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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.2.1〜2.6★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.2.6(現地2.5)
●球団削減問題、2002年オフまで持ち越し!
Major League Baseball
オフを騒がせた球団削減問題は、2002年オフに持ち越しとなった。削減候補に挙がっていたのは名言こそ避けているがエクスポズとツインズであることが間違いないと言われている。メジャーリーグサイド、オーナーサイドの当初の考えの前に立ちはだかったのは、ツインズの本拠地メトロドームのリース契約が2002年まで残っており、これによりミネソタ州の裁判所が2002年もツインズがプレーしなければならないという判決をくだしたからだ。削減はこの2球団にとどまらず、将来的にはさらに少なくなる可能性もあるという。

●パーシバル、エンゼルスへ残留決定!2年間契約延長!
トロイ・パーシバル
エンゼルスのクローザー、トロイ・パーシバルが2年間の契約延長に合意した。2002年オフにFAとなるパーシバルとの契約が注目されていたが、結局は残留することになった。2001年は42回のセーブ機会に登板し、39個のセーブを挙げている。通算セーブ数は210個を数えており、メジャー史上27人目の200セーブを記録しており、エンゼルスの球団記録でもある。

●移籍のラッシュ、ブリュワーズと2年契約!
グレンドン・ラッシュ
3球団による計11人の大型トレードが成立し、メッツからブリュワーズへ移籍することになったグレンドン・ラッシュが、2年間で730万ドルという契約を結んだ。2001年のラッシュは8勝12敗の防御率4.63という成績に終わったが、9イニング平均の四球数が2.2個と安定感を示している。

●オーティス、年齢詐称がばれた!26歳じゃなくて29歳!?
Anaheim ANGELS
エンゼルスの若きエースとして今後の活躍が期待されているラモン・オーティスだが、これまでは誕生日が1976年3月23日と来月に26歳になるはずが、実は年齢を3歳ごまかしており、29歳になるということがわかった。2001年のオーティスは32試合に登板し、13勝11敗の防御率4.36という数字を残している。

●ヤンキース、年俸総額がメジャー史上最高額へ!
New York YANKEES
2002年のヤンキースの選手全員に払われる年俸の総額が1億2800万ドルを超えることになり、メジャーリーグ史上最高額になることがわかった。すでに多くの選手と長期契約を結んでいるため、2003年も11人の選手に8300万ドルが払われることが決まっており、2004年には7700万ドル、2005年には8320万ドルが支払われることはほぼ確実であり、近い将来、1億5000万ドルに届くのも時間の問題と思われている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.093
ジェイソン・ケンドール★ジェイソン・ケンドール #18★ ピッツバーグ・パイレーツ

1998年から3年連続で打率3割、盗塁20個以上を記録していたジェイソン・ケンドール。2001年こそは思うような成績を残せなかったが、打って走って守れるケンドールは、リーグを代表する捕手の一人に数えられる。怪我の影響や、若手捕手の台頭に将来的には捕手以外のポジションにコンバートされる可能性が高いが、パイレーツの看板選手であることは間違いない。

打って走って守れるケンドール。父フレッドもパドレスを中心に活躍した元メジャーリーガーで、少年時代から父に連れられクアルコムスタジアムに足を運んでいたという。当然のように野球を始め、高校時代には全米タイ記録となる43試合連続ヒットを記録し、高校3年時には打率.549、3HR、39打点、21盗塁と桁違いの数字を残した。そして、1992年のドラフトでパイレーツから1位指名(全米23番目)を受け、プロ入りを決めた。

1994年に1Aセーラムで打率.318、7HR、66打点を記録。打率も出塁率(.406)も共にリーグ2位の好記録を残し、才能の片鱗を見せつけ、シーズン終盤には2Aカロライナへ昇格を果たす。翌1995年は2Aでシーズンを過ごし、打率.326、8HR、71打点という数字を残し、リーグのMVPを獲得するなど順調な成長の跡を見せる。捕手としての守備面においても、盗塁阻止率が.375(64回の試みを24回刺殺)で、守備率も.989(754回の守備機会でエラー7個)を記録する。

満を持して、1996年にメジャー昇格を果たす。新人で開幕スタメンに名を連ねるのは、パイレーツの球団史上、1957年のビル・マゼロスキー以来となる快挙である。4月1日の対マーリンズ戦がケンドールのメジャーデビュー戦となり、相手先発投手ケビン・ブラウンとの対決で4打数3安打2打点と素晴らしい成績を挙げ、華々しいデビューを飾った。こうして、あっさりレギュラーの座を勝ち取り、捕手として130試合に出場。打率3割をマークし、新人王の候補に挙げられる。トッド・ホランズワースエドガー・レンテリアとの争いになったが、結局ホランズワースに奪われてしまったが、ケンドールの前途は非常に有望と思われた。

1997年、クレイグ・ビジオの34死球に次ぐ、リーグ2位となる31死球を受けるなど、忍耐強い選手とのイメージを植え付ける。死球の数が多いというのは一流選手の証明のひとつであり、この年は打率.294、8HR、49打点、18盗塁とメジャー2年目の選手としては合格点の数字である。守備面でも盗塁阻止率は.400(130回の試みを52回刺殺)であり、エラーの数は11個である。

1998年はリーグ5位となる打率.327をマーク。仮にケンドールが首位打者のタイトルを獲得していれば、1942年のアーニー・ロンバルディ以来の捕手での首位打者となるところだった。さらに盗塁数は26個を数え、これは1978年にジョーン・スターンズが記録した捕手の盗塁記録である25個というリーグ記録を更新した。死球も前年と同じ31個である。

まさにパイレーツの顔である。1999年、開幕から好調を続けていたケンドールだったが、不運が襲いかかった。それは独立記念日である7月4日の本拠地スリーリバーススタジアムで行われたブリュワーズ戦のことだ。セーフティバントを試み、1塁へ駆け込んだ際、右足首を捻り、骨折してしまった。白い骨が見えていたとまで言われる大怪我で残りシーズンを棒に振ってしまう。捕手というポジションから、医師からも完全復活はあり得ないとまで言われたが、ケンドール自身の持つ不屈の闘志で苦しいリハビリに耐え抜いた。「スプリングキャンプには100%の状態で行く」と宣言し、常にポジティブに考えていたというのもケンドールらしいエピソードである。

そして、2000年のスプリングトレーニングには宣言通りに傘下。3月4日のヤンキースとのエキシビジョンゲームでは、先発メンバーに名を連ね、約8ヶ月ぶりのゲームへの復帰となる。4月4日の公式戦の開幕戦、1番キャッチャーで先発出場したケンドールに盛大な拍手が送られたということは言うまでもない。こうして、ケンドールはフィールドに戻ってきた。そして、故障あがりではありながら、自己最多の152試合も出場。打率.320、14HR、58打点、22盗塁をマークし、完全復活をアピールした。そして、オフにはパイレーツと6年契約を結んだ。

開幕から不調だった2001年だったが、5月22日のフィリーズとのダブルヘッダー第2戦、ケンドールは初めて、1番レフトで先発出場した。元々全試合出場したいという希望を持っていたケンドールだが、捕手という激務のため休養が必要となり、全試合出場という希望は叶えられてなかった。捕手として出場しない試合に外野手としてプレーすれば、本人にとってもチームにとってもメリットがあると思われていた。低空飛行を続けていた2割半ばの打率も上がると思われたが、そのまま低空飛行を続け、チームも怪我人が続出したということもあったが、早々に優勝戦線から脱落し、地区最下位を定位置とした。

通算打率は.314と高いケンドールだが、この年は打率.266、10HR、53打点というキャリア最悪に終わった。これは開幕直後に痛めた左手親指の影響とのことらしい。1999年の右足首の骨折に続く大怪我であり、これでここ3年間で2度も怪我で泣くはめとなった。シーズン終了後、左手親指の手術をする事を決めた。しかし、リハビリが長引くということはなくスプリングキャンプには間に合うとのことだ。

ケンドールは父が出場していないワールドシリーズに出場したいと言う。しかし、パイレーツは新本拠地PNCパークが開場した2001年も、15年ぶりにシーズン100敗を記録するなど非常に苦しい状況である。移籍候補に名前が挙がることがあるだけに、ひょっとするとパイレーツ以外のチームで、ケンドールの希望が叶えられるかもしれない。

■2002.2.5(現地2.4)
●アブレウ、緊急虫垂手術を受けていた!しかし、シーズンに影響なし!
ボブ・アブレウ
フィリーズの外野の一角を守るボブ・アブレウが、生まれ故郷のベネズエラで、虫垂除去の手術を受けたことが明らかになった。しかし、あと2、3週間に迫っているスプリングトレーニングには間に合うとのことだ。2001年のアブレウは、打率.289、31HR、110打点、36盗塁を記録し、フィリーズ史上初の「30−30」を達成した。メジャーリーグでも過小評価されている選手のうちのひとりである。

●レッドソックス、ベテラン3選手とマイナー契約!
Boston RED SOX
レッドソックスはキルビオ・ベラスジェフ・アボットヘンリー・メルセデスの3人のベテラン選手とマイナー契約を結んだ。ベラスは1995年にマーリンズでメジャーデビューを飾り、その後パドレス、ブレーブスを経て、怪我での離脱もあり、自由契約になっていた。まだ30歳と若いだけにスピード感溢れるプレーが復帰する可能性は高い。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.092
ポール・ロデュカ★ポール・ロデュカ #16★ ロサンゼルス・ドジャース

これまでメジャーリーグで合わせて100試合も出場していなかったポール・ロデュカが、2001年はドジャースの正捕手の座を掴み、初めて規定打数も達し、リーグ12位となる打率.320を記録した。2002年4月には30歳となるロデュカだが、今後がますます楽しみな遅咲き捕手である。

ロサンゼルスでも人気者のロデュカ。かつてドジャースが本拠を構えていたブルックリンで生まれたロデュカは、わずか2歳の頃にアリゾナへ引っ越し、ブルックリンの町並みはほとんど覚えていないという。ロデュカの父親はブルックリン・ドジャースの大ファンで愛すべきドジャースの移転が決まったときは悲しみに明け暮れたという。もちろん、父にとってはドジャースと言えばブルックリン・ドジャースのことで、ロサンゼルス・ドジャースとは別物だという口にする生粋のブルックリンっ子である。ちなみに2001年から、1Aのチームとしてブルックリンに野球チーム(ブルックリン・サイクロンズ)が復活したが、ロデュカの伯父と伯母はそのチームのシーズンチケットを手に入れ、ブルックリンのチームに声援を送っているという。

大学時代からその実力は評価されていたが、175センチという低い身長がネックとなり、1993年のドラフトでドジャースから指名されたのは、25巡目のことだった。プロ入りするもマイナーリーグでは、その他大勢の選手というカテゴリーの中で、8年もくすぶることになる。その間7度も打率3割を記録するが、メジャー昇格という知らせは、ロデュカに届かなかった。

周囲の厳しい評価の中、ロデュカを変える転機となったのが1996年、愛する母親の死だった。2Aから1Aへ降格し、捕手としての技術を磨き、この2年後となる1998年に初めてのメジャー昇格をついに果たした。しかし、マイク・ピアザチャールズ・ジョンソントッド・ハンドリーというメジャーリーグを代表する捕手が入れ替わりにチーム入りするという不運が重なり、なかなかメジャー定着とはいかなかった。

そんな中でも背番号はかつてメッツでプレーしたロデュカの従兄弟であるリー・マジーリ(1976年〜89年までメジャーでプレー)と同じ背番号16をもらう。もちろん、このシーズン途中でメッツへ移籍した野茂英雄の背番号を引き継いだものだ。

背番号16はどうなる??野茂は??石井は18とかいう話があるけど・・・??メジャー1年目の1998年はわずか6試合のみの出場。1999年も36試合の出場に終わるが、ニューヨークで行われたメッツ戦でホームランを放っている。そろそろ結果を出したい2000年も開幕は3Aで、メジャーに呼ばれたのは6月のことである。捕手の他にサードや外野も守ったが、わずか34試合の出場である。

ジム・トレーシーを新監督に迎えた2001年、ついにロデュカにチャンスが巡ってきた。そして、開幕から好調をキープ。5月に入り故障者リスト入りするが、5月21日のロッキーズ戦に復帰すると、ここから7試合連続ヒット。7試合目となる5月28日の対ロッキーズ戦では6打数6安打と猛打を見せつけた。この試合は延長11回までもつれ込み、11対10という乱打戦の末にドジャースが打ち勝ったという試合であった。6打数6安打というのは延長戦におけるリーグタイ記録である。

6月に入ってもロデュカのバットは火を噴き、この月はほとんどの試合のマスクをかぶり、正捕手の座を確実なものとした。6月の月間記録は、打率.317、6HR、22打点というもので、どのチームの主力打者と比べても遜色ない数字である。結局、オールスターまでの前半戦で、54試合に出場し、打率.346、14HR、45打点という成績でシーズンを折り返す。オールスターゲームには選出されなかったが、落ち込みはせずに前を向き続けた。結局、打率.320、25HR、90打点でシーズンを終えた。

盗塁阻止率も高く、内野や外野も守れるロデュカはチームにとって貴重なプレイヤーである。長いマイナー生活を経験しようとも、メジャーでプレーするという夢を捨てずにプレーし続けたロデュカは「あきらめない」ことの重要さを教えてくれる。しかし、全盛期を迎えていない29歳のロデュカに「人生の格言」を求めるのはまだまだ早いと言えそうだ。

■2002.2.4(現地2.3)
●ポサダ、5年間5100万ドルで契約!捕手としては2番目に高額!
ホルヘ・ポサダ
調停申請していたヤンキースのホルヘ・ポサダが、5年間5100万ドルで契約更新し、調停入りを避けた。1年当たり1020万ドルという年俸は、捕手としてはマイク・ピアザ(1年当たり1300万ドル<7年間9100万ドル>)に次ぐ、史上2番目の高額契約である。ちなみに3番目はジェイソン・ケンドールの1000万ドルである。

1999年までのポサダはジョー・ジラーディとの併用だったが、ジラーディがカブスへ去ってからはヤンキースの正捕手として活躍している。2001年のポサダは肩を痛めたこともあったが、打率.277、22HR、95打点という数字を残し、チームの4年連続リーグ優勝に貢献している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.091
チャールズ・ジョンソン★チャールズ・ジョンソン #23★ フロリダ・マーリンズ

若い投手の台頭が目立つマーリンズのホームベースを守っているのが、チャールズ・ジョンソンである。メジャー有数の守備力を誇るジョンソンは、チームの身売りや球場建設問題、球団削減問題など問題山積みなチームの中でも、どっしりと構えている。

打撃面でも高い潜在能力を持つ。父親が大学野球のコーチだった関係もあり、幼い日から大学生に混じって練習していた。ちょうど叔父のロン・マグリフが大学のキャッチャーを務めていたため、英才教育を受けた(メジャーリーグで活躍するフレッド・マグリフの甥である)。フロリダ州出身のジョンソンは、1989年にエクスポズからドラフト1位指名(全米10番目)を受けるが、契約せずに地元の名門マイアミ大学へ進学。在学中にアメリカ代表チームに選ばれ、他の国と対戦する幸運に恵まれ、さらにバルセロナオリンピックでも正捕手として活躍した。1992年のドラフトでは同じく地元のマーリンズから1位指名(全米28番目)を受けてプロ入りした。

1993年は1Aケインカウンティで135試合に出場し、軽快なフットワークと強肩を見せつけ、打撃面でも打率.275、19HR、94打点と高い潜在能力を見せた。翌1994年は、2Aポートランドでプレーしていたが、メジャーでベニト・サンチアゴが4試合の出場停止を食らうと、その代わりということでメジャー昇格した。5月6日の対フィリーズ戦でメジャーデビューを果たし、2打席目にはカート・シリングからホームランを放ち、華々しくスタートを飾った。

わずかメジャーでは4試合のみの出場だったが、1992年のドラフトで指名された選手の中で、ジョンソンの昇格の早さは、ジェフリー・ハモンズリック・ヘリングに次ぐ3番目の早さである。2Aに戻ると打率.264、28HR、80打点をマークし、リーグの本塁打王のタイトルを手にした。

1995年からはメジャーに定着したジョンソン。シーズン後半の8月にブレット・セイバーヘイゲンに死球を受け、1ヶ月の故障者リスト入りを経験する。メジャー定着1年目にして、97試合の出場ながら、ゴールドグラブ賞を獲得した。強肩を十分に発揮し、87回盗塁を試みられる中で、36回刺し、盗塁阻止率は.414である。翌1996年も後半戦で約1ヶ月半も故障者リスト入りし、120試合の出場に終わるが、リーグトップの守備率.995に加え、盗塁阻止率.481(79回中、38回刺す)と抜群の守備を見せ、2年連続のゴールドグラブ賞を獲得した。

チーム力が向上する中で1997年は、ジョンソンにとって忘れられないシーズンとなった。初めてのオールスター出場を果たし、シーズン通して124試合に出場し、打率.250、19HR、63打点と打撃面では過去最高を記録し、守備面でも973回の守備機会で1つもエラーなしの守備率10割をマークし、3年連続のゴールドグラブ賞を獲得した。

守備力の高さはメジャーリーグでも折り紙付き。さらにワイルドカードで初めてポストシーズンへ進出し、ジャイアンツとのディビジョンシリーズ第1戦では、ジョンソンがサヨナラのホームを踏んだ。リーグチャンピオンシップシリーズでも宿敵ブレーブスを倒し、ワールドシリーズへコマを進める。インディアンズとのワールドシリーズでは、第1戦に相手先発のオーレル・ハーシハイザーからソロホームランを打つなど、チームの勝利に貢献。このシリーズは第7戦までもつれ込み、結局4勝3敗でマーリンズが球団創立5年目にして世界一に輝くが、このシリーズ7戦でジョンソンは、打率.375(28打数9安打)をマークしている。

初めて世界一に輝いたマーリンズだったが、1998年は開幕前から主力選手らを放出し、前年の世界一チームとは思えない布陣でシーズンに臨んだ。この年の開幕戦で送球ミスをしてしまったジョンソンは、1996年6月24日から続けていた連続ノーエラー試合記録を159試合でストップさせることになった。同様に連続守備機会ノーエラーの記録も1294でストップすることになった。共にメジャー記録であり、ジョンソンの守備力は周囲の誰もが認めるものである。

チームの緊縮財政の波はジョンソンにも襲いかかった。マイク・ピアザトッド・ジールとの交換で、ゲーリー・シェフィールドボビー・ボニーヤらと共にドジャースへ移籍することになってしまった(ピアザはわずか1週間でメッツ移籍が決定)。ドジャースでは打撃面こそ打率.218と低迷するが、守備面では貢献し、4年連続のゴールドグラブ賞を受賞した。

オフにトッド・ハンドリーとの交換でメッツへの交換が決まると、即日メッツとオリオールズとの間でトレードがまとまり、アーマンド・ベニテスとの交換でオリオールズ入りが決まった。初めてのアメリカンリーグで、イバン・ロドリゲスとのゴールドグラブ賞争いが注目されたが、ロドリゲスがMVPを獲得するだけの活躍を見せたことがあり、タイトルを奪われた。しかし、ジョンソンの捕手としての評価は依然として高いままである。

2000年は打撃面でも成長の跡を見せた。トレード期限ギリギリに優勝を狙うホワイトソックスへの移籍が決まるが、この年は2チームで計128試合に出場し、打率.304、31HR、91打点と充分な合格点を与えられる数字を残した。この年のオフにFAとなったジョンソンは、思い入れのあるマーリンズを選んだ。5年間で3500万ドルという契約は、近年の傾向からは非常に安いものだ

4年前に世界一に輝いたチームとは全然違うチームになっていた2001年のマーリンズの中で、ジョンソンに求められるものはチームリーダーとしての働きである。ジョンソンを加えたマーリンズは、内野の布陣に安定感をもたらし、シーズン途中の8月まで地区3位を快走した(終盤失速して、地区4位)。

フロリダに噂されている新球場建設の話がまとまらないため、2000年オフに結ばれた5年契約の中には、球場建設が不透明であり続けるなら2001年終了時点でFAになるという条項が含まれていたため、去就が注目されたがジョンソンは残留を選んだ。30歳のジョンソンがやらなければならないことは、まだまだたくさんある。

■2002.2.3(現地2.2)
●ヤンキース、ヘルナンデス、メンドーサとそれぞれ1年契約!
New York YANKEES
移籍候補にも挙がっていたオルランド・ヘルナンデスに加え、ラミロ・メンドーサが、ヤンキースとそれぞれ1年契約を結び、世界一奪回に向けて動き出している。メンドーサはブルペンにおいて重要な役割をするが、先発枠が埋まっていく中で、ヘルナンデスはどのように扱われることになるのか。ヤンキースの選手でまだ調停の可能性があるのはホルヘ・ポサダショーン・スペンサーの2人である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.090
ハビア・バスケス★ハビア・バスケス #23★ モントリオール・エクスポズ

球団削減、もしくは本拠地移転が噂されるエクスポズのエースというのがハビア・バスケスである。若いながらも、どのように打者を討ち取るかを心得ており、150キロを超える速球に、カーブ、スライダー、チェンジアップを加えたピッチングは違うタイプのグレッグ・マダックスを連想させる。

まだ25歳という若さは注目する価値あり。プエルトリコ出身のバスケスは、1994年のドラフトでエクスポズに5位指名を受け、プロ入りを決めた。指名されたその年は、ルーキーリーグでプレーし、15試合の登板で1完封含む5勝2敗、防御率2.53という成績を残す。将来の先発候補として翌1995年は1Aで21試合に先発し、6勝(6敗)をあげた。

さらに1Aデルマーバで迎えた1996年は、14勝3敗の防御率2.68という素晴らしい成績を残し、リーグ最高勝率(.824)をマークし、飛躍のきっかけを掴む。翌1997年は1Aと2Aの2つのクラスで投げ、合わせて10勝3敗という数字を残し、周囲の期待を高めた。

1998年のバスケスはスプリングトレーニングの活躍が認められ、3Aを飛び越して開幕メジャーの座を手にした。チームの台所事情が苦しいということもあったが、新人投手でありながら、カルロス・ペレスダスティン・ハーマンソンに次ぐ、第3先発投手の座を手に入れる。4月3日の対カブス戦がバスケスのメジャーデビューとなり、5回を投げ6安打3失点という内容で勝利を手にすることはできなかった。初勝利を記録するのが5月1日の対ダイヤモンドバックス戦であり、6回2/3を5安打3失点に抑えた。結局、メジャー1年目のシーズンは5勝15敗の防御率6.06という成績に終わってしまった。

1999年も開幕をメジャーで迎えるが、なかなか調子に乗ることができず、6月に入ったところで3Aへ降格。約1ヶ月のマイナー生活を経て、メジャー再昇格を果たす。7月18日のヤンキースタジアムでデビッド・コーンと投げ合い、コーンのパーフェクトゲームを目の当たりにしてしまう。そして、9月14日の対ドジャース戦ではケビン・ブラウンと投げ合い、球団史上22人目の1安打完封勝利もマークした。この年は9勝8敗、防御率5.00に終わっている。

決して力で押すのではなく、コントロールでゲームを組み立てていく。2000年は制球力に磨きをかけたこともあり、投球内容に安定感が加わった。先発のカール・パバーノ伊良部秀輝、クローザーのウーゲット・ウービナらが怪我で戦線離脱する中、バスケスは踏ん張った。5月16日のダイヤモンドバックス戦ではランディ・ジョンソンと投げ合い、8回を5安打無失点に抑え、勝利を手にしている。さらに9月10日のブレーブス戦では、散発6安打に抑え、キャリア2度目の完封勝利をあげた。メジャー3年目のシーズンは、投球回数も200イニングを越え(217回2/3)、奪三振数も196個を数え、初めての2桁勝利(11勝9敗)もマークした。

エースのハーマンソンが抜けて迎えた2001年は、5月15日のドジャース戦でパク・チャンホと投げ合い、2安打完封勝利をマーク。さらに無四球に9奪三振で、2塁すら踏ませない素晴らしい内容で、出塁を許したのは、ヒットの2人とエラーでの出塁による1人と、合わせてわずか3人のみである。投球数は121球でストライク83球と抜群の安定感を示した。

6月に入り4連敗してしまったバスケスだが、6月25日のマーリンズ戦で7回を4安打1失点に抑え、連敗をストップ。7月23日のフィリーズ戦では、自己最速となる154キロの速球で10三振を奪い、7安打無失点に抑え、今季2度目となる完封勝利をあげた。これにより4連敗後のバスケスは5試合で4勝0敗を記録し、その間の防御率は2.98である。

8月2日のダイヤモンドバックス戦では、チームメイトのオーランド・キャブレラのソロホームランによる1点を守り、8回を3安打無失点に抑える好投を見せ、シーズン10勝目を手にした。結局、8月のバスケスは、5勝1敗の防御率0.55を記録し、9月に入ってもバスケスは好調を維持した。しかし、9月17日のマーリンズ戦で頭部に死球を受け、眼窩骨折してしまい、シーズンを終えた。

骨折の影響が後々に響かなければいいが、苦しいチーム状況の中でエースとして君臨し、3完封含む16勝(11敗)の防御率3.42と、確実に数字を残した。1976年生まれとまだまだ若いだけに今後の活躍が注目される。

■2002.2.2(現地2.1)
●ホワイトソックス、ロフトンと1年間125万ドルで契約を結んだ!
ケニー・ロフトン
インディアンズの核弾頭として一時代を成したケニー・ロフトンが同地区のホワイトソックスへ移籍することが決まった。すでに34歳のロフトンは2001年シーズン、打率.261、14HR、66打点、16盗塁と期待されただけの数字を残せない不本意なシーズンを送ることになってしまった。ちょうど3日前にセンターを守るクリス・シングルトンをオリオールズへ放出したばかりで、ロフトンの活躍するスペースは充分にある。ロフトンの快速を再び見ることができる日が来るのも近い。

●マリナーズ、ギーエンと契約合意に至り、調停入りせず!
Seattle MARINERS
マリナーズはカルロス・ギーエンと1年間140万ドルで合意し、調停を避けた。2001年のギーエンはFAで抜けたアレックス・ロドリゲスの穴を埋めるべく、ショートストップとして140試合に出場し、チームを支えた。これによりマリナーズの選手のうちで、調停に入る可能性のある選手はポール・アボットのみである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.089
バートロ・コロン★バートロ・コロン #40★ クリーブランド・インディアンズ

メジャーリーグを代表するパワーピッチャーのひとりに数えられるのがバートロ・コロンである。ゲーム終盤まで160キロを超える速球を投げ続けられるコロンのタフなピッチングには、相手打者も舌を巻く。その速球に緩いカーブとチェンジアップを組み合わせたピッチングは、将来のサイヤング賞受賞も決して夢ではないことを感じさせてくれる。

メジャーを代表するパワーピッチャーのコロン。1975年、ドミニカ共和国に生まれたコロン。学校が好きではないコロンは、高校を中退して1993年6月にインディアンズと契約金30万ドルでドラフト外入団を果たす。この年はドミニカのサマーリーグに参加し、11試合の登板で、6勝1敗の防御率2.59という成績を残し、高い潜在能力を示した。翌1994年はアメリカ本土のルーキーリーグでプレーし、12試合で7勝4敗、防御率3.14という成績を残す。

1995年は1Aキンストンで1シーズン過ごし、13勝3敗の防御率1.96で、勝率.813と奪三振152個は共にリーグトップの記録である。翌1996年は2Aカントン・アクロンと3Aバッファローで投げるが肩痛に苦しめられて思うような成績は残せなかった。

1997年は、スプリングトレーニングでの実績が認められ、開幕をメジャーの第5先発投手として迎えることになった。4月4日のエンゼルス戦がデビュー戦となったが、勝利を手にすることはできなかった。メジャー2試合目の登板となる4月9日のマリナーズ戦では、1イニングすら投げきることができず、降板するという最悪のスタートだった。そしてこの2日後には3Aへの降格が告げられることになる。4月末に再びメジャー昇格し、5月に入って3Aへ再降格と結局、この年はメジャーと3Aを7度も行ったり来たりを繰り返すことになる。その中で、3Aにいた6月20日にはノーヒッターも達成している。こうしてメジャー1年目は、才能の片鱗を見せつつも19試合の登板(先発が17試合)で4勝7敗、防御率5.65という成績に終わった。

コロンにとって1998年は飛躍の年となった。前年と同じ第5先発投手として開幕を迎えるが、初登板となる4月4日のツインズ戦では、10三振を奪う、散発4安打のメジャー初完封勝利を手にしている。5月29日のブルージェイズ戦ではキャリア最多の14奪三振を記録しての完投勝利をマーク。インディアンズとしての球団記録(1987年にグレッグ・スウェンデルがマークした15奪三振)に、あと1つと迫るものである。

ドミニカ共和国出身のコロン。前半戦では9勝4敗の防御率2.46という素晴らしい成績を残し、初めてのオールスターゲーム出場を果たすことになる。初出場のオールスターでは、バリー・ボンズに3ランホームランを打たれるなど散々なオールスターデビューになってしまった。その影響があってか、後半戦は5勝5敗、防御率5.65と落ち込むことになる。しかし、メジャー2年目でありながらシーズン14勝は堂々たる成績である。

この年、地区優勝を果たし、コロンにとっては初めてのポストシーズンを経験。レッドソックスとのディビジョンシリーズ第4戦に先発し、5回2/3を1失点に抑えた。続くヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、4安打1失点の完投勝利をマーク。インディアンズの投手がポストシーズンで完投を記録するのは、1954年のワールドシリーズ第1戦でボブ・レモンが記録して以来である(しかし、レモンは延長10回まで投げて負け投手になっている)。

インディアンズに欠かせない投手になったコロンは1999年に、リーグ2位タイのシーズン18勝(5敗)をあげた。7月に4勝をマークするなど尻上がりに調子を上げていったコロンは後半戦19試合の登板で、12勝2敗の防御率2.98という成績を残し、サイヤング賞の投票ではリーグ4位に食い込んだ。この年のサイヤング賞はペドロ・マルチネスが獲得するが、コロンに2位票を入れた記者が3人もいるというところに周囲の期待の高さが伺える。しかし、レッドソックスとのディビジョンシリーズ第4戦に先発し、2回でノックアウトされ、ワールドシリーズ進出は果たせなかった。

2000年は4月半ばから初めての故障者リスト入りを経験するが、終わってみれば15勝8敗、防御率3.88に加え、初めて奪三振数が200を超えた(212奪三振)。奪三振率(9イニング当たり)10.1個は、ペドロの11.8個に次ぐリーグ2位の記録である。さらに、好調だった前年の7月以降の約1年半で、27勝10敗という高い勝率をキープしている。

160キロを超える速球は魅力たっぷり。こうして迎えた2001年は開幕から調子が一定せず、5月上旬から約1ヶ月も白星から見放されるという苦しいスタートだった。チームメイトのチャック・フィンリーが故障者リスト入りしたこともあり、チームの投手陣の比重は新人のCC・サバシアデーブ・バーバに委ねられた。7月に4勝をあげたコロンは結局、14勝12敗、防御率4.09でシーズンを終える。そんな中、チームは地区優勝を飾り、2年ぶりにポストシーズンへコマを進める。

メジャータイ記録となる116勝をマークしたマリナーズとのディビジョンシリーズでは、コロンは第1戦に先発。同じタイプのフレディ・ガルシアとの投げ合いだったが、コロンは8回まで投げ、毎回のようにランナーを許すものの得点を許さず、6安打無失点の10奪三振という内容でこのシリーズの初戦を奪った。しかし、第4戦で再びガルシアと投げ合ったが、敗れてしまった。

以前、将来の夢は、との問いにワールドシリーズで投げることとサイヤング賞を取ることと言ったコロン。2002年はチームの緊縮財政の方針から、これまでインディアンズの支えてきた大物選手を次々と放出し、コロンの夢をインディアンズで叶えるには厳しい布陣となった。若いコロンにはこれまで以上の期待(負担?)がかかることになりそうだ。

■2002.2.1(現地1.31)
●インディアンズ、33歳ランシングとマイナー契約!
Cleveland INDIANS
インディアンズはマイク・ランシングとマイナー契約を結んだ。2001年のランシングはレッドソックスでプレーし、主に怪我でシーズンをほとんど棒に振ってしまったノマー・ガルシアパーラの代わりにショートを守った。ランシングのベストシーズンは、エクスポズに在籍していた1997年のことで、打率.281に加え、20HR、45本の2塁打を記録している。キャリア通算で1124安打を記録しているランシングは、現在33歳のユーティリティープレーヤーである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.088
ロバート・パーソン★ロバート・パーソン #31★ フィラデルフィア・フィリーズ

若手と中堅、ベテラン選手が絡み合い、地区2位へと大躍進を果たしたフィリーズで、勝ち頭となる15勝をマークしたロバート・パーソン。150キロを超える速球に鋭いスライダーを武器に、後半戦に入ってチームに負けが混み始めた8月後半から5連勝をマークし、チームを引っ張った。

若手投手の台頭が目立つフィリーズを支えるパーソン。1989年のドラフトでインディアンズから25位指名を受けて、プロ入りしたパーソン。プロ入り当初は中継ぎとしての登板が主で、目立った成績を残していたわけではなかった。そして、1991年に独立系チームに貸し出される形で2試合に登板。ここでわずかに光る物を見せたパーソンは、シーズン途中の6月末にホワイトソックスへの移籍が決まる。

1992年は1Aサラソタで開幕を迎えるが、いきなりの故障者リスト入りにつまずき、5勝7敗という成績に終わった。この年のオフに行われた新球団の拡張ドラフトでマーリンズに指名され、パーソンは再び違うチームのユニフォームを着ることになった。マーリンズ傘下に移った1993年は、1Aハイデザートで12勝(10敗)をマークした。

しかし、1994年のシーズン開幕前に突然、メッツへのトレードが決まる。この年は2Aビンハントンで9勝(6敗)をマークし、メジャー昇格が近いことを匂わせた。翌1995年も開幕は2Aで迎えるが、3Aを経て、シーズン終盤の9月半ばにようやくメジャー初昇格を果たすに至る。

1996年は開幕こそ3Aで迎えるが、8試合の登板で5勝0敗という素晴らしい成績を残し、メジャーへ再昇格。中継ぎがメインで、谷間で先発するという起用で、27試合に登板(13試合に先発)し、4勝5敗の防御率4.52という成績を残した。メジャー定着を果たしたパーソンだったが、オフにジョン・オルルドとの交換でブルージェイズが決まってしまう。パーソンにとっては、この時点で既に4度目の移籍となる。

メジャーで初めて2桁勝利を挙げたのはパーソンが30歳の時。ブルージェイズでの1年目となる1997年は、2度も故障者リスト入りしたが、ロジャー・クレメンスパット・ヘントゲンというサイヤング受賞経験投手と共にローテーションに入ったが、5勝10敗の防御率5.61に終わり、大きくメジャーの壁にぶち当たる形になった。翌1998年はシーズンの半分を3Aで過ごし、残りをメジャーのブルペンで過ごした。

1999年は右足のハムストリングを痛めた影響で、開幕を故障者リストで迎えた。戦線復帰して以降も中継ぎとしての登板が続いたパーソンだったが、5月に入り、パーソンにとって5度目となる移籍が決まり、フィリーズへ移ることになった。そして、この移籍がパーソンに先発復帰のチャンスを与えることになる。移籍後、32試合に登板(先発は22試合)して、10勝5敗、防御率4.27という数字を残すと、翌2000年は、5月10日のブリュワーズ戦で散発4安打に抑え、メジャー初完封を完封を記録する。シーズン中盤に1ヶ月間、故障リスト入りするも9勝7敗の防御率3.64という成績を残した。

こうして迎えた2001年は、開幕後はいいピッチングと悪いピッチングを交互に繰り返すという不安定さを見せたが、5月7日のアストロズ戦で2安打完封勝利をマークする。打者有利と言われるエンロンフィールドにおいて、打たれたヒットは初回のクレイグ・ビジオの2塁打と7回裏のブラッド・オースマスのヒットのみであった。しかし、この次の登板となる5月13日のダイヤモンドバックス戦で、レジー・サンダースに故意死球を与えたことから、6月末に6試合の出場停止も食らった。

オールスター前の前半戦は6勝5敗だったが、後半戦に入り、9勝2敗という好調ぶりを見せたパーソン。シーズントータルで15勝7敗という成績だったが、パーソンが先発した33試合のチームの成績は20勝13敗という高い勝率をマークしており、フィリーズのエースであることを認めさせてくれる。

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