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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.1.20〜1.25★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.1.25(現地1.24)
●「最後の4割打者」テッド・ウイリアムス(83歳)が入院!
テッド・ウイリアムス
「最後の4割打者」テッド・ウイリアムスが、現在住んでいる家から約50マイルの距離にあるフロリダ州の病院に入院した。すでに83歳の高齢のウイリアムスだが、容態等は明らかになっていない。2000年11月には心臓にペースメーカーを埋め込む大きな手術を受け、2ヶ月にも渡る入院生活を送っている。ウイリアムスは19年間のメジャー生活で、三冠王を2度も記録する大打者であり、1941年に打率.406を記録して以降、メジャーに4割打者は生まれていない。

●脳腫瘍手術のラムゼイ、術後の経過は順調!
San Diego PADRES
マリナーズからパドレスへ移籍したばかりのロブ・ラムゼイが脳腫瘍の手術を受け、その後の経過も順調ということが伝えられた。2000年にマリナーズで中継ぎとしてプレーしていたが、2001年はマリナーズ傘下の3Aタコマで1年を過ごし、10勝11敗、防御率4.82という数字を残している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.081
グレッグ・マダックス★グレッグ・マダックス #31★ アトランタ・ブレーブス

1990年代最高のピッチャーとして名前が挙がるグレッグ・マダックスは、投手王国と呼ばれるブレーブスのエースである。「精密機械」の異名をとるマダックスは、毎年のように200イニング以上を投げ、1988年から14年連続15勝以上を記録し、チームにとっては欠かせない選手の一人である。2001年に通算250勝、2500奪三振を達成し、引退後の殿堂入りは間違いないと言われている。

精密機械との異名をとるマダックス。テキサス州に生まれたマダックスだったが、父親がアメリカ空軍にいたため幼少時から転勤を繰り返した。そんなマダックスが野球を始めたのは6歳の頃、野球後進国でもあるスペインでのことだった。当時は今ほど目立った選手ではなかったが、アメリカ本土に戻ってからは、めきめきと頭角を現しはじめる。高校時代をラスベガスで過ごした彼は2年連続で州代表チームに選ばれ、アリゾナ大から多額の奨学金を提示されるほどの投手にまで成長した。

1984年のドラフトでカブスから2位指名を受ける。周囲からは大学進学も勧められたが、野球をやるならどこでも一緒だと、あっさりプロ入り。指名後、ルーキーリーグに参加し、14試合の登板で6勝2敗の防御率2.63を記録し、プロとしてのスタートを切った。翌1985年は1Aピオリアで開幕投手を務め、結局、27試合の登板で13勝9敗、防御率3.19の好成績をあげた。

1986年は2Aピッツフィールドで開幕を迎えたマダックスは桁違いのピッチングを見せ、3Aアイオワへ昇格。ここでも10勝1敗と最高の成績を残し、この年の9月には20歳という若さでメジャー昇格を果たした。さらに9月29日の対フィリーズ戦では実兄のマイクとメジャーのマウンドで対決し、勝利を収めている。翌1987年は開幕からローテーションに入るなど、大きな期待をかけられて臨んだが、大きな壁にぶち当たり、マイナー落ちも経験するなど、自らのピッチングスタイルを見つめ直す機会を得た。

1988年はオールスター前に15勝(3敗)を挙げる球団新記録を樹立し、22歳という若さでオールスターにも出場を果たした。シーズン通して18勝8敗の防御率3.18という成績を残し、大投手への階段を一つ一つ昇っていくことになる。翌1989年には19勝をマークし、カブスも地区優勝を飾る。ジャイアンツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2試合に先発するが勝利を飾れず、チームも1勝4敗で敗れワールドシリーズ進出はついに果たせなかった。

通算300勝を達成するのは3年後!?1992年には初のシーズン20勝を記録し、防御率も2.18と素晴らしく、負け越し球団からは14年ぶりのサイ・ヤング賞を受賞することになった。FA権を取得したばかりのマダックスは、当初は移籍する気は毛頭なく、契約の中にノートレード条項を加えてくれることが要求の一つであった。しかし、カブスからのオファーはなく、結局移籍することになり、ヤンキースやブレーブスがマダックス獲得に大きな興味を持った。「ワールドシリーズで優勝できるなら、サイ・ヤング賞なんていらない」というマダックスは、最高額を提示したヤンキースを蹴り、2年連続ワールドシリーズに進出しているブレーブスを選んだ。

ブレーブスに移籍し、先発投手としての調整方法などをそれまでと変えたことがマダックスを更に成長させることになった。移籍1年目となる1993年もシーズン20勝をマークし、リーグ最優秀防御率の2.36を記録し、2年連続のサイヤング賞を受賞。しかし、フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズには敗れてしまう。翌1994年はストライキでシーズン途中で中断となるが、16勝6敗、防御率1.56という素晴らしい内容で3年連続のサイヤング賞を手にした。

こうして迎えた1995年は、19勝2敗の防御率1.63という記録を残し、最多勝、防御率、勝率というタイトルを総なめし、4年連続のサイヤング賞を受賞。チームもワールドシリーズ進出を飾り、マダックスにとっては3年越しの夢が叶ったことになる。インディアンズとのワールドシリーズ第1戦では、ポストシーズン7連勝中のオーレル・ハーシハイザーと投げ合い、見事にマダックスが勝った。これで勢いに乗ったブレーブスは4勝2敗で世界一に輝き、マダックスも感涙にむせんだ。

打高投低といわれている最近のメジャーリーグの中で、マダックスが残してきた記録は奇跡に近い。2年連続防御率1.75以下というのは、殿堂入りしたウォルター・ジョンソン投手以来のことである。「マッド・ドッグ(狂犬)」という異名を持つ彼は、2種類のスライダーに加え、サークルチェンジを内外角に投げ分けることで、145キロの速球も威力も倍増する。

再びワールドシリーズでの好投が見られるか。1996年は15勝(11敗)に終わったが、翌1997年は、サイヤング賞こそペドロ・マルチネスに譲るが19勝(4敗)を挙げて復活。さらに1998年も18勝(9敗)をマークし、最優秀防御率(2.22)のタイトルを手にした。1999年、2000年も連続19勝を挙げるが、1995年以来の世界一の座を手にすることはできなかった。

2001年のマダックスは開幕投手が予定されていたが、肘の状態がおもわしくなくそれを回避。マウンドに上がったのがチームの開幕5試合目のことである。3試合に登板した時点で与えた四球も自責点もゼロという素晴らしいピッチングを披露。4月21日の対フィリーズ戦でトラビス・リーにホームランを打たれ、開幕からの無失点記録は23イニングでストップした。

チームが極度の貧打に落ち込み、さらに救援陣も不安ということから思うように勝つことができず、5月が終わった段階で4勝5敗というのが、マダックスの成績であった。しかし、6月に入ってからは破竹の10連勝をマークし、低迷していたチームを引っ張った。さらに6月末から8月の半ばまでに72回1/3連続イニング無四球というリーグ記録を樹立。これまでのリーグ記録は、1913年のクリスティー・マシューソン、1976年のランディー・ジョーンズの68回だった。ちなみにメジャー記録は、1962年にビル・フィスチャーが記録した84回1/3であった。

勝ち運に恵まれていたマダックスも9月以降は投打の歯車が噛み合わず、実に4連敗を喫する。ピッチング内容は悪くはないが、それが勝利に結びつかなかった。シーズン20勝も視野に入っていたが、終盤のつまずきで17勝11敗でシーズンを終える。チームはフィリーズ、メッツの躍進もあり、厳しいペナントレースとなったが、その中でかろうじて10シーズン連続地区優勝を飾り、ポストシーズンへコマを進めた。

年齢的にはまだまだやれるはずだ。アストロズとのディビジョンシリーズ第1戦に先発したマダックスは、2点のリードをもらいながらブラッド・オースマスに同点ホームランを打たれた後、味方のエラーに足を引っ張られ、リードを許した状態でマウンドを降りる(終盤、チッパー・ジョーンズの逆転ホームランが飛び出し、チームは勝った)。ダイヤモンドバックスとのリーグチャンピオンシリーズでは第1戦に先発し、ランディ・ジョンソンと投げ合ったが、再び味方のエラーがあり先制点を奪われる。7回まで投げて2失点に抑えながらも、負け投手になってしまう。

さらに中3日で第4戦に先発するが、自らの悪送球を含む3つのエラーであっさりと4点を奪われる。続く4回表、デビッド・デルーシトニー・ウォーマックに連続ヒットを打たれたところで降板。わずか3回を投げ8安打6失点(自責点4点)という最悪の内容でマウンドを降りることになる。これによりマダックスはリーグチャンピオンシップシリーズでの成績が4勝8敗となった(ポストシーズン全体では10勝13敗)。しかも公式戦から数えて10試合連続で勝ちに恵まれていない状況であり、これはカブスに在籍していた1990年に13試合連続勝利なしの記録に匹敵するものである

マダックスにとっては不本意なシーズンに終わったが、1990年から12年連続でゴールドグラブ賞を獲得。メジャー記録はジム・カートの16回であり、これを更新するのも時間の問題といえる。

ロジャー・クレメンスやジョンソンなどの30代後半の投手が大活躍した2001年のメジャーリーグだったが、タイプこそ違うマダックスも2002年4月に36歳となる若さを持っている。マダックスには、いわゆるメジャーリーガー的な力強い個性的な風貌は見受けられない。どちらかといえばきゃしゃなイメージさえ受ける。彼は三振を多く取れればいいというようなマスコミの風潮には嫌気がさしているとも言う。いたずらを好み、ジョークを愛する粋な男でもあるマダックスに、今後必要とされるのは大試合(主にポストシーズン)での素晴らしいピッチングである。

■2002.1.24(現地1.23)
●ジマーマン、レンジャーズと3年契約を交わす!
ジェフ・ジマーマン
レンジャーズはジェフ・ジマーマンと3年間1000万ドルで合意し、調停入りを防いだ。ジマーマンは2001年、クローザーとして28セーブをマークしたが、2002年はジョン・ロッカーなどの獲得により、クローザーとしての活躍は望めそうにない。1999年にメジャーデビューしたジマーマンは、中継ぎとして球団記録となる26試合連続無失点記録を樹立。前半戦に9勝0敗という好成績を残し、オールスターに選ばれている。

●37歳ジャクソン、ツインズとマイナー契約!
Minnesota TWINS
ツインズは37歳のベテラン右腕、マイク・ジャクソンとマイナー契約を結んだ。ジャクソンにとっては、16年間のメジャーキャリアの中で、ツインズは7番目のチームとなる。ジャクソンのベストシーズンは、インディアンズに在籍していた1998年で、この時は40セーブを挙げ、防御率1.55を記録している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.080
長谷川滋利★長谷川滋利 #21★ シアトル・マリナーズ

エンゼルスで5年間、主にセットアッパーとして活躍してきた長谷川滋利。チーム内での信頼は抜群だったものの、球団からの評価は意外にも低く、長谷川は契約更新のオファーを断った。結果的にFAになるという形で、愛着あるエンゼルスに別れを告げることになってしまう。他球団との交渉の結果、マリナーズと1年契約を結んだ。これにより2002年のマリナーズには佐々木主浩イチローに加え、3人の日本人選手が同時にプレーすることになる。

マリナーズ移籍が決まった長谷川。中学時代に軟式野球の大会で全国優勝を果たした長谷川は、東洋大姫路高校へ進学した。文武両道に憧れていた長谷川にとって、野球のみの高校時代は非常につらかったと後に語っているが、甲子園に3度出場するなど結果を出し、自らがエースとなった3年時には甲子園ベスト8にまで進出している(ちなみに高校2年時に甲子園へ出場したとき、打者として後にチームメイトになる佐々木と対戦している)。

立命館大学に進学すると、関西大学リーグ歴代2位となる通算40勝をマーク。大学4年生の時には、シアトルで行われた日米大学野球にも参加し、メキシコ戦とキューバ戦に登板し、いいピッチングを見せている。大会終了後、当時のキングドームで初めて生のメジャーリーグを観戦。マリナーズ対エンゼルスの試合だったが、後に両チームのユニフォームを着ることになるとは、この時想像もしなかっただろう。

1990年暮れのドラフトで、オリックス・ブルーウェーブに1位指名を受けてプロの世界へ。プロ1年目の1991年は開幕から5連敗する最悪のスタートを切ったが、その後は持ち直した。結局、12勝9敗という成績を残し、新人王を獲得。翌1992年は2年目のジンクスかわずか6勝(8敗)に終わるが、3年目以降は12勝(6敗)、11勝(9敗)、12勝(7敗)と毎年確実に2桁勝利をマークできる投手となった。特に1995年にはリーグ優勝も経験した。

1993年のオフから球団との間で、長谷川は将来的なメジャー挑戦を口にしていた。1995年に野茂英雄がメジャーデビューを飾ったときは、先を越されたということで非常に悔しがり、焦りもあったという。当時は日米間においてポスティングシステムなどの制度が固まっていない段階であった。

セットアッパーか、クローザーか、どっちでいく!?オフの契約更改でメジャー移籍がほぼ確定という中で迎えた1996年は、開幕から不調で、シーズン途中で肩を痛めるアクシデントもあり苦しんだ。わずか4勝(6敗)に終わり、長谷川にとっては不本意なシーズンだったが、チームは見事に日本一に輝いた。

そして、1997年1月に金銭トレードという正規な手段で、長谷川のメジャー挑戦が正式に決まる。マリナーズ、アスレティックス、エンゼルスが獲得に動いたが、その中で長谷川が選んだチームは、ディズニーを本拠地にするエンゼルスであった。入団発表の席上では、「エンゼルスについて知っていることは?」という質問に対し、「ピッチャーがミッキーマウスで、キャッチャーがミニーマウス」と言い、周囲の笑いを誘った。

メジャー1年目となる1997年、エンゼルスの先発4番手としてインディアンズ戦に登板した。強打インディアンズ打線を相手に5回途中で5失点されノックアウトされた。この失敗で先発からはずされ、ブルペンに回る。先発失格の烙印を押され落ち込みもしたが、そんな中で長谷川はメンタルトレーニングに出会ったことがさらに一回り大きくした。セットアッパーとしての登板が続く中で、自分がメジャーで生き残る術を見出し、セットアッパーという役割そのものの魅力に気づき始めた。

積極的にウェイトトレーニングにも取り組んだこともあり、球速が日本時代よりアップし、ピッチングに幅を持たせ、メジャー2年目の1998年には、61試合の登板で、8勝3敗5セーブ、防御率3.14を記録し、エンゼルスのブルペンには欠かせない投手となった。さらに2000年にはクローザーのトロイ・パーシバルが怪我で離脱すると、クローザーの役割も務め、シーズントータルで10勝6敗9セーブの防御率3.57という成績を残している。。

5年目の2001年は初めて故障者リスト入りを経験。改めて自分を見つめ直すいい機会となったという。ポストシーズンで投げたいという希望を持っているだけに、エンゼルスで共に汗を流した仲間と離れるのは寂しいが、そういう日が来るかもしれないとも話すようになった長谷川。そして、2001年オフに優勝候補のマリナーズへの移籍が決まる。

メジャーでの成功の条件として「アジャストメント」ということを挙げる長谷川。その一方で「将来的にはクローザーもやってみたい」と話す。自分なりの目標を立て、それを着実にクリアしてきた長谷川だけに、ひょっとすると、2002年後半は佐々木に代わり、マリナーズのクローザーを務めているかもしれない。

■2002.1.23(現地1.22)
●タイガース、ウィーバーと4年間2200万ドルで契約更新!
ジェフ・ウィーバー
タイガースはチームのエース格であるジェフ・ウィーバーと4年間2200万ドルで契約を交わした。1998年のドラフト1位と期待の高いウィーバーの2001年は、13勝16敗の防御率4.08という数字に終わっている。早くも2002年の開幕投手という声も聞かれ、25歳のウィーバーの右腕にかかる期待はいやがおうにも増すことだろう。

●モーラ、左手親指を故障!キャンプに間に合うか微妙!
メルビン・モーラ
ベネズエラでのウインターリーグに参加しているメルビン・モーラは左手の親指を負傷してしまい、全治6週間ということから、2月14日から始まるオリオールズのスプリングトレーニングに間に合わない可能性が出てきた。モーラに先頭打者としての活躍を期待しているオリオールズにとっては、頭の痛い問題といえそうだ。

●38歳チャールトン、左肩を手術!2002年は投げられない!?
Seattle MARINERS
左の貴重なセットアッパーとしてマリナーズのブルペンを守ったノーム・チャールトンが、左肩の回旋筋を手術したことがわかった。すでに38歳のチャールトンは、先月に125万ドルで1年間、契約を更新している。2001年のチャールトンは44試合に登板し、4勝2敗1セーブの防御率3.02という成績を残している。

●ラルーサ、3年契約延長で2004年まで指揮を執る!
St. Louis CARDINALS
カージナルス監督のトニー・ラルーサは、3年間の契約延長に合意した。これで、57歳になるラルーサは1979年にホワイトソックスの監督になって以降、2002年で24年連続メジャーリーグの監督を務めることが決まった。アスレティックス時代にはチームのリーグ3連覇、1989年には世界一にも輝いている名将である。カージナルスの監督としては、通算507勝464敗という記録を残しており、1996年、2000年、2001年とポストシーズンへの進出を果たしている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.079
シドニー・ポンソン★シドニー・ポンソン #43★ ボルチモア・オリオールズ

2001年のメジャーリーグは野茂英雄のノーヒッターで幕を開けたが、この試合で野茂と投げ合ったのがシドニー・ポンソンである。ポンソンは7回1/3を4安打2失点に抑える好投を見せたが、相手が悪かった。翌週にも野茂と投げ合ったが、この時は4回途中までで8点を奪われ、ノックアウト。ポンソンにとっての2001年は、最悪のスタートとなった。

まだまだ若いポンソンには期待大。オランダ領アンチル諸島のアルバ島出身のポンソンは、子供の頃からウインドサーフィン、ビーチバレー、スキューバダイビングを楽しむ少年だった。そして1993年8月、まだ16歳だったポンソンが野球の才能を認められ、オリオールズと契約した。こうしてプロの世界に身を預けたポンソンは、アルバ島出身の選手としては3人目のメジャーリーガーとなることになる。

プロ1年目の1994年はルーキーリーグで12試合に登板し、4勝3敗、防御率2.96という成績を残した。翌1995年は1Aに昇格し、6勝(3敗)をマーク。150キロ近い速球にカーブとスライダーのコンビネーションは高い潜在能力を感じさせた。1996年は膝の手術で2ヶ月も出遅れるが、前年よりランク上の1Aのクラスで18試合に登板し、7勝6敗の防御率3.45を記録。107イニングを投げ、110個もの三振を奪う一方、28四球という少なさでシーズンを乗り切った。球団のポンソンにかける期待は増すばかりだった。

1997年、2Aへ昇格したポンソン。開幕投手を務め、一時は15イニング連続無失点を記録するなどの好投を見せたが、6月に右肘を痛めて約1ヶ月の離脱。この影響がシーズン後々まで及ぼした。結局、この年はわずか2勝(7敗)に終わってしまった。

1998年は3Aで開幕を迎える。開幕直後にエースのマイク・ムシーナが右手人さし指を痛め、故障者リスト入りしたことが、ポンソンのメジャーデビューを早めた。3Aをわずか1試合の先発で卒業したポンソンは、4月19日の対レンジャーズ戦で初めてメジャーのマウンドに上がった。アルバ島出身の3人目のメジャーリーガーとなった瞬間である。

今後のオリオールズをしょっていく素材。6月16日の本拠地ボルチモアで行われた対ヤンキース戦でポンソンはメジャー初先発。伊良部秀輝との投げ合いだったが、6回2/3を投げ2安打無失点に抑え、メジャー初勝利をマークした。この年、リーグ記録となる114勝をマークするヤンキースを相手に初勝利をあげたことになる。メジャー1年目は、31試合に登板し(先発は20試合)、8勝9敗の防御率5.27という記録に終わった。ポンソンのテンポのいい投球は評価されたが、スタミナ面で課題が残ったといえる。

1999年は先発ローテーションの4番手の先発として、シーズン開幕を迎えた。オールスターまでの前半戦では7勝5敗の防御率3.70と健闘したが、後半戦はわずか5勝しか挙げられずに終わった。結局、12勝12敗の防御率4.71に終わったが、リーグ2位タイの6完投を記録し、スタミナ面での課題を克服した。

翌2000年、4月16日の対ツインズ戦で、散発4安打に抑えるメジャー初完封を記録したが、なかなか勝ち運からは見放された状態が続く。キャリアハイの222イニングを投げたものの、9勝13敗、防御率4.82という成績にに終わってしまう。

満を持して迎えた2001年は開幕から3連敗してしまい、4月半ばには保障者リスト入り。5月に戦線復帰すると3連勝し、なんとか持ち直す。6月28日の対ブルージェイズ戦では、わずか2安打に抑える完封勝利もマークした。この日に打たれた2安打というのは1回裏のジェフ・フライの内野安打、2回裏のブラッド・フルマーの2塁打のみで、3回以降はノーヒットに抑える素晴らしい内容だった。

しかし、この完封勝利を挙げて以降、10試合に登板しひとつも勝てず、7月と8月の2ヶ月は0勝5敗の防御率6.31と最低の成績に終わってしまう。9月以降は再び、故障者リストに入りし、このままポンソンの2001年シーズンは終わった。期待されたシーズンも5勝10敗に終わってしまったが、チームのエースになる素質は充分なために、2002年以降も注目していかなければならない。

■2002.1.22(現地1.21)
●3球団における総勢11人の大型トレードが成立!
メッツ入りを決めた面々達。
噂に挙がっていた三角トレードが11人の選手を巻き込んで成立した。中心になったのはメッツで、メッツがブリュワーズから獲得した選手がジェロミー・バーニッツ外野手、ジェフ・ダミーコ投手、ルー・コリアー内野手、マーク・スウィーニー外野手の4選手で、この他に金額もブリュワーズに払う形となった。さらにメッツはロッキーズから2人のマイナーリーガー、ロス・グロードクレイグ・ハウスを獲得。メッツ入りする選手は以上の計6選手である。

一方、メッツから出ていく選手は4選手おり、ブリュワーズ入りするのがグレンドン・ラッシュ投手、代打の切り札レニー・ハリス、ロッキーズ入りするのがトッド・ジール内野手、ベニー・アグバヤーニ外野手の2人である。また、ロッキーズからアレックス・オチョアがブリュワーズ入りすることも決まった。計3球団11選手が絡む大型トレードとなった。

2000年はワールドシリーズに進出したメッツも、2001年はメジャー全球団で最低得点を記録するなど、貧打に苦しんだ。このオフは、インディアンズからロベルト・アロマー、タイガースからロジャー・セデーニョ、エンゼルスからモー・ボーンを獲得するなど、前年には考えられない打線陣容となりそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.078
バリー・ジート★バリー・ジート #75★ オークランド・アスレティックス

アスレティックスが2連勝で迎えたディビジョンシリーズ第3戦、先発のマウンドに上がったのがバリー・ジートである。ジートは8回まで投げ、2安打1失点に抑える好投を見せたが、ホルヘ・ポサダのソロホームランの前に破れた。デレク・ジーターの素晴らしい中継プレーもあったこの試合だが、この敗戦から3連敗し、王者ヤンキースの前に敗れ去る。その中でも若いジートのピッチングは充分な輝きを放った。

ハドソン、マルダーとアスレティックスの若き3本柱を形成。ジートの父親は作曲・編曲などを手がけ、オーケストラの指揮者も務める才能の持ち主である。ジートがリトルリーグに入って野球を始めるやいなや、その協力は惜しまなかった。家の庭にマウンドを作り、そこで投球練習させ、また1976年のナショナルリーグでサイヤング賞を獲得しているランディー・ジョーンズに頼んで、指導してもらうこともあった。

高校卒業後、カリフォルニア大サンタバーバラ校に進学すると、1年目にいきなり85回1/3を投げ、123奪三振を奪う好投を見せるなど、才能が開花。そして、1996年のドラフトではマリナーズに59位指名を受けるがそれは拒否。1998年にピース・ジュニアカレッジに転学し、そこで9勝2敗の防御率2.62、103回を投げ135奪三振を記録し、さらに大きな注目を浴びた。その年のドラフトではレンジャーズが3位で指名するも再びそれを拒否する。

よりよい条件を求め、1999年は名門サザンカリフォルニア大学へ転学。ここで12勝3敗の防御率3.28、113回2/3を投げ154奪三振と更なる成長の跡を見せた。そして、この年のドラフトでアスレティックスに1位指名(全米9番目)され、晴れてプロの世界に足を踏み入れることになる。

指名された後、即1Aバイセリアに合流。そこで8試合に投げ、3勝0敗の防御率2.45、40回1/3を投げ、奪三振を62個も記録し、あっさり2Aミッドランドへ昇格。ここでも4試合に投げ、2勝1敗、防御率4.91ながら、22回を投げ29個の三振を奪うピッチングを披露。シーズン終盤には3Aバンクーバーに昇格し、1試合だけ投げている(6回5安打1失点に抑え、勝利投手)。若い才能の出現に、ジートの元には移籍の要請は非常に多かったが、チームはどれも断ったという。

丁寧なピッチングが魅力のジート。2000年は3Aで開幕を迎え、18試合に登板し、8勝5敗の防御率3.19を記録する。オールスター前のフューチャーゲームのアメリカ代表にも選抜され、ライアン・アンダーソンベン・シーツCC・サバシアに次ぐ4番手としてマウンドに上がり、1イニングをピシャリと抑えている(ちなみに5番手としてジョシュ・ベケットが投げている)。

7月22日のエンゼルス戦がジートのメジャーデビューとなった。デビュー戦で5回を2安打1失点に抑え、早くも初勝利をマーク。その後もローテーションの一角を完全に担い、9月10日の対デビルレイズ戦では、メジャー初完封をマークした。結局、14試合に先発し、7勝4敗の防御率2.72という成績を残し、ジートのメジャー1年目は幕を閉じた。

2001年の初登板となった4月3日のマリナーズ戦では、6回までノーヒットに抑える素晴らしいピッチングを見せた。このジートのピッチングに応えるようにミゲル・テハダの満塁ホームランも飛び出した。この年、MVP、新人王、首位打者、盗塁王とタイトルを総なめにするイチローとの初対戦において、4打数無安打に抑えたのもこの試合である。

8月9日の対レッドソックス戦では、2塁を踏ませない好投を見せ、この年初となる散発4安打の完封勝利を記録した。ちょうどこの約2週間前のツインズ戦では、わずか2回6失点でKOされていたが、それ以降の3試合では、23回1/3を投げてわずか6安打1失点に抑えている。この試合の勝利でレッドソックスをスウィ−プしたアスレティックスは8連勝となり、ワイルドカード争いの単独トップに躍り出た(チームの連勝は11まで伸びた)。

落ち着きを取り戻し、巧みな投球術で相手を手玉に取るジートは、8月20日のインディアンズ戦で完封勝利をあげて以降、シーズン終了まで9連勝をマークし、17勝8敗の防御率3.49でシーズンを終えた。この連勝記録を2002年以降、どこまで伸ばすだろうか。

■2002.1.21(現地1.20)
●噂の三角トレード!バーニッツ、古巣メッツ入りなるか!
ジェロミー・バーニッツ
メッツが獲得に動いているといわれるブリュワーズのジェロミー・バーニッツだが、3球団絡みのトレードが成立するかもしれない。そのトレードとは、まずバーニッツ、ジェフ・ダミーコルー・コリアーをメッツに送り、メッツからはトッド・ジールベニー・アグバヤーニをロッキーズに送り、さらにグレンドン・ラッシュをブリュワーズに送り、ロッキーズからアレックス・オチョアをブリュワーズに送るというものである。

この三角トレードの一番の大物はバーニッツだが、元々1990年のドラフトでメッツからドラフト1位指名(全米17番目)を受けてプロ入りした経緯があるだけに、これが成立すれば、8年ぶりの古巣復帰ということになる。

●レッドソックス、デュケットGMを解任の動き!
Boston RED SOX
買収が決まったばかりのレッドソックスだが、契約期間をまだ2年残しているGMダン・デュケットを解任するという動きが出てきた。すでに後任となるGMとして、アスレティックスGMのビリー・ビーンを筆頭に、ジャイアンツGMのブライアン・セイビーン、パドレスGMのケビン・タワーズらが挙がっている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.077
ジョー・メイズ★ジョー・メイズ #25★ ミネソタ・ツインズ

2001年、メジャー3年目のジョー・メイズはチームトップの17勝をあげ、リーグ3位となる防御率3.16を記録するなど、大きな飛躍を果たした1年となった。シーズンオフには4年間で2000万ドルという契約を結び、チーム削減などというとんでもない災難が降りかかりつつあったツインズに希望の光を灯した。

ラドキー、ミルトンとツインズ3本柱を形成。1994年のドラフトでマリナーズに8位指名されて、プロ入り。プロ3年目の1997年は、1Aウィスコンシンで9勝3敗、防御率2.09をマークし、もう一つ上のクラスである1Aランカスターに昇格し、7勝4敗、防御率4.86をマークした。結局、2つのクラスで16勝をマークし、計178イニングを投げ、161奪三振に44四球と制球力の良さを充分に見せた。そして、この年のオフにツインズへ移籍することが決まった。

ツインズ傘下へ移籍した1999年は1Aと2Aの2つのクラスで合わせて12勝(5敗)をマークしている。ストレートを中心にカーブとチェンジアップで組み立てるメイズのピッチングは、先輩のブラッド・ラドキーに非常に似ており、周囲に将来のメジャー昇格をほぼ確実とまで思わせた。

1999年はメジャーのスプリングトレーニングに参加し、そのまま開幕メジャー入りを果たした。4月7日のブルージェイズ戦での中継ぎ登板がメイズのメジャーデビューである。6月半ばまでブルペンで投げ続け、6月21日のデビルレイズ戦でメジャー初先発を果たした。6月26日のタイガース戦で初勝利を飾ると、7月17日のカブス戦(インターリーグ)では散発3安打に抑え、初完封をマークした。そしてこの試合から、20回1/3連続イニング無失点を記録している。

シーズン終盤の9月24日のホワイトソックス戦では、5回まで完全に抑える内容に加え、シーズン最多の9個もの三振を奪った。この年は打線の援護に恵まれなかったこともあり、6勝11敗の防御率4.37をマーク。この防御率はこの年の新人投手の中で3位に位置するものだ。

これからが楽しみな投手の一人であるメイズ。2000年のメイズは、開幕から4連敗という苦しいスタートを切った。しかしその中で、5月7日の対タイガース戦で、5安打に抑える完封でシーズン初勝利を挙げると、その後の2試合でも好投。この3試合の登板で、1勝1敗の防御率2.66に抑えるという高い潜在能力の片鱗も見せた。しかし、その後はいいときもあれば悪いときも続くという形だった。さらに打線の援護がないこともあり、勝利には恵まれず、7勝15敗の防御率5.56でシーズンを終えることになった。

こうして迎えた2001年は、チームが周囲の予想を裏切る快進撃を見せる。先輩のラドキー、エリック・ミルトンと先発ローテーションを形成し、チームを支えた。5月30日の対エンゼルス戦では、この年初の完封勝利をマーク。完封はキャリアでは3回目である。強打エンゼルス打線を相手に散発5安打に抑え、5月の段階で早くも7勝目(3敗)をあげた。この勝利でチームも4連勝を飾り、2位インディアンズと1ゲーム差を保ったままで、単独での地区首位の座を守った。

前半戦だけで11勝(5敗)の防御率3.02を記録し、シアトルで行われたオールスターゲームにも初出場を果たした。5回表のマウンドにのぼり見事に3者凡退に抑えた。

9月20日のタイガース戦では散発6安打に抑え、この年2度目の完封勝利をあげた。メイズはタイガースをカモにしており、これまで先発した5試合を全て勝利で飾り、防御率にすれば1.13に抑えている。10月4日のタイガース戦にもマウンドに上がり、6回を5安打無失点に抑えるが、後続の投手が打たれ勝ち星は逃した(しかし、チームが再逆転し、チームは勝った)。仮にこの試合でメイズが勝ち投手になっていれば、1980年にスティーブ・カールトンがカージナルス相手に6勝あげて以来、シーズンで1チームから6勝をあげた投手となるところだった。

まだ26歳になったばかりのメイズだけに今後の成長は、非常に注目である。

■2002.1.20(現地1.19)
●FAへリング、ダイヤモンドバックスと1年契約!
リック・ヘリング
球団創立4年目にして世界一に輝いたダイヤモンドバックスは、レンジャーズからFAになっていたリック・ヘリングと1年契約を交わした。2001年のへリングは、34試合に先発し、12勝11敗の防御率5.17という数字を残している。1998年にシーズン20勝をあげて以降、4年連続2桁勝利に200イニングを投げており、1997年の8月からは、レンジャーズの先発ローテーションを1度もはずれることなく投げ続けたタフさも注目である。レンジャーズでメジャーデビューしたへリングは、約1年半だけマーリンズに在籍したこともあったが、1997年途中にレンジャーズへ復帰。キャリア通算では、72勝58敗をあげている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.076
エリック・ミルトン★エリック・ミルトン #21★ ミネソタ・ツインズ

150キロを超える速球にチェンジアップ、スライダーを加えた投球内容で、ツインズの屋台船を支える一人がエリック・ミルトンである。フライを打たせて取るピッチングだけに被本塁打は多いが、好調の時のミルトンは手がつけられず、ノーヒッターに縁のある投手でもある(すでに1度達成している)。

打線の援護があれば、もう少し勝っているはずのミルトン。大学時代から高い潜在能力を見せていたミルトンは、1996年のドラフトでヤンキースに1位指名され、プロ入りを決めた。そして、1997年にプロとして正式にデビュー。1Aタンパで迎えたデビュー戦でいきなり12奪三振を記録する素晴らしい内容を見せる。1Aで8勝を挙げた段階で2Aノーウィッチへ昇格。2Aでも6勝をあげた。結局この年は2つのクラスで合わせて、28試合に先発し、14勝6敗、防御率3.11、162奪三振と大器の片鱗を見せつけた。

将来はヤンキースのエースかと期待されたミルトンだが、プロ1年目のオフにチャック・ノブロックとの交換でツインズへの移籍が決まってしまう。思いよらぬことでツインズのユニフォームに袖を通すことになったミルトンだったが、スプリングトレーニングで7試合に登板し、防御率1.75という素晴らしい内容のピッチングを見せ、開幕メジャーの座をつかむ。

こうして、ミルトンはメジャーデビューをツインズのローテーション投手として迎えた。4月5日のロイヤルズ戦が実質的なデビュー戦で、見事に初登板初勝利を記録。ツインズでメジャーデビュー戦での勝利は、1995年にメジャーデビューしたブラッド・ラドキー以来である。その後は勝ち星にこそ恵まれなかったが、6回までノーヒットに抑える試合が3試合もあるなど、粘り強いピッチングで首脳陣の信頼を手にした。

ミルトンのメジャー1年目は32試合に先発し、8勝14敗の防御率5.64と、数字だけみれば物足りない感じはするが、32試合の先発でクオリティースタート(先発して6回まで3失点に抑えること)が半分の16試合を数えるなど、チーム内のみならず、メジャー全体でも有望な若手投手の一人に数えられた。

シーズン20勝を達成するのも、そう遠い未来ではない。2年目となる1999年は、開幕早々の4月に初回から20人の打者を連続凡退に打ち取るというあわやパーフェクトというピッチングを見せた。さらに7月末には、エンゼルス打線を散発3安打に抑え、初めての完封勝利をマークし、9月に入ってすぐのブルージェイズ戦で、1回から7回まで17人の打者を連続凡退に打ち取る素晴らしいピッチングも見せた。

そして、9月11日の対エンゼルス戦で自己最多の1試合13奪三振を奪い、ノーヒッターを達成した。要所要所で素晴らしいピッチングを見せたミルトンだが、打線の援護に恵まれず、この年は34試合の先発で、7勝11敗という成績にとどまっている。

2000年4月9日の対ロイヤルズ戦において、7回2アウトまでの20人の打者を完全に抑える最高のピッチングを見せたミルトン。5月半ばからの5試合の登板で5連勝を挙げ、この間の防御率が1.13である。さらに7月19日の登板から8試合連続のクオリティスタートをマーク。この中には18イニング連続無失点も記録している。これまでは制球に苦しんでいたミルトンも、1試合平均の四球数も減り、リーグ4位となる2四球(9イニング換算)である。この年はチームトップの13勝(10敗)をマークした。

2001年は若い力がうまく絡み合い、チームは開幕から快進撃を飾る。その原動力の一人として、ミルトンは開幕から3連勝をマークするなど活躍した。5月8日の古巣ヤンキース戦で、4安打完封勝利を挙げるなど、好調をキープし、オールスターまでに8勝(3敗)を挙げた。

後半戦に入りチームは失速してしまうが、ミルトンはその中でもいいピッチングを見せ、キャリア最高の15勝7敗、防御率4.32を記録した。2002年8月に27歳となるミルトンは、これからが全盛期といえるだろう。

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