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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.1.9〜1.13★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.1.13(現地1.12)
●ミネソタ州の大手新聞が、セリグに辞任要求!
Major League Baseball
コミッショナーのバド・セリグが矢面に立たされている。1985年、ブリュワーズのオーナーを務めていたセリグが、現在のツインズオーナー、カール・ポーラッドが率いるグループ企業から300万ドルを借りた。それを伝えていないという問題が表面化したことに伴い、ミネソタ州の大手新聞のひとつである「スタートリビューン」がセリグに辞任を要求している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.069
バリー・ラーキン★バリー・ラーキン #11★ シンシナティ・レッズ

スピード感あふれる走塁でチームを引っ張るバリー・ラーキン。過去9度も打率3割をマークしている打撃に、ショートストップでゴールドグラブ賞を獲得するだけの守備は一見に値する。年齢による衰えも考えられるが、レッズのチームリーダーがラーキンであることは、誰もが認めることだ。

レッズのチームリーダーはあくまでもこのラーキンである。シンシナティで生まれたラーキンは高校時代、野球と共にフットボールやバスケットボールにも汗を流すスポーツマンだった。ちなみに高校の1年後輩には、後にメジャーリーグのスーパースターとなり、チームメイトになるケン・グリフィー・ジュニアもいた。さらに大学での3シーズンにおいて通算打率.361を記録し、2度もアメリカ代表の名誉を手にする。

そして、ラーキンは1984年のロサンゼルスオリンピックのアメリカ代表チームに選ばれ、見事に銀メダルを手にしている(金メダルは日本)。この時のアメリカ代表チームには、2000年限りで引退したウィル・クラーク、2001年限りで引退したマーク・マグワイア、現役ではBJ・サーホフらをそろえる蒼々たるチームであった。

1985年にレッズにドラフト1位(全米4番目)で指名されてプロ入り。翌1986年には、3Aデンバーで103試合に出場し、打率.329、10HR、51打点、19盗塁を記録し、シーズン終盤にはメジャー昇格を果たした。オジー・スミスばりの軽快な守備を見せ、メジャーでもショートのポジションを自分のものとした。

1987年は怪我で1ヶ月の離脱を経験するが、翌1988年は初めてメジャーでフルシーズンを過ごし、151試合の出場で、打率.296、12HR、56打点、40盗塁を記録し、飛躍のきっかけをつかむ。大きな期待をかけられて臨んだ1989年は、オールスター以降の後半戦、約1ヶ月半を故障者リストで過ごすが、97試合の出場で、打率.342を記録した。

1990年はチーム状態も最高で迎えた。その中でラーキンは、158試合に出場し、打率.301、7HR、67打点、30盗塁を記録し、チームの地区優勝に貢献。パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズも4勝2敗で振り切り、ラーキンにとっては初めてのワールドシリーズへの進出を果たした。劣勢と言われたアスレティックスとのワールドシリーズだったが、レッズが予想外の4連勝で勝負を決めた。ラーキンはこのシリーズ、打率.353を記録し、世界一に貢献した。

チームリーダーとしての地位を確立したラーキンは、1993年まで打率3割を記録(1991年は.302、1992年は.304、1993年は.315だが、この年は怪我で8月以降のシーズンを棒に振っている)。1989年から数えて5年連続の打率3割というのは、ショートストップとしては、ナショナルリーグにおいて40年ぶりとなる快挙である。6年連続となれば史上初だったが、1994年は打率.279に終わってしまった。

過去9度も打率3割を記録しているラーキン。1995年のラーキンは、打率.319、15HR、66打点、51盗塁を記録し、チームに地区優勝をもたらした。こうして迎えたドジャースとのディビジョンシリーズ第3戦、マウンドにはメジャーデビューを飾ったばかりの野茂英雄がいた。初回、この野茂に対してにヒットで出塁すると、あっさりとに二盗、三盗を決めて揺さぶりをかける。さらに3回裏、再び出塁したラーキンは足で揺さぶりをかけ、これが3番に入っていたロン・ガントの特大2ランホームランを呼び込んだ。これによりレッズは3連勝でリーグチャンピオンシップシリーズへ駒を進めた(しかし、ブレーブスの前に敗れる)。

この年のMVP投票では、本塁打王と打点王の2つのタイトルを手にしていたダンテ・ビシェットが有力視されていたが、ふたを開けてみれば、ラーキンがMVPの名誉を受賞した。数字的にはラーキン以上の選手はいるものの、フィールドの内や外に限らずチームを引っ張った、数字に表れない部分を評価された形での受賞である。ショートとしてのMVPは、ナショナルリーグでは1962年のモーリー・ウイルス以来の快挙であった。

その後、1997年オフには主力選手を放出するチームの方針に一時は自らトレード志願。1990年の世界一メンバーで残っているのは唯一ラーキンだけなためにチームも放出は考えられなかった。しかし、1998年に入って、チームが優勝戦線から後退し始めると再び、トレードを移籍する発言をし、周囲を驚かせた。

2000年は優勝を狙うメッツのレイ・オルドニェスが怪我をしたため、代理としてメッツ移籍が一旦はまとまるが、ラーキン自身がそれを拒否。レッズで残ってプレーすることを決めた。こうしてこの年の8月21日、球団史上4人目の2000本安打を達成した。その他の達成者として、ピート・ローズデーブ・コンセプシオジョニー・ベンチに次ぐものである。

37歳となったラーキンは、2001年4月20日にメジャー初の満塁ホームランを放った。これは通算6735打数めにして、初めてのグランドスラムである。これまで満塁のチャンスで打席に入るのが、通算で120回もあったという。しかしこの年は怪我で45試合の出場に終わり、チームは地区5位に終わった。

主砲のグリフィーの完全復帰も間近で、若い選手の台頭もあるレッズだが、ラーキンの活躍なくしてビッグレッドマシンの再来はないというのは、言い過ぎだろうか。

■2002.1.12(現地1.11)
●マリナーズ、長谷川と1年契約!
長谷川滋利
マリナーズが長谷川滋利と1年契約を交わした。2年目は球団側のオプションとなる。33歳の長谷川はこれまでの5年間をエンゼルスのセットアッパーとして主に活躍してきた。マリナーズにとっては、イチロー佐々木主浩に続く3人の日本人メジャーリーガーが揃い踏みという状況になった。長谷川は日本のブルーウェーブ時代にイチローと共にチームメイトとしてプレーしている。

●ベラーディ、アスレティックス復帰へ!
Oakland ATHLETICS
15年目のベテラン、ランディ・ベラーディが1999年途中から2000年シーズンまでの約1年半在籍したアスレティックスと1年契約の100万ドルで契約した。2000年のオフにレンジャーズへトレードされ、2001年は開幕をレンジャーズで迎えるが、シーズン途中にベラーディがメジャーデビュー(1987年)から1995年まで在籍していたヤンキースへ移っていた。ジェイソン・ジオンビーとの契約に失敗したアスレティックスは、セカンドのフランク・メネチーノが伸び悩んでいることもあり、ベラーディをセカンドで使う予定である。

●オリオールズ、カムデンヤーズのフェンスを元通りに・・・!
Baltimore ORIOLES
オリオールズは本拠地カムデンヤーズのフェンスを1年だけ少し後ろに下げていたが、それを元に戻すことを決めた。2001年のカムデンヤーズでは152本のホームランが飛び出したが、これは前年より44本も少ないものである。オリオールズもこの本拠地では58本のホームランしか打っておらず、1年間の試みは失敗に終わった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.068
ジョン・オルルド★ジョン・オルルド #5★ シアトル・マリナーズ

打席に入るときはもちろん、守備の時もヘルメットをかぶっているジョン・オルルド。というのもプロ入り前に脳の手術を行ったためで、その古傷を守るために常にヘルメットをかぶっているというわけである。

1993年には首位打者を獲得しているオルルド。大学時代には、打者としては打率.464、23HRを記録し、投手としては15勝0敗という素晴らしい成績で名前を売った。当然ドラフトでは上位で指名されることが予想されたが、1989年1月、頭痛を訴えたオルルドはそのまま入院し、動脈に関わる大手術を行った。この影響もあり、この年のドラフトではブルージェイズからの3位指名にとどまった。指名されたその年にいきなりメジャーデビューを果たす。わずか6試合の出場に終わっているが、1965年にドラフト制度が施行されてから、マイナーを経験せずにメジャーでプレーしたのは当時のオルルドで史上17人目である。

1990年、オルルドの指定席であるファーストにはフレッド・マグリフがいたため、主に指名打者での出場となった(111試合の出場でファーストを守ったのが18試合、指名打者が90試合)。実質1年目となるこの年は打率.265、14HR、48打点という数字に終わっている。

1991年はマグリフが去ったために本格的にファーストを守ることになった。マグリフ、トニー・フェルナンデスとの交換でブルージェイズ入りしたロベルト・アロマージョー・カーターに引っ張られる形で、チームは2年ぶりの地区優勝を飾った。リーグチャンピオンシップシリーズではツインズの前に1勝4敗で敗れてしまうが、オルルドは初めてのポストシーズンを経験できることができた。この年は打率.256、17HR、68打点を記録している。

翌1992年のオルルドは138試合の出場で、打率.284、16HR、66打点とチーム3番目の打率を記録し、前年に引き続いての地区優勝に貢献した。アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ、ブレーブスとのワールドシリーズで共に3割を越える打率を記録し、球団史上初の世界一に花を添えた。メジャーリーグの歴史において、初めてカナダに本拠を置くチームが優勝した瞬間である。

打撃も守備も素晴らしい。天性の打撃センスが開花したのは1993年のこと。4月の月間打率が.450という驚異的な数字を残し、1941年のテッド・ウイリアムス以来の打率4割越えかと騒がれた。5月が終わった段階で打率は.395と落ちたが、6月に盛りかえし、打率.407とした。大きな注目の中、8月2日を最後に打率4割を越えることはなく、最終的には打率.363という数字に終わったが、オルルドは首位打者のタイトルを手にした。200本安打を記録し、リーグトップの54本の2塁打を放ち、初めての100打点を突破(107打点)を突破し、26試合連続ヒットを記録するなど素晴らしい記録を残したこの年、チームは2年連続世界一に輝いた。

安打製造器の名を欲しいままにしたオルルドだったが、その後は3年連続打率3割を逃す。チームも地区優勝を果たせず、弱体化が叫ばれた。そして、1996年オフにメジャーに上がったばかりのロバート・パーソンと交換でメッツ入りすることになった。

1997年からメッツのユニフォームを着ることになったオルルドだが、リーグの違いにも関わらず、打率.294、22HR、102打点を記録し、9月17日の対エクスポズ戦ではサイクルヒットも達成した。翌1998年はオルルドにとって、1993年以来の最高のシーズンとなった。打率.354を放ちながらも、ラリー・ウォーカーの前に首位打者のタイトルを奪われてしまうが、197安打を放ち、その存在をアピールした。

1999年にロビン・ベンチュラを獲得したメッツは、内野陣をひとつの完成型と呼ばれるまでに仕上げた。守備には定評があったオルルドがファースト、セカンドがエドガード・アルフォンゾ、ショートがレイ・オルドニェス、サードがベンチュラとメジャーリーグ史上最高の内野陣とまで言われ、この年のメッツはワイルドカードでポストシーズンにコマを進めた。さらにオルルドは初めて、162試合全てにフル出場し、23試合連続ヒットや15打席連続出塁も記録している。

ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズでは、オルルドがランディ・ジョンソンからホームランを放つなど、このシリーズで両チームトップの打率.438を記録し、チームを引っ張った。続くブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、球史に残る熱戦となったが、その中でオルルドは2本のホームランを放ち、両チームトップの6打点を挙げ、勝負強さを見せつけた(結局、ブレーブスに2勝4敗で敗れる)。

マリナーズをワールドシリーズへ導くことができるか。オフにFAとなったオルルドはメッツからの引き留めもあったが、生まれ故郷(ワシントン州)のマリナーズへの移籍を決めた。ブルージェイズ時代にGMを務めていたパット・ギリックがマリナーズのGMになったというのも運命の巡り合わせかもしれない。

移籍1年目となる2000年は打率.285、14HR、103打点をマークし、チームのワイルドカードでのポストシーズン進出へ貢献した。ディビジョンシリーズで戦ったホワイトソックスをあっさりスウィープ(3連勝)で振り切り、ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズを迎えたが、健闘むなしくヤンキースの前に2勝4敗で敗れてしまった。

2001年、マリナーズは開幕から記録的な強さで勝ち続ける。そして、6月16日の対パドレス戦では自身2度目のサイクルヒットも記録した。メジャータイ記録となる116勝をあげたマリナーズの中でオルルドは、打率.302、21HR、95打点をマークした。チームはワールドシリーズへは進めなかったが、オルルドの勝負強さはシーズンの至る所で光った。

父親も野球を志し、メジャーへ挑戦したが3Aで終わり、メジャーに昇格することはなかった。しかし、息子はマイナーリーグの野球を1試合も経験せずに、メジャーリーグでしかプレーしていないというエリート街道をばく進中である。2001年現在、通算打率が3割を越えている現役選手計24人の一人であり(通算打率.300)、出塁率.404というのも現役選手の中では9位となる。

■2002.1.11(現地1.10)
●ウェルズ、正式にヤンキースと2年契約!
ヤンキース復帰を喜ぶウェルズ。
一時はダイヤモンドバックスと契約する可能性が85%と報じられたデビッド・ウェルズだったが古巣のヤンキースと正式に契約を結んだ。契約内容は2年間の700万ドルであり、3年目の2004年は球団側のオプションとなる。1998年には完全試合も達成し、ヤンキースの世界一に貢献したウェルズは3年ぶりのヤンキース復帰となる。

38歳のウェルズは現役投手としては歴代9位の通算166勝をマークしている。ウェルズの加入によりヤンキースの先発は、ロジャー・クレメンスマイク・ムシーナアンディ・ペティットスターリング・ヒッチコックオルランド・ヘルナンデスにウェルズを加えた6人になるため、ヘルナンデスを他球団へ放出するか、ヘルナンデスかヒッチコックのいずれかをブルペンに回すことを考えている。

●ダイ、左足の怪我でキャンプには間に合わないが、開幕には大丈夫!
ジャーメイン・ダイ
2001年のヤンキースとのディビジョンシリーズ第4戦で左足を痛めたジャーメイン・ダイだが、その回復が遅れ、2月20日からのアスレティックスのスプリングトレーニングには間に合わないこととなりそうだ。ただ、シーズン開幕までには間に合うとされているが、2002年シーズンオフにFAとなるダイを、トレード期限の7月までには放出という可能性がある。

●ロッキーズ、中継ぎ2投手を補強!
Colorado ROCKIES
ロッキーズはブルペン補強にトッド・ジョーンズリック・ホワイトとそれぞれ契約を交わした。ロッキーズは打者天国と言われるクアーズフィールドを本拠地としているため、投手にとっては災難であり、補強に苦労するというのが現実であったが、その中でまとまった契約である。

ジョーンズはここ5年で143セーブを挙げ、2001年はツインズのセットアッパーとしてシーズンを終えた。しかし、アストロズに在籍していた1995年と1996年に4試合、クアーズフィールドで登板しており、防御率は11.81と課題が残る。一方のホワイトは2001年はメッツに在籍し、4勝5敗2セーブでシーズンを終えている。

●ロイヤルズ、2002年からの新ユニフォーム発表!
遊びに来たファンじゃなくて、ロイヤルズの選手です。
ロイヤルズが2002年からの新ユニフォームを発表した。以前からのチームカラーである青と白を基調としたユニフォームに加え、黒のユニフォームも加わることになった。4タイプのユニフォームが発表されたわけだが、このユニフォームを着たのはジョー・ランダクリス・ジョージチャド・ダービンダン・レイチャートの若手4選手である。

この新しいユニフォームはトニー・ミューザー監督を始めとして非常に評判がいい。2001年は65勝97敗に終わったロイヤルズだが、新ユニフォームを纏い、躍進なるか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.067
ダグ・ミントケイビッチ★ダグ・ミントケイビッチ #16★ ミネソタ・ツインズ

2001年シーズンが開幕して予想外のこととして一つあげられるのが、ツインズの躍進である。開幕前にツインズがここまでやるとはほとんど誰も予想できていなかった。それには投手陣の踏ん張りもそうだが、打線の中でもその快進撃の象徴となる選手がいた。その選手とはダグ・ミントケイビッチである。

オリンピックでの活躍をステップにしたミントケイビッチ。オハイオ州に生まれたミントケイビッチは、父の影響もあり子供の頃からアイスホッケーに夢中だった。ほとんど毎日、アイスホッケーに明け暮れるミントケイビッチの将来の夢は漁師になることであり、いかに大きな魚を釣るかが課題であった。

しかし、フロリダ州に引っ越しすることになって運命が変わった。そこにはアイスホッケーをする場所がないため野球を本格的に始めることになる。マイアミのウエストモンスター・クリスチャン高校に転校したミントケイビッチは、一つ下の後輩として、アレックス・ロドリゲスと出会うことになった。後にスーパースターとなるアレックスは非常に練習熱心で、彼の背中から学ぶことは多かったという。ミントケイビッチの家の庭に、父が作ったバッティングケージがあり、そこで練習を続ける。アレックスもこのケージで打ったことがあるそうだ。

フロリダ大学へ進学し、1995年6月ドラフトでツインズから5位指名を受けてプロ入りへ。1998年に2Aで打率.323、16HR、88打点を記録し、この年初めてメジャー昇格を果たす。

翌1999年は開幕からメジャーでフルタイム過ごすことになるが、118試合に出場し、打率.229(327打数75安打)、2HR、32打点と目を覆いたくなるほどの成績に終わってしまう。メジャー昇格はまだ早かったということで、2000年は3Aで開幕を迎える。この年は打撃スタイルを変えるなど試行錯誤を繰り返したが、その中で打率.331、17HR、92打点を記録した。

インパクトある名前だけにみんなに覚えてもらえたかな。3Aにたたずむミントケイビッチにシドニーオリンピックのアメリカ代表チームとして出場しないかとの声がかかった。こうしてアメリカ代表となったミントケイビッチは見事に金メダルを手にすることになる。特に準決勝の韓国戦では劇的なサヨナラホームランを放った。金メダルを土産に、ミントケイビッチはオリンピック後に3試合だけメジャーの試合に出場している。

こうして迎えた2001年は開幕からメジャーのスタメンに注目。4月は一時的に打率が4割を越える好打率でイチローマニー・ラミレスと共に首位打者争いを盛り上げる。その後、一時的に打率を落とし、首位打者争いからは脱落してしまうが、7月には再び月間打率.370を記録した。

シーズンが終わってみれば、151試合に出場し、打率.306、15HR、74打点という成績を残した。チームは前半戦の好調ぶりを維持することができず、後半戦は失速してしまった。

かつての高校のチームメイト、アレックスとは年俸などで大きく差が開いてしまったが、オリンピックでキューバなどと戦い、大舞台を経験したミントケイビッチが今後どれくらい活躍するかは非常に注目である。

■2002.1.10(現地1.9)
●エンゼルス、新ユニフォームと新ロゴマークを発表!
2002年のエンゼルスの新しいユニフォーム。左下のマークが新しいロゴです。
エンゼルスの新しいユニフォームが発表された。これまでは青を基調としていたユニフォームだったが、今回のモデルチェンジは赤を前面に押し出したものとなった。

本拠地エジソンフィールドでは発表会が行われ、トロイ・グラウスギャレット・アンダーソンスコット・ショーエンワイスといった主力選手が新ユニフォームのモデルとして登場した。

オフには球団削減の候補にも挙げられてしまったエンゼルスだったが、ユニフォームとロゴマークの変化がチームにも良い変化をもたらすことができるか。

●アストロズ、ワグナーと3年2700万ドルでついに契約更新!
ビリー・ワグナー
アストロズはクローザーのビリー・ワグナーと3年間の2700万ドルで契約を更新した。2002年のシーズン終了後、FAとなるワグナーと粘り強く交渉を続けてきて、ようやく球団と合意に至ったわけである。なお、4年目となる2005年は球団側のオプションとなっている。すでに146セーブを記録している30歳のワグナーだが、これはデーブ・スミスの199セーブに次ぐ、球団史上2番目の記録である。

●ウォーラーズ、インディアンズと2年契約!
マーク・ウォーラーズ
かつてメジャーリーグを代表するクローザーとして活躍したマーク・ウォーラーズがインディアンズと2年契約を結んだ。2001年はシーズン途中にレッズからヤンキースへ移籍し、セットアッパーとして2チームで合わせて61試合に登板しており、インディアンズでもセットアッパーを務めることになりそうだ。奇しくもインディアンズは、ウォーラーズがブレーブスがブレーブスのクローザーとして活躍していたときの1995年にワールドシリーズで戦ったチームである。

●ダイヤモンドバックス、31歳のラッキーボーイ、カウンセルと契約!
Arizona DIAMONDBACKS
世界一に輝いたダイヤモンドバックスはポストシーズンで活躍したクレイグ・カウンセルと3年間の725万ドルで契約を更新した。2000年のスプリングトレーニングの段階ではドジャースのユニフォームを着ていたが、突然の解雇通告により、ダイヤモンドバックスとマイナー契約。3Aでプレーした後、メジャーへ上がり内野全てを守れるユーティリティープレイヤーとしてチームを引っ張った。31歳のカウンセルの元には2001年と1997年(マーリンズ時代)の2つのワールドチャンピオンリングがある。

●田口、カージナルスと3年契約!日本人野手としては3人目!
St. Louis CARDINALS
カージナルスは日本のプロ野球でFAとなっていた田口壮と3年間の300万ドルで契約を交わした。32歳となる田口だが、日本人野手のメジャーリーガーとしてはイチロー新庄剛志に次いで3人目となる。田口はブルーウェーブで10年間プレーしてきた外野手で、2001年は134試合に出場し、打率.280、8HR、42打点という数字を残している。

カージナルスとしては、新人王を獲得したアルバート・プホルスをサードへ本格的にコンバートするため、田口はケリー・ロビンソンとレフトの座を奪い合うことになりそうだ。なお、田口の背番号は99番に決まった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.066
トロイ・グラウス★トロイ・グラウス #25★ アナハイム・エンゼルス

2001年のシアトルでのオールスターゲーム、5回が終わった段階でこの年限りでの引退を発表していたカル・リプケンに代わり、サードの守備についたのは24歳のトロイ・グラウスだった。リプケンという大選手と、そのリプケンに憧れて育ったグラウスとの世代交代を感じさせる象徴的な場面だった。

2002年からの新しいユニフォームに袖を通したグラウス。5歳の頃から野球を始めたグラウス。シーズンスポーツが定着しているアメリカでは、子供の頃から野球を始めとしてフットボールやバスケットボールなどの複数のスポーツを楽しむことが多いが、グラウスの場合はほぼ野球一筋だった。高校時代から注目される選手として、卒業時にはパドレスからドラフト2位で指名されるが、それを拒否し、大学進学を決めた。

大学に入ってもグラウスはチームの主力選手として活躍。大学での3年間で残した成績は、179試合に出場し、打率.344、62HR、180打点、24盗塁を記録している。大学2年時にはアトランタオリンピックのアメリカ代表チームに選抜されたことがグラウスをさらに一回り大きくした(ちなみにオリンピックでは、準決勝で日本に敗れ、銅メダルに終わった)。

こうして大学3年時には67試合に出場し、打率.409、34HR、91打点、10盗塁を記録した。この年の34本のホームランは、1984年に大学生だったマーク・マグワイアが記録した32本という記録を抜くものである。さらに1シーズンで30HR、10盗塁を記録したのもグラウスが大学野球史上で3番目である。大学球界を代表する大型内野手として定評のあったグラウスは1997年のドラフトでエンゼルスから晴れて1位指名(全米3番目)を受け、プロ入りを果たした。

大学時代は主にショートを守っていたグラウスだったが、プロの扉を開くなりサードへのコンバートが決まった。本人もショートの守備に限界を感じていたこともあり、このコンバートはすんなりと決まった。1998年に2Aミッドランドでプロとして第一歩を踏み出したグラウスは、50試合に出場し、打率.309、19HR、51打点とずば抜けた数字を残すとあっさりと3Aバンクーバーへ昇格。ここでも59試合の出場で、打率.306、16HR、42打点を記録し、この年の7月31日にはメジャーデビューを飾った。

2000年、ホームランキングに輝いたグラウス。マイナーリーグを109試合で卒業したグラウスだったが、メジャーでの壁にぶち当たったこともあり、48試合に出場し、打率.218、1HR、23打点という成績に終わった。しかしこの頃からすでに「マイク・シュミットの再来」とまで言われるほどに評価を高めていた。しかし、グラウスはそんな周囲の声をプレッシャーとして感じるのではなく、むしろ自分のパワーの源に変えていたかのようだった。

翌1999年は開幕からサードのポジションを完全に自分の物にしており、154試合に出場し、打率こそ.240だったが、29HR、79打点をマーク。四球数(71個)の2倍の三振数(143個)というところに若い荒々しさを感じることができる。こうしてグラウスは、メジャーリーガーとしての下地を築いていく。

2000年のグラウスは開幕から好調で5月が終わった段階でも打率3割3分をキープしていた。前半戦が終わった段階で、打率.293、25HR、60打点という数字を残し、初めてのオールスター出場も果たした。9月に入ると2週間もホームランが出ないということがあったが、シーズンが終わってみれば47本のホームランを放ち、フランク・トーマスを振りきりホームラン王というタイトルを獲得した。さらにそのうち、サードとして記録した46本(1本はDHとして打ったもの)は、1953年にアル・ローセンが43本のホームランを放って以来、アメリカンリーグでサードを守る選手としては最多のホームラン記録である。ちなみにメジャー記録は1980年のシュミットで、48本を放っている。

この年のエンゼルスはグラウスに加え、ギャレット・アンダーソン(35HR)、モー・ボーン(36HR)、ティム・サーモン(34HR)と30発カルテットを形成。グラウスは159試合の出場で、打率.284、47HR、102打点と文句のつけようのない成績。強いて挙げれば163個という三振数ぐらいである。エンゼルス史上初、1シーズンで100得点、100打点、100四球を記録した選手になった。

2001年はシーズン前にボーンが怪我で1年を棒に振ることが決まり、グラウスのバットに期待が集まったが、打率は終始2割半ばにとどまっていた。オールスター出場は果たしたが、シーズンが終わってみれば、打率.250、41HR、108打点に終わってしまい、チームも後半こそ盛り上げたがポストシーズンへの道は閉ざされた。

エンゼルス自身が緊縮財政の方針を打ち出す一方、同地区のマリナーズ、レンジャーズは順調に補強を進めているため、苦しいシーズンが続くが、仮にエンゼルスがポストシーズンを戦うということになるなら、グラウスの爆発なくしてはありえない。

■2002.1.9(現地1.8)
●オジー・スミス、2002年の殿堂入りが正式に決定!
オジー・スミス
2002年の殿堂入りの投票結果が発表され、本命視されていたオジー・スミスが91.7%の票を集め、すんなりと殿堂入りを決めた。投票資格1年目にしての殿堂入り確定はスミスで37人目である。かつてのスミスは「オズの魔法使い」とまで呼ばれた華麗な守備を見せたショートストップとして、13度のゴールドグラブ賞を獲得し、オールスターには15度も出場している。

こうしてスミスは史上254人目の殿堂入り、ショートストップとしては22人目の殿堂入りを果たした。通算の打撃成績は打率.262、2460安打、28HR、793打点である。

投票の結果、殿堂入りを決めたのはスミス一人のみ。75%以上の投票を必要とする中でゲーリー・カーター(72.7%)、ジム・ライス(55.1%)らは惜しくも来年以降の持ち越しとなった。ちなみに来季はこの殿堂入り候補の中に、エディー・マレーライン・サンドバーグリー・スミスフェルナンド・バレンズエラブレット・バトラーらが加わることになる。

●J・ゴンザレス、古巣レンジャーズと2年間2400万ドルで契約!
ホアン・ゴンザレス
来季の行き先が注目されていたFAのホアン・ゴンザレスだったが、古巣のレンジャーズと契約を結ぶことがほぼ決定的になった。契約内容は2年間で2400万ドルというものである。アレックス・ロドリゲスを始めとして、イバン・ロドリゲスラファエル・パルメイロカール・エバレットという強力打線にゴンザレスが加わることで、レンジャーズ打線は更に強力になりそうだ。ゴンザレスはメジャーでのキャリアをこのレンジャーズから始めており、1996年と1998年にはレンジャーズの選手としてMVPも獲得している。

●レッズ、ケーシーと1年契約!ローズJr.とマイナー契約!
ショーン・ケーシー
レッズはショーン・ケーシーと1年間の400万ドルで契約を更新した。2001年のケーシーは打率.310、13HR、89打点という成績を残している。このオフ、レッズは4人の選手の調停を抱えている。その4選手とは、アーロン・ブーンダニー・グレイブズスコット・ウイリアムソンに移籍していたホアン・エンカーナシオンである。さらにレッズは、ピート・ローズ・ジュニアとマイナー契約を交わした。

●石井、日本人としては2人目のポスティング移籍が決定!
Los Angeles DODGERS
ポスティングシステムによりメジャー行きが秒読み段階となっていたスワローズの石井一久を、ドジャースが1150万ドルで落札したことがわかった。元々、希望球団にドジャースを挙げていた石井だけに、事実上石井のドジャース入りが決まったことになる。今後30日の間に石井サイドとドジャースが交渉を詰め、正式契約への運びとなる。まだ28歳の石井だけに、その左腕にかかる期待は非常に大きい。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.065
ショーン・グリーン★ショーン・グリーン #15★ ロサンゼルス・ドジャース

2000年からドジャースのユニフォームを着ることになったショーン・グリーンラウル・モンデシーとの交換でドジャース入りし、6年契約を結んだグリーンは移籍2年目にして、球団新記録となるシーズン49本ものホームランを放ち、伝統あるドジャースの歴史にその名を刻み込んだ。

もう誰もグリーンを非力とは言わない。カリフォルニア州に生まれたグリーン。ユダヤ系のグリーンは、本来はグリーンバーグという姓だったが、祖父が仕事に影響があるとのことで、グリーンと短くなった。高校時代から際だった選手だったグリーン。それは野球だけでなく学業の方でも同じことで、大学進学を考えていた。しかし、1991年にブルージェイズから1位指名を受け、プロの世界に足を踏み入れた。

プロ1年目の1992年は、1Aデュネディンで、114試合に出場し、打率.273、1HR、49打点とパワー不足が目立った。翌1993年は、2Aノックスビルで開幕を迎え、99試合の出場で打率.283、4HR、34打点を記録し、シーズン後半にはテスト的にメジャーへ昇格し、3試合だけ出場している。3年目の1994年は3Aシラキュースで、109試合に出場し、リーグトップの打率.344を記録し、13HR、61打点と課題のパワーアップの成果を見せた。

メジャーでレギュラーを獲得したのが1995年のことで、新人として球団タイ記録となる14試合連続ヒットを含め、打率.288、15HR、54打点を記録。さらに2塁打が31本、長打率が.509と高い数字をマークし、その潜在能力を見せつけた。1997年も打率.280、11HR、45打点をマーク。しかしこの時のブルージェイズ監督のシト・ガストンはこのグリーンをさほど評価しておらず、移籍候補に挙げたこともあった。

しかし、1998年からティム・ジョンソンが新監督になると、開幕戦からグリーンを3番打者として起用。ジョンソンはグリーンをテッド・ウイリアムスのイメージとダブらせていたという。グリーンはこの期待に応えて、4月に球団タイ記録となる4試合連続ホームランを記録。この記録はジョージ・ベル(1985年)、ジョー・カーター(1991年)、カルロス・デルガド(1997年)らに並ぶものであり、期待に十分に応えた。

グリーンは自己最多の35本ものホームランを放ち、盗塁数も35個を数え、球団史上初の「30−30」を達成した。この年のブルージェイズは、かつて「40−40」を達成したこともあるホゼ・カンセコが46HR、デルガドが38HRし、3人合わせて119本のホームランを放った。これは1987年にベル、ジェシー・バーフィールドロイド・モスビーの3人が記録した101HRの記録を上回るものである。

ドジャース史に残る左打者になるであろうグリーン。1999年はデルガドとの2枚看板としてブルージェイズを引っ張り、153試合に出場し、メジャーで初めての打率3割越え(.309)を果たし、42HR、123打点を記録し、リーグトップの45本の2塁打をマークした。守備でも素晴らしいプレーを再三見せたことから、この年はゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞を同時受賞した。

そして、グリーンは2000年からトレードでドジャース入りが決まった。左打者の大砲が欲しかったドジャースにとって、グリーンの加入は非常に喜ばしいものだった。生まれ故郷に戻ってくることなったグリーンは、6年間で8400万ドルという大型契約を結び、ドジャースサイドの期待の大きさが伺えた。

しかし移籍1年目は経験のなかったナショナルリーグへの移籍ということもあり、それまでのグリーンのような打棒は発揮できなかった。それまでは打者有利といわれるスカイドームを本拠としていたが、投手有利といわれるドジャースタジアムを本拠地とするようになったことが、グリーンのスイングを狂わせた。シーズンが終われば、打率.269、24HR、99打点とこの数字だけ見れば期待を大きく裏切る内容に終わってしまったが、その中でもグリーンは1試合も休まずに162試合に出場し、4月25日から6月23日までの間、53試合連続出塁を果たし、44本の2塁打を放った。この年のグリーンは72本の長打を放ち、これはドジャース史上4番目の記録であり、ホームラン数を見ただけで単純に不調だったとは片付けられない成績を残している。

2001年は開幕から好調を維持し、8月15日の対エクスポズ戦では自身初の1試合3ホームランを記録した。8月が終わった段階で42本のホームランを記録。これは2年前に記録した自己最多の本数に並ぶものである。この勢いはとどまらず、9月4日に現役選手としては最長の400試合連続出場を果たすと、9月6日には球団記録に並ぶ43号ホームランを放ち、さらに翌日には2本のホームランを放った。

グリーンは9月26日がユダヤ教徒にとっては聖なる日となっている贖罪(しょくざい)の日であるために試合を欠場し、連続試合出場の記録はストップしたが、この年は161試合に出場し、打率.297、49HR、125打点と素晴らしい成績を残した。

未だかつてポストシーズンを戦ったことのないグリーン。その打棒でドジャースを引っ張り、1988年以来のワールドシリーズ出場を決めることができるか。2002年はグリーンにとって20代最後の年になる。

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