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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.2.7〜2.11★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.2.11(現地2.10)
●メッツ、エステスと1年間620万ドルで契約合意!
ショーン・エステス
ジャイアンツからメッツへ移籍してきたショーン・エステスが、1年間620万ドルの契約で合意に至り、調停入りを避けた。1997年に19勝をあげた左腕エステスは、年平均で29試合は先発しており、仮にエステスが220イニング以上投げればボーナスがつくとのことらしい。2001年のエステスの成績は9勝8敗、防御率4.02である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.098
ボブ・アブレウ★ボブ・アブレウ #53★ フィラデルフィア・フィリーズ

2001年9月30日の対マーリンズ戦、終盤に2本のホームランを放ったボブ・アブレウはシーズンのホームラン数を30本の大台に乗せ、すでに36盗塁を記録していることから、ブラディミール・ゲレーロに続くシーズン2人目の「30−30」クラブ入りを果たした。アブレウはフィリーズの球団史上において、初めての「30−30」入り選手となったことになる。

2001年、「30−30」クラブ入りを果たしたアブレウ。サルサを好んで聴くベネズエラ出身のアブレウは、まだ16歳だった1990年にアストロズと契約し、プロ入り。マイナーの階段を順調に昇り、1994年には2Aジャクソンで118試合に出場し、打率.303、16HR、73打点、12盗塁を記録し、リーグ最高の長打率.530もマークした。翌1995年は3Aツーソンに昇格し、打率.304、10HR、75打点、16盗塁を記録。さらに3塁打を17本も放つなど、アストロズの将来の鍵を握る男と注目されていた。

1996年は開幕を3Aで迎えたが、132試合に出場し、打率.285、13HR、68打点、24盗塁をマーク。アストロズのマイナー球団全ての中で、最高の得点(86点)、四球(83個)、外野からの捕殺(15個)に加え、3塁打は16本も記録。メジャーの登録枠が広がる9月1日に、ようやくメジャー昇格のお呼びがかかる。メジャーでは15試合に出場し、初ヒット初打点も記録している。

期待されて迎えた1997年は、開幕からレギュラー候補に挙げられるが、右手首の故障がアブレウを苦しめた。開幕直後こそは好調だったが、徐々に調子を落とし、5月末から約1ヶ月の故障者リスト入り。3Aで復帰し、メジャーに再び戻ってきたのは8月31日のことである。結局この年は、アブレウにとって飛躍を果たすどころが、大きくつまずいてしまった年となってしまった。

アブレウの運命が一気に変わったのが、1997年のオフのことだった。翌年からメジャーリーグに新加入するダイヤモンドバックスとデビルレイズのためのエクスパンションドラフトが行われた。アブレウはこのドラフトでデビルレイズに3巡目に指名されてしまい、指名後すぐフィリーズへトレードされてしまった。

1998年はフィリーズで開幕を迎えることになった。開幕からレギュラーとして名を連ね、初めてメジャーでフルシーズン過ごしたことになる。開幕直後の4月7日のマーリンズ戦では4打数4安打と固め打ちを披露し、6月半ばには12試合連続ヒットも記録。結局、151試合に出場し、打率.312、17HR、74打点、19盗塁とメジャー定着1年目としては素晴らしい成績を残した。打率も出塁率(.409)もチームトップであり、得点圏打率.427はメジャートップである。

いまひとつ過小評価されている感のあるアブレウ。1999年、152試合に出場し、打率.335、20HR、93打点、27盗塁と全てにおいてキャリア最高の数字をマーク。打率はリーグ3位となるもので、球団史上で1967年のトニー・ゴンザレスが記録した.339に次ぐ高打率である。さらに出塁率(.446)もリーグ3位であり、球団史上でも1955年のリッチ・アシュバーンの.449に次ぐものである。もうひとつ、球団史上6人目となる「20−20」クラブ入りも果たし、ヒット数(183本)、2塁打数(35本)、3塁打数(11本:リーグ最多)とHR数と4つの部門で全て2桁以上の数字をマークするなど、全ての面において将来への更なるステップアップを感じさせる打棒を発揮した。

2000年も勢いはとどまらず、ヒット数(182本)、2塁打数(42本)、3塁打数(10本)、25HRと全部門で2桁以上を2年連続で続けた。盗塁数も28個で、球団史上マイク・シュミット(1974〜75年)以来の2年連続「20−20」クラブ入りを果たすなど、才能を充分に見せつけた。随所で見せる勝負強さで周囲からの信頼感も増すばかりだった。

こうして迎えた2001年は開幕からチームが好調で、地区首位を快走。最終的にはチームが失速し、ポストシーズンへコマを進めることは出来なかったが、アブレウは162試合全てに出場。打率.289、31HR、110打点、36盗塁をマークした。ベネズエラ出身の選手が「30−30」クラブ入り下のは史上初のことであり、シーズンで100打点と30盗塁を記録するというのは、球団史上で1910年のシェリー・マギーまで遡らなければならないだけの大記録である。

アブレウがポストシーズンを経験したのは、アストロズに在籍していた1997年のことで、この時は代打として3打席に立ったのみである。アブレウ自身にはポストシーズンの舞台に立つ準備はすでに整っており、あとはいかにチームがシーズンを勝ち抜くかである。条件が整えば、三冠王も夢ではない。

■2002.2.10(現地2.9)
●レッドソックス、ヘンダーソンを獲得するのではないかという噂!
リッキー・ヘンダーソン
43歳という年齢で通算3000本安打を記録し、さらに得点と四球でメジャーリーグのトップに立ったリッキー・ヘンダーソンがレッドソックスと契約する可能性が出てきた。レッドソックスはジョニー・デーモンを獲得したため、先頭打者のポジションが埋まっているということがあるが、2001年シーズンにはグリーンモンスターの前に守っているリッキーの姿が見られるかもしれない。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.097
アンドレス・ガララーガ★アンドレス・ガララーガ #14★ サンフランシスコ・ジャイアンツ

大きな体にしては軽快な動きを見せることから、「ビッグキャット」という可愛らしい愛称で呼ばれるアンドレス・ガララーガ。40歳という不惑の年を迎えたガララーガは2002年にプレーする球団がまだ決まっていない。古巣ブレーブスが獲得に動き出しているという話があるが、確定したわけではない。

ガララーガのとらえた打球はピンポン球のように飛んでいく。ベネズエラの首都カラカスで生まれ、1979年、ガララーガがわずか18歳の頃にエクスポズと1000ドルの契約金でプロ入りを果たす。プロ入り後は本職のファーストの他に、捕手や外野、サードなども守った。しかし、ファーストに定着した1984年に、2Aジャクソンビルで143試合に出場し、打率.289、27HR、87打点を記録し、リーグのMVPを獲得した。

期待の有望株として注目を浴びたガララーガは、1985年に3Aインディアナポリスで121試合に出場し、打率.269、25HR、87打点を記録し、期待に応えた活躍を見せると、8月にはメジャー昇格を果たした。翌1986年は7月から約2ヶ月も故障者リスト入りするも、ほぼファーストのポジションを手にしたと言っても過言ではなかった。

1987年はチームの3番を任され、打率.305、13HR、90打点をマーク。翌1988年はオールスターまでに20本ものホームランを放ち、初めてのオールスター出場を果たした。結局、この年は打率.302、29HR、92打点を記録し、一流メジャーリーガーへの仲間入りを果たす。ガララーガが記録した184安打に、42本の2塁打というのは共にリーグ最多記録である。

その後2年間は、守備で2年連続ゴールドグラブ賞を獲得するなど冴えを見せるが、打撃の方は打率が2割5分前後と落ち込み、期待された数字を残せたわけではなかった。1991年オフにはケン・ヒルとの交換でカージナルス入りするが、開幕序盤から故障者リスト入りし、わずか95試合の出場に終わってしまった。そしてオフにはFAになった。ガララーガ、31歳の秋のことである。

ガララーガは1993年からの新球団であるロッキーズと契約。ここでドン・ベイラー監督と出会うことが、ガララーガの運命を変えた。ベイラーのアドバイスで左足を3塁側に出す極端なオープンスタンスに変え、さらにバットもそれまでよりわずかに重くした。この打撃改造が見事に成功した。移籍1年目の1993年に打率.370を記録し、首位打者のタイトルを手中にしたガララーガは、新球団ロッキーズの船出に見事な花を添えた。この年は7月まで打率が4割を越えるという大当たりだったが、怪我もあったため、わずか120試合の試合出場による首位打者だった。

この当時は遅咲きの花を咲かせようとしていたガララーガだったが、怪我に苦しんでいたこともあり、ここで食事制限などのいくつかの決まり事を決め、それを実践した。これにより1995年からは年間通してプレーできる体となった。この年の6月25日には史上4人目となる3イニング連続ホームランまで記録するという成果も見せ始めた。この時ガララーガは34歳で、まさに遅咲きの花を盛大に咲かせようとしていたときだった。

40歳になるガララーガに、日本球界入りの噂も立った。1996年はスプリングトレーニング時から体は十分にできあがっており、前年に本塁打王と打点王という2冠王に輝いているダンテ・ビシェットもガララーガの体を見て驚くぐらいだった。ガララーガは予想通り、シーズンに入っても素晴らしい打撃を見せ、8月には月間11HRと固め打ち。結局、打率.304、47HR、150打点を記録し、本塁打王と打点王という2冠を手にした。47本というホームランは、1984年にトニー・アーマスが記録した43本というベネズエラ出身選手としての記録を塗り替えたことになる。

1997年、159試合に出場し、打率.318、41HR、140打点をマークし、2年連続の打点王に輝く。そしてこの年のオフにFAとなったガララーガはブレーブスと契約した。打者有利として知られるコロラドのマイルハイの球場で長距離打者として才能を開花させたガララーガにとって、この決断はガララーガ自身の真価を問われる非常に重要な物として注目された。

1998年、アトランタに舞い降りた「ビッグキャット」はロッキーズ時代と変わらない打棒を発揮した。153試合の出場で、打率.305、44HR、121打点をマークし、コロラドであろうが、アトランタであろうが関係のないことを証明した。しかし、チームは地区優勝を飾るものの、パドレスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、打率.095(21打数2安打)と落ち込み、ガララーガらしさを見せることが出来なかった。

どうしてもワールドシリーズに出場したいガララーガだったが、1999年のシーズン開幕前にガンの宣告を受けた。結局、ガララーガは治療に専念することを決め、シーズンを棒に振ることになった。ブレーブスナインは帽子にガララーガの背番号14を帽子に記し、共に戦った。幸いにも手術は成功し、リハビリも順調。試合に出場こそできないが、9月からはベンチ入りできるまでに回復。ブレーブスのリーグ制覇に精神的支柱としてあり続けた。ガララーガが待望していたワールドシリーズ進出は、ベンチの中のみで終わった(ヤンキースに4連敗)。

バッターボックスに戻ってきた2000年。開幕戦でいきなりホームランを放ち、これ以上ないスタートを切る。その後も好調を維持し、4月でホームラン10本を記録。リーグ49年ぶりとなるチーム15連勝の大きな立て役者となった。結局、141試合に出場し、打率.302、28HR、100打点を記録し、見事カムバック賞に受賞。しかし、40歳という年齢もあり、ブレーブスは再契約を結ばなかった。FAとなったガララーガは、レンジャーズと1年間625万ドルで契約を結ぶことになる。

初めてのアメリカンリーグのチームということで、開幕から慣れない指名打者との併用に苦しみ、チームは地区最下位と低空飛行を続けた。その中でケン・カミニティが解雇されるというチーム状況の中の7月24日にジャイアンツへのトレードが決まった。しかし、思うような数字は残せずにシーズンを終えてしまった。

チャリティーに非常に力を入れているガララーガ。誰からも好かれる、心優しいガララーガのユニフォーム姿を果たしていつまで見られることだろうか。

■2002.2.9(現地2.8)
●石井正式契約!4年間1230万ドルで背番号は17番!
晴れてドジャース入りが決まった石井。
ポスティングシステムによりドジャースが交渉権を持った石井一久だが、交渉期限ギリギリにようやく契約がまとまった。内容は4年間で1230万ドルというものである。背番号は17番に決まり、記者会見ではたどたどしい英語も話した。

ドジャースの先発陣にはエースのケビン・ブラウンを始め、アンディー・アシュビー野茂英雄の実績組に加え、オマー・ダールエリック・ガンエーオダリス・ペレスもおり、すでに飽和状態である。その中でも28歳左腕の石井は2番手、3番手の先発が予定されているという。ドジャースの投手コーチを務めるジム・コルボーンは「石井は20勝投手になれる」と太鼓判を押している。

●インディアンズ、新ユニフォームを発表!
新しいインディアンズのユニフォーム。
緊縮財政という方針から、これまでチームを支えてきた主力選手を次々に放出し、2002年以降が注目されるインディアンズがユニフォームを新しくすることになった。インディアンズがユニフォームを変えるのは、本拠地をジェイコブズフィールドに移した1994年以来である。ホーム用のユニフォームに大きな変化はないが、これまで帽子のマークに使われてきた酋長のマークをユニフォームの胸につけるバージョンも登場した。このユニフォームでの新生インディアンズに注目である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.096
フレッド・マグリフ★フレッド・マグリフ #29★ シカゴ・カブス

2001年シーズン途中にカブスへ移籍することになったフレッド・マグリフ。2002年はFAで加入したモイゼス・アルー、史上初のシーズン60HRを3度も達成しているサミー・ソーサと共に打線の中軸を締め、若手投手の台頭が目立つカブスは、ひょっとすると1908年以来の世界一というのも決して夢物語ではないと思わせるだけの戦力が整っている。

2001年シーズン途中にカブスへ移籍。タンパで生まれたマグリフは、1981年のドラフトでヤンキースに9位で指名され、プロ入りする。1982年にはルーキーリーグで、9HR、41打点をマークし、ホームランと打点の二冠王に輝き、その将来を嘱望される。その年のオフにはブルージェイズとのトレードの交換相手に指名され、ブルージェイズ傘下のマイナーへ移ることになった。

1986年5月に初めてメジャー昇格し、メジャーリーグの雰囲気というものを味わった。この時はわずか3試合のみという出場にとどまったが、初ヒットも記録している。即3Aに戻り、結果として133試合に出場し、打率.259、19HR、74打点とパワーを見せた。しかもファーストの守備率では.992と守備面でもおおいにアピールした。

1987年は初めてメジャーで1シーズンを戦い、107試合の出場で20HR、43打点を記録。ブルージェイズの新人選手として20HRは球団新人記録である。翌1988年はファーストの定位置を確保し、154試合に出場して、打率.282、34HR、82打点と大ブレーク。守備率はリーグトップの.997をマークし、押しも押されぬレギュラー選手となった。

1989年、序盤から打ちまくったマグリフは、シーズン終盤の24試合でホームランを1本も打てなかったが、シーズン36HRで初めてホームラン王のタイトルを獲得した。この年の119四球も球団新記録である。チームも地区優勝を果たしたが、アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、打率.143(21打数3安打)とチームのブレーキになり、ワールドシリーズへはコマを進められなかった。さらに1990年は7月終わりまでの打率が.268だったのも関わらず、後半戦の60試合で打率.345を打ち、初めてシーズン打率3割をマーク。しかし、この年のオフ、トニー・フェルナンデスと共に、ジョー・カーターロベルト・アロマーとの交換相手に選ばれ、パドレスへの移籍が決まった。

初めてのナショナルリーグとなった1991年だったが、リーグの違いを全く感じさせない打棒で31HRを放ち、キャリア最高の106打点をマークした。4月末から14試合連続ヒットを記録し、さらに8月には2試合連続満塁ホームランということもあり、両リーグトップの26個の敬遠四球も記録した。さらに初めてファン投票でオールスターに選出され、3打数3安打と大当たりした。1992年は打率.286、35HR、104打点という記録を残し、ホームラン王のタイトルを手にした。これでマグリフは両リーグでホームランの王になったことになる。

カブスのユニフォームも板に付いてきた??1993年はシーズン途中に優勝を狙うブレーブスへ1対3のトレードで移籍することになった。マグリフが加わったブレーブス打線は1試合平均5.8得点を挙げ、ブレーブスの3年連続地区優勝へ貢献する。マグリフ加入後のブレーブスは51勝17敗と破竹の勢いで勝ち進んだことになる。フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、打率.435(23打数10安打)と大活躍した(しかし、2勝4敗でワールドシリーズ進出はならず)。

1994年はストライキで短縮シーズンとなったが、113試合の出場で打率.318、34HR、94打点という素晴らしい成績を残しており、仮にシーズンが中断されなければ、キャリア最高の記録を挙げていたと思われるだけに非常に残念にも思われた。しかし、ピッツバーグで行われたオールスターゲームでは、9回に劇的な同点2ランホームランを放ち、MVPを獲得した(試合は延長10回の末、マグリフのいるナショナルリーグが勝った)。

1995年、地区優勝を飾ったブレーブスはそのままワールドシリーズへ進出し、マグリフは初めてワールドシリーズを経験した。初打席にいきなり、相手インディアンズ先発のオーレル・ハーシハイザーからホームランを放った。ブレーブスは4勝2敗でインディアンズを振り切り、世界一の名誉を手にした。マグリフにとってはじめてチャンピオンリングを手にした瞬間である。この年のオフにFAとなるがブレーブスと再契約を交わした。1996年もワールドシリーズへ進出(しかし、ヤンキースの前に敗れる)し、翌1997年もブレーブスの主砲としてチームの地区優勝に貢献した。

1997年オフには翌年から誕生する新球団のデビルレイズとの契約を臨んだ。生まれ故郷に誕生した球団で現役生活を終えたいというマグリフの希望をブレーブスが了承した形での移籍となった。ずっと派手な活躍をしてきたマグリフにとって、デビルレイズへの移籍は印象を薄めさせた感もあり、成績も低迷するが、移籍3年目となる1999年に打率.310、32HR、104打点をマークし、復調の兆しを見せる。翌2000年も打率.277、27HR、106打点と活躍するが、低迷するチームの中ではなかなか勝利には結びつかない。

ホントはデビルレイズで野球人生を終えるつもりだった。こうして迎えた2001年、マグリフのカブス、もしくは古巣ブレーブスへの移籍話が突然持ち上がった。そもそもデビルレイズとマグリフの間にはノントレード条項があり、本人の承諾なしではトレードを決めることはできない。当初、マグリフ自身はトレードには否定的だった。あくまでも生まれ故郷のタンパで現役生活を終えるのがマグリフの願いである。しかし、紆余曲折を経て、7月28日のリグレーフィールドには、カブスのユニーフォームを着たマグリフがそこにはいた。移籍前まではデビルレイズで打率.318、19HR、61打点という安定した成績を残しており、マーク・グレースの抜けた穴を十分に埋められると周囲に期待を持たせた。

結局この年は2チームで合わせて、打率.306、31HR、102打点を記録した。14年連続でシーズン80打点以上というのは、ハンク・アーロンの17年連続に次ぐとんでもない記録である。さらに14年連続での20HR以上というのも、現役選手の中ではこのマグリフとバリー・ボンズが達成しているのみである。

16年間のメジャー生活で、通算448HR(ナショナルリーグで226HR、アメリカンリーグで222HR)、1400打点を記録しているマグリフ(両リーグ200HRはフランク・ロビンソンマーク・マグワイア以来3人目)は、ポストシーズンでも通算で10HR、37打点を記録している。2001年は開場間もないコメリカパーク、エンロンフィールドでそれぞれホームランを放ち、39もの異なる球場で放っており、317人もの異なる投手からホームランを放っている。まさに記録ずくめのマグリフだが、シカゴで最後の花を咲かせることができるだろうか。

■2002.2.8(現地2.7)
●アンダーソン、タイガースと3年間の契約延長!
マット・アンダーソン
タイガースは若きクローザー、マット・アンダーソンと3年間970万ドルでの契約に合意した。1997年のドラフトで全米1位の名誉を受けて、プロ入りしたアンダーソンは、2001年シーズン途中にツインズへ移籍したトッド・ジョーンズの後を受けて、クローザーに定着し、24回のセーブ機会で22個のセーブを記録している。アンダーソン自身は愛するタイガースとの再契約に喜んでおり、ずっとデトロイトでプレーしたいという希望も語っている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.095
エドガー・マルチネス★エドガー・マルチネス #11★ シアトル・マリナーズ

2001年シーズン116勝を記録したマリナーズ。イチローの加入、ブレット・ブーンの大爆発、充実したブルペンなど好調の理由はいくつもあげられるが、忘れては行けないのが38歳エドガー・マルチネスの存在である。ルー・ピネラ監督をして「最も頼りになる男」とまで言わしめ、勝負強さには定評があるイカしたナイスガイである。

勝負強さが魅力の頼れる男、エドガー・マルチネス。ニューヨーク州で生まれたが、プエルトリコ人として育ったこともあり、尊敬する選手にはロベルト・クレメンテの名前を挙げる。少年時代、たまたま見たパイレーツとオリオールズのワールドシリーズ(1979年)が、マルチネスを野球の世界に導いた。プエルトリコのアメリカン大学を卒業後、1982年ドラフト外でマリナーズ入りを果たす。

1984年、1Aワウソウで126試合に出場し、打率.303、15HR、66打点をマーク。翌1985年の後半には3Aカルガリーに昇格するなど順調に成長していっていた。そして、1987年には3Aで129試合に出場し、チームトップの打率.329をマーク。この年の9月12日に初めてのメジャー昇格のお呼びがかかった。3Aのプレーオフが始まるという中でのメジャー昇格だったが、マルチネスは代走としてメジャーデビューを飾った。メジャー初ヒットは2日後に飛び出し、それは3塁打だった。ちなみにこの頃の、マルチネスはプロ入りから一貫してサードを守っていたのだ。

期待された1988年は怪我もあり、3Aで開幕を迎える。3Aでは打率.363をマークし、リーグの首位打者も獲得。翌1989年は開幕こそマリナーズのサードを守っていたが、途中で3Aに降格したりするなどメジャー定着とはなかなか行かなかった。3Aでは3割5分近い打率を記録するのに対し、メジャーでは2割半ばという成績ということで、「3A以上、メジャー未満」という宙ぶらりんな状態に苦しんだマルチネスだったが、冬のプエルトリカンリーグで打率.424を記録するなど、確実に成長の跡は残した。

1990年は開幕をメジャーで迎え、144試合にサードを守り、打率.302、11HR、49打点という新人らしからぬ成績を残した。守備面では1試合で4つのエラーを冒したこともあったが、打撃面ではリーグ3位の出塁率.397を記録するなど大活躍。さらに1991年は150試合に出場し、打率.307、14HR、52打点と好成績をマーク。心配されたサードの守備も前年のエラー27個から15個に減らした。

1992年、マルチネス打率.343をマークし、初めての打撃タイトルである首位打者を獲得。マリナーズの球団としても初めてとなる首位打者である。右打者の首位打者としては、1959年にハーベイ・キーンが打率.353で首位打者になって以来の好打率である。さらにリーグトップである46本の2塁打も放ち、18HR、73打点と打撃部門の全てでキャリア最高をマスターした。

残された現役生活はあと何年?タイトルを獲得して迎えた1993年は、左足のハムストリングを痛めたことから、3度の故障者リスト入りを繰り返すなどで、わずか42試合しか出場していない。翌1994年も開幕早々、怪我で離脱し、マルチネスらしい打棒を見ることができなかった。

1995年は前年からのストライキの影響もあり、短縮シーズンで行われたが、マルチネスは主に指名打者として、本職のサードの他にファーストも守り、全試合となる145試合に出場。3年ぶりに万全の状態で臨めたこの年、打率.356をマークし、2度目の首位打者を獲得した。右打者の首位打者としては1939年にジョー・ディマジオが.381を記録して以来の高打率であり、右打者として2度の首位打者のタイトルを取るというのは、52年ぶり(1936年、1943年のルーク・アプリング)である。リーグ最高出塁率(.479)、最多2塁打(52本)を記録したこの年、MVP投票ではモー・ボーンアルバート・ベルに次ぐ3位につけている。

さらに球団史上初の地区優勝を果たしたマリナーズ。マルチネスにとっても初めてのポストシーズンとなり、ヤンキースとのディビジョンシリーズでは大活躍した。1勝2敗で迎えた第4戦、1試合で7打点を挙げる猛打を見せ、さらに第5戦では延長11回裏にサヨナラ2塁打を放つなど勝利に貢献した。このシリーズでマルチネスが挙げた打率は.571(21打数12安打)であった。しかし、インディアンズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、逆に打率.087(23打数2安打)と落ち込み、マリナーズの足を引っ張る形となってしまった。

指名打者としての出場が主となってきたマルチネスだが、1996年もその打棒を発揮。夏場に故障者リスト入りしたこともあったが、打率.327、26HR、103打点を記録している。この年の8月にはマリナーズ史上4人目となる通算1000安打を記録(これまで達成しているのはケン・グリフィーアルビン・デービスハロルド・レイノルズ)した。翌1997年は、開幕早々にキャリア最長の17試合連続ヒットを記録。指名打者として選ばれたオールスターでは、グレッグ・マダックスからソロホームランも放った。この年のマルチネスは打率.330、28HR、108打点をマークしている。

1998年も、打率.320、29HR、102打点を記録し、4年連続での打率3割、100打点、100四球もマークしている。1999年は特に後半戦で大当たりし、リーグ4位となる打率.337をマーク。さらに8月にはペドロ・マルチネスから通算1500本安打も記録した。

マリナーズにメジャー生活の全てを捧げる。2000年シーズン開幕前には、この年限りでの引退をほのめかし、大きな話題となったが、開幕からそれを感じさせない打棒で打ちまくった。前半戦で打率.354、23HR、87打点を記録。87打点というのは球団の前半戦におけるおける新記録である。37歳という年齢を全く感じさせずに打ちまくり、結局この年打点王(145打点)を獲得してしまった。自らを追い込むことで結果を求めようとしたマルチネスは、キャリア最高の37HRも記録している(打率は.324)。

2001年は開幕してから一貫して打率3割をキープし、頼りがいのある打撃でチームを引っ張った。7月半ばに故障者リスト入りすることがあったが、復帰後も要所要所で活躍し、打率.306、23HR、116打点でシーズンを終えた。インディアンズとのディビジョンシリーズでは、1勝2敗で迎えた第4戦の最終回にに逆転2ランホームランを打ち、チームを勝利へに導いた。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズではヤンキースの前に敗れてしまい、またもワールドシリーズ進出はならなかった。

メジャーリーグでリーグ再編が叫ばれ、マリナーズが指名打者のないナショナルリーグへ移動するという噂があったとき、マルチネスはそれが現実になれば引退すると言った。というのも指名打者がなければ、マルチネスは指名打者のあるチームへ移らなければならず、それはマリナーズ以外のユニフォームを着るということになってしまう。マリナーズを心から愛するマルチネスにとっては考えられないことだ。「ミスターマリナーズ」、もしくは「ミスター指名打者」と呼ばれるマルチネスには未だ年齢による衰えは感じられない。

■2002.2.7(現地2.6)
●リプケン、マイナーチームを買収!オリオールズ傘下へ!
カル・リプケン
現役を引退したばかりのカル・リプケンがマイナーチームを買収し、自らの故郷であるアバーディーンへ移転することを発表した。買収したチームは1Aのウティカ・ブルーソックスで、2002年からリプケンが一筋にプレーをしてきたオリオールズ傘下に移る。本拠地とする球場は現在建設中のリプケンスタジアムで、収容人数は6000人という。このチームが所属するニューヨークペンリーグは6月に開幕する。リプケンの新たな野球人生の始まりである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.094
マイク・ピアザ★マイク・ピアザ #31★ ニューヨーク・メッツ

2001年9月21日、事件後初のニューヨークでの試合において、終盤シェイスタジアムのバックスクリーンへ逆転ホームランを打ったのが、メッツ主砲のマイク・ピアザである。シーズン中盤、打率が2割5分台まで落ち込むことがあったが、最終戦で打率3割を確定させ、9年連続の打率3割を記録した。さらに7年連続30HRに、9年連続オールスターに出場するなど、輝かしい球歴に囲まれている。

メジャーリーグを代表する選手の一人であるピアザ。ペンシルベニア州の裕福な家庭に育ったピアザ。自宅の庭にバッティングマシーンを構え、子供の頃からそこで打ち込むことを毎日の日課としていた。父ビンスがドジャース監督のトミー・ラソーダと旧知の仲だったため、1977年にドジャースがリーグ優勝を決めた試合を観戦する機会に恵まれた。さらに、クラブハウスにも入れてもらい優勝という味を初めて味わうことができた。さらに12歳の頃には、「最後の4割打者」テッド・ウイリアムスから直接指導を受けたこともあったという。

高校時代は6割近い打率をマークしていたが、無名校のため注目を浴びることもなく時は流れていった。アリゾナ大学へ進学も、試合に出場するチャンスには恵まれず、途中で転学する。ここで試合出場のチャンスをもらったピアザは、1988年のドラフトにおいてドジャースから指名されるが、それはなんと62巡目のことだった。この年のドラフトでは計1433人の選手が指名されたが、ピアザが指名されたのはなんと1389番目で、後ろから数えた方がはるかに早い指名順である。ドジャースとしては正直なところ、ピアザに対して全く期待しておらず、ファーストとしては使えないと判断し、捕手としてなら、ということでのプロ入りだった。しかし、父の友人であるラソーダがピアザの非凡な打撃センスに注目していたということも事実である。

念願のプロ入りを果たしたピアザはとにかく必死に練習した。そして、慣れない捕手というポジションにも真剣に取り組み、1年1年着実に階段を昇っていく。1991年、2Aベイカーズフィールドで117試合に出場し、打率.277、29HR、80打点とパワーを見せつけた。翌1992年は開幕こそ2Aサンアントニオで迎えるが、5月までで打率.377をマークすると、6月からは3Aアルバカーキへ昇格。3Aでは94試合の出場で、打率.341、16HR、69打点をマークし、メジャーの登録枠が広がる9月1日にはメジャー昇格を果たした。当時の正捕手だったマイク・ソーシアを退け、いきなり先発マスクを被るなどし、21試合に出場した。

1993年はドジャースがソーシアを解雇したこともあり、ピアザには正捕手としての活躍が期待された。ピアザはその期待に充分な形で応え、149試合に出場し、打率.318、35HR、112打点を記録し、文句なしの成績で新人王を獲得した。ドジャースでは前年にエリック・キャロスに続いて2年連続同チームからの受賞となった。この連続新人王受賞記録はラウル・モンデシー野茂英雄トッド・ホランズワースと続き、5年連続まで伸ばすことになった。この年、ピアザは初めてのオールスター出場に、シルバースラッガー賞も受賞した。

ライト方向への打球の伸びが特徴的。1994年は、ストライキでシーズンが途中で中断したこともあり、107試合の出場にとどまったが、打率.319、24HR、92打点という数字は十分に合格点といえる。さらにこの年のオールスターでは初めて、先発出場も果たし、名実共にリーグを代表する捕手になったことを証明した。さらに翌1995年は野茂が入団した年としても知られるが、首位打者になったトニー・グウィンに次ぐ、リーグ2位となる打率.346をマーク。チームも地区優勝を経験し、初めてポストシーズンを戦う機会に恵まれた(しかし、ディビジョンシリーズでレッズに敗退)。

1996年、148試合に出場し、打率.336、36HR、105打点をマークし、MVP候補としても名前が挙がった。結局はMVP投票では2位に終わり、ケン・カミニティに奪われる形となってしまう。しかし、この年フィラデルフィアのベテランズスタジアムで行われたオールスターゲームでホームラン含む3打数2安打2打点と大活躍し、オールスターのMVPを獲得。幼少時、何度も通った球場での活躍には、ピアザ自身も大変嬉しかったという。

1997年は打率も過去最高の.362をマークし、さらに40HR、124打点と、打撃成績のほとんどで素晴らしい成績を挙げた。安打数(201安打)が200本を越えたのも初めてのことであるし、ドジャースの選手としてシーズン40HRというのも、1957年のデューク・スナイダー(40HR)以来である。さらに6月と8月の2回も月間MVPを獲得し、この頃には誰もが認めるスタープレイヤーとなった。

順調にキャリアを積み上げていたピアザだったが、1998年は激動のシーズンとなった。オフにはFAとなるため、ドジャースサイドも再契約を求めてシーズン前から長期契約のオファーがあったが、ピアザサイドが拒否していたため、交渉は難航していた。そしてシーズン開幕後の5月14日のこと、その日の試合終了後にチームメイトのトッド・ジールの2人にマーリンズへの移籍を告げられた。この2人の交換相手は、ゲーリー・シェフィールドボビー・ボニーヤチャールズ・ジョンソン含む5選手であり、この裏には前年に世界一になったマーリンズの緊縮財政という事情もあった。

さらにその1週間後にメッツへのトレードが決まり、ニューヨーク入り。徐々に調子を取り戻し、9月にはアストロドームにおいて、史上最長と思われる480フィート越えの特大ホームランも打った。結局、3つのユニフォームに袖を通したこの年のピアザの成績は、打率.328、32HR、111打点というものである。

メッツの顔として、チーム浮上の鍵を握る。1999年は4月に故障者リスト入りするも5月下旬から24試合連続ヒットも記録。さらに6月のインターリーグでのヤンキース戦で、ロジャー・クレメンスの連勝を20で止めるホームランを放つなど大活躍。8月には10試合連続打点も記録した。結局、打率.303、40HR、124打点をマーク。ちなみに124打点はメッツの球団新記録であった。この年はチームもワイルドカードでポストシーズンへ進出したが、リーグチャンピオンシップシリーズで宿敵ブレーブスに敗れ、ワールドシリーズ進出は果たせなかった。

2000年、開幕序盤から好調をキープし、ピアザが打席に入るときにはシェイスタジアムのファンから「MVP」コールが送られるほどの活躍ぶりを見せた(しかし、MVPはジェフ・ケントの元へ)。チームは2年連続のワイルドカードでポストシーズン進出を果たし、勢いに乗ったメッツはワールドシリーズへ進出。ヤンキースと44年ぶりのサブウェイシリーズを戦った。結果的には敗れたが、この中で注目されたのはクレメンスとの対決である。7月のヤンキース戦でクレメンスに当てられた死球が伏線となっていたものだ。この勝負は折れたバットがクレメンスに向かい、それを掴んで投げ捨てた先にピアザがいたということで、あわや乱闘というところまでいった。

さらに注目された2001年はチームに怪我人が続出したこともあり、チームは貧打に泣いた。後半戦にようやく勢いを取り戻したが、ブレーブス、フィリーズには及ばず、地区3位に終わった。ピアザの成績は打率3割、36HR、94打点というものである。しかし、この年オフにメッツが大補強を進めたこともあり、2002年には再びワールドシリーズの舞台に立てるチャンスがあるだけに目が離せない。

7年連続30HRも記録しているピアザだが、ピアザ以外の現役選手で7年以上の連続30本を記録しているのは、バリー・ボンズ(10年連続)、ラファエル・パルメイロサミー・ソーサのみである。捕手として通算306本のホームランを打っているピアザは、常々捕手として殿堂入りしたいと口にしている。そのため、捕手としての最多ホームラン記録であるカールトン・フィスクの351本を抜くまでは捕手にこだわると思われる。この記録を抜いてから、他のポジションへのコンバートがあるかもしれないのだが。

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