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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.2.16〜2.20★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.2.20(現地2.19)
●フィリーズ、アブレウと5年間で6000万ドル以上の大型契約!
ボブ・アブレウ
フィリーズが球団史上初の「30−30」クラブ入りを果たしたボブ・アブレウと、5年間で6000万ドルを超える大型契約を結んだことが伝えられた。充当に行けば2003年オフに契約が切れてFAとなるだけに、流出を防いだことになる。28歳のアブレウの通算打率は.307をマークしており、フィリーズには貴重な戦力である。

●37歳カンセコ、エクスポズとマイナー契約!通算500HRへ望み!
ホゼ・カンセコ
通算500本塁打へあと38本と迫っているホゼ・カンセコがエクスポズとマイナー契約を交わした。仮にエクスポズでメジャーに昇格すれば、初めてのナショナルリーグのチームでのプレーとなり、指名打者がないため外野を守ることになる。1986年に新人王、1988年にMVPとメジャー史上初の「40−40」を達成と輝いていたカンセコ。37歳になり、再び輝くことが出来るか。

●ハドソン、左足首捻挫にヒヤリ!しかし、大事には至らず!
ティム・ハドソン
守備練習の際に左足首を捻り心配されたアスレティックスのエース、ティム・ハドソンだが、病院での精密検査の結果、異常がないことがわかった。本人も大丈夫と話していることから、最悪の状況は避けられた。2000年にシーズン20勝をマークし、昨年も18勝と勝ちを計算できる投手だけに、無事の知らせに周囲はホッと一安心というところか。

●かつての名投手グッデン、飲酒運転で逮捕されていた!
Major League Baseball
かつてメッツのエースとして活躍したドワイド・グッデンが飲酒運転で逮捕されていたことがわかった。グッデンは500ドルを払い仮釈放されたが、当然免停である。交通事故が続いているメジャーリーグにとって追い打ちをかける最悪のニュースである。ちなみにグッデンの通算成績は194勝112敗の防御率3.51である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.107
ミゲル・テハダ★ミゲル・テハダ #4★ オークランド・アスレティックス

野球の1番うまい人間がショートを守るという人がいる。実際に打球が飛んでくる可能性が高く、ほとんどの中継プレーに絡むことや、俊敏さや肩の強さ、一瞬の判断力がより求められる点から見てもそれは間違っているとは言えない。メジャーリーグには才能豊かなショートが山ほどいる。アスレティックスのミゲル・テハダももちろんその一人だ。

180センチに満たない身長ながら長打力が魅力のテハダ。ドミニカ共和国に生まれたテハダ。子供の頃から当然のように野球を始め、アスレティックスと契約したのは1993年7月のこと、テハダの17歳の夏だった。契約後、そのまま母国ドミニカのサマーリーグでプレー。俊足、強肩が目立ったが翌1994年は、74試合に出場し、打率.294、18HR、62打点と打撃における高い潜在能力の一片を見せている。

1Aサザンオレゴンに昇格した1995年は、持ち前の強肩を生かすためにそれまで守っていたセカンドからショートへ本格的にコンバート。慣れないショートの守備に加え、初めて親元を離れたことも影響してか、この年は打率.245と低迷した。しかし、守備面において随所に見せるプレーはショートとして適正があることを如実に物語っていた。

1996年は、ランクが上の1Aオデストでフルシーズンプレー。114試合に出場し、打率.279、20HR、72打点、27盗塁をマークし、一つの壁をうち破ったことになる。実はこの年、44個ものエラーを記録しているが、これはテハダ自身の守備範囲の広さと積極性からのことである。打って走って守れるショートとして球団内の評価はますます高まっていった。

1997年は2Aハンツビルで開幕を迎えた。4月には13試合連続ヒットを記録するなど開幕から好調のテハダは128試合に出場し、打率.275、22HR、97打点をマーク。このテハダにメジャーからお呼びがかかったのは8月末のことだった。8月28日のヤンキース戦で先発出場し、初めてメジャーの舞台を踏んだことになる。しかし、このデビュー戦は5打数ノーヒットに終わってしまうが、翌日のドジャース戦にも先発出場し、第1打席に野茂英雄から打った3塁打がメジャー初ヒットである。この年はメジャーで26試合に出場するに留まった。

期待されて迎えた1998年、スプリングトレーニングで故障してしまい、開幕から約2ヶ月も故障者リストで過ごす羽目になってしまった。マイナーで調整後、5月30日にメジャーへ戻ってきた。結局この年は、打率.233、11HR、45打点という記録に終わる。しかし、アスレティックスのショートとして11本のホームランというのは、1970年にバート・キャンパネリスが22本打って以来である。一方、守備面では26個のエラーを冒してしまい、守備面の安定感も求められたシーズンとなった。

1999年、スプリングトレーニングで打率4割を越える猛打を見せ、開幕メジャーの座を自らの実力で掴んだ。開幕から絶好調で開幕12試合過ぎた時点での打率が.375をマークしていた。シーズン初ホームランは5月まで持ち越されたが、6月11日には1試合3HRと要所要所で長打力も見せつけた。この年は159試合に出場し、打率.251、21HR、84打点を記録した。ちなみにシーズン84打点はアスレティックスのショートとしては球団新記録である。

すでにメジャーリーグを代表するショートストップである。着実に成長の跡を残しているテハダは2000年、更に飛躍を果たすことになる。160試合に出場し、打率.275、30HR、115点をマーク。1901年に誕生し、フィラデルフィアからカンザスシティ、そしてオークランドへと2度の移転を重ね、幾度かの黄金時代も経験している名門アスレティックスにおいて、ショートストップとして30HR、100打点を記録したのは、この年のテハダが初めてである。アメリカンリーグのショートの中でも、アレックス・ロドリゲスの41HR、132打点に次ぐ2番目の長打力を見せたことになる。

2001年、開幕からつまずいたチームと共にテハダも不調に苦しんだ。6月に入るとヒットは出るがなかなか打球が上がらず苦しんだが、月末の6月30日、対レンジャーズ戦でキャリア2度目の1試合3HRを記録。初回に満塁ホームラン、2回表に3ランホームラン、9回表にはソロホームランを放ち、実に1試合8打点を挙げたことになる。メジャーリーグ史上、ショートストップで1試合3発を記録したのは、ミゲル以外に2人おり、アーニー・バンクスが4回、トニー・ラゼーリが2回とそれぞれ達成しており、偉大な先輩と名前を並べたことになる。これをきっかけに調子が上向き、2日後の対エンゼルス戦では延長12回に長谷川滋利からサヨナラヒットも打った。

チームの調子が上向いてくると同時に調子を上げていったテハダ。ワイルドカードでのポストシーズン進出を確定させた9月29日の対マリナーズ戦、第1打席に先制点へとつながる3塁打を打ち、続く第2打席にはシングルヒット、第3打席には2塁打を放ち、7回表に巡ってきた第4打席には満塁ホームランを放ち、見事にサイクルヒットを達成。アスレティックスにとってはトニー・フィリップス(1986年)、マイク・ブローワーズ(1998年)、エリック・チャベス(2000年)に続くサイクルヒット達成者となった。なお、セーフコフィールドでのサイクルヒット達成は、このテハダが初めてである。ちなみにこの試合はイチローが、新人としてはジョー・ジャクソン(1911年)の記録を塗り替えるシーズン234本目のヒットを打っている。

ショートの守備も年々安定感を見せ始めているテハダ。25歳という年齢の他に、俊足ということを考えても、将来的にはチームの大先輩ホゼ・カンセコも入っている「40−40」クラブ入りも夢物語ではない。しかし、周囲が期待するのはオークランドのフランチャイズプレイヤーとなり、アスレティックスを何度もワールドシリーズへ導くことだ。

■2002.2.19(現地2.18)
●ヤンキースの一員として、ジオンビーの新たな野球生活が始まる!
ジェイソン・ジオンビー
新たにヤンキースのピンストライブに袖を通すことになったジェイソン・ジオンビーが、ついにヤンキースのクラブハウスに現れた。「今日はとても大事な日になった」と話したジオンビーはまるで新人のような心境だったという。髪も短くし、ひげも剃ったジオンビー。それまでのアスレティックススタイルから、王者ヤンキースのスタイルに変わった、新しいジオンビーのメジャー生活が始まる。

●復活!ガルシアパーラ!手首も異常なし!
ノマー・ガルシアパーラ
2001年は怪我でほとんど試合に出場できなかったノマー・ガルシアパーラが、痛めた手首の状態も回復し、元気な姿をファンの前に見せた。優勝候補に挙げられていながらヤンキースに独走を許したのは、ガルシアパーラ、ペドロ・マルチネスという投打の軸2人の離脱が原因である。オーナーが変わった2002年のレッドソックス打線を引っ張っていくのはガルシアパーラしかいない。

●”23歳”ファーカル、痛めた肩の状態も万全!
ラファエル・ファーカル
2000年新人王のラファエル・ファーカルだが、怪我で離脱した昨年6月以来のフィールドへ返ってきた。左肩を痛めての離脱だったが、その肩の状態も万全だという。つい先週、21歳だと思われていた年齢が、噂されていたとおり23歳だったことがばれてしまったファーカルだが、2002年はブレーブスの「1番ショート」としての活躍が期待されている。

●42歳レインズ、マーリンズとマイナー契約を交わす!
Florida MARLINS
42歳のティム・レインズだが、マーリンズとマイナー契約を結び、メジャーで23年目のシーズンを過ごそうと汗を流している。2001年はエクスポズとオリオールズでプレーし、51試合の出場で、打率.303、1HR、9打点という数字に終わっている。過去7度もオールスターに出場しているレインズは、マーリンズでは貴重な代打の役割が求められることになるという。

●ツインズ若手2選手、交通事故で重傷!
Minnesota TWINS
スプリングトレーニングが始まったばかりのメジャーリーグだが、ツインズの若手2選手が交通事故で重傷となっている。一人はルーキーリーグでプレーする19歳捕手のジョシュ・ジョンソン、もう一人は1Aの左投手、20歳のジェフ・ランダゾである。パドレスの期待の若手、マイク・ダーが交通事故で帰らぬ人になってから、さほど日も経っていないうちのこの事故に周囲は頭を痛めているという。

●未来の大砲、フィルダーの息子、現る!
Detroit TIGERS
タイガースのスプリングキャンプに、かつて2年連続ホームラン王、3年連続打点王に輝いたセシル・フィルダーの17歳の息子、プリンス・フィルダーが現れ、バックスクリーンに飛び込む大きな当たりを放った。体格も父親に似ているだけに、バッティングを見たフィル・ガーナー監督もフィルダーの再来だと喜んだ。しかし、現在高校3年生のアリゾナ州立大学の進学が決まっており、6月のドラフトで指名される可能性は低い。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.106
リッチー・セクソン★リッチー・セクソン #11★ ミルウォーキー・ブリュワーズ

メジャーリーグ史上最多の1339三振を喫した2001年のブリュワーズ打線。その中でホゼ・ヘルナンデスの185三振に次ぐ、178三振を記録したのが身長2メートルの長身、リッチー・セクソンである。しかし、注目すべきは三振数ではなく長打力の方で、45HR、125打点と持ち前の長打力が開花した。

2メートル近い長身がトレードマークのセクソン。高校時代は野球の他にフットボール、バスケットボールもプレーし、3つのスポーツで生まれ育ったオレゴン州のオールスターメンバーに選出されるだけの大活躍。しかし、高い運動能力を見せていたセクソンも、メジャーリーグのスカウトからはさほど注目されていたわけではなかった。高校卒業時の1993年に、インディアンズから24位指名という低評価でプロ入りすることになった。

プロ1年目こそは40試合の出場で、打率.186と結果を出せなかったが、プロ2年目の1994年は1Aコロンバスで130試合に出場し、打率.272、14HR、77打点という記録を残した。翌1995年はランクが上の1Aキンストンで、131試合の出場で、打率.306(リーグ2位)、22HR、85打点をマークし、持ち前の打撃センスを充分に見せつけた。

1996年は2Aカントン・アクロンでフルシーズンを過ごし、打率.276、16HR、76打点という記録を挙げた。そして、翌1997年は3Aバッファローへ昇格。開幕から1ヶ月も怪我で離脱するも、復帰後に115試合も出場し、31HR、88打点をマークする長打力を見せた。これでホームラン王のタイトルを獲得し、しかもシーズン31HRは球団記録であった(しかし翌1998年、後に日本でプレーすることになるアレックス・ラミレスが34HRを打ち、記録を塗り替えた)。この年の9月にメジャーへ初めて昇格し、5試合に出場している。

この時のインディアンズには、ファーストにはジム・トーミがおり、セクソンと同じくメジャーデビューを飾ったばかりの若いショーン・ケーシーもおり、同じファーストを守るセクソンにとっては厳しい状況であった。そんな中で開幕前にケーシーがレッズへ移籍してしまう。セクソンにとってチャンスと思われたが、厚い戦力の壁に跳ね返され、1998年の開幕は3Aで迎えることになってしまった。

しかし、8月に入りトーミが右手薬指を骨折し戦線離脱。ここでそれまで3Aで打率.297、21HR、74打点をマークしていたセクソンにお呼びがかかりメジャーへ再昇格。トーミの代わりにファーストを守ったり、時には外野を守ったりもした。わずか49試合の出場に過ぎなかったが、打率.310、11HR、35打点をマークし、これによりセクソンはインディアンズには欠かせない選手となった。

2000年途中からブリュワーズへ移籍。1999年はスプリングトレーニングから指名打者の座をウィル・コーデロと争って敗れてしまうが、6月に入りコーデロが左手首を骨折したことがセクソンにメジャー出場の機会を多く与えることになった。結局、ファーストで53試合、レフトで40試合、指名打者で21試合も先発し、代打での出場も含めると、134試合に出場し、打率こそ.255ながら、31HR、116打点をマークした。しかし、117個もの三振を喫していながら、四球はわずか34個というところにセクソンの今後への課題が残っていたと言える。当時のマイク・ハーグローブ監督はセクソンに若い頃のマーク・マグワイアの姿を思い浮かべていたという。

2000年、優勝候補のインディアンズだったが、主砲のマニー・ラミレスの怪我での離脱やトーミやロベルト・アロマーらの不振で、若い選手の多いホワイトソックスに開幕から突っ走られる原因となった。ポストシーズン進出が厳しくなったこともあり、チームはセクソンをトレード期限ギリギリの7月28日にブリュワーズへ送り込むことを決めた。4対3のトレードであった。

突然ブリュワーズのユニフォームを着ることになったセクソンだが、ファーストの定位置を確保し、8月後半には3試合連続ホームランや12試合連続ヒットを記録するなど打棒を発揮。移籍後のセクソンは57試合に出場し、打率.296、14HR、47打点と素晴らしい成績を残した。移籍前にも16HRを放っていることから2年連続の30HRを記録したことになる。

本拠地をミラーパークに移した2001年、怪我人が続出したこともあり、投打が噛み合わずにチームは低迷したが、セクソンのバットは火を噴いた。扇風機のようにクルクル回りもしたが、キャリアハイの45HRをマーク。特に9月25日のダイヤモンドバックス戦ではジェロミー・バーニッツと共に1試合3HRという大爆発を見せた。1試合に同じチームの2人の選手が3本のホームランを打つというのはメジャー史上初のことである。

まだ28歳と若いセクソンの課題は選球眼を鍛えることである。もちろん、背が高すぎるため、他人よりストライクゾーンが大きいというハンデ(?)はあるのだが。

■2002.2.18(現地2.17)
●チッパー、2002年から本格的に外野手へ!
チッパー・ジョーンズ
これまでサードを守り、オールスターにも出場したことがあるチッパー・ジョーンズが2002年から本格的に外野手としてスタートを切ることになった。ブレーブスの顔ともいえるチッパーも、外野へのコンバートを積極的に受け止め、練習に励んでいる。チームがビニー・キャスティーヤを獲得したためのコンバートだが、これがチッパーの打撃面にどのような影響を及ぼすことになるだろうか。

●引退したはずのビューナー、現役復帰??んなーこたーない!
ジェイ・ビューナー
2001年限りで引退を発表したジョイ・ビューナーがマリナーズのスプリングトレーニングに招かれた。現役復帰か、と思われるかもしれないが、本人は全くその気はないそうだ。キャリアの大半をマリナーズで過ごし、ミスターマリナーズとしてチームを盛り上げたビューナー。引退してもマリナーズナインに活気を与えそうだ。10日ほどはマリナーズと共に汗を流し、3月にはシアトルへ戻るという。

●アスレティックスの頭脳、GMビーン、2008年まで契約延長か!?
Oakland ATHLETICS
オークランドというスモールマーケットながら、常にアスレティックスを優勝候補に留まらせているのは、GMのビリー・ビーンの手腕抜きには語れない。ティム・ハドソンマーク・マルダーミゲル・テハダエリック・チャベスという若い選手達がチームと長期契約を結ぶ中、ビーン自身も2005年までの契約を2008年まで延長しようという話し合いの真っ最中だという。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.105
オマー・ビスケル★オマー・ビスケル #13★ クリーブランド・インディアンズ

<written by hiroki>

華麗な守備でファンを魅了し、先日殿堂入りを果たしたオジー・スミス。彼の後継者として名が挙がるショートストップがオマー・ビスケルである。カル・リプケンアレックス・ロドリゲスノマー・ガルシアパーラデレク・ジーターらを退け、アリーグゴールドグラブ賞を93年から9年連続受賞している。2000年のシーズンでは、わずか3失策、95試合連続無失策を記録している。

ショートの守備はまさに一級品のビスケル。ベナズエラ出身のビスケルは幼い頃から非凡な守備技術を持っていた。彼の得意技、素手で打球を処理してスローイングする技術はこの頃から身についていた。華麗な守備力と数字以上にしぶとい打撃を武器に1984年。ドラフト外でマリナーズと契約。1989年にメジャーに定着した。マリナーズ時代は3割を超えることはなく、”守備の人 というイメージだった。そして1993年オフ、転機が訪れることになる。全米1位指名のロドリゲスを育てるチーム方針から、ビスケルはインディアンスへトレードされてしまう。

新球場オープンに合わせて若手育成に力を入れていたインディアンス。ケニー・ロフトンという素晴らしいリードオフマンに加え、マニー・ラミレスジム・トーメイなどの長距離砲も育ち、1995年にはワールドシリーズに出場。強力な投手陣を持つブレーブスに敗れたが確実にチームは強くなっていた。ビスケルもロフトンとラミレスのつなぎ役として打撃の成長もみせた。1997年にもワールドシリーズまで勝ち上がるも、マーリンズに敗れている。

1999年、ア・リーグ中部地区の強豪となったインディアンスに更なる追い風が吹く。ロベルト・アロマーの加入である。ビスケルとアロマーの通称、ダブルプレーコンビ の誕生である。メジャーでもっとも狭い二遊間ができたのだ。この年、ビスケルは.333の高打率を記録し、充実したシーズンをおくった。

2000年オフには日米野球でアロマーと共に来日。第二戦の九回裏にロッテの小林雅英からサヨナラホームランを放ち、メジャー選手の待つホームベースにスライディングしてホームインしている。得意の守備でもアロマーとの併殺処理をみせ、日本のファンを魅了した。

メジャー昇格後にスイッチヒッターになった努力人。2001年はストライクゾーンの改正により打率を落としたが、守備に衰えはなかった。8月のマリナーズ戦では打席に入ったビスケルがアーサー・ローズ(マリナーズの中継ぎ投手)のピアスがまぶしいとクレームをつけ、あわや乱闘という場面があった。この試合がプレーオフの前哨戦といわれていたためと、ビスケルがローズに抑えられていたからからいちゃもんをつけたんだとマスコミは書いていた。

そしてディビジョンシリーズで2勝1敗とリードしながらも結局マリナーズに敗れてしまう。しかし、ビスケルはこのシリーズ打率.409と打ちまくり、イチローに次ぐ打撃成績を残している。第5戦のイチローの7回の打席でセンター前に抜けるかという打球に追いつき、ものすごい体勢から送球したプレーは世界最高の守備の意地だったにちがいない(結果は内野安打)。

2002年はアロマーがメッツに去り、ダブルプレーコンビは3年で解散になってしまった。今年はビスケルにとってもチームにとっても新たなるスタートの年になる。

■2002.2.17(現地2.16)
●フィリーズ、2003年はどこへ行くのか!?
スコット・ローレン
フィリーズのチームリーダーとして活躍するスコット・ローレンだが、オフにはFA宣言し、他球団と交渉することとなりそうだ。フィリーズからの10年間1億4000万ドルのオファーを断った頃から噂されていたことである。フィリーズは1993年にワールドシリーズ進出以降、3地区制に移行してからは全てブレーブスに地区優勝の座を奪われている。フィリーズがローレンと契約延長するというのは極めて難しそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.104
カルロス・ベルトラン★カルロス・ベルトラン #15★ カンザスシティ・ロイヤルズ

2001年、チームトップの打率.306をマークし、主力が移籍などで抜けていくロイヤルズの屋台骨を支えたカルロス・ベルトラン。スピード感溢れるプレーは打撃にも守備にも現れ、地区最下位に終わったチームの中で充分に光る輝きを見せた。

まだまだ若い25歳のベルトラン。プエルトリコに生まれたベルトランは父と兄の影響もあり、5歳の頃から野球に興味を持ち始めた。高校時代から注目され、ドラフト1位指名を確約されるほどの選手に成長した。しかし、ドラフト前に腰を痛めてしまうアクシデントがあり、1995年のドラフトではロイヤルズに2位指名という形でプロの世界に足を踏み入れた。

指名されたその年はルーキーリーグでプレーし、打率.278ながら広い守備範囲と強肩ぶりで注目を浴びた。さらに1年目に本人の希望もあり、それまでの右打ちからスイッチヒッターへの転向に挑戦した。この挑戦は1997年、1Aウィルミントンで打った11本のホームランのうち、10本が左打席から打ったということで一つの結果を出した。

1998年は1Aで開幕を迎えるが、6月に打率.323、3HR、20打点を記録し、リーグの月間MVPを獲得。オールスター後に2Aウィチスタへ昇格し、47試合の出場で打率.352、14HR、44打点という素晴らしい成績を残した。そして、9月に入って、ついにメジャーからお呼びがかかる。9月14日のアスレティックス戦で初めてのメジャーリーグの舞台に立ったベルトラン。シーズンも終盤だったため、わずか14試合の出場ながら、1試合で2本の3塁打を打つ試合もあるなど、存分に若い才能を発揮。翌年以降の活躍を期待させた。

スピード感溢れるプレーは一見の価値あり。1999年、スプリングトレーニングから活躍したベルトランは、見事に開幕から「1番センター」の座を掴んだ。1年目は1Aでプレーしていた頃から考えると、周囲も驚く出世である。メジャーで初めてフルシーズンを戦い、156試合に出場し、打率.293、22HR、108打点、27盗塁をマークし、文句なしで新人王を獲得した。さらに112得点も記録し、新人で100打点100得点をマークしたのは、1975年に新人王とMVPを同時受賞したフレッド・リン以来の快挙である。

背番号も前年までの36番から15番に変わり、更なる飛躍が期待された2000年だが、膝の故障があり、約2ヶ月もの間、故障者リストで過ごすことになる。結局、わずか98試合の出場に終わり、打率.247、7HR、44打点と期待を裏切ってしまった。

2001年はシーズン開幕前にジョニー・デーモンを移籍で失い、苦しい布陣での開幕を迎えたのロイヤルズ。投打がうまく噛み合わず、5月末からは地区最下位が指定席になってしまった。主砲のマイク・スウィーニーが絶不調に陥ったことも原因になり、チームにとっては苦しいシーズンとなった。優勝戦線から完全に脱落したこともあり、主力のジャーメイン・ダイの放出を決断。その中で、ベルトランは孤軍奮闘した。シーズンが終わってみれば、155試合に出場し、打率.306、24HR、101打点、31盗塁を記録したベルトラン。これは新人王を取った2年前以上の成績を残したことになる。

練習においてもひたむきな姿勢で野球に取り組むベルトラン。「30−30」クラブ入りするのは、ほとんど時間の問題といえる。スピードに長打力を兼ね備えているだけに、今後の成長を見逃せない選手である。

■2002.2.16(現地2.15)
●パドレス期待の外野手ダー、交通事故で急死!
ご冥福をお祈りします。
パドレスの若手外野手、マイク・ダーがフェニックスのフリーウェイを走行中、交通事故に巻き込まれ帰らぬ人となった。ダーの車に同乗していた友人のマイナーリーガー、デュアン・ジョンソンもこの事故に巻き込まれ、共に帰らぬ人となる最悪の結果になった。

1999年に初めてメジャーの舞台に立ったダーだが、初めてメジャーでフルシーズンを経験したのは2001年が初めてである。2000年に3Aで91試合に出場し、打率.344、9HR、65打点という成績を残し、球団内のマイナーリーガーにおけるプレイヤーオブザイヤーに選ばれるという、まだまだこれからの期待の選手だった。2001年の開幕戦ではセンターで先発出場するなど、まさに前途は有望だったといえる。

パドレスの球団組織の中では昨年7月にも交通事故でマイナー選手を失うなど、つらい出来事が続いている。ダーの訃報を聞いた際、チームのクローザーであるトレバー・ホフマンはその場で泣き崩れたという。

●タパニ、13年間のメジャー生活に終止符!37歳で引退へ!
ケビン・タパニ
FAになっていた37歳のケビン・タパニが13年間のメジャー生活にピリオドを打つことを決めた。2001年のタパニは開幕から好調で、最初の9試合の登板で8勝1敗と抜群の成績を残したが、シーズンが終わってみれば、9勝14敗、防御率4.49と負け越してしまった。FAになった後も5球団から誘われたが、結果として選んだのは引退の道だった。タパニはツインズに在籍していた1991年に16勝9敗、防御率2.99という成績を挙げ、この年に世界一も経験している。通算成績は143勝125敗の防御率4.35である。

●ストットルマイヤー、復活をアピール!球団も大喜び!
トッド・ストットルマイヤー
世界一に輝いたダイヤモンドバックスの中で、その輪に加われず怪我で苦しんでいた36歳のトッド・ストットルマイヤーが復活の手応えを掴んだ。1999年にダイヤモンドバックスへ移籍後は、3年間もストットルマイヤーらしいピッチングを見せてはいない。ランディ・ジョンソンカート・シリングに加え、新加入のリック・ヘリングなど先発陣に実績ある投手が並ぶ中で、ストットルマイヤーはどこで投げることになるだろうか。

●スモルツ、完全復活へ向けて、さらにもう1,2週間!
ジョン・スモルツ
ブレーブスのクローザーが予定されているジョン・スモルツが、右手親指から入ったブドウ球菌の影響でブルペンに入るのはもう少し時間がかかりそうだ。まだ投げることは出来ないが、普段からボールを手にして、来るべき日のために備えているという。スモルツは2002年のブレーブスの鍵を握ると言っても過言ではないだけに完全復活が待たれるところだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.103
ラリー・ウォーカー★ラリー・ウォーカー #33★ コロラド・ロッキーズ

2001年、打率.350でナショナルリーグの首位打者に輝いたラリー・ウォーカー。なんと、1998年、1999年にも首位打者になっており、なんとここ4年で3度も首位打者に輝いていることになる。そんな素晴らしい才能を見せるウォーカーもプロ入りしたときは野球のルールすら知らなかったとは誰も信じないだろう。

4年間で3度も首位打者になっているウォーカー。カナダのブリティシュコロンビア州に生まれたウォーカー。野球よりもアイスホッケーが盛んな土地だったことや、兄の影響もありウォーカー自身もアイスホッケーをプレーするようになる。高校時代、アイスホッケーのゴールキーパーとしてプレーするも、満足できる出場機会が与えらないこともあり次第にアイスホッケーから心が離れていった。

そもそもウォーカーが在籍した高校では野球部自体がなく、その地域ではそれが当たり前だった。夏が短いカナダでは野球をやる機会すらそれほどなかった。高校卒業時にアルバイトをしながらたまたま野球をやっていたところを、エクスポズのスカウトが見ていたことがウォーカーの人生を大きく変えてしまった。ちらりと見せる野球の才能にくわえ、これまであまり野球をやっていなかったという点がウォーカーの評価を高めさせた。1984年11月のことである。

プロとして初めてルーキーリーグに参加した1985年、ファーストやサードを守りながらウォーカー自身の適正を探した。初めて本格的な野球をやるということで時にはトンチンカンなプレーも見せたが、徐々に野球になれていった。足が速いことと強肩であるということから、翌1986年途中に外野へ正式にコンバート。この年は1Aバーリントンで95試合に出場し、打率.289、29HR、74打点を記録し、シーズン終盤にはランクが上の1Aへ昇格も果たした。

1987年、2Aジャクソンビルでフルシーズン過ごし、128試合の出場で、打率.287、26HR、83打点と充分なパワーを見せた。球団内からもウォーカーへの評価が高まる中で、1988年はメジャーリーグのエクスポズのスプリングトレーニングに招待選手として参加が決定。ここで活躍すれば開幕メジャーも夢ではないところだった。しかし、それ以前に参加していたメキシコのウインターリーグで足を捻ってしまった。これがとんでもない大怪我であり、1年間を棒に振ることになってしまった。

1989年、3Aインディアナポリスで復活を果たしたウォーカー。3Aで114試合に出場し、打率.270、12HR、59打点をマークし、この年の8月半ばには待望のメジャー昇格を果たした。メジャーではわずかに20試合の出場にとどまったが、前年の怪我からの復活は充分にアピールした。

1994年にはアウトカウントを間違えて子供にボールを渡したことも。初めて開幕をメジャーで迎えた1990年、メジャーでレギュラーを獲得した。133試合に出場し、打率は.241と低かったが、新人として19HRは球団の新人記録である。チームの中でもマーキス・グリッソムモイゼス・アルーらの若手がメジャーに昇格し、チーム内に活気が溢れていた。ウォーカーは1992年に打率3割を越え(.301)、チームの主力と成長した。この年はオールスターゲームに初出場し、さらにゴールドグラブ賞、シルバースラッガー賞も獲得した。

1994年、フェリペ・アルー監督の下、ウォーカー、グリッソム、アルーやケン・ヒルペドロ・マルチネスら投打がうまく噛み合い、地区首位を快走する。しかし、悪夢のストライキにより、8月途中でシーズン中断。エクスポズ初のワールドシリーズ進出という夢は消えてしまった。この年にFAの権利を取得したウォーカーだったが、財政難のエクスポズから引き留めの手が挙がらなかった。結局、ウォーカーはストライキが解決したばかりの1995年4月8日にロッキーズと3年契約を結んだ。

本拠地をコロラドに移したウォーカーは移籍1年目にいきなり打棒が爆発。131試合に出場して打率.306、36HR、101打点と全ての部門で最高の数字を残した。これまでエクスポズに在籍していた6年間で記録したホームランは99本で、長距離砲というよりは中距離ヒッターというイメージがあったが、打者有利と言われるクアーズフィールドに本拠地を移してから、持ち前の長打力を発揮し始めた。

更なる成長が期待された1996年は左鎖骨を骨折し、2ヶ月以上も故障者リストで過ごすことになってしまった。結局、わずか83試合しか出場できずに終わってしまった。この怪我から復帰し、前年のように活躍できるか危惧されたが、発展途上中のウォーカーには関係なかった。

1997年4月5日の古巣エクスポズ戦で1試合3本のホームランを放ち、復活を大きくアピール。このまま好調をずっと維持し、打率.366、49HR、130打点、33盗塁という数字を残し、初めてのホームラン王のタイトルを獲得し、「30−30」クラブ入りも果たした。仮にあと4本のヒットと10打点をマークしていれば三冠王も現実となっていただけの活躍である。そして、カナダ出身選手としては初めてのMVPも受賞するなど、ウォーカーにとってキャリア最高のシーズンとなった。

条件が揃えば、三冠王も夢ではない。ユニークなエピソードには事欠かないウォーカーだが、この年のオールスターでの1コマは球史に残るものとして話題になった。エクスポズ時代にチームメイトだったこともあるランディ・ジョンソンとの対決である。ジョンソンのノーコンぶりを知っているウォーカーは恐る恐る打席に入るが、ジョンソンはわざと頭の後ろを通るボールを投げた。これに対し、左打者のウォーカーはヘルメットを逆にかぶり、右打席に入ることでこれに応えた。これはメジャーリーグの珍プレーとして後々まで語り継がれている。とはいえ、2人は公私ともに友人としていい関係を築いている。

1998年は肘を痛めたこともあり、約1ヶ月の故障者リスト入りがあったが、打率.363をマークし、初の首位打者も獲得。ちょうど前年のオフに契約で揉めたことがあったが、首位打者となることでその期待に応えたことになる。翌1999年も、打率.379、37HR、115打点と高い数字を残し、2年連続の首位打者に輝いた。

2000年は開幕から好調をキープし、開幕早々の4月13日のダイヤモンドバックス戦で天敵のジョンソンからホームランを打った。ジョンソン自身、それまで3年間左打者にホームランを打たれたことがなかっただけに貴重な1発となった。しかし、右肘を痛め、5月半ばから故障者リスト入り。復帰するも8月には再び故障者リスト入りし、そのままシーズンを終えた。この年はわずか87試合にしか出場できず、打率.309、9HR、51打点という数字に終わった。9月には右肘、10月には右膝にメスを入れることになった。

何度も怪我を乗り越え、復活を果たしているウォーカーは2001年にも見事に復活を果たした。142試合に出場し、打率.350、38HR、123打点をマーク。トッド・ヘルトンとのコンビは非常に強力なものとなった。ウォーカー自身も通算300号ホームランを達成したこの年も、チームは地区最下位に低迷してしまった。ワールドシリーズ進出が夢のウォーカーにとって、首位打者というタイトルは大したものではないらしい。

3という数字を好み、何かにつけて3という数字にこだわった行動を見せる。背番号が33番というのもそうだが、打席に入る前に3回素振りをすることや、セクション33の席をちょうど33席チャリティー団体へ寄付するなどの点にもそれが挙げられる。3にこだわるウォーカーをワールドシリーズの舞台で見られる日が来るだろうか。

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