニテスはクローザーの座を完全に自らのものとし、9月に入ってフランコ復帰後も変わらずメッツのクローザーであり続けた。この年は77試合に登板し、4勝3敗22セーブをマークしている。さらに投球回数78イニングで128奪三振も記録している。

移籍2年目の2000年は、シーズン開幕前に4年間2200万ドルで契約延長が決まるなど、周囲の期待はますます高まるばかりだった。セットアッパーに回ったフランコとのコンビも抜群で、シーズンが終わってみれば球団史上最高となるシーズン41セーブをマークしていた(これまでの記録は1998年、フランコの38セーブ)。ワイルドカードでポストシーズンへ進出したメッツはそのままワールドシリーズへ出場。ヤンキースとのサブウェイシリーズとして注目された。第1戦、1点リードの場面で9回から登板したベニテスだったが、2安打1四球で1アウト満塁のピンチを迎え、チャック・ノブロックに同点となる犠牲フライを打たれてしまった。結局、メッツは1勝4敗で敗れてしまった。

2001年は打線がとんでもない貧打状態に陥り、前年のリーグ優勝チームとは思えないほどに低迷した。その中でベニテスは73試合に登板し、6勝4敗42セーブを挙げ、前年に自らが築きあげた球団記録を塗り替えるだけの安定感を見せつけた。

怖い風貌のベニテスも、普段は心の優しい男であり、クラブハウスでは人気者である。オフになると1000エーカーもの広さを持つ実家の牧場にいる100頭の牛と50頭の馬の世話に精一杯だという。ちなみにベニテス家の隣の牧場は、2002年からチームメイトになったペドロ・アスタシオの牧場だという。

■2002.2.27(現地2.26)
●ロデュカ、ドジャースと3年間725万ドルで契約!
ポール・ロデュカ
ドジャースの正捕手に定着したばかりのポール・ロデュカが、3年間725万ドルで契約を延長した。2001年は125試合に出場し、打率.320、25HR、90打点と一躍、スターダムにのし上がった苦労人でもある。4月には30歳になってしまうが本拠地ロサンゼルスでの人気は非常に高い。ロデュカの実質2年目となる2002年は非常に期待が持てる。

●37歳サーホフ、先発出場を訴える!
BJ・サーホフ
37歳になるBJ・サーホフがブレーブスでの先発スタメン出場を訴えた。オフのブレーブスは、まずビニー・キャスティーヤを獲得したことにより、チームの看板打者チッパー・ジョーンズをレフトへコンバート。センターにはメジャーナンバー1の守備を誇るアンドリュー・ジョーンズがおり、ライトにはドジャースから獲得したゲーリー・シェフィールドが入ることにより外野が全て埋まった。ファーストはフリオ・フランコウェズ・ヘルムズの併用が考えられていることから、サーホフにとっては厳しい状況である。しかも、2002年は4年契約の最終年でもある(2000年7月31日にオリオールズからブレーブスへ移籍)。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.114
トレバー・ホフマン★トレバー・ホフマン #51★ サンディエゴ・パドレス

パドレスの本拠地、クアルコムスタジアムで試合終盤に「ヘルズ・ベルズ」が流れるというのはパドレスの勝利を意味する。トレバー・ホフマンの登場のテーマである。ストレートに鋭いチェンジアップを加えた投球は、抜群の安定感を保っており、現在、4年連続5度目のシーズン40セーブ(7年連続30セーブ)を記録している。

ホフマンのチェンジアップはまるでフォークのようだ。1989年、レッズからドラフト11位で指名されたときは、投手としてではなく遊撃手としてだった。しかし、打撃面に多くの課題を抱えていたことから、持ち前の強肩を生かすために投手に転向を決意(打者としてはルーキーリーグと1Aでの2年間で通算打率.228)。1991年、1Aセダーラピズで迎えた投手転向1年目、27試合に救援登板し、1勝1敗12セーブをマークしたところで2Aチャタヌーガへ昇格。2Aでは14試合に登板し、8セーブをマーク。ホフマンはすでにクローザーが板に付いていた。

1992年は2Aで開幕を迎え、クローザーだけでなく先発としてもテスト登板し、あっさり結果を出して3Aナッシュビルへ。壁にぶつかった感もあるが、4勝6敗6セーブに防御率4.27という数字を残した。いよいよメジャー昇格が秒読み段階となったが、オフのエクスパンションドラフトで新生マーリンズから4巡目に指名され、急遽マーリンズのユニフォームに袖を通すことになった。

1993年、スプリングトレーニングで結果を出したホフマンは開幕ロースターの座を掴む。こうしてメジャーリーグのマウンドに立つことになったホフマンが初めてセーブを記録したのは4月29日のブレーブス戦のことであった。メジャーリーグを代表するクローザーに成長するホフマンの一歩目がこうして踏み出されたわけである。しかし、6月24日にマーリンズはパドレスの大砲、ゲーリー・シェフィールドを獲得するため、チームはホフマンの放出を決定。有望な若手にありがちなことである。思いも寄らぬシーズン途中のパドレス移籍だったが、ホフマンのメジャー1年目のシーズンの成績は、2チーム合わせて4勝6敗5セーブ、防御率3.90というものであった。

1994年からクローザーに定着し、23回のセーブ機会の登板で20セーブ(リーグ7位)をマーク。翌1995年も38回のセーブ機会の登板で31セーブ(リーグ6位)をマークし、確実にリーグを代表するクローザーとして成長していた。クローザーが打席に入るということは非常に珍しいが、この年の5月28日のフィリーズ戦で初めてメジャーの打席に入り、2点タイムリー2塁打を放つ。この頃にはホフマンが野手でプロ入りしていたという事実は遠い過去のものとなっていた。

1996年はチームを地区優勝へ導くと同時に、ホフマン自身も9勝5敗42セーブ、防御率2.25、111奪三振と素晴らしい成績をマーク。この年のサイヤング賞の投票で5位、MVPの投票で10位にランクインするなど、周囲の誰もがホフマンの実力を認めていた。翌1997年も、チームは地区2位に終わるものの6勝4敗37セーブと安定感は相変わらず。前年と同じ111個の奪三振を記録するが、投球回数にすれば前年より少ないため、9イニング換算での三振奪取率は12.3個とキャリアベストを叩き出した。

毎年結果を残すホフマンはチームにとって貴重。1998年はクローザーとしてホフマンが最も輝いた年となった。54回のセーブ機会の登板で53個ものセーブを記録。シーズン53セーブというのはリーグタイ記録であると同時に、メジャーリーグ史上4人目のシーズン50セーブ達成者にもなった(同じ年にロッド・ベックも51セーブを記録)。圧巻は.981というセーブ成功率である。シーズン30セーブ以上挙げたクローザーの中で史上最高の成功率を記録した。MVP投票でも2位に食い込んだ。

しかも前年から数えてセーブの失敗なしという連続記録を継続。この記録は41まで伸びたが、7月26日のアストロズ戦で、先頭のモイゼス・アルーに初球ホームランを打たれてしまい、記録はストップした(しかし、試合は延長10回の末、パドレスが勝っている)。さらに、この年初めてオールスターゲームに出場を果たすが、ロベルト・アロマーに手痛い1発を浴びてしまう。シーズンでは完全ぶりを見せながらも、こんなところにホフマンなりの愛敬を見せる。さらにチームの14年ぶりのリーグ優勝へ貢献し、ワールドシリーズの舞台へコマを進めた。ワールドシリーズでの初登板は、2連敗で迎えた第3戦のことだ。1点リードの場面だったが、スコット・ブローシャスに3ランホームランを打たれ、負け投手となった。最高のシーズンを過ごしたにはふさしくない幕切れとなってしまった。

1999年は開幕前に4年間の契約延長を結んだ。終盤に約1ヶ月もセーブを記録できなかったこともあったが、シーズン中に通算200セーブを記録するなど、2勝3敗40セーブ、防御率2.14という成績を残した。翌2000年、先発陣が苦しんだことも影響してか、シーズン中盤にホフマンらしくないセーブ失敗もあったが、終わってみれば43個ものセーブを積み上げていた。

2001年は8月15日のメッツ戦で、メジャー史上14人目となる通算300セーブをマーク。553試合の救援登板で達成した300セーブはジョン・ウェッテランドと並び、メジャー史上2番目の早さである。しかもそのうち、339回のセーブ機会で300セーブを記録しおり、成功率にすると88.2%と抜群である。結局、この年は、3勝4敗43セーブでシーズンを終えた。

長い間クローザーとして一線級で活躍している秘訣に早い気分転換を挙げているホフマン。トニー・グウィンが抜け、徐々に生まれ変わりを図りつつあるパドレスの中でも、ホフマンのクローザーとしての位置は揺るがない。年齢こそ34歳だが、切れ味鋭いチェンジアップを中心とするピッチングは当分の間、安心してみていられることだろう。

[MLB EXPRESS REVIEW]

[MLB EXPRESS Top Page]

[CIRCLE CHANGE Home]
[サークルチェンジのコラム] [サークルチェンジの掲示板&クイズ] [サークルチェンジのMLBクイズ]


Copyright (C) 1998-2003 "CIRCLE CHANGE" Kenji@webmaster -----All Right Reserved
This Page is maintained by Kenji@webmaster <reggie@myad.jp>.