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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2002.1.3〜1.8★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.1.8(現地1.7)
●レッズ、リホとマイナー契約!勝ち頭デセンスと1年の契約延長!
Cincinnati REDS
レッズは36歳のホゼ・リホとマイナー契約を交わした。リホは1990年にレッズが世界一になったときのワールドシリーズMVP投手である。肘を痛めたことから1995年を最後にマウンドにのぼっていないが、2001年に復活したばかりである。さらに、チームの勝ち頭である10勝(14敗)をマークしたエルマー・デセンスとも1年間の契約延長を決めた。

●ニューヨーク新球場建設問題は一旦は凍結へ!
New York METSNew York YANKEES
昨年後半にニューヨークに新球場を、という話で盛り上がったが、新市長のマイケル・ブルームバーグ氏は「現時点では現実的ではない」とし、今年度中の建設開始は難しくなった。しかし、現在のニューヨークの状況から見ての発言であり、新球場建設計画そのものがなくなるわけではない。ただ、計画を遂行するには相応しい時期ではないと言うことだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.064
ジェフ・ケント★ジェフ・ケント #21★ サンフランシスコ・ジャイアンツ

ホームランや奪三振など派手な記録がもてはやされる今の時代、着実な数字を残していながら周囲の認知度、評価は今ひとつという選手というのは少なからずいる。かつてはジェフ・ケントもその一人であった。今や6年連続100打点を記録し、誰もが認めるクラッチヒッターとしてその評価を高めている。

2000年、ナショナルリーグのMVPを獲得したケント。1968年、カリフォルニア州に生まれたケントは高校2年時に打率5割という猛打を記録。大学に入ってもショートで軽快な守備を見せ、チームをカレッジ・ワールドシリーズへ導いた。そして、1989年のドラフトで、ブルージェイズから20位指名を受け、プロ入りする。その年、ルーキーリーグで73試合プレーし、打率.224ながら、リーグトップの13本のホームランを放つパワーを見せつけた。

順調にマイナーの階段を昇り、1992年にメジャー昇格を果たすが、優勝を狙っていたブルージェイズとして当時メッツにいたデビッド・コーンを獲得するため、交換用意としてケントの名が上がり、メッツへのトレードが決まった。しかし、メッツ時代はわずかなミスにニューヨークのファンから容赦ないヤジを浴びることが、ケントを狂わせた。チームの雰囲気を壊す存在と悪いイメージがつきまとまっていた。こうして、1996年途中にインディアンズへ移籍が決まり、シーズン終了後にはジャイアンツへの移籍が決まった。

ジャイアンツに移籍するまでのケントは内野のどのポジションでも守れるということから、どちらかといえば便利なプレイヤーとしての扱いだった。しかし、ダスティ・ベイカー監督に出会ったことで、ポジションはセカンドへ固定。これがケントの打撃にも好影響を及ぼした。移籍1年目に29HR、121打点を記録。さらに翌1998年は、打率.297、31HR、128打点を記録。1999年は怪我に悩まされたが、打率.290、23HR、101打点を記録し、3年連続100打点突破を果たし、それまでの壁を取り払ったかのような活躍ぶりを見せた。

若い頃のケントは非常に短気な性格として、そのトラブルメーカーぶりは周囲を悩ませるほどだった。しかし、年齢と共に落ち着きが備わってくる。そんなケントに大きなスポットライトが当たったのは2000年のことである。開幕から打点を重ね続けたケントは前半戦だけで82打点を記録。これは1989年にケビン・ミッチェルが記録した前半戦の球団記録である81打点を塗り替えるものである。

セカンドの守備は堅実なケント。しかもこの年のオールスターでは、初めてのファン投票による選出。締め切りの最終週でクレイグ・ビジオエドガード・アルフォンゾという2人を抜き去っての選出であった。このケントとバリー・ボンズの打棒でチームを引っ張り、チームを地区優勝へ導いた。リーグ4位の125打点を記録し、4年連続で100打点を達成したケント。この4年間で合計475打点というのは、ロジャース・ホーンスビーが1922年から1925年の間に達成した4年間472打点という記録を抜き去るメジャー記録であった。

さらにリーグ5位の打率.334をマーク。これはケントにとってはキャリア初の打率3割であった。そして、この年のオフにはケントにとって嬉しい知らせが届いた。MVP受賞の知らせである。これまで打撃タイトルを一つも獲得してなかったケントが初めて手にしたタイトルがこのMVPである。ケントは32人の1位票のうち、22票を集め、本命であったボンズを引き離し、MVPを決めた。セカンドとしてのMVPは1984年のライン・サンドバーグ以来であり、史上最高のセカンドの一人として名を連ねた。

期待をかけられて臨んだ2001年は開幕から打率が2割半ばという低調ぶりだった。しかし、6月終わりには3割の近くまで打率を上げてきた。驚異的なペースでホームランを打ったボンズを支えたのは、このケントの存在であるということは否定できない。しかし、この年のケントは159試合に出場し、打率.298、22HR、106打点に終わり、MVPを取った翌年としては少し物足りない数字となった。。

2002年のシーズン開幕前には34歳になるケント。未だワールドシリーズの舞台を踏んでいないのは、チームメイトのボンズと一緒である。ベイエリアに1989年以来の歓喜をもたらすことができるだろうか。

■2002.1.7(現地1.6)
●77歳バック、2度目の手術も経過は順調!
St. Louis CARDINALS
長い間、カージナルスの中継放送を担当していたジャック・バックがこの1ヶ月に2度の手術を受け、現在は安定した状態に落ち着いているという。77歳になるバックは先月に肺ガンの手術を受け、腸の手術を受けたばかりである。過去3度のオールスターゲーム、2度のワールドシリーズを中継しているベテランであり、順調にいけば今季は48年目の中継担当ということになる。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.063
ランス・バークマン★ランス・バークマン #17★ ヒューストン・アストロズ

アストロズに在籍するジェフ・バグウェルクレイグ・ビジオは頭文字がともにBということから、キラー・ビーズと恐れられているが、この中に新しいBが加わることになった。その男の名はランス・バークマンという。バークマンを加え、ニュー・キラー・ビーズと呼ばれるようになり、アストロズの新しい看板となりそうだ。

更なる成長が楽しみなバークマン。大学時代から練習熱心な選手として知られ、在学していたライス大学での3年間の通算成績は打率.385、67HR、272打点である。特に3年時には41本のホームランを記録し、1シーズンの本数としては大学史上3番目に位置するものである。そしてバークマンは、1997年のドラフトでアストロズに1位指名(全米16番目)を受けてプロ入りを果たした。契約したその年、1Aキシミーで53試合に出場し、打率.293、12HR、35打点を記録している。

1998年は2Aジャクソンで開幕を迎え、122試合に出場し、打率.306、24HR、89打点をマークし、この年の後半には3Aニューオーリンズへ昇格している。翌1999年は開幕から3Aに定着し、7月にボストンで行われたフューチャーゲームに選抜され、アメリカ代表の3番ライトで先発出場を果たしている(結果は3打数無安打)。

さらにバークマンは、翌年に行われるシドニーオリンピック出場を懸けた予選のアメリカ代表メンバーにも選抜されている。アメリカ国籍を持つ24人のマイナーリーガーしか選ばれない名誉あるものだが、ちょうどメジャーからお呼びがかかったために、この代表メンバー入りを辞退することになった。こうして、1999年7月16日にメジャーリーグの舞台に初めて立つことになった。メジャー1年目は34試合の出場で、打率.237、4HR、15打点に終わっている。

2001年、スイッチヒッターとしては史上初の30HR、50本の2塁打を記録。2000年のアストロズの外野にはモイゼス・アルーリチャード・ヒダルゴロジャー・セデーニョダリル・ウォードといたために、バークマンは3Aでの開幕を迎えた。しかし、4月末にはメジャー昇格し、一旦はマイナー降格するがセデーニョが左手の薬指を骨折し、離脱して以降はメジャーに定着した。この年のバークマンは、114試合に出場し、打率.297、21HR、67打点を記録し、飛躍のきっかけをつかんだ。

2001年はメジャーで開幕を迎え、外野の一角を占めた。4月は一時的に打率が4割に届きそうになるほどの好調ぶりを見せ、チームメイトのアルーらと首位打者争いを繰り広げた。6月14日の対ツインズ戦では2本のホームランを含む5打数4安打6打点の猛打を見せた。この3日後の17日から自己最長の21試合連続ヒットを記録した。この活躍により、前年44本のホームランを放ちながらスランプに陥っていたヒダルゴの代わり、チームの4番に座ることもあった。

さらにオールスターゲームにも初出場を果たす。試合途中からセンターに入り、6回の打席ではポール・クオントリルから内野安打を放つ。バークマンを刺激したのは、この年限りでの引退を発表していたトニー・グウィンと話す機会を持てたことだ。グウィンもバークマンの打撃哲学には太鼓判を押したという。

シーズンが終わってみれば、156試合の出場で、打率.331、34HR、126打点と堂々たる成績を残した。さらにスイッチヒッターとしては史上初の30HR、50本の2塁打を記録するなど、文句のつけようがない。

この年はバークマンにとっては初めてのポストシーズンも経験した。しかし、ブレーブスとのディビジョンシリーズではあっさりと3連敗してしまい、アストロズのシーズンは終わった。バークマン自身、12打数2安打という結果に終わり、勝利を手にすることができなかった。ポストシーズンに弱いといわれるアストロズだが、ウェイド・ミラーロイ・オズワルトなど若い投手の台頭が目立っているため、近い将来、バークマンのバットがチームをワールドシリーズへ導く日がやって来ることだろう。

■2002.1.6(現地1.5)
●FAのJ・ゴンザレス、結論は来週中!?
ホアン・ゴンザレス
注目されるホアン・ゴンザレスの動向だが、代理人によると来週中には結論が出るということらしい。現在の候補としてはメッツ、レンジャーズ、オリオールズの3球団である。ゴンザレスとしては3年以上の契約を求めているが、メッツサイドは2年間で2500万ドルという契約を提示しているのに対し、他の2球団の具体的な契約内容は伝わってはいないが、2年以上の契約となるだろう。2001年はインディアンズと1000万ドルで1年契約を結んだゴンザレス。過去2度もMVPを受賞している打棒をどのチームで見せることになるだろうか。

●ジャイアンツ、33HRのサンダースと1年契約!
レジー・サンダース
2001年はダイヤモンドバックスに在籍し、世界一に貢献したレジー・サンダースがジャイアンツと1年契約を交わした。34歳のサンダースにとってはここ5年間でジャイアンツは5番目のチームである。2001年のサンダースはキャリア最多の33HRを記録し、90打点、84得点を記録している。おそらく、バリー・ボンズジェフ・ケントと共にクリーンアップトリオを形成することになりそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.062
テレンス・ロング★テレンス・ロング #12★ オークランド・アスレティックス

2001年のヤンキースとのディビジョンシリーズ第1戦で2本のホームランを打ったテレンス・ロング。ロングはこのシリーズ、チーム2位となる打率.389を記録するが、ヤンキースの前に敗れてしまった。こうして25歳のロングの2001年シーズンは終わった。

ディビジョンシリーズでクレメンスから打った1発。1994年、メッツにドラフト1位(全米20番目)で指名され、プロへ入団。プロ入り後、数年は壁にぶつかる形で苦しんだが、1996年に1Aコロンビアで123試合に出場し、打率.288、12HR、78打点を記録。翌1997年は一つ上のクラスの1Aセントルーシーで126試合に出場し、打率.251、8HR、61打点を記録した。

1年1年着実に階段をのぼるロングは1998年には、2Aビンガムトンで130試合に出場し、打率.297、16HR、58打点を記録した。この頃にはホームランも打てて打点も稼げるロングは、将来のクリーンナップ候補として名前が挙がっていた。

1999年4月に初めてメジャーへ昇格。しかし、わずか3試合に代打で出場したのみで、3打数無安打の2三振と結果を残せず、再びマイナーへ降格。そしてこの年の7月23日に、当時のアスレティックスのエースであったケニー・ロジャースとの交換でロングのアスレティックス入りが決まった。当時、このトレードには賛否両論あったが、出場機会に飢えていたロングにとっては喜ばしいものだった。

アスレティックス傘下の3Aバンクーバーへ加入してからは、40試合に出場し、打率.247、2HR、21打点と低迷するが、チームは3Aのワールドシリーズまでコマを進めた。このシリーズでのロングは、21打数9安打(打率.429)と活躍し、出場参加選手中トップの10打点をマークし、チームをワールドチャンピオンに導いた。この時のエースにはマーク・マルダーがおり、2人でチームを引っ張った形である。

アスレティックスの将来を支えるであろうロング。2000年は開幕こそ3Aで迎えるが、4月24日にはメジャー昇格を果たす。トップバッター不足に泣いていたこの年のアスレティックスは、このロングを1番センターに据える。初めてメジャーに定着したこの年、打率.288、18HR、80打点を記録したが、5盗塁という数字は1番打者としては不適任なことを示していた。しかし、ジェイソン・ジオンビーに次ぐチーム2位となる168安打という数字は、この年のルーキーの中で、両リーグトップというものである。

この年のアメリカンリーグ新人王投票では、佐々木主浩に次ぐ次点に終わってしまった。しかし、ミゲル・テハダエリック・チャベスティム・ハドソンなど若い選手の台頭が目立ってきているアスレティックスの中で、初めてメジャーで1シーズンを戦い終えたロングは自信と誇りに溢れていた。課題は両リーグトップとなる10個のエラーを記録した守備である。

2001年はFAでジョニー・デーモンを獲得したため、前年までの1番打者から5番から7番当たりを打つことになる。この年は162試合全てに出場し、打率.283、12HR、85打点をマークし、ジオンビー兄と並ぶチームトップタイの178安打を記録した。

25歳とまだまだ若いロングは、シーズン途中に、アスレティックスと4年間の1160万ドルで契約を更新。これにより2005年までアスレティックスのユニフォームを着ることが決まった。FAでジオンビー兄、デーモン、ジェイソン・イズリングハウゼンを失ったアスレティックスを引っ張っていく存在として、今後の活躍が期待される。

ちなみに2001年、華々しくメジャーデビューを飾ったイチローが「レーザービーム」と呼ばれる強肩を見せ、3塁手前で刺されたのがこのロングであり、この映像は日米で何度も繰り返し放送された。

■2002.1.5(現地1.4)
●ツインズ新監督に3塁コーチのガンデンハイヤーが昇格!
Minnesota TWINS
このオフは、球団削減問題から新球場建設問題など激震が走ったツインズだが、暗礁に乗り上げていたトム・ケリーに代わる新監督として3塁コーチを務めていたロン・ガーデンハイヤーの監督昇格が正式に決まった。数多くの監督候補が挙げられた中で最終的にはガーデンハイヤーとベンチコーチのポール・モリターだったが、ガーデンハイヤーがツインズと2年契約する形でこの問題は解決した。

2001年のツインズは若手選手の台頭で大きな躍進を遂げたが、この若手選手達をガーデンハイヤーがどのように指揮するかが注目である。ガーデンハイヤーは3年間、マイナーで監督を務めた後、1991年からツインズ一筋で10年間、コーチを務めている。

●インディアンズ、18歳のオーストラリア人投手と契約!
Cleveland INDIANS
インディアンズはオーストラリア出身の18歳右腕、マシュー・ヘインズと契約を交わした。昨年、メジャーリーグとしては初めてオーストラリアで開催したベースボールアカデミーに参加した選手であり、その素質は高く評価されている。190センチに84キロと恵まれた体型のヘインズは、3月のスプリングトレーニングから参加し、プロでのキャリアはインディアンズのマイナーリーグから開始することになるだろう。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.061
ラファエル・ファーカル★ラファエル・ファーカル #1★ アトランタ・ブレーブス

四球で出塁すると、わずか2球で3塁まで進む俊足を持つラファエル・ファーカル。内野フライでもタッチアップするのではないか、という期待を持たせてくれるスピード感あふれるプレーでチームを引っ張る。攻撃の幅を広げるという意味で味方にすればこれほど頼もしい選手はいないが、敵にすればこれほど嫌らしい選手はいないだろう。

ブレーブスのショートは10年は大丈夫。1980年ドミニカ共和国で生まれたファーカル。野球は兄に混じるような形で始め、16歳の頃の1996年にブレーブスと契約し、プロの世界に足を踏み入れた。言葉の壁に苦しんだが、1年目となる1997年はセカンドと外野を守り、打率.258、1HR、9打点、15盗塁を記録している。

1998年にはルーキーリーグでこのリーグの新記録となる60盗塁し、この年まではセカンドのみを守っていた。翌1999年にはショートに正式にコンバートし、1Aの2つのチームでプレー。この2つのチームで、合わせて96盗塁を記録。彼の韋駄天ぶりはその将来に大きな希望を抱かせた。

2000年はメジャーリーグのスプリングトレーニングに参加し、そのまま19歳の若さで開幕メジャーの座を手に入れた。1Aからメジャーへの大きなステップアップである。チームもその期待の大きさから背番号1を用意。開幕2戦目には8番ショートで先発出場を果たし、このデビュー戦を2安打1盗塁で飾った。

シーズン中には未成年の飲酒運転で逮捕されということもあり、さらには試合中に肉離れを起こすというアクシデントで故障者リスト入りするという不運にも見舞われた。しかし、ファーカルにとって幸いだったのはウォルト・ワイスキルビオ・ベラスが故障がちだったことであり、このためファーカルに出番がよく回ってきた。8月末の段階で100安打に29盗塁と新人らしからぬ成績を残しており、この頃には誰もが認めるブレーブスのレギュラー選手になっていた。

その俊足でチームを引っ張る。結局、この年131試合に出場し、打率.295、4HR、37打点、40盗塁という成績で堂々とナショナルリーグの新人王を獲得。40盗塁はリーグ5位の記録である。また守備においてもショートで110試合、セカンドで31試合守ったファーカルは、守備範囲の広さや肩の強さを十分に見せつけた。若さよる粗さはあるものの、守備にはマイナー時代から定評があり、将来のオジー・スミスになる可能性を秘めている。

シーズンオフに故郷で行われているドミニカンリーグに参加。その際、左肩を痛めるアクシデントがあった。これが2001年のファーカルを苦しめることになる。シーズンが開幕してからは当然、「1番ショート」が定位置だったが、貧打に苦しむブレーブスを象徴するようなスランプにはまっており、打率は2割前半にとどまっていた。守備に関しても送球エラーがあり、チームの失点に結びついた。

ようやく当たりが出始めた6月だったが、この月の半ばに左肩の状態がおもわしくなくなり、6試合を欠場。しかし、復帰後も5打数4安打を記録するなど9試合連続ヒットをマークし、チームの7連勝に貢献。欠場前と合わせると11試合連続のヒットである。しかし、7月に入り左肩を再び痛めるアクシデント。これによりこの年の残り試合への出場ができないことになってしまった。ファーカルの2002年は、79試合の出場で打率.275、4HR、30打点、22盗塁で終えることになってしまった。この時点での22盗塁はリーグトップだった。

2001年のメジャーリーグにもアルバート・プホルスCC・サバシアなどの1980年代生まれの選手がドンドン登場し始めた。しかし、その中で初めての1980年代生まれの初のメジャーリーガーというのが、このファーカルである。今後もこのスピード感あふれる未来のスーパースター候補生は注目である。

■2002.1.4(現地1.3)
●カージナルス、22勝モリスと3年間の契約延長!
マット・モリス
カージナルスは22勝右腕のマット・モリスと3年間の2900万ドルで契約を延長した。モリスは2002年シーズン後にFAとなるため、先に手を打った形になる。27歳のモリスは2001年、自己最多の22勝8敗の防御率3.16と素晴らしい成績を残した。1997年にメジャーデビューを飾ったモリスは、その年いきなり12勝(9敗)をマークしたが、その後は怪我に泣いた。1999年に右肘を手術し、1年を棒に振った。2000年は中継ぎとしてメジャー復帰を果たしていたモリスは、2001年に満を持して先発復帰を果たし、期待以上の数字を残した。サイヤング投票ではランディ・ジョンソンカート・シリングに次ぐリーグ3位となる投票を集めた。27歳という年齢から考えても更なる飛躍が期待される。

●J・ゴンザレス、古巣レンジャーズへ復帰の可能性!
ホアン・ゴンザレス
メッツ入りが濃厚とされていたホアン・ゴンザレスだが、高年俸がネックとなりなかなか決まらないでいる。そんな中、古巣レンジャーズとの契約という線も出てきた。代理人がレンジャーズと交渉中であり、ゴンザレスには年俸として1000万ドルから1500万ドルが考えられる。仮にレンジャーズと契約がまとまれば、アレックス・ロドリゲスイバン・ロドリゲスラファエル・パルメイロと共に、強力打線が形成されることになる。

●42歳モーガン、2002年も現役が決定!
Arizona DIAMONDBACKS
昨年、42歳にして初めてワールドシリーズに出場し、ワールドチャンピオンリングを手にしたマイク・モーガンが2002年もダイヤモンドバックスのマウンドに立つことが決まった。契約内容は1年間で750万ドルというものである。1978年にアスレティックスでメジャーデビューを果たして以降、12チームものユニフォームを着るジャーニーマンとして、18年のメジャーキャリアを誇る。昨年は中継ぎとして30試合に登板し、1勝0敗の防御率4.26を記録。ワールドシリーズでは4回2/3を投げ、無失点に抑えている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.060
AJ・バーネット★AJ・バーネット #43★ フロリダ・マーリンズ

2001年5月12日、メジャー3年目の24歳右腕、AJ・バーネットがこの日の対パドレス戦でノーヒッターを達成した。バーネットにとってはメジャー22試合目の登板であったが、球数トータル129球の中でストライクが約半分の65球しかなく、9個の四球と1個の死球という不安定さを見せながらもメジャー初完投をノーヒッターで飾った。

24歳の若さでノーヒッター達成。バーネットは初回に四球1個、2回には四球2つと外野フライで1アウト1塁3塁とピンチを迎えるがダブルプレーでしのぐ。3回にはまた四球2つに盗塁、バーネット自身のワイルドピッチでまた1アウト2塁3塁のピンチを迎えるが、ここもしのぐ。4回は四球1個に死球1個と毎回のようにランナーを2人以上出すバーネットがノーヒッターを達成するとは誰も思わないだろう。

5回、6回は3者凡退に抑えるが、7回は四球1つ、8回は四球2つ。そして9回、先頭のアレックス・アリアスをライトフライ。続いて代打のサンチアゴ・ペレスを空振りの三振。いよいよあと1人となって迎えたのは代打のフィル・ネビンである。最も怖い打者であるネビンをショートフライに抑え、見事にノーヒッター達成。2001年のメジャーリーグでは4月5日の野茂英雄以来2人目である。

バーネットのボールをうけていた捕手はこの年からマーリンズに戻ってきたチャールズ・ジョンソン。かつてのライター、ブラウンがノーヒッターを達成した時にマスクをかぶっていたのもこのジョンソンだった。このジョンソンが、3回に2点タイムリー2塁打、5回にはジョンソンの内野安打がパドレス野手陣の送球エラーを引き出し、更に1点追加。バーネットにとってはうれしい追加点だっただろう。

過去ノーヒッターを達成した投手の中で9イニングでの9四球というのは過去最多。1965年8月19日にジム・マローニ(レッズ)が対カブス戦で延長10回でのノーヒッターで10四球を記録している。9回までということでは、これまでは4人が8四球で並んでいた。1938年6月15日、ジョニー・バンダミーア(レッズ)が対ドジャース戦で、1951年5月6日、クリフ・チャンバース(パイレーツ)が対ブレーブス戦で、1970年6月12日、ドック・エリス(パイレーツ)が対パドレス戦で、1974年9月28日、ノーラン・ライアン(エンゼルス)が対ツインズ戦でそれぞれ8四球ノーヒッターを記録しているが、この記録を塗り替えた。

150キロを超える速球に大きなカーブが特徴。1995年、メッツにドラフト8位で指名されプロ入り。150キロを超える速球を持つバーネットは投球回数より多い奪三振を記録していたが、制球難にも悩んでいた。勝敗などに関しては目立った数字を残しているわけではないが、その将来性は高く注目されており、毎年着実に階段をのぼっていた。そして、1998年のスプリングトレーニング直前にアル・ライターとの交換トレードにより、マーリンズ入りが決まった。

マーリンズ参加に移って1年目の1998年、右腕を骨折するというアクシデントに見舞われたバーネット。しかし復活してからは1Aケインカウンティーで20試合に先発し、10勝4敗の防御率1.97という素晴らしい数字を残した。さらに119回を投げ、189個もの三振を奪うという点も完全復活を大々的にアピールするには十分だった。

1999年は2Aポートランドで開幕を迎えるが、26試合に登板し6勝12敗の防御率5.52と壁にぶち当たる。しかし、メジャーのマーリンズで先発のコマ不足が問題になり、バーネットのメジャー昇格が急遽決まった。メジャーデビューとなった8月17日の対ドジャース戦では、先発して6回を5安打1失点に抑える好投で初勝利を手にした。結局、この年は4勝2敗の防御率3.48という数字を残した。

期待されて迎えた2000年はスプリングトレーニング中の守備練習で右手親指の靱帯を痛めてしまい、全治3ヶ月という診断がくだされ、前半戦の絶望が決まった。7月後半にメジャーに復帰し、13試合に先発し、3勝7敗の防御率4.79という数字を残すにとどまる。

期待された2001年はノーヒッターを達成するなど結果は一つ出したが、その後は不安定な投球が続き、勝ち負けを繰り返してしまった。結局、27試合に先発し、11勝12敗の防御率4.05という成績にとどまってしまう。

マーリンズの投手としてのノーヒッターは、バーネットの交換相手であったライターが1996年5月11日の対ロッキーズ戦、ケビン・ブラウンが1997年6月10日の対ジャイアンツ戦でそれぞれ達成しており、バーネットが3人目である。この偉大な2人の投手のようになれるか、バーネットの今後を注目して見ていかなければならない。

■2002.1.3(現地1.2)
●どうなる!?シェフィールドの将来!来季はどのチーム!
ゲーリー・シェフィールド
ドジャースの主砲、ゲーリー・シェフィールドがドジャースサイドに対し、自らの移籍関連の問題について説明を求めた。すでに先月の段階で、アスレティックスとの間でジャーメイン・ダイビリー・コッチとの1対2のトレードが噂されているが、実際に決定したわけではない。シェフィールドとドジャースとの契約は2004年まで残っているために、その将来にはシェフィールド自身も不安を持っており、ドジャースの球団方針を聞こうと思っているそうだ。

●タイガース、モーラーと1年間240万ドルで契約延長!
ブライアン・モーラー
タイガースは昨年1年間、右肩の手術で棒に振る結果になってしまったブライアン・モーラーと1年間の240万ドルで契約を交わした。昨年は4月の1番最初の試合に投げただけで、その後マウンドに立つことはなかった。これまでタイガース一筋で1997年から4年連続2桁勝利を記録し、通算128試合に先発し、47勝51敗という数字を残している。

●石井の入札が開始!結果は早ければ7日に!
Yakult SWALLOWS
昨年華々しいメジャーデビューを飾ったイチローに続いて、石井一久もポスティングシステムにより、メジャーへの道を探っている。28歳の石井が在籍していたスワローズは2001年、日本一に輝き、石井自身も12勝6敗の防御率3.39という数字を残している。通算では、79勝46敗の、1277奪三振(投球回数1184回)を記録している。

石井の入札が考えられる球団として、アーロン・シーリーを失ったマリナーズを始めとして、レンジャーズ、、メッツ、ヤンキースエンゼルス、ドジャース、ダイヤモンドバックスが挙げられている。レンジャーズも非常に熱心であり、もし獲得できればパク・チャンホデーブ・バーバケニー・ロジャースダグ・デービスに次ぐ先発投手としての活躍が期待される。メッツは先発に左腕が多いため、若いブルース・チェンをパドレスのブッバ・トランメルと交換するという話を進めていることも報じられた。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.059
マイク・ハンプトン★マイク・ハンプトン #10★ コロラド・ロッキーズ

目を見張るような剛速球があるわけではなく、針の穴を通すコントロールもあるわけではないが、低めに丹念にボールを集める粘り強いピッチングでゴロの山を築きあげるマイク・ハンプトン。メジャーリーグでは小さい部類に入る178センチながら、投手顔負けの力強い打撃にも注目の視線が注がれている。

コロラドで花を咲かすことができるか、ハンプトン。父親がリトルリーグのコーチを務めていた関係もあり、物心つく頃から野球を始めていた。才能を見せたのは野球だけでなく、フットボールでも素晴らしい才能を発揮するアスリートだった。そのハンプトンは1990年にマリナーズからドラフト6位で指名された。その年、いきなりルーキーリーグで14試合に登板し、リーグトップの7勝(2敗)をマークした。

1991年は1Aサンバナディーノでノーヒッターを達成した。翌1992年は同じクラスで25試合に先発し、13勝8敗を記録。防御率は3.12で、完投数は6試合を数えるなどタフさをこの時点で見せていた。

1993年は念願かなって開幕メジャーの名誉を手にした。しかし13試合に登板し、1勝3敗の防御率9.53という内容に終わってしまい、2Aジャクソンビルへ降格してしまう。2Aでは15試合に登板し、6勝4敗の防御率3.71を記録した。わずかな期間のメジャー体験だったが、当時のマリナーズにはランディ・ジョンソンという大エースがおり、同じサウスポーということからハンプトンは多くのことを学んだという。しかし、この年のオフにアストロズへのトレードが決まってしまう。

アストロズに移って1年目の1994年はセットアッパーとして、1年フルでメジャーに在籍し、44試合に登板した。そしてその評価が認められ翌1995年から、先発に移った。初めて先発ローテーションに入ったシーズンは、5月半ばから約1ヶ月間、故障者リストに入ってしまったが、24試合に先発し、9勝8敗の防御率3.35という数字を残した。

1996年は27試合に先発し、10勝(10敗)を挙げ初めての2桁勝利を記録。1997年は15勝(10敗)、1998年は11勝(7敗)を記録するなど、毎年コンスタントに2桁勝てる投手になっていく。98年後半にはかつてのチームメイト、ジョンソンが加入し、2年連続の地区優勝を手にした。


バッティングも素晴らしい。こうして迎えた1999年はハンプトンの持ち味である打たせて取るピッチングが冴えわたり、38個もの併殺打の山を築く。シーズン最終日の10月3日、対ドジャース戦に中3日で先発したハンプトンは、7回を1失点に抑える好投で、チームに3年連続の地区優勝をもたらした。結局、この年は22勝4敗の防御率2.90と全てにおいてキャリア最高のシーズンとなった。21勝をマークしたホゼ・リマと共に20勝コンビを達成したのもこの年である。

さらに投手でありながらバッティングも素晴らしく、この年に打率.311をマークし、シルバースラッガー賞を獲得。さらにメジャーの投手としては24年ぶりにシーズン3本の3塁打を記録。また、28年ぶりの20勝と3割を同時達成した。

しかし、シーズン22勝をマークしながら、サイヤング賞の投票ではジョンソンに24ポイント及ばず、2位に終わった。そして、アストロズがハンプトンと長期契約を結ぶ意志がないことを知るや、球団に移籍志願。こうして2000年からはメッツへ移籍することが決まった。交換相手としては、若いオクタビオ・ドーテルロジャー・セデーニョを放出してまで、左のエースであるハンプトンを手に入れた。エース不在と言われていたメッツにとって、ハンプトンの加入は大きな力になることは容易に想像がついた。

2000年の開幕は日本でのことだった。開幕戦こそはふがいないピッチングだったが、この年、15勝10敗という結果を残し、チームをワールドシリーズに導いたハンプトン。ワールドシリーズでは惜しくも敗れてしまうが、カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦では、カージナルス打線を3安打完封勝利を演じるというピッチングを見せ、大舞台での勝負強さを見せつけた。

2000年オフにはFAとなってしまうため、メッツからは契約延長の申し出が常にあった。しかし、元々はフロリダ生まれのカントリーボーイであるハンプトンは、子供の教育問題もあり、2001年以降のニューヨークでのプレーは考えにくかった。こうして2001年のオフに晴れてFAを宣言したハンプトンの元に幾多の球団が食指を伸ばす。

ブレーブスやカージナルス、メッツ、カブスなどがこの候補として上がったが、そんな中でハンプトンが選んだのがロッキーズであり、この決断は周囲を驚かせた。というのもロッキーズの本拠地は打者天国と言われるクアーズフィールドであるからである。この決断にはハンプトン自身がチームの将来性を図ったこともひとつの原因であるそうだ。両者が契約を交わしたのが、ウインターミーティング初日のこともあり、この大型契約がマニー・ラミレスアレックス・ロドリゲスらのさらなる大型契約を呼び出したとも言われている。ロッキーズとは8年間で1億2300万ドルという破格の契約であった。

2001年は32試合に先発し、14勝13敗の防御率5.41という数字を残したが、ロッキーズをポストシーズンに導くことはできなかった。この年はピッチングの方もそうだが、バッティングでも投手として7本のホームランを放ち、打者転向という話もあながち嘘とは思えない打撃を披露した。ハンプトンがロッキーズを選んだ原因の一つに、投手が打席に入れるナショナルリーグということも挙げられるだろう。

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