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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.2.21〜2.26★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.2.26(現地2.25)
●ウイリアムス、左足を痛めて開幕アウト!
マット・ウイリアムス
世界一になったばかりのダイヤモンドバックスのサードを守るマット・ウイリアムスが左足と左足首を痛め、開幕には間に合わないことがほぼ確実になった。36歳のウイリアムスは5年契約の最後の年ということで勝負をかけるはずが出鼻をくじかれる形となった。ここ2年とも故障で約2ヶ月近い離脱を経験しており、シーズンを通してという意味で満足したプレーが出来ていない。

●ボニーヤ、16年間のメジャー生活にピリオド!
ボビー・ボニーヤ
過去6度もオールスター出場を果たしている39歳のボビー・ボニーヤが引退を発表した。2001年はカージナルスに在籍し、93試合の出場で打率.213、5HR、21打点という成績に留まった。16年間のメジャー生活で計8チームに在籍し、通算成績は打率.279、287HR、1173打点である。ナショナルリーグで放った247本のホームランはスイッチヒッターとして史上最多である。パイレーツ時代にはバリー・ボンズと組んでBB砲として活躍。1997年にはマーリンズの世界一に貢献と輝かしい球歴に包まれている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.113
マリアーノ・リベラ★マリアーノ・リベラ #42★ ニューヨーク・ヤンキース

大舞台であればあるだけそのプレッシャーを楽しみ、ウイニングショットのカッターで打者を斬り斬り舞いにする怪物マリアーノ・リベラ。2001年こそ、ワールドシリーズの最後の最後に思わず人間の心を取り戻してしまったが、リベラが天下無敵のクローザーであるという評価は決して色褪せない。

リベラを語らずしてヤンキースを語れず。パナマ出身のリベラがヤンキースと契約したのは1990年のこと。契約したその年は、22試合に登板し、5勝1敗という記録に、リーグトップの防御率0.17をマーク。翌1991年は1Aグリーンズボロに昇格し、4勝9敗ながら、防御率2.75に123奪三振と素晴らしい潜在能力を見せつけた。当時から150キロを超える速球はリベラの大きな魅力だった。これは漁師の父の手伝いをしていたこともあり、足腰が普通の人間よりも強いのだ。

メジャー昇格は時間の問題と思われたが、怪我などの問題もありその後の2年間は苦しむ結果になった。1Aタンパで開幕を迎えた1994年は7試合に先発し、3勝0敗、防御率2.21の成績を挙げると2Aアルバニーに昇格し、ここでも9試合に先発し、3勝0敗の防御率2.27という成績を残す。そして、シーズン終盤には3Aコロンバスへ昇格し、4勝2敗という数字を残した。

1995年は3Aで開幕を迎えるが、5月16日に初めてメジャーからお呼びがかかり、メジャーのマウンドに立った。マイナーでもずっと先発のマウンドに立っていたリベラは当然メジャーに上がっても先発としての起用だった。5月28日のアスレティックス戦で5回1/3を7安打1失点に抑え初勝利をマークするが、4試合に先発した段階で1勝2敗の防御率10.20と壁にぶち当たった感もあり、6月半ばに3Aへ降格。降格後に右肩を痛めてしまうアクシデントがあったが6月末には復帰し、その復帰登板において雨天5回コールドにより参考記録にとどまるが見事にノーヒッターを達成。7月には再びメジャーへ昇格した。そして、7月4日のカブス戦で8回無失点に抑え、11奪三振を奪う好投で自らの復帰を飾った。

しかし、チームの首脳陣から信頼してもらえるだけの安定感を見せるピッチングは長く続かず、メジャー1年目は先発にロングリリーフという起用法であり、結局、19試合の登板(先発は10試合)で5勝3敗、防御率5.51という成績に終わった。この年、ワイルドカードでポストシーズンに進出したヤンキースはディビジョンシリーズでマリナーズと対戦。2勝3敗で敗れてしまうが、リベラは3試合に登板し、5回1/3を投げ、8個の三振を奪っている。これがリベラのポストシーズンデビューであった。

1996年はクローザーのジョン・ウェッテランドにつなぐセットアッパーに専念。これがリベラ自信に新境地を開かせることになり、チームも18年ぶりの世界一に輝いた。61試合に投げたリベラは8勝3敗5セーブと素晴らしい成績に加え、107回2/3を投げ130奪三振というのは、過去のヤンキースのブルペンを守ってきた投手の中で史上最多のものである。4月後半から5月後半まで26イニング連続無失点という記録も樹立。ポストシーズンでも8試合に登板し(計11イニング)、無失点に抑えている。

大試合になればなるほど実力を発揮するリベラ。1997年はウェッテランドがレンジャーズへ移籍することでリベラはクローザーへ定着。オールスターまでの前半戦で27セーブをマーク。オールスターにも当然選出され、セーブをマーク。ヤンキースの投手としてオールスターでセーブを挙げたのは、この年のリベラが初めてだった。後半戦に入っても勢いはとどまらず、9月16日のレッドソックスとのダブルヘッダーでは、1日2セーブもマーク。結局、シーズン43セーブをマークしたリベラ。この数字は前年のクローザー、ウェッテランドが記録した数字と同じである。そして、インディアンズとのディビジョンシリーズ第1戦で、ポストシーズン初セーブを記録。しかし、2勝1敗で迎えた第4戦、1点リードの場面でマウンドに昇った8回裏、サンディ・アロマーに同点ホームランを打たれてしまう。この試合を落としたヤンキースは翌日の第5戦を落とし、シーズンを終えた。がっくり肩を落としたリベラも、アロマーの1発がリベラ伝説の始まりとは本人も気付いていなかった。

1998年は開幕直後に故障者リスト入りするが、復帰後は依然と変わらぬ素晴らしい投球を披露し、無敵艦隊ヤンキースのクローザーとしての任務を確実に遂行した。この年のヤンキースはシーズン114勝をマークし、リベラは36セーブを挙げた。チームも2年ぶりの世界一となり、パドレスとのワールドシリーズでは4連勝であっさり振り切り、そのうちの3試合の最後を締めくくったのはリベラであった。

1999年になっても勢いは決して止まらず、むしろ増していく感さえあった。4月にはキャリアハイとなる6試合連続セーブというタフさも披露。8月には13試合に登板し、リーグトップの11セーブをマークした。当然月間MVPも手にする。結局、45セーブをマークし、最多セーブ王のタイトルも獲得した。ポストシーズンも順調に勝ち上がり、ワールドシリーズでは1990年代最強チーム言われるブレーブスと対戦ということで注目が集まったが、ヤンキースがあっさり4連勝で2連覇を決める。リベラは4試合全てに登板し、1勝2セーブをマークして、ワールドシリーズMVPも栄誉も手にした。振り返れば、2年前のアロマーのホームランから、ポストシーズンでのリベラはずっと無失点を記録していた。

2000年は初登板でセーブを挙げるものの1失点されてしまったが、リベラはリベラだった。66試合に登板し、7勝4敗の36セーブをマーク。これで4年連続30セーブを記録したことになる。チームも無事3年連続地区優勝を果たし、ポストシーズン出場となれば5年連続である。ずっとポストシーズン無失点を記録していたリベラだったが、マリナーズとのリーグチャンピオンシップシリーズ第6戦で1失点を記録され、連続イニング無失点は34でストップしてしまった。ワールドシリーズではメッツとの対戦でサブウェイシリーズとして注目された。その中でリベラは第2戦でジェイ・ペイトンに3ランホームランを浴びるも2セーブをマークし、チームの3連覇に貢献した。

毎年、ポストシーズン恒例となったシーン。2001年は佐々木主浩と激しい最多セーブ王争いを演じるが、終盤に振り切り、キャリアハイの50セーブを挙げた。ヤンキースのクローザーとしては、1986年のデーブ・リゲッティによるシーズン46セーブがそれまでの球団記録だったが、それをついに塗り替えたことになる。通算セーブも215個とし、ヤンキースのクローザーとして史上2位であり、1位のリゲッティ(224セーブ)を抜くのは、もはや時間の問題である。

非常に苦しみながらも4年連続ワールドシリーズ進出を決めたヤンキース。ダイヤモンドバックスと球史に残す激しい戦いを繰り広げ、試合は3勝3敗で第7戦へ。アルフォンゾ・ソリアーノのホームランで1点勝ち越したヤンキースは8回裏から満を持してリベラをマウンドに送る。8回は難なく抑えるも、9回のリベラはこれまでのリベラと微妙に違っていた。先頭のマーク・グレースにセンター前へのヒットを許す。続くダミアン・ミラーの送りバントがリベラの真っ正面に転がり、それを捕ったリベラがすかさず2塁へ投げるが、まさかの悪送球。これでピンチを広げたダイヤモンドバックスの勢いに押される形で逆転負けを許した。この試合についた黒星は、リベラにとって初めてのポストシーズンにおける黒星でもある

全てを手に入れたかのように見えるリベラも、その視線の先は世界一奪回しかないだろう。「奴が出てくれば終わり」と敵味方の両チームに思わせるリベラの存在は、ひとつの失敗を簡単に吹き飛ばしてしまうほどに強力なのである。

■2002.2.25(現地2.24)
●テロ事件がきっかけ、年齢詐称がばれちゃった!
バートロ・コロン
9月11日の同時多発テロ事件の影響で、ビザ発行に対し、正確な生年月日、年齢の提出が求められたため、メジャーリーグで活躍する何人かの選手が年齢をごまかしていることがわかった。インディアンズのエースであるバートロ・コロンは26歳ではなく28歳、2000年の新人王のラファエル・ファーカルは21歳ではなく23歳、エンゼルスの若きエースであるラモン・オーティスは26歳でなく29歳、ロイヤルズのショートストップであるネフィ・ペレスは26歳ではなく28歳だったという具合である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.112
ビリー・ワグナー★ビリー・ワグナー #13★ ヒューストン・アストロズ

2002年シーズン終了後にFAとなるビリー・ワグナーに対し、契約延長の交渉を粘り強く進めたアストロズはようやく3年間の2700万ドルで契約を更新した。すでに146セーブを記録している30歳のワグナーだが、これはデーブ・スミスの199セーブに次ぐ球団史上2番目の記録であり、誰もが認めるアストロズ球団史を飾るクローザーであることは間違いない。

アストロズ投手陣の柱ともいえるワグナー。今でこそ球界を代表するサウスポーとして活躍しているワグナーだが、元々は右投げであり、それは現在でも利き腕は右腕であることに変わらない。そんなワグナーが左投げに変わったのが、少年時代にフットボールをプレー中に右手を骨折するアクシデントがあり、それがきっかけと言われている。利き腕である右手をうまく使い、左腕から150キロを超える速球を生み出しているのだ。

ワグナーは5歳の頃に両親が離婚し、親戚の家を転々と転校を繰り返すはめにあうなど、家族の愛に飢えていた。そんなワグナーを癒したのが野球とフットボールであった。高校までは外野手としてプレーしており、憧れの選手はリッキー・ヘンダーソンだった。しかし、打撃が得意でないため大学に入ってから投手に転向。投手がダメで野手になるという話はよく聞くが、ワグナーのような例は少ないだろう。ただ、右手を骨折し左投げに変わるワグナーなら考えられないことはない。

大学に入ったワグナーは投手としての才能を思う存分発揮した。3部リーグに所属する野球の強い大学でないことも幸いしたか、大学2年時に9イニング平均で19.1個という奪三振記録を樹立。大学のキャリアでも182回1/3を投げ、327奪三振と文句のつけようのない内容で、1993年のドラフトでアストロズから1位指名(全米12番目)を受けた。また、ワグナーは大学時代に現在のサラ夫人と出会ったことも心に平穏をもたらした。

指名されたその年、1Aオーバーンで7試合にだけ登板。ワグナーらしさが出てきたのは翌1994年のことで、1Aクアドシティでフルシーズンプレーし、26試合に先発し、8勝9敗の防御率3.29、をマーク。204奪三振と91四球は共にリーグトップの記録である。

1995年は2Aジャクソンで開幕を迎えるが、シーズン途中に3Aツーソンへ昇格。将来のメジャー昇格は時間の問題と思われていたワグナーだけに9月半ばにメジャーへ昇格させた。未来の大器へメジャーの雰囲気を味わせることを目的としたもので、ヤンキース戦でわずか一人にだけ投げるためにマウンドに立ったことがワグナーのメジャーデビューであり、この年のメジャーのマウンドはこの1度のみだった。

1996年の開幕は3Aツーソンで迎えた。12試合に先発し、6勝2敗という数字を残していたワグナーの元にメジャー昇格の知らせが届いたのは6月に入ってからであった。マイナーではずっと先発をつとめていたワグナーはこの時を境にクローザーへの道を歩むことになる。この年は37試合に登板し、2勝2敗9セーブの防御率2.44をマーク。9イニング換算の奪三振率が11.7個と抜群の成績で、特に左打者との被打率が.083とほぼ完全に抑えた(ちなみに右打者の場合、被打率.165)。

オフもテキサス州で過ごしているというワグナー。1997年は開幕からアストロズのクローザーとして定着。29度のセーブ機会で23個のセーブを記録。66回1/3を投げ、106個の三振を奪う相変わらずの奪三振率をマーク。チームが地区優勝を飾り、初めてのポストシーズンも経験。ブレーブスとのディビジョンシリーズ第2戦に登板するが、1回を投げ3安打2失点という散々な内容で敗れ去った。翌1998年、ワグナーは1度の故障者リスト入りを経験するが、シーズン30セーブをマーク。この年のワグナーにとって大きかったのは、シーズン途中で移籍してきたランディ・ジョンソンの加入だった。同じタイプの投手だけにワグナーは今後の更なる飛躍のきっかけを掴んだという。

三振をバッタバッタ取る荒れ球投手という評価のあったワグナーだったが、1999年のワグナーはそれらの評価を覆す制球力で素晴らしい成績を残した。1992年にダグ・ジョーンズが記録したシーズン36セーブを抜く39セーブをマーク。66試合に登板し、防御率は1.57に抑え、さらに三振奪取率は15.0個(74回2/3を投げ、124奪三振)を数えた。しかし、終盤に左肘を痛めてしまい、肝心のポストシーズンではワグナーらしさを全く出せずに終わってしまった。

2000年、優勝候補に挙がっていたアストロズが低迷。ワグナーのピッチングも冴えず、15度のセーブ機会で9回の失敗。左肘を痛めたことが原因で6月半ばには故障者リスト入りしてしまう。結局、左肘にメスを入れることになり、そのままシーズンを終えた。

再起をかける2001年、150キロ近い速球が復活し、スプリングトレーニングから好調ぶりをアピール。64試合に登板し、キャリア最多の41セーブをマーク。チームもカージナルスと並ぶ地区優勝タイで2年ぶりのポストシーズン進出へ貢献。しかし、ブレーブスとのディビジョンシリーズ第1戦では、ピンチで登板したワグナーがチッパー・ジョーンズから逆転3ランホームランを打たれ、そのままアストロズは敗れ去ってしまった。

若い先発投手の台頭が目立ってきたアストロズでベテランの域に入るワグナーの役目は非常に大きいと言える。ポストシーズンに弱いという汚名をなんとかして返上し、目指すはワールドシリーズでの登板となるだろう。

■2002.2.24(現地2.23)
●インディアンズ、サバシアと4年契約!
CC・サバシア
インディアンズはCC・サバシアと4年間950万ドルで契約を交わした。5年目は球団のオプションであり、その場合は総額で1975万ドルまで跳ね上がるという。1998年のサバシアは、2001年にメジャーデビューし、新人でありながら、17勝5敗、防御率4.39と抜群の成績を残した。仮にイチローがいなければ間違いなく新人王を受賞していたとされているだけ期待の若手左腕である。インディアンズの投手陣はこのサバシアとバートロ・コロンという左右のエースが支えていくことになりそうだ。

●韋駄天ロリンズ、フィリーズと1年間の契約合意!
J・ロリンズ
新人でありながらオールスター出場を果たし、フィリーズの躍進に貢献したジミー・ロリンズが1年間36万5000ドルで契約した。ロリンズはその俊足を武器に球団記録となる35回連続盗塁成功を樹立。圧巻はリーグ史上初、2塁打数、3塁打数、本塁打数、盗塁数のいずれもが2桁をマークしたことである。さらに、1968年のルー・ブロック以来となる盗塁王と3塁打王の2冠を獲得している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.111
佐々木主浩★佐々木主浩 #22★ シアトル・マリナーズ

2年連続でリーグチャンピオンシップシリーズまで勝ち進んだマリナーズを語る上で、クローザーを佐々木主浩の存在ははずせない。伝家の宝刀フォークボールを武器に、日本ナンバー1のクローザーの名に恥じない成績を充分に残している。「大魔人」も「DAIMAJIN」となり、世界中の野球ファンが知ることとなった。

メジャーリーグを代表するクローザー。1968年2月22日、宮城県に生まれた佐々木。東北高校時代には甲子園出場も経験した。関東の大学への進学という考えもあったが、佐々木の性格も考え、周囲が地元の東北福祉大学へ進学を薦めて決断した。腰痛というアクシデントもあったが、1990年のドラフトで横浜大洋ホエールズに1位指名され、プロ入りを決めた。

プロ入り2年目ごろから本格的にクローザーの座に定着し、得意のフォークボールでその地位を築きあげた。1998年には日本プロ野球記録となるシーズン45セーブをマークし、チームを38年ぶりの日本一に導いる大活躍。年俸も史上初となる5億円という大台に乗った。

しかし、翌1999年は右肘の状態が最悪であった。佐々木本人としては手術して完治させたいという希望があったが、球団としては離脱されては困るということで、手術にGOサインを出せないでいた。もちろん、この年のオフにFAを控えているという問題も裏にはあったと言われている。8月にドクターストップがかかりようやく手術を決断。自らの野球人生を考える佐々木と目先の1勝を考えるチームとの間で軋轢があったということは事実である。

結局、佐々木が実戦のマウンドに帰ってくるのは10月のハイサイリーグまで待たなければならなかった。そして、予想通りのFA宣言。周囲はおそらく日本の球団と契約するであろうと考えていたが、佐々木の目はメジャーリーグに向いていた。日本プロ野球での10年間で通算成績42勝33敗229セーブと輝かしい記録を樹立した佐々木が海を渡ることになったのである。「力と力の勝負がしたい」これが佐々木のメジャー挑戦を決めた理由だった。

佐々木に声をかけたメジャー球団は約10球団にも及んだ。実際に渡米した佐々木は幾つかの球団のメディカルチャックを受け、マウンドでピッチングも披露した。佐々木がチームを選ぶ基準は、まず優勝を狙えるチームであり、家族が住みやすい環境であることだ。そんな中で佐々木が選んだチームがマリナーズだった。背番号は日本時代と同じ22番で、3年契約の1500万ドルという破格のものを提示し、佐々木との契約をまとめた。こうして、メジャーリーガー佐々木が誕生するに至る。

2001年はこんな場面がよく見られた。2000年2月、マリナーズのスプリングトレーニングに参加。最初からクローザーの座が約束されていたわけではなく、ホゼ・メサとの争いになった。しかし、佐々木のフォークを実際に見たマリナーズ首脳陣は佐々木をクローザーで起用することを決定。そして開幕2戦目、セーブのつかない場面で初登板。難なく抑えた佐々木は翌日、3点リードの最終回にマウンドへ上がり、3者3連続三振と文句ない成績で初セーブを挙げた

5月に入り、連続でサヨナラホームランを打たれセーブ失敗した佐々木に、ルー・ピネラからクローザー降格が伝えられた。それまで佐々木が考えていた「力と力の勝負」ではメジャーで通用しないことを体感した。精神的にも苦しんだ時期で、高校時代の恩師にまで電話し、教えを請うた。しかし、挫折を経験したことがメジャーリーグを代表するクローザーとしての地位を確固たるものとした。5月末にはクローザーへ復帰し、6月はリーグトップの月間8セーブをマーク。ここでチームメイトは佐々木を認め、信頼関係を築いたといえる。

メジャーリーグでは新人に対して恒例のいたずらというものがあるが、チームリーダーのアレックス・ロドリゲスが佐々木の日本時代の実績を考慮し、いたずらを免除されるということもあった。球団記録となる15連続セーブを挙げる。この勢いはとどまらず、前年にビリー・コッチが打ち立てたシーズン33セーブというリーグ新人記録を9月半ばには塗り替えた。

8月半ばから負けが混み始めたマリナーズの中で、佐々木は充分な安定感を示したと言える。9月は8試合に登板し、7セーブを挙げ、防御率0.73と圧巻の成績。アスレティックス、インディアンズとの激しい争いがあったが、勝てばワイルドカードとしてポストシーズンが決まる10月1日の最終戦で見事にセーブを挙げた。この日のセーブがシーズン37セーブで、さらに1986年にトッド・ウォーレルが記録した36セーブというメジャーリーグ新人記録を塗り替えた。しかも、セーブ機会40回の登板での37セーブ(成功率.925)というのはリーグナンバー1である。

初めてのポストシーズンとなるホワイトソックスとのディビジョンシリーズ第2戦、3点リードした延長10回に登板し、先頭のカルロス・リーに2塁打を打たれてピンチを迎えるが、自慢のフォークで抑え、初セーブをマーク。翌第2戦も登板し、3者連続三振で斬って取った。3連勝でホワイトソックスを振り切ったマリナーズはヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズへコマを進める。第1戦にセーブを挙げるが、その後はヤンキースが主導権を握るゲームで佐々木の出番がなかった。第5戦に投げ無失点に抑えはしたが、2勝4敗でワールドシリーズ進出の夢は絶たれた。しかし、ポストシーズンで4試合(4回2/3)に投げ、無失点に抑えたことは誇れるものに違いない。

「冷や冷やさせてごめんなさい」とペコリ。この年のオフには日米野球のメジャーリーグ選抜として日本で凱旋登板を果たし、32歳という年齢でありながら、アメリカンリーグの新人王も受賞。メジャーリーグの舞台を経験した佐々木はオフに2シームの修得に力を入れた。そこにはメジャーリーグを代表するクローザーとしての誇りも見える。

2001年、2年目を迎える佐々木に日本人のチームメイトが誕生した。ポスティングシステムによるイチローである。最高のトップバッターを手に入れたマリナーズは開幕から絶好調。開幕1ヶ月で25試合を20勝5敗と破竹の勢いで勝ち進む中、佐々木は15試合に登板し、4月の月間メジャー記録13セーブもマークした(これまでの記録は1994年、リー・スミスの12セーブ)。

オールスターまでの前半戦で29セーブをマークし、オールスターの、メンバーにも選出された。ちょうど地元であるセーフコフィールドで行われたこの年のオールスターゲームで、最終回に登板し、見事3者凡退に抑え込んだ。最後の打者をファーストゴロに打ち取り、ファーストのベースカバーに入った佐々木がウイニングボールをきっちりと掴んだ

マリアーノ・リベラとの激しいセーブ王争いがあり、そちらのタイトルはリベラに譲ったが、チームはシーズン116勝というメジャータイ記録をマークし、ダントツで2年連続のポストシーズン進出を決めた。インディアンズとのディビジョンシリーズでは勝ちゲームの3試合の最後を締めくくったのはいずれも佐々木だった。リーグチャンピオンシップシリーズでは前年に続いてヤンキースとの対戦となったが、1勝2敗で迎えた第4戦、1対1の同点の場面で登場した佐々木はアルフォンゾ・ソリアーノにサヨナラホームランを打たれ、そのまま2001年シーズンは終わってしまった。

目標はあくまで世界一。マリナーズが世界一に輝いたとき、おそらくそのマウンドにいるのは佐々木になるのだろう。1年目より2年目、2年目より3年目、ひたすら前を向いてマイナーチェンジを繰り返しながら走り続ける佐々木。いまさら、メジャーに挑戦せずに日本に残っていたら・・・、なんて考える必要は全くないだろう。

■2002.2.23(現地2.22)
●ケーシー、レッズと3年間2020万ドルで契約延長!
ショーン・ケーシー
レッズはショーン・ケーシーと3年間の契約延長を果たした。4年目の2005年は球団側のオプションである。27歳と若いケーシーはシンシナティの地を気に入っていることもあり、この契約延長の申し出を素直に受け入れた。レッズは2003年に開場予定のグレートアメリカンベルパークが左打者に有利な球場ということから、左打者のケーシーはどうしても必要だった。ケーシーは過去2度もオールスターに出場したことがあるスター選手である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.110
ビリー・コッチ★ビリー・コッチ #44★ オークランド・アスレティックス

2002年からアスレティックスのクローザーとして投げることが決まったビリー・コッチ。メジャーデビューから3年連続で30セーブ以上挙げており、26歳の若さながらすでに通算セーブが100個である。ビリー・ビーンGMもジェイソン・イズリングハウゼンの抜けた穴を充分に埋めてくれるものと期待している。

2002年はアスレティックスのクローザーとして活躍予定。1974年、ニューヨーク州で生まれたコッチ。クレムゾン大学へ進学し、後にパイレーツへ進むクリス・ベンソンとは同級生だった。完成度の高いベンソンと比べると、未完成といった色合いが強く、チームの2番手エースに甘んじてはいたが、潜在能力は高く評価されていた。1996年のドラフトで、ベンソンがパイレーツから1位指名(全米1番目)されると、コッチもブルージェイズから1位指名(全米4番目)を受けてプロ入りを決めた。さらにこの年行われたアトランタオリンピックにも、ベンソンと共にアメリカ代表メンバーに選出され、銅メダルを手にしている。

1997年、1Aデュネディンでプロとしてのキャリアをスタートさせたコッチ。しかしこの年、3試合目の登板で肘を痛めてしまうアクシデントで、シーズンの残りを棒に振る結果に。トミー・ジョン手術を受け、再起へ向けてのリハビリに汗を流す結果となった。

そして1998年、以前よりも体力面でパワーアップしてフィールドへ戻ってきたコッチ。同じ1Aのリーグで25試合に先発し、リーグトップの14勝(7敗)に防御率3.75、108奪三振をマークし、完全復活を印象付けた。シーズン終盤には3Aシラキュースにも昇格し、3Aのプレーオフのマウンドにも立っている。

1998年、3Aで開幕を迎えた。最速で160キロを悠に超える速球で期待通りのピッチングを見せ、4月は5試合に登板し、3勝0敗と好調ぶりを見せつけた。そして、5月に入るとついにメジャーリーグからお呼びがかかった。大学時代からずっと先発をやってきたコッチだったが、5月5日のメジャー初登板は中継ぎとしてのものだった。メジャー2試合目の登板は、チームのエースであるパット・ヘントゲンを継いで、2イニングをピシャリと抑え、初セーブをマーク。こうしてコッチのクローザー人生が始まることになった。

もうブルージェイズでのプレーは見られない。常時150キロをマークする速球で若さを前面にアピールするコッチはこの年の6月、月間防御率0.61をマークし、6セーブを挙げる好調ぶりを見せた。そしてオールスターまでの前半戦だけで14セーブに防御率1.34を挙げ、新人でありながらチームのクローザーであるということを周囲に認めさせた。後半戦は3日連続の登板などもあり、疲れがあったためか、打ち込まれることもあった(後半戦の防御率は5.70)。しかしメジャー1年目のこの年、リーグの新人記録となる31セーブをマーク。これは1989年にグレッグ・オルソンの24セーブという記録を抜くものであるが、翌2000年に佐々木主浩が37セーブを挙げ、抜かれてしまう。

2000年、開幕からメジャーのロースターに名を連ね、フルシーズンをクローザーとして投げた。2年目のジンクスというものは全く感じさせず、68試合に登板し、9勝3敗33セーブをマークした。38回のセーブ機会において33個のセーブというのは、リーグ6位となる成功率86.8%を誇る。また、クローザーというのは最終回の頭から投げるというイメージが強いが、コッチは1イニング以上投げることもざらであり、2イニングを投げて手にしたセーブは7個を数える。

メジャー3年目となる2001年は、開幕からチーム状態が良く順調にセーブを記録していったコッチだったが、先発陣が崩壊していく中でなかなか登板のチャンスが訪れなかったのが実状であった。そんな中でも6月には4日連続セーブも記録した。8月には月間9セーブをマークし、孤軍奮闘。この年はキャリア最多の36セーブを挙げ、3年連続30セーブ以上をマークし、通算セーブ数もちょうど100となった。

オフには、クローザーのイズリングハウゼンを失うことが確実となったアスレティックスが、2人の有望なマイナーリーガー(エリック・ヒンスキー三塁手とジャスティン・ミラー投手)との交換でコッチの獲得を画策。このトレードが成立し、コッチのアスレティックス移籍が決まった。そのままブルージェイズにいるよりも、移籍した方がポストシーズン進出の可能性が高まることもあってか、この移籍を前向きに受け止めた。トロントより遙か遠いオークランドの地で、コッチの160キロを超える速球がチームをワールドシリーズへ導く日が必ずや来ることだろう。

■2002.2.22(現地2.21)
●リース、元チームメイトのグリフィーを批判!
ポーキー・リース
レッズからロッキーズ、レッドソックスとたらい回しにされ、2002年はパイレーツでプレーすることになったポーキー・リースが、レッズでチームメイトだったケン・グリフィーを批判した。というのもグレッグ・ボーンがいた頃のレッズは、ボーンを中心にまとまっており、シーズン96勝を挙げ、ポストシーズン進出まであと1歩というところまで迫ったが、ボーンが抜け、グリフィーが加入した2000年以降のレッズはまとまりがなく、優勝とはほど遠い位置にいる。というのもグリフィーに対する特別扱いが原因ということである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.109
ジェイソン・イズリングハウゼン★ジェイソン・イズリングハウゼン #44★ 
セントルイス・カージナルス

アスレティックスからFAになっていたジェイソン・イズリングハウゼンが、カージナルスと4年間の約2700万ドルで契約を交わした。イズリングハウゼン獲得にレンジャーズも3000万ドルを超える金額を用意していたと言われるが、チームの方針、戦力を見て、イズリングハウゼンがカージナルスとの契約を決めたという。

自らカージナルスを選んだイズリングハウゼン。イリノイ州で生まれたイズリングハウゼンは高校時代、野球だけでなくバスケットボールでもフットボールでもスター選手として活躍した。野球では投手としてではなく、キャッチャー、サード、センターを守っており、高校3年時には打率.340もマークする打撃を見せていた。大学を経て、1991年のドラフトでメッツから44位指名を受け、プロ入りした。

持ち前の強肩を生かし、本格的に投手となったイズリングハウゼン。1992年はルーキーリーグで1年を過ごすが、翌1993年に1Aピッツフィールドで15試合に先発し、7勝4敗、防御率3.29、104奪三振という成績を残し、飛躍のきっかけを掴んだ。さらに1994年は1Aセントルーシーにおいて開幕から好調を持続。14試合の先発で、6完投3完封を含んで6勝4敗の防御率2.23をマークすると、シーズン中盤に2Aビンガムトンへ昇格し、そこで5勝4敗という数字を残した。

将来はメッツのローテーション投手と周囲の誰もが期待したイズリングハウゼン。1995年の開幕を2Aで迎えるが、素晴らしいスタートを切った。まず初登板から4試合連続2桁奪三振をマーク。6試合に登板し、2勝1敗、防御率2.85という数字を残すと5月には3Aノーフォークへ昇格。実力のクラスの違いを感じさせない投球を見せ、6月には4勝無敗の防御率1.71でリーグの月間MVPを受賞。3Aのオールスターゲームにも出場するだけの好成績を挙げ、12試合の登板で9勝1敗、防御率1.55と抜群の成績を残した。

こうして迎えた7月、ついにメジャーリーグからイズリングハウゼンにお呼びがかかった。シーズン後半戦だけで14試合に先発し、9勝(2敗)をマーク。シーズン最後の登板となった試合でも8回まで無失点に抑える好投を見せるが、援護なくシーズン10勝目は逃した。しかし、この年はマイナーでの勝ち星を合わせると計20勝にも昇り、その将来性は末恐ろしささえ感じさせた。

この年のメッツは開幕から不調だったピート・ハーニッシュブレット・セイバーヘイゲンを放出し、イズリングハウゼン、ポール・ウイルソンビル・パルシファーら若手を積極的に起用したという、非常にリスクのある決断を下したシーズンであった。シーズンの前半戦と後半戦で先発ローテーションが違っていたと状況の中で、若手投手の踏ん張りもあり、リーグ3位の防御率3.88をマーク。メッツのこの試みは見事に成功したことになる。

メジャー2年目の1996年は肩と肘の故障に苦しんだ。その中でも6月9日のマーリンズ戦では6安打無四球に抑え、キャリアハイの10奪三振をマークし、メジャー初完封を記録している。しかし、怪我の影響はイズリングハウゼンを狂わせ、8月半ばには初めての故障者リスト入りも経験。結局、27試合の先発で6勝14敗、防御率4.77という成績に終わり、期待を裏切ってしまった。この年のイズリングハウゼンはピッチングよりもバッティングにあり、投手として2HR9打点をマーク。メッツの球団史で、シーズン2HRは1993年のドワイド・グッデン以来、シーズン9打点は1970年のトム・シーバー以来である。

もうアスレティックスでのプレーは見られない。1997年は開幕直前に故障してしまい、故障者リストで開幕を迎えた。4月に入り、リハビリの意味を含めて3Aで挑戦登板したが、これが裏目となり、右手首を痛めてしまう最悪の結果になってしまう。再び、故障者リスト入りし、イズリングハウゼンがメジャーに戻ってくるのは8月末まで待たなければならなかった。こうしてメジャーでは、わずか6試合の先発で2勝2敗の防御率7.58に終わってしまう。さらに翌1998年は怪我もあり、シーズンを丸々棒に振ってしまった。

1999年、かつての期待の星も今では過去の人となってしまう。開幕は3Aで迎え、再び実績を積み重ねる必要があった。その中で12試合に登板(先発8試合)し、3勝1敗の防御率2.29という成績を残し、5月末に2年ぶりのメジャー昇格を果たした。先発、中継ぎ、抑えで投げ、1勝3敗1セーブという成績をマークしたイズリングハウゼンだったが、トレード期限ギリギリの7月31日にアスレティックスへの移籍が正式に決まってしまう。

アスレティックスへの移籍は、プロ入りから先発投手として育てられてきたイズリングハウゼンに新たな光を灯すことになる。それはクローザーへの転向である。アスレティックスとしてはイズリングハウゼンに負担を軽くしたいというこの試みだったが、これが見事に成功した。移籍後、20試合に登板し、8度のセーブ機会で見事に8個のセーブをあげる完全ぶりを見せつける。

2000年は、14試合連続セーブを記録するなど好調をキープ。特に9月は6度のセーブ機会で全てセーブを挙げた。この月は、防御率1.74をマークし、チームの地区優勝にも大きく貢献した。そしてこの年は、6勝4敗33セーブをマークし、クローザーとしての適正を見せることになった。翌2001年も、65試合に登板し、4勝3敗34セーブをマーク。2年連続30セーブ以上ということで、イズリングハウゼンはリーグを代表する押しもされぬクローザーになったといえる。

150キロを超えるストレートと大きなブレーキのカーブやスライダーで相手打者を狂わせる投球を見せるイズリングハウゼン。満を持してFA宣言したイズリングハウゼンの元に幾つかの球団が獲得に動いた。その中で選んだチームは、決定的なクローザーを欠いていたカージナルスであった。アルバート・プホルスJD・ドリューらの若手選手の台頭が目立ち、マーク・マグワイアが引退した穴をティノ・マルチネスの獲得で埋めるなど、2002年シーズンへの準備は万端である。カージナルスをワールドシリーズへ導き、最後にマウンドへ立っているのは、このイズリングハウゼンかもしれない。

■2002.2.21(現地2.20)
●ダー、ジョンソンへの別れにチームメイト含めて計1500人!
San Diego PADRES
交通事故で帰らぬ人となったマイク・ダーデュアン・ジョンソンの2人の葬式に、家族や友達、パドレスの球団組織の選手を始めとしてバットボーイまで、計1500人もの人間が集まった。この中にはパドレスからマリナーズへの移籍が決まったベン・デービスも駆けつけたという。チームメイトだったダミアン・ジャクソンは「こんなに多くの人間がネクタイにスーツを着ている姿を見たら、マイクは大笑いするだろうな」と在りし日のダーを懐かしがった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.108
新庄剛志★新庄剛志 #5★ サンフランシスコ・ジャイアンツ

「ひょっとするとバリー・ボンズがメッツに来るかもしれない。」そう話していた新庄剛志だったが、まさかその数日後にボンズのいるジャイアンツへ自分が移籍するとは全く思ってはいなかった。最初はショックで落ち込んだ新庄も、徐々に現実を受け止める。メッツ時代と同じ背番号5を付け、西海岸サンフランシスコで新庄のメジャー2年目のシーズンが始まろうとしている。

2002年はジャイアンツでプレーすることが決定した新庄。1989年にドラフト5位で阪神タイガースに指名され、プロの世界に足を踏み入れた新庄。高校3年夏の県大会の決勝戦では敗れてしまい甲子園には出場できなかったが、サイクルヒットを記録し、その打撃のセンスは折り紙付きだった。プロ3年目の1992年には1軍に昇格し、初スタメン初打席の初球をホームランするという強運ぶりを見せつけた。これで勢いに乗り、一気にスターダムへのし上がり、人気をかっさらってしまった。

その後も飛び抜けた成績を残すわけではなかったが、その振る舞いから常に新庄は注目の的。しかし、1995年のオフには、監督との不和が原因となり23歳の若さで「野球を辞める」という発言で周囲を驚かせた。しかし、この発言は2日後に取り消された。新庄が潜在能力を秘めているであろう事は誰もが認めていたが、なかなかそれが開花しない。1999年からの新監督が投手転向を勧めたのがいい転機となったか、2000年には打率.278、28HR、85打点という記録を残した。この年は、ようやく一流の人気に実力が追いつくきっかけを掴んだ年になったといえる。そして、FA権も取得し、オフの動向に注目が集まった。

イチローのポスティングシステムによるマリナーズへの移籍が世間が騒がれる中、新庄もFA宣言。もちろんタイガースは5年間で総額12億円という破格の金額を用意し、残留を求めた。他にもベイスターズ、スワローズも獲得へ名乗りを挙げ、契約内容は申し分のないものだった。その中で新庄はメジャーリーグの球団からのオファーを待っていたのである。この時期に行われた日米野球に参加し、打率.409(22打数9安打)をマークし、自らの自信を深めることになった。

スワローズ移籍確定、などと伝えられたりもしたが、新庄は確信の見せない発言でこれをかわした。事情を知らない周囲は新庄のふわふわしたように見える態度に右往左往し、厳しい言葉をなげる人間も当然いた。待っていたメジャーからのオファーが届いたのは12月に入ってからのことである。そして、新庄は決断した。「いろいろ考えて、やっと自分の野球に合った環境が見つかりました。その球団はニューヨーク・メッツです。」

突然の新庄の発言に周囲は驚いた。億を超える年俸の提示を蹴り、メジャー最低年棒の20万ドルで契約。一応、3年契約を結びはしたが、その契約はメッツサイドから違約金を払えばうち切ることも可能という、新庄にとっては綱渡りの契約といえた。しかし、新庄は決断したのである。この発言から1週間後にはメッツの本拠地、シェイスタジアムで正式契約を結んだ。その後も結婚に加え、フェラーリをインターネットオークションに出すなど、オフの話題提供(生活のため?)には事欠かなかった(ちなみにフェラーリに買い手はつかなかった)。

サンフランシスコでのスターを目指す。スプリングトレーニングでは3割を悠に超える打率を記録し、開幕ロースター入りを確実にした。そして、4月3日の宿敵ブレーブス戦、2対2の同点で迎えた8回表、四球で出塁したベニー・アグバヤーニの代走として初めてメジャーリーグの舞台に立った。ここで打席のエドガード・アルフォンゾがセンターフライを放ち、その打球をアンドリュー・ジョーンズが後ろ向きで捕ったのを見るやすかさず2塁へタッチアップ。この好走塁がロビン・ベンチュラの2ランホームランを呼び込む。

その後レフトの守備につき、デーブ・マルチネスの打球をダイビングキャッチする好守備も披露。そして、同点に追いつかれて迎えた延長10回に、ケリー・ライテンバーグのスライダーを詰まりながらセンター前に落とし、メジャー初ヒットも記録した。少ない出場機会ながら新庄らしさを存分に出したメジャーデビュー戦となった。4月9日の本拠地開幕戦でメジャー初ホームランを放つなど、出だしは順調だった。

故障していた選手が復活してきたということもあり、常時出場というわけにはいかなかった。さらに、5月25日のマーリンズ戦において、前日の試合で大量リードした場面でフルスイングしたことが相手の怒りを買い、死球を受けたという事もあったが、チームメイトのトッド・ジールが3ランホームランを放ち、新庄を守った。元々足を痛めていたこともあったが、6月17日のヤンキース戦で1塁へ駆け込んだことがさらに左足を痛めることになり、故障者リストに入ってしまった。

常にプラス思考で前進する新庄は戦線復帰後、打撃に守備に大活躍。開幕から低迷していたメッツも勢いを取り戻し、それはまるで逆転優勝も可能といえるほどの勝ちぶりだった。勝負強い打撃を見せる新庄がチームの4番に座ることもあった。こうして新庄のメジャー1年目は123試合に出場し、打率.268、10HR、56打点という成績に終わった。本人も充分に満足した1年と振り返っている。

突然のジャイアンツ移籍も、レフトにボンズ、ライトにレジー・サンダースが入り、新庄はセンターを守る予定になっている。ジャイアンツサイドも新庄の人気ぶりに注目し、大きく売り出そうとしている。新庄からは「メジャーリーグナンバー1の外野手になる」という力強い言葉も聞かれる。果たして彼の言うメジャーリーグナンバー1とは何か。今後も温かく見守っていかなければならない。

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