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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.1.26〜1.31★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.1.31(現地1.30)
●シャウ、契約できなければ引退の可能性も・・・!
ジェフ・シャウ
ドジャースのクローザーを務めていたジェフ・シャウがFAとなったが、契約がいまだまとまっておらず、このまま引退する可能性も出てきた。シャウはドジャース残留の条件として705万ドルを要望したが、ドジャースサイドがこれを拒否。これによりシャウの出身のオハイオ州に近いチームとの契約を求めたが、これもうまくいっていない。1998年7月にレッズからドジャースへ移籍し、クローザーとして活躍。2001年は52回のセーブ機会で43セーブをあげている。

●ビシェット、ドジャースとマイナー契約!
ダンテ・ビシェット
過去4度もオールスターに出場しているダンテ・ビシェットがドジャースとマイナー契約を結び、ノンロースター選手としてスプリングトレーニングに参加することが決まった。2001年のビシェットはレッドソックスに在籍し、わずか107試合の出場に終わっている。すでに38歳になるビシェットのベストシーズンは、ロッキーズにいた1995年のことで、打率.340、40HR、128打点を記録している。しかし、この年はバリー・ラーキンにMVPを奪われてしまった。

●メッツ、35歳バレンティンとマイナー契約!
New York METS
オフの大型補強で注目されるメッツは、ジョン・バレンティンとマイナー契約を結んだ。来月に35歳となるバレンティンだが、怪我に苦しんだこともあり、ここ2年間では合わせてわずか30試合しか出場していない。バレンティン自身は手術した右足の状態も万全で、来るべく2002年シーズンに備えている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.087
リック・ヘリング★リック・ヘリング #32★ アリゾナ・ダイヤモンドバックス

レンジャーズのエースとして活躍していたリック・ヘリングだったが、2001年シーズン終了後、FAになっていた大物パク・チャンホを獲得したため、その余波を受ける形で自由契約となってしまう。いくつかの球団が獲得に名乗りを挙げる中、ヘリングが選んだのは世界一になったばかりのダイヤモンドバックスだった。

ダイヤモンドバックスへの移籍が決まったヘリング。野球不毛の地と言われるノースダコタ州出身のヘリング。ノースダコタ大学に進学し、まず最初はフットボールの選手としての活躍が目立った。しかし、野球の才能も評価されていたという証拠に1990年のドラフトでメッツから50位指名を受けており、この時はプロ入りを拒否している。スタンフォード大学へ移ったヘリングは投手としての才能を開花させ、1992年のバルセロナオリンピックのアメリカ代表メンバーに選ばれた。オリンピックでは2試合に先発するが、その相手とは金メダルを取ることになるキューバだった。結局、アメリカ代表チームは銅メダルに終わってしまう。

オリンピックのあったこの年のドラフトではレンジャーズから1位指名(全米22番目)をうけて、晴れてプロ入りを果たした。1993年は2Aタルサでシーズンを過ごし、26試合の登板で、12勝8敗の防御率3.60という好成績を残しており、180奪三振と2完封というのはリーグトップである。シーズン終盤には3Aオクラホマシティに昇格も果たした。

1994年はメジャーで開幕を迎え、球団史上6人目となる新人としての完封勝利を記録するなど、開幕から3連勝を飾る。しかし、その後が続かず再び3Aへと逆戻りとなった。この年の3Aでは、20試合に投げ、4勝12敗の防御率5.78とプロに入って初めてとなる大きな壁にぶち当たった。翌1995年も、メジャーでの登板はわずか3試合で、3Aでシーズンの大半を過ごすことになり、4勝8敗という成績に終わった。

伸び悩みの感のあったヘリングは、1996年に3Aで12勝4敗の防御率2.96と好成績を挙げてメジャーへ再昇格。しかし、この年の8月に成立したジョン・バーケットライアン・デンプスターとの交換トレードの「Player-to-be-named-later」にヘリングが指名され、9月に入りマーリンズへの移籍が決まった。結果的にはマーリンズでラリー・ロスチャイルドという投手コーチ(後にデビルレイズ監督も務める)と出会ったことが、チェンジアップに磨きをかけることにつながった。しかしすぐに結果が出るわけではなく、1997年のシーズン途中に再びトレードされ、その行き先というのが古巣レンジャーズである。

かつてはシーズン20勝も記録したこともある。1998年のシーズン開幕前には、メジャー入りすら怪しい状況であったが、開幕前のエキシビジョンゲームで結果を出し、メジャーに残ることができた。この年の初登板となる4月3日の対ブルージェイズ戦でいきなり散発4安打の完封勝利を演じた。当時のレンジャーズはホアン・ゴンザレスイバン・ロドリゲスウィル・クラークなどの打者が揃う強力打線だったこともあり、打線の援護もあり、シーズン20勝をマークした。レンジャーズとしては史上3人目の20勝投手の誕生であり、最多勝のタイトルをロジャー・クレメンスデビッド・コーンと分け合うことになった。さらにこの年はチームも地区優勝を飾り、初めてポストシーズンのマウンドに立つこともできた(しかし、ヤンキースとのディビジョンシリーズ第2戦に先発し、6回8安打3失点で敗れた)。

1999年もチーム2位タイとなる13勝(11敗)をマークし、チームの2年連続地区優勝へ貢献した(ちなみにこの年の勝ち頭は18勝のアーロン・シーリー)。前年は非常に有効だったチェンジアップがうまく決まらず、両リーグ最多の41被本塁打も記録した。翌2000年はシーリーがFAで抜けたため、エースとしての活躍が求められたが、その中でチームトップの16勝(13敗)を挙げ、責任を果たすが、チームは地区最下位に沈んでしまった。

アレックス・ロドリゲスを獲得するなど、オフの大型補強が注目された2001年のレンジャーズだったが、開幕から低空飛行を続け、2年連続での地区最下位に終わる。開幕投手を務めたへリングは、怪我人が続出した投手陣の中で12勝(11敗)の防御率5.17に終わってしまう。

1998年以降のヘリングは、4年連続の2桁勝利に加え、投球回数が4年連続で200イニングを越えている。1997年の8月から、レンジャーズの先発ローテーションから1度もはずれることなく、145試合連続先発を守り続けたというタフさも注目である。2002年はダイヤモンドバックスへ移り、ランディ・ジョンソンカート・シリングと共にローテーションを形成する中で、この記録をどこまで伸ばすだろうか。

■2002.1.30(現地1.29)
●長い冬に終焉!リース、パイレーツと2年契約!
ポーキー・リース
2年前にはケン・グリフィーとの交換相手に指名されたポーキー・リースが紆余曲折を経てパイレーツと2年契約を交わした。過去2回もゴールドグラブ賞をマークしているリースは2001年シーズン終了後、レッズからロッキーズへの移籍が決まり、そのすぐ後にレッドソックスへの移籍が決まる。しかし、調停を避けたいレッドソックスはリースとは契約せず、リースはFAとなっていた。そして、ようやくパイレーツと2年契約を結ぶ形で、リースの長い冬は終わりを告げた。パイレーツは1985年以来のシーズン100敗を記録しており、チームの建て直しにリースの力が必要となったわけである。

●アストロズ、伸び盛りの25歳バークマンと複数年契約!
ランス・バークマン
2001年に大ブレークを飾った選手のひとりに数えられるランス・バークマンが、アストロズと3年間の1050万ドルという複数年契約に合意した。まだ25歳のバークマンは、リーグ3位の打率.331をマークし、メジャー史上において、55本の2塁打を放ち、34HRを記録したスイッチヒッターというのは、バークマンが初めてである。

●オリオールズ、ホワイトソックスからシングルトンを獲得!
Baltimore ORIOLES
オリオールズはホワイトソックスから29歳のクリス・シングルトンを獲得した。シングルトンはホワイトソックスに在籍していた3年間で打率.283、35HR、175打点を記録しており、オリオールズサイドは打率3割を打て、センターを任せられる守備力を評価しているという。交換相手はマイナーリーガーのウィリー・ハリスであり、2001年は主に2Aでプレーし、打率.305、54盗塁を記録し、シーズン終盤にはメジャーへ昇格を果たし、マイク・ムシーナから2本のヒットを放っている期待の選手である。なお、ハリスは2Aではセカンドで90試合、センターで40試合守っている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.086
デニー・ネイグル★デニー・ネイグル #15★ コロラド・ロッキーズ

いわゆる力投型の投手ではないが、スローカーブやスピリットフィンガーファストボールなどを有効に使い、緩急ある投球内容で技巧派として名を馳せるデニー・ネイグル。クイックモーションもうまく、滅多にランナーを走らせることがなく、守備面にも優れているアスリートである。

優勝請負人としてコロラドにやってきたネイグル。ボルチモアの郊外で生まれたネイグルは、かつてオリオールズで活躍したスコット・マグレガーの大ファンであり、よくその物真似をしていたという。マグレガーはカーブのコントロールに自信のある投手で、後のネイグルのピッチングに対し、大きな影響を与えることになる。そして、ミネソタ大学で活躍したネイグルは、1989年のドラフトで、ツインズから3位指名され、プロ入りを果たした。

1990年、1Aヴィサリオで10試合に登板し、8勝0敗の防御率1.43と桁違いの成績を残し、そのまま2Aオーランドへ昇格し、ここでも17試合の登板で、12勝3敗の防御率2.45と素晴らしい成績を残した。結局この年はマイナーの2つのクラスで計20勝をマークしたことになる。翌1991年は3Aポートランドで開幕を迎え、9勝4敗、防御率3.27という成績を残し、7月末にはメジャー昇格を果たす。しかし、昇格直後に故障者入りするアクシデントもあり、メジャーではわずか7試合しか登板できずに終わった。

満を持して期待されて迎えた1992年だったが、開幕直前にパイレーツへのトレードが決まってしまう。パイレーツでは主に中継ぎとして55試合に登板し、チームの地区優勝に貢献した。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第7戦にまでもつれ込む熱戦で最終的にはパイレーツは敗れ去り、ワールドシリーズへ進むことはできなかったが、その中でネイグルは初めてポストシーズンのマウンドに立つこともできた。

1993年も主に中継ぎで50試合に登板し、翌1994年から本格的に先発に回ることになった。ストライキにより短縮シーズンとなった中で24試合に先発し、9勝10敗、防御率5.12を記録する。そして、1995年は31試合に先発し、13勝8敗の防御率3.43という成績を残し、大きな飛躍を果たす。

1996年は、チームのエースとして14勝6敗と好成績を挙げていたネイグルだったが、8月26日に突然ブレーブスへの移籍が決まる。2年連続世界一を目指すブレーブスでの活躍が期待されたが、6試合の先発で2勝3敗という成績に終わってしまったが、この年、ブレーブスの一員としてヤンキースとのワールドシリーズでマウンドに立った(しかし、2勝4敗で敗れ去り世界一にはなれず)。

ナショナルリーグで通算100勝を記録。1997年は開幕から、グレッグ・マダックストム・グラビンジョン・スモルツと3人のサイヤング賞受賞投手と共にブレーブス4本柱を形成し、シーズン20勝(5敗)をマークし、最多勝のタイトルを獲得した。そしてリーグチャンピオンシップシリーズでは、この年世界一になるマーリンズ相手に完封勝利を記録。これは1991年のジョン・スモルツ以来、球団史上2人目の快挙である。ネイグルは防御率2.97、172奪三振の4試合の完封に加え、7連勝を飾るなど、数々のキャリアハイを記録するなどサイヤング賞のチャンスだったが、防御率1点台だったペドロ・マルチネスに奪われてしまった。

1998年も16勝(11敗)をマークし、メジャーリーグを代表する左腕としての評価をますます高めることになる。そしてオフにはブレット・ブーンマイク・レムリンジャーとの交換でレッズへの移籍が決まってしまう。レッズの一員として1999年のシーズンを迎えるが、開幕前のスプリングトレーニングの段階から肩の故障に苦しみ、前半戦に2度の故障者リスト入りを経験してしまう。そして、この年はわずか9勝に終わってしまった。

再起をかけた2000年は7月半ばの段階で8勝2敗と好成績を挙げていたが、7月12日に急遽ヤンキースへの移籍が決まった。ヤンキースに移ってからは7勝7敗という成績だったが、チームは3年連続でのリーグ優勝を決め、ネイグル自身2度目のワールドシリーズ進出を果たし、初めての世界一を経験することができた。

オフにFAとなったネイグルはロッキーズと5年間5150万ドルで契約を交わし、2001年からはマイク・ハンプトンらと共に投手の墓場と言われるクアーズフィールドを本拠地にして投げることが決まった。開幕戦でハンプトンが9回途中まで無失点に抑える好投でチームに勝利をもたらすと、第2戦に先発したネイグルは、味方の13点という大量援護に守られ、5回を7安打3失点に抑え、初勝利を挙げた。

6月に右足のハムストリングを痛め、故障者リスト入りしたネイグル。オールスター明けの後半戦でいきなり4連敗を記録するなど非常に苦しんだが、徐々に調子を取り戻していった。球数がかさみ、早いイニングでの降板が目立ったため、自らの勝利には結びつかなかったが、内容的には悪くはなかったが、チームが地区最下位では期待に応えたことにはならないだろう。結局、ネイグルの2001年は30試合の先発で9勝8敗の防御率5.38という成績で幕を閉じた。

ピッチングだけでなくバッティングにも素晴らしい才能を見せるネイグル。再びワールドシリーズのマウンドを踏むためには、ピッチャーとしてクアーズフィールドの呪縛を取り払うことが必要十分条件といえそうだ。

■2002.1.29(現地1.28)
●FAボールドウィン、マリナーズと1年契約!
ジェームス・ボールドウィン
マリナーズはFAになっていたジェームス・ボールドウィンと1年契約を結んだ。2001年のボールドウィンはホワイトソックスで開幕を迎えるが、トレード期限ギリギリにドジャースへ移籍し、2球団で合わせて28試合に先発し、10勝11敗という成績を残している。30歳になるボールドウィンだが、キャリアベストは14勝をマークした2000年のことである。シーズン116勝をあげたマリナーズの先発陣としての活躍が期待される。

●レンジャーズ、バルデスと1年250万ドルで契約!
イシュメール・バルデス
レンジャーズはイシュメール・バルデスと1年間で250万ドルで契約し、さらにルディー・シアネスとマイナー契約を結んだことを発表した。ドジャースでメジャーデビューを飾ったバルデスは2000年始めはカブスでプレーし、後半は古巣ドジャースへ出戻り移籍。2001年はエンゼルスへ移籍し、2002年はレンジャーズと契約するなど、3年間で4つのユニフォームを着ることになった。投手不足のレンジャーズの中で、先発ローテーションが任されることになりそうだ。

●2002年のプレーボールは、3月31日のアナハイムから!
Cleveland INDIANSAnaheim ANGELS
2002年のメジャーリーグ開幕は4月1日が当初の予定だったが、アナハイムでのエンゼルス対インディアンズ戦が開幕を1日早めて、3月31日に開幕することが決まった。これによりこの2チームが他の28球団より先駆けて開幕を迎えることになり、スプリングトレーニングの開始日も1日早め、2月14日からとなった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.085
ジェイミー・モイヤー★ジェイミー・モイヤー #50★ シアトル・マリナーズ

遅咲きを絵にかいたような選手として名前が挙がるのが、ジェイミー・モイヤーである。38歳という年齢で臨んだ2001年シーズン、開幕から好調をキープしたモイヤーは、1997年にランディ・ジョンソンが記録して以来、球団史上2人目となるシーズン20勝を記録し、シーズン116勝というメジャータイ記録を樹立したチームを引っ張った。

ストレートとチェンジアップが同じ腕の振りから投げられる。ペンシルベニア州に生まれたモイヤーは高校時代に、野球の他にバスケットボールやゴルフもプレーしていたという。セントジョセフ大学に進学したモイヤーは、1984年のシーズンに16勝をマークし、防御率1.99、90奪三振という素晴らしい記録を残し、モイヤーがつけていた背番号10は、後に同大学の永久欠番になっている。そして、この年のドラフトでカブスに6位で指名されプロ入りしたが、周囲からプロではやっていけないだろうとまで言われていた。

念願のプロ入りを果たしたモイヤーは、契約後にルーキーリーグに参加し、14試合に登板し、リーグ最多の104回2/3を投げ、9勝3敗の防御率1.89、120奪三振を記録し、最多勝と最多奪三振でもリーグトップに立った。翌1985年は1Aで8勝(2敗)、2Aで7勝(6敗)と好成績を残し、その評価を高めた。

1986年は開幕を2Aで迎えるが、3Aを経て、6月半ばにはメジャーへ初昇格を果たす。メジャー初登板で初勝利を飾るなど、デビューは快調だった。先発ローテーションに加わり、8月半ばには初完封も記録し、結局、16試合に先発し、7勝4敗という新人としては充分合格点に値する成績を残す。翌1987年は初めてメジャーでフルシーズンを過ごし、12勝15敗という数字を残す。

1988年は9勝15敗の防御率3.48という成績に終わり、シーズンオフにはレンジャーズへのトレードが決まった。モイヤーと共にレンジャーズ入りする選手の中には、ラファエル・パルメイロも含まれていた。移籍1年目は開幕4試合の登板で3勝0敗、防御率2.28という最高のスタートを切ったはずが、左肩の痛みに苦しみ、シーズン半ばの約3ヶ月を故障者リストで過ごすという尻すぼみのシーズンとなってしまった。さらに1990年は先発で開幕を迎えるが、4月後半にはブルペンに回ることになり、シーズン終了後、解雇を通達された。

1993年はオリオールズに拾われるような形で契約を交わし、3Aで8試合に登板し、6勝無敗の防御率1.67という成績を残してメジャーへ昇格。すでに30歳になっていたモイヤーだが、1完封を含む12勝(9敗)をマークした。モイヤーにとっては6年ぶりのメジャーでの2桁勝利である。その後2年間は、5勝、8勝に終わったが、FAの資格を得たモイヤーはレッドソックスへの移籍を決めた。

6年連続2桁勝利を記録しているモイヤー。ブルペンでスタートした1996年だが、7月には本格的に先発に回り、7勝1敗という成績で、トレード期限ギリギリにマリナーズへの移籍が決まった。移籍先のマリナーズでも11試合に先発し、6勝2敗という成績を残し、2チームあわせて13勝3敗を記録し、勝率.813は両リーグでトップである。こうして遅咲きのつぼみは大きな花を咲かせようとしていた。

1997年は、キャリア最多の17勝(5敗)をマークし、チームの地区優勝に大きく貢献。初めてのポストシーズンのマウンドも経験した(しかし、5回途中でノックアウト)。翌1998年は3完封含む15勝(9敗)を挙げ、この年のシーズン途中で抜けたジョンソンの穴を充分に埋める活躍を見せた。

1999年は14勝(8敗)をマークし、2000年は開幕序盤の約1ヶ月半を故障リストで過ごすも13勝(10敗)をあげた。チームもワイルドカードでポストシーズンへコマを進めたが、モイヤーは肘を痛めてしまい、大事な試合で登板することができなかった。

こうして迎えた2001年は、開幕からチームの投打の歯車が噛み合い、快進撃を見せた。その中でモイヤーはキャリア初の20勝(6敗)を達成。防御率も3.43で、38歳にしてキャリア最高のシーズンを迎えたモイヤーだった。チームも地区優勝を飾り、モイヤーとしては自身2度目のポストシーズンのマウンドに立つことができた。インディアンズとのディビジョンシリーズでは、第2戦と第5戦のマウンドに上がり、2試合の登板で、被打率.186(43打数8安打)の防御率1.50を記録するなど、チームの勝利に大きく貢献した。さらにヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第3戦に先発し、7回を4安打2失点と好投して、このシリーズ唯一の勝利をチームにもたらした。

ひょろひょろとしたのらりくらりの軟投派の投手として知られるモイヤーの強みは、様々なスピードで投げ分けるチェンジアップだ。40歳目前にして、ますます円熟味を増すモイヤーには、若いマリナーズ投手陣のリーダーとしての役割が求められる。モイヤーが遅咲きである証明に、通算151勝を挙げているうち、マリナーズに移籍してからの5年半で85勝と半分以上を稼いでいる。

■2002.1.28(現地1.27)
●2002年、ボンズがヤンキースタジアムへ初見参(予定)!
バリー・ボンズ
記録ずくめのシーズンを送ったバリー・ボンズだが、2002年6月7〜9日に初めてヤンキースタジアムでプレーすることになりそうだ。長いキャリアを持つボンズもずっとナショナルリーグのチーム(パイレーツ→ジャイアンツ)でプレーしており、インターリーグが始まった1997年には西海岸のジャイアンツでプレーしていたことから、ヤンキースと対戦したことはなかった。ボンズ自身は「ヤンキースタジアムでロジャー・クレメンスと対決したい」と意気込んでいる。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.084
ライアン・デンプスター★ライアン・デンプスター #43★ フロリダ・マーリンズ

150キロを超える速球と、鋭く曲がるスライダーにチェンジアップを加えた投球で、マーリンズの若きエースとして活躍するのがライアン・デンプスターである。課題といえば守備面でまだ粗さがある点だ。しかし近い将来、シーズン20勝をマークするのは、ほとんど時間の問題と思われる。

マーリンズのエースを務めるデンプスター。カナダ出身のデンプスターは、1995年、レンジャーズからドラフト3位指名を受け、即ルーキーリーグで8試合に投げ、3勝1敗の防御率2.36という好成績でプロのスタートを切った。翌1996年に1Aチャールストンで23試合に登板し、7勝11敗の防御率3.30という記録を残していた8月に入ってすぐ、ジョン・バーケットとの交換でマーリンズ入りが決まり、マーリンズ傘下のマイナーへ移った。

1998年、1Aブリバードカウンティでシーズンを過ごし、28試合の登板で10勝9敗の防御率4.90という数字を残した。翌1999年は2Aポートランドで開幕を迎えるが、シーズン途中で初めてのメジャー昇格を果たした。14試合に登板(先発が11試合)し、待望のメジャー初勝利も記録(1勝5敗)したものの、力不足からか終盤は3Aシャーロットに降格する。

1999年はシーズン前のエキシビジョンゲームで数多くのチャンスをもらうが、それを生かせず開幕は3Aで迎えることになった。しかし、5月に入るとメジャーへ再び昇格し、チームの投手不足の中で先発ローテーションに入った。途中スランプに陥ったこともあったが、25試合に登板し、7勝8敗の防御率4.71という数字を残した。

2000年は初めての開幕メジャーの座を勝ち取り、飛躍のきっかけを掴む。エースのアレックス・フェルナンデスが故障で離脱し、苦しいチーム状況の中でデンプスターはチームの大黒柱として活躍した。5月7日の対メッツ戦ではわずか被安打1(5四球)のあわや完全試合という素晴らしいピッチングを見せ、初めてのオールスター出場も果たした。結局、オールスターでは登板の機会はなかったが、カナダ人投手がオールスターに選ばれるというのは、1972年のファーガンソン・ジェンキンス以来である。

カナダの西海岸、ブリティッシュ・コロンビア州の出身。結局、この年は33試合の先発で、14勝10敗の防御率3.66という好成績を残し、ケビン・ブラウンが持っていた球団記録(205奪三振・1997年)を塗り替える209奪三振も記録している。

24歳の若さながら、2001年のデンプスターはチームのエースとしての活躍が求められた。4月に3連敗するなど、序盤はつまずいたが、同い年のAJ・バーネットが球団史上3人目のノーヒッターを達成し、ブラッド・ペニーの台頭も刺激になり、勝ち星を重ねていく。そして、7月3日の対エクスポズ戦で散発4安打に抑え、シーズン初の完封勝利を飾った。7月8日の対デビルレイズ戦でも8回を4安打1失点に抑え、オールスター前に10勝(8敗)をマークした。

8月半ばまでは勝率5割で、地区3位を保っていたマーリンズも負けが込み始め、結局地区4位でシーズンを終えることとなった。その中でデンプスターは前年の記録を超える15勝(12敗)を挙げたが、4.94と高い防御率がネックとなり、3点台に落とすことが2002年以降の課題となりそうだ。

チャリティーに力を注ぐ心優しい一面も持っているデンプスター。カナダ出身ということもあってか、エクスポズの本拠地オリンピックスタジアムとは相性が良く、過去7試合に先発し、5勝0敗と抜群の成績を残している。

■2002.1.27(現地1.26)
●39歳コーン、2002年はどこの球団へ行くのか!?
デビッド・コーン
スプリングトレーニングまであと3週間と迫ったが、39歳のデビッド・コーンが2002年にプレーする球団がまだ決まらない。2001年はレッドソックスで25試合に先発し、9勝7敗、防御率4.31という数字を残している。メッツ、ヤンキースを希望しているコーンだが、正式な要請はまだない状況である。かつては完全試合を達成したこともあるこの右腕は、果たしてどこへ行くのか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.083
アル・ライター★アル・ライター #22★ ニューヨーク・メッツ

大型補強をしたメッツの投手陣の柱と期待されているのが、36歳のアル・ライターである。2001年こそは不本意なシーズンを送ったが、かつてはノーヒッターも達成し、在籍していた3つのチームでワールドシリーズ進出に貢献するなど、大試合の経験は豊富な頼れる左腕である。

メッツの大黒柱であるライター。ライターの子供の頃のアイドルはトム・シーバーで、よくシェイスタジアムに通ったという。高校時代に延長14回2/3まで投げて、無失点に抑え、32個もの三振を奪ったこともあった。1984年のドラフトでヤンキースに2位指名を受けてプロ入り。マイナーでは目立った成績こそは上げられなかったが、その投球スタイルはかつてのヤンキースのエース、ロン・ギドリーを彷彿させた。そして、毎年着実に階段を昇るライターは、1987年にメジャー昇格を果たす。メジャー1年目は4試合に先発し、2勝2敗という成績に終わり、翌1988年も14試合に先発するが、4勝4敗と並の成績に終わる。

転機が訪れたのは1989年のことで、開幕早々、かつてホームラン王にも輝き、後に日本でもプレーすることになるジェシー・バーフィールドとの交換でブルージェイズ入りが決まった。期待されての移籍だったが、すぐに故障者リスト入りし、残りのシーズンを棒に振ってしまう。再起をかけた1990年は、マイナーからのスタートだったが、終盤にメジャー復帰し、中継ぎとして4試合に登板している。しかし、移籍当初の期待を裏切り、その後2年間は怪我の影響もあったが、主にマイナーで過ごすことになった。

本格的にメジャーに定着したのは1993年のことである。前年に世界一を経験したブルージェイズの中で中継ぎとして地位を確立。この年、34試合に登板(先発は14試合)し、9勝6敗2セーブの防御率4.11という記録を残している。ワールドシリーズにも中継ぎとして登板し、チームの2年連続世界一に貢献した。

1994年からは本格的に先発へ転向したが、20試合に先発し、6勝7敗という成績にとどまった。この頃までのライターは毎年の様に怪我で故障リスト入りを繰り返し、さらにノーコンであることがもうワンランク上の投手になることを妨げていた。1995年に怪我なく、先発でフル回転し、初めての2桁勝利(11勝11敗)を記録し、飛躍のきっかけを掴む。この年のオフ、FAとなったライターは新興球団であるマーリンズへの移籍を決めた。

マーリンズへの移籍1年目、5月11日の対ロッキーズ戦で球団史上初のノーヒッターを記録。この勢いに乗って、この年のライターは33試合に先発し、自己最多の16勝(12敗)を始めとして、防御率2.93を記録するなど、キャリア最高の年とした。翌1997年は2度の故障者リスト入りがあったが、チームはワイルドカードでポストシーズンへ進出し、球団創立5年目での世界一の栄光を手にした。

大試合でいいピッチングを見せる。ライターにとっては2度目の世界一だったが、その年のオフにチームの緊縮財政の方針から、若手選手との交換でメッツ入りが決まった。交換相手には、後に球団史上3人目のノーヒッターを記録するAJ・バーネットも含まれていた(2人目のノーヒッター記録者はケビン・ブラウン)。

メッツでの1年目となる1998年は17勝6敗の防御率2.47を記録し、誰もが認めるチームのエースとなった。翌1999年は、前年から痛めていた左膝の状態がおもわしくなく、特に前半戦は苦しんだが、後半戦は大活躍。特に同率で迎えたレッズとの、ポストシーズン進出をかけて戦ったワンゲーム・プレーオフに先発し、見事な2安打完封勝利を挙げ、チームを1988年以来のポストシーズン進出に導いた(しかし、リーグチャンピオンシップシリーズではブレーブスの前に敗れてしまった)。

2000年、移籍3年目のライターは31試合に先発し、16勝8敗、防御率3.20の好成績を挙げ、チームを2年連続でのポストシーズン進出へ導く活躍。見事にワールドシリーズへもコマを進め、ライターにとっては在籍してきた3球団全てでワールドシリーズ進出の名誉を手にした。ヤンキースとのサブウェイシリーズだったが、第1戦と第5戦に先発。共に好投したが、第5戦ではライター続投が裏目となり、敗れてしまった。

世界一奪取を目的にスタートした2001年は開幕から左肘の痛みに苦しみ、開幕から3連敗で4月後半には故障者リスト入り。チームもどん底で最下位と低空飛行を続ける中、ライターの復活から徐々に上がっていき、最終的には地区首位を狙える位置まで来た(最終的には力尽きて地区2位)。この年のライターは11勝11敗の防御率3.31という成績に終わっている。

非常に明るい選手で周囲の選手を和ませる雰囲気を持つライター。オフにはスポーツ局のキャスターも務めるなど大活躍。引退後は政治家へ転身するのかという噂まで立っている。

■2002.1.26(現地1.25)
●ベルがジャイアンツへ!リラフォードがマリナーズへ!
デビッド・ベル
マリナーズがジェフ・シリーロを獲得したため、それまでサードを守っていたデビッド・ベルの去就が注目されていたが、ジャイアンツへのトレードが決まった。レギュラーでサードを守る選手がいないジャイアンツへ移籍は、ベルにとってはプラスに働く可能性がある。このベルとの交換相手はユーティリティープレーヤーであるデシー・リラフォードであり、ジャイアンツと1年契約を結んだばかりだった。

●ステアーズ、ブリュワーズ入り!打撃力アップにつながるか!
マット・ステアーズ
メッツ、ロッキーズの3球団で総勢11人にもわたる大型トレードを済ませたばかりのブリュワーズが、FAのマット・ステアーズと契約した。ステアーズは2001年をカブスで過ごしたが、シーズン途中でチームがフレッド・マグリフを獲得したため、わずか128試合しか出場できず、打率.250、17HR、61打点に終わっている。ブリュワーズの打撃力アップにつながるか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.082
ケビン・ブラウン★ケビン・ブラウン #27★ ロサンゼルス・ドジャース

総額で1億ドルを越える大型契約も珍しくなくなってきたメジャーリーグで、初めて1億ドルの壁を破ったのがケビン・ブラウンである。1998年12月にFAとなっていたブラウンが、ドジャースと総額1億5000万ドルの7年契約を結び、周囲を驚かせた。投手でありながら7年もの複数年契約を手にしたのは、ブラウンのタフさからだった。

初めての1億ドル男、ケビン・ブラウン。ジョージア州出身のブラウンは、高校時代は野球の他にフットボールやテニスに汗を流していた。ジョージア工科大学へ進学したブラウンは、通算で28勝、249奪三振を記録した注目の右腕であった。

1986年にレンジャーズからドラフト1位指名(全米4番目)を受けプロ入り。その年に1試合だけメジャーのマウンドを経験し、初勝利も記録している。翌1987年は1A、2A、3Aと3つのクラスを経験するするが思うような成績は残せなかった。1988年は2Aタルサに腰を落ち着けてプレー。26試合に登板し、12勝10敗、防御率3.51という成績を残し、9月に入りメジャーへ再昇格した。メジャーでは、ホゼ・カンセコマーク・マグワイアがいたアスレティックスを相手に散発6安打の完投勝利を記録している。

1989年からメジャーの先発ローテーションに入り、開幕から活躍。実質、当時24歳の新人ブラウンは、チームメイトの当時42歳、ノーラン・ライアンの16勝に次ぐ12勝(10勝)をマークし、防御率もチーム2位の3.35を記録し、さらに7完投はチームトップである。この年は新人王は逃すが、その将来性は高く評価された。

1990年は8月半ばに初めての故障者リスト入りを経験するが、前年と同じ12勝を挙げ、6完投を記録した。しかし、1991年は9勝に終わり、完投数はゼロであるが、投球回数が初めて200イニングを越えた(210回2/3)。

ブラウンがその名をメジャーリーグに大きくとどろかしたのは1992年のことで、前半戦だけで14勝をマークし、オールスターゲームでの先発も務めた。結局、この年は21勝(11敗)をマークし、最多勝のタイトルも獲得した。さらにリーグトップの265回2/3も投げ、完投は11試合を数えた。翌1993年も15勝をマークし、12完投を記録し、誰もが認めるメジャーリーグの一流投手に仲間入りした。

しかし、1994年は振るわず、7勝9敗に終わってしまい、オフにFAとなったブラウンはオリオールズと契約。移籍した1995年は10勝9敗の防御率3.60で復活の手がかりを掴む。オフに再びFAとなり、新興球団のマーリンズと契約した。

優勝請負人の名を欲しいままにするブラウン。1996年、マーリンズのエースとして17勝11敗、防御率1.89という素晴らしい成績を残し、最優秀防御率のタイトルを獲得。サイヤング賞は24勝をマークしたジョン・スモルツに奪われてしまうが、リーグ平均防御率が4.21という中でブラウンは桁違いの活躍を見せたことになる。

移籍2年目の1997年は、6月10日の対ジャイアンツ戦において、ノーヒッターを記録し、さらにシーズン終盤の8月、9月は7勝無敗の文句ない成績を挙げ、チームをワイルドカードでのポストシーズン進出に貢献する。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦でグレッグ・マダックスと投げ合い、見事に投げ勝った。その後、風邪で体調を崩すが、第6戦の先発に間に合い、気迫のピッチングを見せ、4勝2敗でブレーブスを振り切り、初めてのワールドシリーズ進出を果たした。勢いに乗ったマーリンズは、ワールドシリーズも制し、創立5年目での世界一の名誉を手にした。

大きな栄光を手にしたブラウンだったが、チームの経費削減の方向から、若手選手との交換でパドレスへの移籍が決まった。パドレスへ移籍した1998年は、リーグ2位の257イニングを投げ、リーグ4位となる完投7試合をマークする持ち前のタフさを充分に見せつけた。まさにフル回転という働きで、18勝7敗の防御率2.38を記録し、チームの地区優勝に貢献した。

アストロズとのディビジョンシリーズ第1戦に先発したブラウンは、16奪三振の快投を見せる。さらに中3日で再びマウンドへ上がり、ここでも好投した。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでも1勝をマークし、ブラウンにとっては2年連続のワールドシリーズ進出を果たすことになる(惜しくもヤンキースの前に4連敗を喫した)。

オフにFAとなったブラウンだが、2年連続違うチームでワールドシリーズ進出と優勝請負人の名を欲しいままにしているだけに残留を求めるパドレスを始めとして、ドジャース、オリオールズ、ロッキーズ、カージナルスという球団が名乗りをあげた。結局、ブラウンはドジャースを選んだ。

多大な期待を受けた上でのドジャース移籍となったが、1年目の1998年は18勝9敗の防御率3.00と数字的には合格点といえるものを逃したが、チームは地区3位に終わってしまった。翌1999年は13勝7敗に終わるが、防御率2.58で自身2度目の最優秀防御率のタイトルを手にした。しかし、チームは地区2位でポストシーズン進出は果たせなかった。

2001年は左肘に打球を当てたりなどトラブルが続き、何度もの戦線離脱を経験した。結局、10勝4敗という物足りない数字に終わったが、その中での防御率2.65はブラウンらしさを感じさせた。鋭いシンカーやスライダーが武器のブラウン。再び、ワールドシリーズのマウンドに立つことができるか。

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