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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.2.12〜2.15★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.2.15(現地2.14)
●移籍希望のリード!果たして2002年はどのユニフォームを着る!?
リック・リード
2001年シーズン途中にメッツからツインズに移籍したリック・リードだが、依然として移籍を希望している。リードの代理人は、3月15日までに移籍が成立しなければ、リードはFAになると話している。ツインズに移籍前はメッツで20試合に先発し、8勝6敗の防御率3.48を記録していたが、移籍後は12試合に先発し、4勝6敗の防御率5.19と期待に応えられなかった。

●ペドロ、2002年こそは32試合から33試合の先発予定!
ペドロ・マルチネス
2001年は怪我でシーズンの半分を棒に振ることになってしまったペドロ・マルチネスだが、一足早くキャンプ地に赴き、元気な姿を見せた。シーズンで32試合から33試合は先発するつもりと話したペドロ。2001年終盤の43試合を17勝26敗と最低の成績で終わることになったレッドソックスだが、その原因はこのペドロとノマー・ガルシアパーラという主力の離脱である。打倒ヤンキースとして、2002年はどこまで迫れるだろうか。

●タイガース、ヤングと4年間2850万ドルで契約!
ドミトリー・ヤング
タイガースはホアン・エンカーナシオンとの交換でレッズから獲得したドミトリー・ヤングと、4年契約の2850万ドルで合意した。オプションを含めると6年で4400万ドルまで契約が膨らむ内容となっている。ヤングは4年連続で打率3割をマークしており、2001年は打率.302、21HR、69打点という成績に終わっている。

●アンダーソン、左肩の回復状況は70パーセント!
Seattle MARINERS
マリナーズの期待の有望株、ライアン・アンダーソンは、昨年手術した左肩も今は痛みこそないが、まだ完治しているとは言えず、まだ70パーセントという状態であるため、おそらく開幕はメジャーで迎える可能性が低くそうだ。とはいえ、球団がアンダーソンの将来にかける期待は非常に大きい。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.102
フランク・トーマス★フランク・トーマス #35★ シカゴ・ホワイトソックス

「ビッグハート(Big Hurt)」と呼ばれ、恐れられるフランク・トーマス。2001年は4月27日のマリナーズ戦で、イチローの1塁線を抜けようとした打球に飛びついた際、右上腕三頭筋を故障。この怪我が響き、手術のためにあまりにも早いシーズン終了となった。若手が育ってきたホワイトソックスの中で、ベテランのトーマスの力はまだまだ必要だ。

大柄な体型に加え、選球眼の良さも目立つ。ジョージア州コロンバスで生まれ育ったトーマス。非常にフットボール熱が高い町でトーマスは当然のようにフットボールに熱中した。それと同時に野球もやり始めていたという。高校時代にウェイトトレーニングの重要さを知り、熱心に取り組んだ。野球の才能の方が上だと思っていたトーマスは卒業時のドラフトでメジャーリーグからの指名を待ったが指名されず、これにはトーマス自信落ち込んだそうだ。才能だけではダメで努力が必要だと悟ったのもこの時である。

大学へはフットボールの奨学生として進学したが、怪我などもあり実際にフットボールをしたのは1年のみだった。その後は本格的に野球に転じ、大学通算で49本ものホームランを記録。トーマスが記録したシーズン73個の四球は、大学最多記録であり、いかにこの頃から選球眼が素晴らしかったかの証明でもある。そして1989年のドラフトでは全米7番目にホワイトソックスから1位指名され、晴れてプロ入りを果たす。

指名されたその年、ルーキーリーグと1Aの2つのクラスで計71試合に出場し、3割近い打率を残す。翌1990年はスプリングトレーニングでノーラン・ライアンから特大のホームランを放つなど、ドラフト1位選手として期待以上の素晴らしい実力を披露。開幕は2Aバーミンガムで迎えることになるが、3割を越える高い打率をマークし、8月2日にはメジャー昇格を果たした。結局、2Aでは109試合に出場し、打率.322、18HR、71打点と文句ない成績を挙げた。

8月2日の対ブリュワーズ戦の先発スターティングメンバーに名を連ね、勝ち越しのタイムリーを放つ大活躍でメジャーデビューを飾った。その後も13試合連続ヒットなど、全くメジャーとマイナーの壁を感じさせない活躍を見せ、60試合の出場で、実にその45試合にはヒットを打った。結局、打率.330、7HR、31打点をマークした。この年はメジャーとマイナーで合わせて156四球(メジャー44個、2A112個)を記録しおり、これはこの年、プロの全てのクラスにおいて最多四球である。

メジャー2年目となる1991年は、本拠地を新コミスキーパークに移して最初のシーズンであったが、その中でトーマスは2年目のジンクスを全く感じさせない打棒を発揮し、8月には打率.373、8HR、27打点を挙げ、月間MVPにも輝く。158試合に出場し、打率.318、32HR、109打点でシーズンを終えたトーマス。四球も138個記録し、球団記録を更新した。さらに、この年のMVP投票ではカル・リプケンセシル・フィルダーに次ぐ3位につけ、自他共に認める一流メジャーリーガーとなった。

1993年、94年に2年連続MVPを受賞しているトーマス。1992年も勢いはとどまらない。特に打順を3番とした6月以降は特に打ちまくった。7月から8月にかけては19試合連続ヒットを放ち、9月半ばには1試合5安打も記録。結果として160試合の出場で、打率.323、24HR、115打点をマークし、この年記録した46本の2塁打はリーグ最多である。長打72本の長打率.439も共にリーグトップである。四球数は122個で、2年連続100四球というのは球団史上初の快挙でもあった。

順調にキャリアを重ねてきていたトーマスは1993年に大きな花を咲かせた。それは打率.317、41HR、128打点、112四球と素晴らしい成績を残してのMVP受賞である。41本のホームランというのは、1972年のディック・アレン、1985年のカールトン・フィスクが記録した37本を越える球団新記録となった。チームも地区優勝を飾り、初めてのポストシーズンも経験。ブルージェイズの前に2勝4敗で敗れてしまうが、トーマスはチーム2位の打率.353をマークし、チームに貢献した。こうしてトーマスはメジャー4年目にして、ホワイトソックスという名門球団を語るに欠かせない選手となってしまった。

1994年は開幕からホームランを量産。オールスターまでに32本ものホームランを放ち、仲の良いケン・グリフィーマット・ウイリアムスらとともに、1961年のロジャー・マリスのシーズン61HRの記録を抜くかと期待された。オールスターの際に行われるホームラン競争では、周囲の度肝を抜くとんでもない特大ホームランを放ち、その存在を大きくアピールした。

トーマスらの打棒爆発に沸いたこの年のメジャーリーグも、ストライキという暗い影が迫り、8月12日を最後にシーズンは終わった。しかし、トーマスは打率.353、38HR、101打点というシーズンフルに出場したのと遜色ない素晴らしい数字を残し、2年連続のMVPを受賞した。毎年シーズン後半戦に調子が挙がっていくトーマスだけに、「もしストライキがなかったら、シーズン60HRは確実に打っていただろう」と後に語っている。さらにストライキまでチームは地区首位を走っていたことも、トーマスにとってもチームにとっても悔しかったという。

1995年の開幕を前にトーマスと3,4番を打っていたフリオ・フランコが長引くストライキに嫌気がさし、日本のプロ野球に身を投じてしまう。フランコの離脱にエースのジャック・マクドウェルの離脱とチーム力は低下した。これにはトーマスも非常に落ち込んだが、打率.308、40HR、111打点という数字を残し、主砲としての責任はしっかりと果たした。翌1996年は、初めての故障者リスト入りも経験するが、終始高打率を維持し、首位打者のタイトルこそアレックス・ロドリゲスに譲ったが、打率.349、40HR、134打点をマークしている。

この怪我が2001年のトーマスの影を薄くした。1997年の大きな目玉の一つはFAの大物、アルバート・ベルの獲得だった。ベルとトーマスのコンビが非常に注目されたが、トーマスは打率.347で首位打者のタイトルを手にする活躍する一方、ベルは27試合連続ヒットや30HR、116打点と数字的には素晴らしい記録を残したが、チャンスに弱いことがチームを引っ張った。結局、チームはポストシーズンへは進むことが出来ずにシーズンが終わってしまう。その中でもトーマスは35HR、125打点をマークし、1991年から数えて7年連続で打率3割、20HR、100打点、100四球というとんでもない記録を継続していた。

1998年、ベルは打率.328、49HR、152打点ととんでもない成績を残した一方で、トーマスは自らの離婚などの心労がたたったか、打率も3割を切ってしまう(.265)。29HR、109打点を記録したのはトーマスらしいが、またもチームは地区2位に終わってしまう。このためにこの年限りでベルは移籍してしまい、このコンビは解消された。しかし、ユニフォームは替わっても2人は仲の良い友人としてつきあっているという。

1999年は、通算1500安打に通算300HR、通算1000打点をそれぞれ達成という区切りのシーズンになったが、長年苦しんでいた左足首の状態がひどく、シーズン終了を待たずに戦線を離脱し、手術を決意した。そのため、打率こそ3割を越える(.305)が、15HR、77打点に終わり、8年間続いていた20HR、100打点という記録はストップしてしまった。

再起をかけた2000年は、以前のトーマスが戻ってきたような打棒を開幕から見せた。若手が多いチームを引っ張り、チームを7年ぶりのポストシーズン出場に導いた。打率.328、43HR、143打点をマークし、MVP投票ではジェイソン・ジオンビーに次ぐ、2位につけた。ジオンビーの317ポイントに対し、トーマスは285ポイントとほとんど変わらない点を見ても、MVPを受賞しても全くおかしくなかった。

更に期待をかけられて臨んだ2001年だったが、開幕前に周囲のメジャーリーガーの年俸が鰻登りに上がっているのを見て、自らの年俸も上げるべきだと主張して話題になったことがあった。とはいえトーマスは、1997年オフの段階で2006年までの契約を交わしているだけにどうしようもないのだが。結局この年は怪我で、早々にシーズンを終えてしまい、わずか20試合の出場で打率.221、4HR、10打点と過去最悪の成績に終わった。まだ33歳と若いだけに、2002年の復活が待たれる。

ちなみに高倉健主演の映画「ミスターベースボール」に、トム・セレック扮する往年のスタープレイヤーに、若さとパワー溢れる豪快なバッティングで衝撃を与えた選手というのは、当時2Aでプレーしていたトーマスなのである。実際に映画公開まで3年ほどの年月を必要としたこともあり、すでにメジャーリーガーとなっていたトーマスはこの映画自体を忘れており、ファンレターで気付かされたそうだ。

■2002.2.14(現地2.13)
●43歳ヘンダーソン、レッドソックスとマイナー契約!
リッキー・ヘンダーソン
行き先が注目されていたリッキー・ヘンダーソンがレッドソックスとマイナー契約を結んだ。これにより、もしヘンダーソンがレッドソックスの開幕ロースターに入ることになれば、メジャー24年目のシーズンをレッドソックスで過ごすことになる。しかし、レフトにはマニー・ラミレスがいるため、指名打者としての出場が主になると思われる。ちなみに3月28日までに開幕ロースター入りが確実にならなければ、そのままヘンダーソンはFAとなり、他球団との交渉に入ることになる。

●ヘルナンデス、好調アピールで、先発入りに自信をのぞかせる!
オルランド・ヘルナンデス
移籍が噂されていたオルランド・ヘルナンデスだが、本人はヤンキースの先発ローテーション投手として投げることに何の心配もしていないと話した。当面、デビッド・ウェルズスターリング・ヒッチコックと共に先発の座を争うことになるが、ヘルナンデスが気にしているのは、いかに自らのベストを尽くすかである。2001年は肘の状態がおもわしくなく、17試合の登板(先発16試合)で4勝7敗の防御率4.85に終わっており、一部では限界説も出ていたが、それも一蹴した。

●ブルージェイズ、カーペンターと1年間345万ドルで契約更新!
クリス・カーペンター
ブルージェイズはクリス・カーペンターと1年間の345万ドルで契約を交わし、調停入りを避けた。26歳のカーペンターは2001年、ブルージェーズの先発投手として11勝11敗の防御率4.09という数字を残しており、2002年は投球回数による出来高払いとなる。カーペンターの通算記録は、45勝45敗、防御率4.79である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.101
ケン・グリフィー★ケン・グリフィー・ジュニア #30★ シンシナティ・レッズ

人気においても、実力においてもナンバー1といえるメジャーリーグのスーパースターというのが、ケン・グリフィーである。レッズに移籍後は怪我もあり、期待通りの数字を残せず苦しい状態が続いている。かつては若さに満ちあふれ、やんちゃ坊主だったグリフィーもすでに32歳となり、若手を引っ張っていく存在となった。

完全復活近い、ケン・グリフィー・ジュニア。父親のシニアは、ビッグレッドマシンと呼ばれたレッズの一員として、ワールドシリーズ2連覇に貢献したスター選手だった。その父親の背中を見て育ち、球場を遊び場に育ったグリフィーは、シンシナティのモーラー高校に進学し、野球とフットボールを掛け持ちしながら共に大活躍。野球では1986年、1987年と2年連続、在籍していたリーグのプレイヤーオブザイヤーに選ばれ、全米にその名を轟かせた。そして、1987年のドラフトでマリナーズから全米1番目の1位指名を受けて、プロ入りを決めた。父のシニアがまだ現役でプレーしていたこともあり、この指名は非常に注目された。グリフィー、17歳の夏である。

指名されたその年、1Aビリンガムでプレーし、54試合に出場し、打率.313、14HR、40打点、13盗塁を記録し、才能の片鱗を見せた。翌1988年はランクが上の1Aサンバディーナで開幕を迎えた。この頃のグリフィーは、シニアの息子ということで周囲から受けるプレッシャーに絶えきれず、自殺しようかとも本気で考えていた、と後に語っている。しかし、58試合に出場し、打率.338、11HR、42打点、32盗塁と数字的には見事なものであり、シーズン終盤には2Aバーモントへ昇格も果たした。

1989年、19歳のグリフィーは招待選手としてマリナーズのスプリングトレーニングに参加し、26試合の出場する中で15試合連続ヒットを含む、打率.359、2HR、21打点という好成績を挙げ、開幕メジャーの切符を手にした。メジャーデビューは4月3日の対アスレティックスで、相手は20勝投手のデーブ・スチュワートであり、初打席で2塁打を放つ最高のデビューを飾った。メジャー1年目は127試合に出場し、打率.269、16HR、61打点を記録している。

1990年はセンターのポジションを確実に自分のものとし、打つだけでなく、守備面でもジェシー・バーフィールドの通算200号HRとなるはずだった打球を、フェンスをよじ登って奪い取るというプレーもあった。人気者のグリフィーはオールスターのファン投票でも選出され、史上2番目の若さで5番センターとして初めて先発出場した(史上最年少のオールスター出場は1955年、20歳のアル・ケーライン)。そしてこの年のハイライトはシーズン終盤にやってきた。父シニアがレッズに解雇されて、息子のいるマリナーズと契約し、8月31日のロイヤルズ戦では父子並んでスタメンに並ぶという、史上初の快挙を成し遂げた。さらに9月14日には父子連続ホームランも記録した。結局、155試合に出場し、打率.300、22HR、80打点と20歳の若者とは思えない数字を残す。また、初めてのゴールドグラブ賞も受賞した。

ハンク・アーロンの通算ホームラン記録更新が期待される。1991年は、過去最高の打率.327をマークし、打点数も初めて100点という大台に乗せ、確実に成長の跡を残していた。この時は中距離打者というイメージだったが、前年の2塁打28本から、42本にまで増えているところに長打力のアップが見られた。ちなみに父シニアはこの年限りでユニフォームを脱いでいる。

1992年、死球により手首を痛め、メジャー昇格後初めての故障者リスト入りするも、142試合に出場し、打率.308、27HR、103打点をマークした。さらに70本の長打(2塁打39本、3塁打3本を含む)はリーグ3位の記録であり、長打率.535もリーグ4位であり、徐々に長距離砲としてのベールを脱ぎ始めた。更にこの年、サンディエゴで行われたオールスターでは当時カブスにいたグレッグ・マダックスから打ったホームラン含む3打数3安打と大当たりし、オールスターMVPを獲得。実は父シニアも1980年のオールスターでMVPを獲得しており、史上初の父子2代のオールスターMVPということになった。

1993年になると、グリフィーはタガがはずれたかのようにホームランを量産。7月後半には8試合連続ホームランというメジャーリーグタイ記録をマーク。タイ記録がかかった8試合目はホームランがなくて迎えた最後の打席で、高めのボールをすくい上げてスタンドへぶち込んだ。新記録がかかった9試合目は、右中間フェンスに当てるもオーバーフェンスはなかった。この年は、打率.309、45HR、109打点という記録を挙げた。しかし、ホアン・ゴンザレスが46HRしたため、ホームラン王のタイトルは逃してしまった。

成長し続けるグリフィーの姿を見たルー・ピネラ監督も「私が見た選手の中で最高」と最大級の賛辞を送った。1994年は開幕から記録的なホームラン量産ペースで、1961年にロジャー・マリスのシーズン61HRを抜く候補の1番手にグリフィーがいた。その期待の現れが、オールスターのファン投票では過去最高の約608満票を集めた。それまでの最多投票記録が1977年のロッド・カルーの約429万票ということから考えても、グリフィーの人気も凄まじさがわかる。しかし、ファンの期待の空しく、悪夢のストライキのおかげで8月12日を持ってシーズンが終了してしまう。それでも打率.323、40HR、90打点という記録を残し、初めてホームラン王のタイトルを手にした。。

グリフィーが人気者なのはチームの中でも同じことで、練習中にジュニアがキャップを後ろ前にかぶっていたのを見た当時のヤンキース監督、バック・ショーウォルター監督がその事を批判したところ、翌日はマリナーズの選手全員がキャップを後ろ前にかぶって練習したという。こういうところにグリフィーの人望の厚さがわかるというものである。

ワールドシリーズの舞台に立つ日は来るのだろうか。そんなグリフィーに最大の悲劇が起こったのは1995年のことである。1990年から毎年ゴールドグラブ賞を受賞している守備の名手だけに、普通の選手では取れない打球もグリフィーにかかれば取られてしまう。しかし、この時はこれが災いした。5月末、右中間に飛んだ大飛球を追い、フェンスにぶつかりながらもキャッチしたが、当たり所が悪く左手首を骨折。全治3ヶ月という所、予定より早い8月半ばに戦線復帰。グリフィーが戻ってきたマリナーズは息を吹き返し、この年、球団史上初の地区優勝を飾った。

初のポストシーズン進出は怪我を乗り越えたグリフィー自身に最高のプレゼントとなった。ヤンキースとのディビジョンシリーズでは5本のホームランを放ち、チームの勝利に大きく貢献。インディアンズとのリーグチャンピオンシップシリーズでもホームランを打ったが、チームは2勝4敗で敗れてしまい、初のワールドシリーズ進出はならなかった。怪我でシーズンでは72試合にしか出場できなかったが、ゴールドグラブ賞は獲得している。

1996年は、初めての1試合3発を記録するなど、相変わらずのペースで打ちまくるが、6月末に右手の有鈎骨を骨折し、約3週間の離脱。前年に続き、怪我でオールスターゲームの打席に立つことは出来なかった。しかし、140試合の出場で打率.303、49HR、140打点をマークし、自らに与えられたノルマはクリアしたが、チームに怪我人が相次ぎ、優勝は逃した。しかし、アレックス・ロドリゲスという新鋭が登場し、21歳の若さで首位打者を獲得するという希望の光もあった。

1997年は4月で13HRというメジャー新記録を樹立。5月が終わった段階で24HRというのも新記録である。マリス越えとなるシーズン62HRも期待されたが、56HRに終わる。さらに147打点もマークし、ホームランと打点の2つの打撃タイトルを手にする。結局、この年は打率.304も記録し、自身初のMVPにも輝いた。チームも地区優勝を飾ったが、ディビジョンシリーズでオリオールズの前に敗れてしまった。

1998年、ナショナルリーグのマーク・マグワイアサミー・ソーサのホームラン争いの前に、グリフィーの姿はかすんでしまったが、打率.284、56HR、147打点と数字的には申し分はない。2年連続ホームラン王に加え、3年連続140打点以上というのは、ベーブ・ルースルー・ゲーリックに次ぐ史上3人目の快挙である。さらに20盗塁も記録し、史上3人目の「50−20」クラブ入りも果たした(過去に達成しているのは、1955年のウイリー・メイズ、1996年のブラディ・アンダーソン)。

2001年はスプリングトレーニングの怪我が全てだった。心配して駆け寄る父シニア(33番)。1999年は左膝の故障に悩まされたが、打率.285、48HR、134打点で3年連続のホームラン王のタイトルを奪取。しかしこの年のオフに、恐れていたことがついに起こってしまった。グリフィー自身のトレード志願である。理由としてはフロリダに暮らす家族とともに暮らしたいグリフィーにとって、シアトルは遠いということだった。トレードの候補としてブレーブス、メッツ、レッズが挙がっていたが、ブレーブスは早々に退散。メッツとのトレードが決まりかけたが、グリフィー自身が拒否。結局、年明けの2000年にレッズとのトレードが正式に決まった。背番号はマリナーズ時代の24から、父親が現役時代に付けていた30になり、ちょうどレッズの打撃コーチをつとめていたシニアは、背番号を33に変えた。。

グリフィーの加入により、ぐっと厚みを増したレッズ打線。それまでのアメリカンリーグから、マグワイア、ソーサと同じナショナルリーグ中部地区に移ったことが話題になり、チケットもあっさり完売と人気者ぶりを見せつけた。シーズンに入って史上最年少での400号HRを打ったりもしたが、終わってみれば打率.271、40HR、118打点と期待された数字を下回ってしまり、1990年から続いていたゴールドグラブ賞も連続受賞も10年でストップしてしまった。さらに、グリフィーが加わったレッズが優勝を逃し(地区2位)、グリフィーが抜けたマリナーズがポストシーズン進出という皮肉な結果にもなってしまった。

こうして迎えた2001年だったが、スプリングキャンプ時に足を痛めて開幕から出遅れてしまう。結局わずか111試合の出場で、打率.286、22HR、65打点と最悪のシーズンに終わってしまった。この結果を見て、中にはグリフィーは終わったという人間もいるのは事実である。しかし、そんなはずはないのである。それはグリフィーがちょうど今、メジャーリーガーとしての折り返し地点を過ぎたばかりで、ゴールテープには最も遠い位置にいるからだ。アダム・ダンという期待の新鋭の加入もあり、ビッグレッドマシン復活にグリフィーは必要不可欠である。

■2002.2.13(現地2.12)
●マーリンズ、エクスポズの新監督がそれぞれ決定!
Montreal EXPOSFlorida MARLINS
混迷のメジャーリーグは、元エクスポズのオーナーだったジョン・ヘンリーのマーリンズ買収が正式に承認され、オーナー不在になったエクスポズをメジャーリーグ機構が指揮することも決まった。

ヘンリー新オーナーを迎えたマーリンズは、エクスポズにいたジェフ・トールバーグ監督、ラリー・ベインフェストGMを引き抜き、マーリンズでもそれぞれ同じポジションにつけた。抜け殻のエクスポズはかつて現役時代に両リーグでMVPを獲得し、史上初の黒人監督にもなったフランク・ロビンソンを監督に据え、メッツのGM補佐のオマー・ミナヤにGMをまかせることになった。

球団削減という大問題は未だくすぶり続けているというのが現実で、2003年以降もエクスポズがモントリオールにとどまるという保証はどこにもない。

●マリナーズ、アボットと契約合意で調停入りを避ける!
ポール・アボット
マリナーズはポール・アボットと1年間の345万5000ドルでの契約に合意し、調停を避けた。34歳のアボットは2001年、怪我で開幕が約1ヶ月遅れたが、復帰後10連勝を飾りチームに貢献。結局、17勝4敗の防御率4.25を記録し、2002年もチームには欠かせない戦力として期待されている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.100
ジェフ・バグウェル★ジェフ・バグウェル #5★ ヒューストン・アストロズ

がに股で構える独特の打撃フォームのジェフ・バグウェル。そのフォームであるが故に、かつては死球による怪我に悩まされたが、メジャーリーグ史上初の6年連続30HR、100打点、100得点、100四球を達成するなど、球史に残る素晴らしい記録を残している。バグウェルとクレイグ・ビジオの2人はもはや、アストロズには欠かせない選手である。

がに股で構えるバグウェルの特異な打撃フォーム。マサチューセッツ州のボストン郊外で生まれたバグウェル。生まれてすぐ隣のコネチカット州に引っ越しするもレッドソックスファンの家族に影響を受け、必然的にレッドソックスファンになった。家の中ではヤンキースという言葉自体が禁句であったという。そんなバグウェルの憧れは、「最後の三冠王」カール・ヤストレムスキーで、将来の夢はレッドソックスの選手として、フェンウェイパークでプレーすることだった。

地元の大学で.413という高打率をマークしたバグウェルは、1989年のドラフトで憧れのレッドソックスからドラフト4位指名を受けた。指名受けたその年に、ルーキーリーグと1Aの2つのクラスでプレーし、共に3割を越える打率を挙げ、プロ選手として幸先のいいスタートをきった。翌1990年は2Aニューブリテンで開幕を迎え、その実力をいかんなく発揮した。8月終わろうとしている段階で、打率.333をマークし、ヒット160本、2塁打34本は共にリーグトップを記録していた。

しかし、この年の8月31日、バグウェルに突如、アストロズへのトレードが告げられた。レッドソックスでプレーすることを夢見、その夢は時間が叶えてくれるものと思っていたバグウェルにとって、寝耳に水のことで、大変ショックを受けた。後にバグウェルは人生最悪の日と語っており、この事実を受け止めるには2週間もの時間がかかったとも言っている。

当時、サードを守っていたバグウェルに対して、レッドソックスの首脳陣がくだしていた評価は、メジャーのサードを守るウェイド・ボッグスから数えて4番目のサードというものでしかなかった。しかし、この評価が間違っているということを証明するのに時間はかからなかった。かつてレッドソックスは、金銭トレードでベーブ・ルースを放出して以降、1度も世界一になっていない悲劇があったが、このバグウェル放出はルース放出以来の悲劇とも言われている。

バグウェルを獲得したアストロズの狙いは、サードを守っていたケン・カミニティへの刺激だった。アストロズ傘下に移った1991年、メジャーのスプリングトレーニングに参加。当初は開幕を3Aで迎えさせようとした球団側も、好調のバグウェルをそのままメジャーに置いておくことを決断。カミニティをサードに置いたまま、バグウェルをファーストへコンバートすることで、これを乗り切ろうとした。突如のコンバートだったが、バグウェルは、猛練習で乗り切り、開幕メジャーというチャンスをものにする。

チームリーダーとしてアストロズを引っ張る。メジャー1年目のバグウェルは156試合に出場し、打率.294、15HR、82打点という数字を残して球団史上初の新人王に輝いた。心配されたファーストの守備も全く危なげなく、記録したエラーはわずかに12個であり、守備率は.991と堂々たるものである。課題と言えば、116個という三振数だけだった。

1992年は、相手の研究も進んでいることもあり、2年目のジンクスに苦しんだ。しかし、順応性のあるバグウェルは後に「がに股打法」と言われる打法の土台を完成させ、難局を乗り切る。結局、162試合全てに出場して打率.273、18HR、96打点という成績を挙げた。この年記録した犠牲フライ13個というのはリーグトップの記録である。

1993年、開幕序盤から好調をキープしていたバグウェルだったが、シーズン終盤に左手に死球を受けて骨折してしまい、残り20試合を残してシーズンを終えることになってしまった。元々、死球を恐れないバグウェルの「がに股打法」から死球の数は多かったが、この骨折が自らの継続していた連続試合出場を304で止めてしまうことになった。そんな怪我もあったが、リーグ6位の打率.320をマークし、20HR、88打点と好成績を残した。

確実に成長しながら迎えた1994年、前年の怪我の影響を感じさせない打棒でチームを引っ張った。しかし、メジャーリーグはストライキ突入という不穏な空気が漂っていた。いよいよ8月12日にストライキ突入が既成事実となっていた中、その2日前にバグウェルは再び左手に死球を受けて骨折。これにより他の選手より一足早いシーズン終了となった。ストライキが決行され、この年は野球のない秋となってしまったが、オフのMVP投票では、リーグ史上3人目の満票でMVPに選出された(過去の満票MVPは1967年のオーランド・セペタ、1980年のマイク・シュミット)。それも打率.368、39HR、116打点という三冠王をとってもおかしくない成績だっただけに頷ける。この年は打点王という初めての打撃タイトルを獲得している。

ストライキも解決して遅れて開幕した1995年のメジャーリーグ。アストロズへ移籍して初めてポストシーズン進出のチャンスを掴んだバグウェルだが、2度あることは3度あるのか、7月30日に左手に死球を当ててしまい骨折。これで3年連続の左手死球ということになってしまった。9月になってバグウェルが戦線に戻ってきた頃には、アストロズはポストシーズンから遠い位置にあり、バグウェルの離脱が響いたシーズンとなった。

アストロズの球団史に残る打者となったバグウェル。1996年、怪我から復活したバグウェルは4年ぶりに162試合全てに出場を果たし、打率.315、31HR、120打点をマーク。さらに21盗塁も記録したこの年は、球団史上6人目の「20−20」を記録した。チームメイトのデレク・ベルも113打点をマークし、1シーズンで2人の選手が100打点以上を記録するというのも球団史上初のことである。5月には打率.360、10HR、31打点を挙げ、月間MVPも獲得している。

1997年も全試合出場を果たしたバグウェルは、打率.286、43HR、135打点、31盗塁をマークし、球団史上初の「30−30」クラブ入りを果たした。5月には通算1000安打も達成したバグウェル。チームも地区優勝を果たし、初めてポストシーズンの舞台に立ったが、ブレーブスとのディビジョンシリーズにおいて12打数1安打5三振と散々な内容でシーズンを終えてしまった。

1998年はホームでのクロスプレーが元で故障者リストに入ることがあったが、打率.304、34HR、111打点を記録し、チームも2年連続で地区優勝を飾る。しかし、ディビジョンシリーズではパドレスの前に1勝3敗で敗れてしまい、バグウェルはわずか2安打に抑え込まれる。翌1999年も、チームは地区優勝を飾るものの、再びディビジョンシリーズでブレーブスの前に敗れ去り、ここでもバグウェルはわずか2安打しか打てなかった。しかし、シーズンでは打率.304、42HR、126打点、30盗塁と自身2度目の「30−30」クラブ入りしているのに関わらず、その実力がポストシーズンで発揮されない。

本拠地を打者有利のエンロンフィールドに移した2000年は、打率.310、47HR、132打点と素晴らしい成績を残すも投手陣がパッとせず、まさかの地区4位に終わってしまった。翌2001年は、ウェイド・ミラーロイ・オズワルトなどの若手投手の台頭や、ランス・バークマンの活躍でチームはカージナルスと同率で地区優勝を飾り、ポストシーズンへ進出。ブレーブスとのディビジョンシリーズでは、7打数3安打5四球と頑張ったバグウェルだったが、あっさり3連敗してしまいバグウェルのシーズンは終わってしまった。

レッドソックスに憧れ、レッドソックスに泣いたバグウェルの夢は、テキサスの地で叶えられた。残すはアストロズのユニフォームを着て世界一になることだけである。ちなみにバグウェルの交換相手だったのは、ベテランの中継ぎ投手、ラリー・アンダーセンであり、このアンダーセンは1990年レッドソックスの地区優勝に貢献したものの、翌1991年にはパドレスへ移り、1994年にはユニフォームを脱いでいる。

■2002.2.12(現地2.11)
●ホランズワース、怪我からの復活をアピール!
トッド・ホランズワース
ロッキーズのトッド・ホランズワースは、2001年に痛めた頸骨の状態も万全で、スプリングトレーニングには100%の状態で参加できることをアピールした。2001年は開幕から好調で、打率.368と高打率でチームを引っ張ったホランズワースだが、打球を足に当ててしまい、5月11日を最後にシーズンを終える形となった。チームもホランズワース在籍までは19勝16敗と勝ち越していたが、離脱後は54勝73敗と負けが込み、地区最下位に終わってしまった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.099
ベン・グリーブ★ベン・グリーブ #18★ タンパベイ・デビルレイズ

1998年、アメリカンリーグの新人王に輝き、その将来を嘱望されたベン・グリーブ。現在は低迷するデビルレイズの主砲として奮闘中である。25歳という若さでチームの中心的な役割を求められるのはつらいだろうが、デビルレイズ浮上の鍵を握るのはグリーブであることは間違いない。

輝くタンパの星となれるか、グリーブ。1976年、テキサス州に生まれたグリーブ。父トムは当時、レンジャーズの外野を守っているメジャーリーガーであった。1966年、レンジャーズの前身であるセネタースからドラフト1位指名を受けたトムは、1970年にメジャー昇格を果たし、主にレンジャーズでプレー(最後にメッツ、カージナルスでもプレー)し、1979年に引退してからは、フロント入り。1984年からはレンジャーズのGMとして活躍した

そんな父を見て育った息子は、幼少時にレンジャーズのアーリントンスタジアムのバットボーイをつとめながら、自然に野球に触れあっていった。当然のように野球を始め、メジャーリーガーを父に持つだけの才能を充分に見せつけた。高校時代には打率.468を記録し、高校ナンバー1との評価ももらった。迎えた1994年のドラフトでは全米2番目の指名権を持つアスレティックスが1位で指名した。こうして、史上初の父子ドラフト1位という快挙を成し遂げた。ちなみに当時レンジャーズのGMだった父も息子を指名したかったが、前年にFAのウィル・クラークと契約したため、1位指名権を持っておらず、息子を指名することはできなかった。

当時としては破格の契約金120万ドルでアスレティックスと契約を交わしたグリーブ。指名されたその年に、1Aサザンオレゴンで72試合に出場し、打率.329、7HR、50打点をマークし、潜在能力の高さを見せ、リーグのベストナインにも選ばれている。翌1995年は壁にぶち当たったが、1996年は1Aモデストで、打率.356、11HR、51打点をマークし、成長の跡を見せ、シーズン終盤には2Aへ昇格も果たした。

2Aで開幕を迎えた1997年は、高い得点圏打率(.355)に加え、14試合連続ヒットを記録するなど好調をアピール。結局、打率.328、24HR、108打点と桁違いの数字を残し、8月には3Aへ昇格した。3Aでも27試合の出場ながら、打率.426、7HR、28打点と好成績を残し、9月に入るとメジャーからお呼びがかかった。メジャーに呼ばれる前まで19試合連続ヒットも記録していた。9月3日に初めてメジャーの舞台に立ち、わずか24試合の出場ながら、打率.312をマークし、その将来に大きな期待を抱かせる。

まだ25歳という年齢は非常に魅力。1998年は開幕からメジャーに定着。前年シーズン途中に移籍したマーク・マグワイアの後釜と大いに期待され、開幕前から新人王候補に挙がっていた。かつてのマグワイアとホゼ・カンセコがバッシュブラザーズと呼ばれたように、同時に成長著しいジェイソン・ジオンビーと共に新バッシュブラザーズとして売り出そうという節もあったくらいだ。グリーブはこの年、155試合に出場し、打率.288、18HR、89打点をマークし、晴れて新人王の栄誉を手にした。さらに、新人ながらチームから唯一のオールスター出場を果たしている。

1999年のグリーブは、ホームラン数こそ前年より10本多い28本も放ったが、打点は前年より3点少ない86打点に終わった。打率も.265に終わり、見事に2年目のジンクスにはまった形となった。シーズンの後半に当たりを取り戻すも時は既に遅かった。翌2000年は158試合に出場し、守備面に不安はあるものの打率.279、27HR、104打点を記録し、課題だった対左投手の対戦にも克服のきざしが見えつつあり、確実にレベルアップはしていたといえる。しかし、期待が大きすぎるだけに、伸び悩んでいるという声があったのも事実である。

とはいえグリーブの将来は明るいものと思われており、アスレティックスの看板選手となるのは時間の問題と思われていた。しかし、2001年1月にアスレティックス、ロイヤルズ、デビルレイズとの3球団の間でトレードが成立し、グリーブがデビルレイズに行くことになってしまった。野球がビジネスとなっている現代では、もはやトレードは日常茶飯事であり、若いグリーブは与えられた状況で結果を出すしかないのである。

デビルレイズのユニフォームを着て迎えた2001年シーズンは開幕から絶不調で、4月が終わった段階で打率が2割も満たない状況だった。徐々に当たりを取り戻すが、チームは低迷し、チームの主砲のフレッド・マグリフもデビルレイズを去り、カブスへ移籍していった。結局、グリーブの移籍1年目は打率.264、11HR、72打点に終わっている。

オフになるとメッツへの移籍話も浮上したが、そのまま残留という方向になりそうだ。グリーブのメジャー生活はまだまだ始まったばかり。是非そのバットで、アメリカンリーグ東地区に一大旋風を起こしてくれることを期待してやまない。

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