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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2001.12.29〜2002.1.2★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2002.1.2(現地1.1)
●2002年殿堂入り選手の発表は1月8日!
オジー・スミス
2002年の殿堂入り選手が現地1月8日に発表される。候補選手の中で確実視されているのが、オジー・スミスである。スミスは「オズの魔法使い」と呼ばれる華麗な守備でチームを救い、ファンを魅了した。19年間のメジャー生活で15度のオールスター出場を誇る。通算記録は打率.262、28HR、793打点と物足りなさを感じるが、13年連続ゴールドグラブ賞を取る力を評価されての殿堂入りを果たすことができるか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.058
ホゼ・リマ★ホゼ・リマ #42★ デトロイト・タイガース

マウンドをまるでステージに変えてしまうショーマンシップぶりを見せるホゼ・リマ。マウンドで見せるリズミカルな動作が、調子のいいときはうまくいくが、調子の良くないときは一気に奈落の底である。しかしどんな中でも明るさを失わない点に関しては、他の選手から見て賛否両論が分かれるところだ。

2001年シーズン途中にタイガースへ戻ってきたリマ。リマはドミニカ共和国に生まれた。父親はドミニカのアマチュアチームで12年も捕手として野球をプレーしており、そんな家庭に7人兄弟の末っ子としてリマは生まれた。リマの幼い頃は野球選手ではなく歌手になることで、11歳の頃にはナイトクラブで歌っていたという。この頃のリマにとっては野球は片手間にやるもので、関心のほとんどは歌に集まっていた。

しかし、リマの野球の才能を見出した父親は野球を本格的にプレーすることを強く薦める。そこでリマが15歳の頃に本格的に野球をやり始めることになった。そこでは投手兼センターとして大活躍し、投げて9勝0敗という凄まじい記録を残し、リーグのMVPに輝いた。才能を十二分に見せた1989年、リマがまだ16歳の頃にタイガースと契約を結んだ。本格的に野球を始めて、まだ1年しか経ってない頃だった。

1990年、ルーキーリーグからリマのプロとしてのキャリアがスタートした。毎年、負けが先行していたが、防御率は3点台から4点台前半をキープしていたこともあり、1年1年着実にクラスを上げていった。初めてメジャーに上がったのは1994年4月のこと。この年はわずか3試合に登板しただけでマイナーへ降格した。

1995年はオールスター明けにメジャー昇格し、15試合に登板(全て先発)し、3勝9敗の防御率6.11でシーズンを終えた。翌1996年もマイナーで開幕を迎えるが、シーズン途中でメジャーへ昇格し、39試合に登板(先発は4試合)し、5勝6敗3セーブの防御率5.70を記録した。そして、この年のオフに計9人が絡む4対5のトレードでアストロズへ移籍することが決まった。交換相手にはブラッド・オースマスがいた。

アストロズのユニフォームを着て1年目の1997年は、52試合に登板(先発はわずかに1試合)し、1勝6敗2セーブを記録。クローザーを任されたこともあったが、結果を出すことはできなかった。

1998年のアストロズは前年19勝をマークしたダリル・カイルが抜けたこともあり、先発陣に大きな不安を抱えていた。その中でリマは開幕前のエキシビジョンゲームでは防御率が8.16と周囲の期待を大きく裏切っていた。結局、リマは中継ぎ要員としてシーズン開幕を迎えることになるはずだった。

あの輝きをもう一度・・・。しかし、先発投手陣が相次いで故障者リスト入りする苦しい中で、リマが先発を直訴。リマの熱意により、先発の座が巡ってくることになった。覚悟を決めてマウンドにのぼったリマは7回を4安打1失点に抑える好投を見せ、その先発の座を確実にした。先発としてマウンドに立ったリマは、水を得た魚のように大活躍し、いきなり4連勝をマーク。この年は16勝8敗の防御率3.70を記録し、大きな飛躍を果たした年となった。

1999年のシーズン開幕前にはラジオのインタビューで20勝すると大言をはいたリマ。その当時で誰もそれを信じたわけではなかったが、シーズン開幕序盤にあっさり8連勝をマーク。前年後半に加入しチームを引っ張ったランディ・ジョンソンのごとくチームを牽引し、オールスター前には2桁勝利マークした。

レッズと同率で迎えた10月2日の対ドジャース戦では、地元ファンの前で先発し8回まで無失点に抑える好投を見せ、チームを単独首位に押し上げるとと共に21勝目をマーク。翌日はチームメイトのマイク・ハンプトンの好投で地区優勝を決めた。こうしてハンプトンと2人で20勝コンビを結成。これは1993年のブレーブス、ジャイアンツ以来である。

2000年には新球場エンロンフィールドが開場。打者有利といわれるこの球場がリマを苦しめた。4月27日のカブスでは1試合に5本ものホームランを浴び、黒星を喫する。それまでの球団記録(11連敗)を塗り替える13連敗を喫し、さらにリーグワーストとなる48本ものホームランを浴びるなど、前年とは比較にならない最悪の内容。結局、7勝16敗の防御率6.65でシーズンを終えた。

再起をかけた2001年は5月に入ってから、ホームランを打たれたジェイ・ペイトンに死球を当て、5試合の出場停止を食らうなど、不安定なピッチングが続いた。6月には中継ぎにも回るなど、調子を戻せずにいた。そして7月23日に古巣タイガースへトレードされることになった。移籍後も不安定さは相変わらず垣間見え、5勝10敗という数字しか残せなかった。

2002年の9月に30歳になるばかりの、まだまだ若いリマである。1999年のような輝きを投手有利と言われるコメリカパークで再び見られる日も来ることだろう。なお、歌手に憧れていたリマだが、自分のCDを制作したこともあり、その歌のうまさは周囲の誰もが認めている。

■2002.1.1(現地2001.12.31)
●メッツ、J・ゴンザレスと契約間近!
ホアン・ゴンザレス
FAの目玉の一人であるホアン・ゴンザレスがメッツ入り間近と報じられた。これが正式に決まれば、2002年のメッツはロベルト・アロマーロジャー・セデーニョモー・ボーンを獲得していることもあり、前年に貧打に泣いたチームとは全く別のチームになりそうだ。

依然、オリオールズがゴンザレスに興味を持っているが、メッツサイドはすでに3年間で3000万ドルという契約を提示しそうだという。過去3度のオールスター出場を誇り、インディアンズに在籍していた2001年は、打率.325、35HR、140打点である。ここ6年で230本のホームランを打っているが、これはメッツの主砲マイク・ピアザ以上である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.057
デビッド・ウェルズ★デビッド・ウェルズ #33★ ニューヨーク・ヤンキース

ひげを生やしたいかつい風貌のデビッド・ウェルズはブーという相性で親しまれている。胸のボタンをはずし、大きなカーブで打者を打ち取るウェルズは、メジャーリーグを代表する個性は投手である。2001年こそ怪我で思うような活躍ができなかったが、オフにFAになるといくつかの球団が手を挙げる。当初はダイヤモンドバックスと契約直前までいくが、結局、古巣のヤンキースを選んだ。

古巣ヤンキースへ戻ることになったウェルズ。1982年、ブルージェイズに2位指名されプロ入りしたウェルズ。マイナー時代は怪我に苦しみ、1984年のシーズン途中から約1年半、マウンドに登ることすらできない苦しい状況が続いた。1986年も約1ヶ月半故障者リスト入りし、メジャーリーグに昇格したのは1987年の後半のことだった。

1990年に11勝(6敗)、1991年に15勝(10敗)をマークしたウェルズは、1993年のシーズン開幕直前の3月30日に突然解雇される。この年は、即タイガースと契約し、11勝(9敗)をマーク。そして、1995年のシーズン途中にレッズへ移籍し、翌1996年はオリオールズへ。オリオールズで11勝(14敗)という記録を残し、オフにはFAとなり、子供の頃からの憧れであるヤンキースと契約を交わした。

1997年からヤンキースのピンストライブに袖を通すことになったウェルズ。ベーブ・ルースを尊敬しているウェルズは、永久欠番になっているルースの背番号3を要求するなど、ヤンキースの選手らしくない発言で話題を振りまいた。当然、背番号3が用意されるわけはなく、33番に決まった。憧れのヤンキースの選手として、1年目は32試合に登板し、16勝10敗の防御率4.21という数字を残した。この中には1試合16奪三振を記録した試合も含まれる。さらに審判に暴言を吐き、退場となった試合が降雨でノーゲームということもあった。

そして移籍2年目、1998年5月17日のヤンキースタジアムでの対ツインズ戦、史上14人目となる完全試合を達成。公式戦においてヤンキースの選手が完全試合を達成したのはウェルズが初めてで、1956年のワールドシリーズ第5戦でドン・ラーセンが達成して以来の大記録である。この試合に前後で38人の打者を連続して凡退に打ち取るというリーグ記録も樹立した。この年、勝率.818と5完封というのは共にリーグトップという記録である。特に本拠地ヤンキースタジアムでは11勝1敗と抜群の強さを発揮した。

2002年の活躍が今から期待されている。さらにリーグチャンピオンシップシリーズでは2試合に先発し2勝をマークし、シリーズMVPを獲得。この年のポストシーズンでは計4試合に登板し、4勝を記録しており、大試合に強いところを見せた。

1999年シーズン開幕前の2月、ロジャー・クレメンスとの交換トレードが決まる。しかも、クレメンス1人に対し、ヤンキースサイドがウェルズを加えた3人を交換要員に用意するという、ウェルズにとっては屈辱のトレードである。しかし、これに対しウェルズは実力でこの逆境を跳ね返した。

移籍1年目は17勝10敗の防御率4.82という成績だったが、リーグトップの7完投を記録するタフさを見せた。そして2年目となる2000年は、開幕から背中の痛みに苦しんだが、オールスター前に15勝2敗という素晴らしい内容を残し、1997年にクレメンスが打ち立てたオールスター前に13勝というブルージェイズの球団記録をも塗り替えた。

オールスターゲームでは1998年に次ぐ2度目の先発投手という名誉を手にした。結局、ウェルズはこの年自身初の20勝をマーク。37歳124日での20勝到達は史上2番目の高齢記録である。両リーグ最多の266安打を打たれながらも、両リーグトップの9完投で見事に乗り切った。

2001年の1月にマイク・シロトカとのトレードでホワイトソックス行きが決まる。しかし、トレード成立後にシロトカの故障が発覚し、ブルージェイズサイドがトレードの無効を訴えたが認められなかった。前年に若手の活躍で地区優勝したホワイトソックスだったが、主砲のフランク・トーマスが怪我で戦線を退くなど苦しいチーム状況の中でウェルズも腰痛で思うような記録は残せない。一時は引退まで言われるほどのひどい状況の中で、わずか5勝7敗の防御率4.47という成績に終わった。

すでに2002年5月20日には39歳となるウェルズ。30代後半の投手が大活躍を見せる今のメジャーリーグの中で、ウェルズの今後のピッチングは注目される。

★謹賀新年★
2002年もサークルチェンジをどうぞよろしく!!◆新年あけましておめでとうございます!◆

昨年は大変お世話になりました。今年も多くの皆さんと一緒に、メジャーリーグを始めとする野球で熱く盛り上がっていきたいと思っております。

2001年のメジャーリーグは、野茂英雄のノーヒッターに始まり、最後は球史に残る素晴らしいワールドシリーズで締めくくってくれました。カル・リプケントニー・グウィンマーク・マグワイアといった大選手の引退は非常に寂しくはありますが、イチローアルバート・プホルスらを始めとする新人選手の台頭はそれらの寂しさを十分に埋めてくれそうです。2002年も素晴らしいシーズンになることを期待しています。

HP「サークルチェンジ」の合い言葉は、『歴史の生き証人になろう』です。みんなで歴史の生き証人になりましょう。

シーズン後半、ほぼ定期的に行ってきたチャット大会に参加していただいた皆さん、掲示板やゲストブックに書き込んでくださったり、このHPに定期的にお越しに頂いている方々には大変感謝しております。今後も謙虚にズウズウしく更新していきます。いろいろな新コーナーを準備はしていますので、楽しみにお待ちください。それではっ!!

実はこのバックはヤンキースタジアムなのです。

HP「サークルチェンジ」管理人;Kenji@webmaster(好きな力士は闘牙
★サークルチェンジは変化球の名前って知ってた!?★

■2001.12.31(現地12.30)
●アスレティックス、ジオンビーの後釜にハッテバーグを獲得!
Oakland ATHLETICS
FAでジェイソン・ジオンビーを手話す結果になってしまったアスレティックスは、レッドソックスからFAになっていたスコット・ハッテバーグと1年間の100万ドルで契約を交わした。ジオンビーの抜けたファーストにハッテバーグが入る予定になっている。32歳のハッテバーグは捕手を始めとしていくつかのポジションを守った経験があるが、メジャーでファーストを守ったことは一度もない。1995年のメジャーデビュー後、キャリア通算で454試合に出場し、打率.267、34HR、159打点という記録を残すにとどまっている。

FAにより、ジオンビー、ジョニー・デーモンジェイソン・イズリングハウゼンを失ったアスレティックスは、現時点でビリー・コッチデビッド・ジャスティスを補強したが、パワーダウンの感は否めない。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.056
ペドロ・マルチネス★ペドロ・マルチネス #45★ ボストン・レッドソックス

現在のメジャーリーグでナンバー1の投手は誰かと言われれば、必ず名前が挙がってくるのが、ペドロ・マルチネスである。身長180センチと決して大柄ではないペドロだが、150キロの速球にチェンジアップ、スライダーを加えた投球は打者をキリキリ舞いさせるに十分である。

メジャーリーグナンバー1投手のペドロ。かつてドジャースのエースとして活躍したラモン・マルチネスを実兄に持つペドロはドミニカ共和国で生まれた。兄の後を追うように1988年、ドジャースと契約を交わした(ちなみに兄ラモンは1985年にドジャースと契約し、1988年にメジャーデビューを果たしている)。プロ入り2年間は母国ドミニカのサマーリーグで登板し、2年合わせて21試合に登板し12勝3敗という数字を残して、素質の違いを見せつけた。

1990年はルーキーリーグに昇格し、14試合の登板で8勝3敗の防御率3.62という数字を残した。この年は77イニングで82個の三振を奪っている。翌1991年は1Aベイカーズフィールドで開幕を迎え、10試合(61回1/3)の登板で、8勝無敗の防御率2.05、83奪三振を記録する圧巻の内容で、シーズン途中で2Aサンアントニオへ昇格。2Aでも12試合(76回2/3)に登板し、7勝5敗の防御率1.76、74奪三振とここでも桁違いの力を見せた。さらにこの年の後半には3Aアルバカーキにも昇格した(3Aでは6試合3勝3敗、防御率3.66)。

1992年は開幕を3Aで迎える。20試合(125回1/3)で、7勝6敗、防御率3.81、124奪三振という数字を残して、シーズン終盤の9月24日、ついにメジャー昇格を果たした。すでに兄ラモンは1990年に20勝をあげるなど、ドジャースのエースとなっていた。ペドロはこの年、メジャーでわずか2試合にだけ登板した。

1993年からはメジャー定着を果たした。この年は中継ぎでの登板が主だったが、65試合に登板し(先発は2試合)、10勝5敗2セーブの防御率2.61という抜群の成績を残した。ドジャースの首脳陣もペドロの将来に大きな期待をかけたが、当時ショートを守っていたホゼ・オファーマンがセカンドへのコンバートの申し出に首を縦に振らず、結局エクスポズからセカンドを守るデライノ・デシールズを獲得するため、ペドロを放出せざるをえない状況になってしまった(オファーマンとペドロは後にレッドソックスでチームメイトとなるが、この時にはセカンドへコンバートしていた)。

夏休みがなくシーズンフルで戦えば、凄い数字を残すだろう。エクスポズへ移籍した1994年からは先発に定着し、11勝(5敗)をマーク(この年は1試合だけリリーフで投げ、1セーブを記録している)。1995年には9回までパーフェクトに抑えていながら、延長10回に打たれてしまい大記録を逃すということもあったが、14勝(10敗)をマークするなど、すでにエクスポズのエースとなっていた。厳しい内角攻めは既にペドロのトレードマークであり、2年連続11死球という数字がそれを如実に示している。さらに1996年は33試合の先発で13勝10敗、防御率3.70を記録。奪三振数が222個を数え、初めて200個という大台を突破した。

1997年は開幕から8連勝を記録するという絶好調ぶりで、6月には6試合連続の2桁奪三振、7月のレッズ戦では1安打完封勝利と勢いは止まらない。シーズンが終わってみれば、17勝8敗の防御率1.90、241回1/3を投げ305奪三振という素晴らしい成績で自身初のサイヤング賞を受賞。この年の被打率.184というのもリーグ1位となる記録である。

その年のオフにレッドソックスへの移籍が決まり、6年間で7500万ドルという大型契約を結んだ。ナショナルリーグからアメリカンリーグへの移籍ということで、ピッチングに注目が集まったが、移籍1年目の1998年は33試合に登板し、それまでの自己最多19勝(7敗)をあげ、防御率2.89、251奪三振と十分に合格点を上げられる内容。すでに誰もが認める、メジャーを代表する投手になっていた。

レッドソックスとしてはロジャー・クレメンス以来のエースを獲得したことになり、この年はワイルドカードでポストシーズン進出。ペドロにとって初めてポストシーズンとなるわけだが、インディアンズとのディビジョンシリーズ第1戦に先発し、7回を6安打3失点に抑えて勝利投手となった。この勝利により、チームのポストシーズンでの連敗を13で止めた(しかし、その後3連敗でペドロの1998年は終わる)。

レッドソックスに世界一をもたらすことができるか。移籍2年目の1999年は前半戦だけで15勝をマークし、シーズン30勝の期待が膨らんだ。しかし、オールスターゲームでの先発で、マーク・マグワイアサミー・ソーサというメジャーを代表する打者を相手に2回を投げ無安打無失点の5奪三振に抑えた。このオールスターでの快投が影響したか、後半戦が開始するや2週間の故障者リスト入り。それでもシーズンが終わってみれば、23勝4敗、防御率2.07、313奪三振という素晴らしい成績を残した。こうしてアメリカンリーグのサイヤング賞を受賞し、両リーグでの受賞という名誉を手にした。8試合連続2桁奪三振にくわえ、奪三振率13.2は当時のメジャー新記録である。9月のヤンキース戦では1安打完封勝利で17個の三振を奪ったこともあった。

さらにワイルドカードでポストシーズンに進出。インディアンズとのディビジョンシリーズ第1戦では右肩痛もあり、不本意な形での降板となったが、2勝2敗で迎えた第5戦、8対8で迎えた4回裏から緊急登板。残りの6イニングを無安打8奪三振の好投で、チームに勝利をもたらした。レッドソックスとしては9年ぶりとなるリーグチャンピオンシップシリーズ進出となったわけだが、この第3戦に先発したペドロは7回を2安打無失点に抑え、ヤンキースに土を付けた(結局、4勝1敗でヤンキースの前に敗れた)。

翌2000年は兄ラモンもレッドソックスへ加入。兄弟での活躍が期待される中、ペドロは18勝6敗、防御率1.74、284奪三振という記録で2年連続3度目のサイヤング賞を受賞(兄ラモンは10勝8敗)。防御率1.74はリーグトップなのは当然だが、2位のクレメンスの防御率(3.70)とは2点差以上の差を付けており、打高投低と言われる近年のメジャーリーグの中でその存在感を存分に示した。しかし、チームはワイルドカードでの3年連続ポストシーズン進出を逃してしまう。

2001年のレッドソックスはFAのマニー・ラミレスと大型契約を結び、さらに野茂英雄も獲得するなど、打倒ヤンキースの一番手に挙げられていた。しかしその中で、ペドロはいいピッチングをしても後続の投手が打たれて白星を逃すという苦しい内容が続き、そのうち怪我で故障者リスト入り。。ラミレスのバットに引っ張られていたチームも、ペドロの離脱、主力のノマー・ガルシアパーラが怪我から復活後するも再度故障者リスト入りと怪我人に泣き、チームは失速。ペドロとダン・デュケットGMとの不和も伝えられるなど、いい話題がなかった。結局、この年のペドロは18試合で7勝3敗の防御率2.39という数字に終わった。

レッドソックスは1918年に世界一になって以来、その座は縁遠いものとなっている。ベーブ・ルースを放出後からの低迷ということで「バンビーノ(ルースの愛称)の呪い」と呼ばれる。この呪いをペドロの右腕が取り払うことができるかは、怪我なくシーズンを終えるかどうかにかかっている。

■2001.12.30(現地12.29)
●レンジャーズ入りのエバレット、右膝を手術!来季は大丈夫!(?)
カール・エバレット
2002年からレンジャーズ入りが決まったカール・エバレットが痛めていた右膝を手術し、無事成功した。来週にはリハビリを開始し、シーズンには間に合うとのことだ。今季、レッドソックスでプレーしていたエバレットは、この右膝の痛みが元で、9月8日を最後にプレーから遠ざかっている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.055
ティム・ハドソン★ティム・ハドソン #15★ オークランド・アスレティックス

2001年のヤンキースとのディビジョンシリーズ。第2戦に先発したティム・ハドソンは、5回までヤンキース打線に2塁を踏ませない1安打無失点という素晴らしいピッチングを披露。結局、8回まで投げ6安打無失点に抑え、最終回はジェイソン・イズリングハウゼンにつなぐというアスレティックスの勝ちパターンに持ち込み、ヤンキース打線を2人で無失点に抑えた。

アスレティックスのエース、ハドソン。ディビジョンシリーズ2連勝で王者ヤンキースを苦しめたアスレティックスだったが、その後2連敗しタイに持ち込まれ、試合は第5戦へ。先制したアスレティックスだったが、先発のマーク・マルダーが捕まり逆転される。5回途中からハドソンが中3日でマウンドに登るが勢いを止められず、結局ハドソンは、2年続けてディビジョンシリーズでシーズンを終えることになってしまった。

183センチとメジャーリーガーとしてはさほど大柄ではないハドソンは、高校時代には12勝1敗の防御率1.78と素晴らしい成績を残すが、体格からそれほどの期待をされている選手ではなかった。しかし、地元の大学に入ると投手兼指名打者として投打に大活躍。大学4年時にオーバーン大学へ編入が決まると、そこで投手兼指名打者兼センターとフル回転。投げては15勝2敗、防御率2.97、165奪三振、打っては打率.396、18HR、95打点でその評価を高める。

1997年のドラフトではアスレティックスに6位で指名されて入団。この年、1Aソーオレゴンで8試合に登板し、28回2/3を投げて、37個の三振を奪い、3勝1敗の防御率2.51を記録した。翌1998年は1Aモデストで開幕を迎えるが、8試合に登板し、4勝無敗の防御率1.67を記録し、2Aハンツビルへ昇格。2Aでは22試合の登板で10勝9敗と活躍した。

1999年は開幕こそ2Aだったが、3試合に登板しただけで格の違いを見せ、3Aバンクーバーへ昇格。3Aでは8試合に登板し、4勝0敗の防御率2.20を記録。しかも49イニングを投げ、61三振の三振を奪っている。そして、メジャーからお呼びがかかった。

メジャーリーグを代表する若手右腕。初めてメジャーのマウンドにあがったのは6月8日の対パドレス戦のことで、いきなり5回までで11個もの三振を奪う好投。この年は新人でありながら、ランディ・ジョンソンペドロ・マルチネスなどの一流投手と対戦し、ともに投げ勝ち、そのまま先発ローテーションの座を確実にした。この年は21試合に先発し、11勝2敗の防御率3.23という記録を残し、チームのエース格にのし上がった。

こうして迎えた2000年は2年目のジンクスなどは感じさせないピッチングを見せ続けた。シーズン最終戦に先発したハドソンは、見事に勝利投手になり、この勝利でチームは8年ぶりの地区優勝を飾ると共に、ハドソン自身も20勝を達成した。アスレティックスの投手で20勝投手というのは、ボブ・ウェルチデーブ・スチュワートに次ぐ10年ぶりのことであり、デビッド・ウェルズと分け合う形で最多勝というタイトルも手にした。

この年は4月終わりから7月の頭まで9連勝を記録。チーム敗戦後に9試合の登板を果たしたが、その中で8勝をマークし、チームに貢献。さらにサイヤング賞の投票ではP・マルチネスに次ぐ投票を集め、その地位を確実なものとした。

2001年はチームの開幕投手に選ばれ、マリナーズの新人であるイチローのメジャーデビューの対戦相手となり、3打数無安打に抑える。低めを丹念につき、同じ腕の振りから繰り出されるシンカー、スライダー、チェンジアップで打者を狂わせた。結局、18勝9敗の防御率3.37という好成績でシーズンを終える。

オフには主力打者が移籍ということがあったが、チーム内にはマルダー(21勝)、バリー・ジート(17勝)という若手両左腕の台頭が目立った。アスレティックスの若手先発陣にかかる期待、責任は今後さらに大きくなると思われるが、まだまだ成長の余地はあるだけに注目である。

■2001.12.29(現地12.28)
●ヤンキースとメッツ、新球場案に仮合意!早ければ2006年開場!
予定されている新球場の模型を見つめるジュリアーニ市長。
ヤンキースとメッツは、ニューヨーク市が8億ドルをつぎ込んで作る両チームの新球場案に対し、ほぼ合意に至った。順調にいけばメッツは2006年、ヤンキースは2007年から新球場でのプレーということになる。ちなみに両球場とも開閉式の屋根付き球場であり、現球場に隣接して建設される。あと4日でニューヨーク市長の座を降りるルドルフ・ジュリアーニの後を引き継ぐ、マイケル・ブルームバーグがこの球場案に対しても引き継ぎ、最終的な決断を下す。

ヤンキースタジアムは1923年4月に開場し、ベーブ・ルースルー・ゲーリックジョー・ディマジオなどの大選手がプレーした。1970年代半ばに改修し、現在に至っている。一方のシェイスタジアムが開場したのは1964年4月のことであり、年齢にすればマーク・グレースと同い年である。

●急転!38歳ウェルズ、古巣ヤンキースと契約!
デビッド・ウェルズ
ダイヤモンドバックスと契約間近と思われたデビッド・ウェルズだが、古巣のヤンキースと契約を結んだ。ウェルズは1997年からのヤンキースに在籍し、2年間で34勝14敗という数字を残し、1998年には完全試合も達成した。1999年シーズン開幕直前にロジャー・クレメンスとの交換でブルージェイズへ移った。さらにホワイトソックスへ移った今季は、怪我に苦しみ、16試合の先発で5勝7敗の防御率4.47という不本意な成績に終わっている。すでに38歳のウェルズだが期待は大きく、これによりヤンキースはオルランド・ヘルナンデスを放出という動きも出てきている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.054
ジョン・スモルツ★ジョン・スモルツ #29★ アトランタ・ブレーブス

肘の手術からの再起をかけた2001年、ジョン・スモルツは先発として復活するものの、チーム事情からリリーフに回った。そして、11回のセーブ機会で10個ものセーブを記録し、オフにはFAとなる。先発をやりたいスモルツに対し、クローザーを求めるチームの間で意見の食い違いがあった。さらにこの実績のある右腕には、ヤンキースやダイヤモンドバックスを始めとする幾多の球団からの誘いもあった。しかし結局、スモルツはずっと慣れ親しんできたブレーブスと3年間の3000万ドルで契約を結び、ブレーブスでその球歴を終える道を選んだ。

再びブレーブスのユニフォームを着ることが決まったスモルツ。1985年、スモルツは地元のタイガースからドラフト22位で指名される。1年目はルーキーリーグ、2年目は1Aで過ごしたが、数字的には際だっていたわけではなかった。この裏にはタイガースのコーチ陣からフォーム修正を求められるなど、スモルツ自身息苦しさを感じていたと後に語っている。しかし、150キロ台の速球に切れのいいカーブ、スライダーを持つスモルツの将来性にブレーブスは目を付け、36歳のドイル・アレキサンダー投手と交換で20歳のスモルツを獲得した。

移籍2年目となる1988年の後半にはメジャー昇格。花が開いたのは1989年のことで、この年29試合に先発し、12勝11敗の防御率2.94という数字を残した。さらに球団史上最年少(22歳)となるオールスター出場も果たし、周囲の期待に応えた形となった。さらに翌1990年には14勝(11敗)をマークしている。

1991年は開幕から苦しんだ。前半戦だけで2勝11敗という最悪の状況に陥り、結局スモルツは藁にもつかる思いで心理学者の扉を開いた。周囲の期待という大きな重圧がスモルツを縛り付けていたのだった。心理学者による心理治療により、スモルツは自らをコントロールする術を身につけ始めた。こうして持ちうる才能を出し始め、後半戦は12勝2敗という成績でチームを引っ張った。こうして、前年まで3年連続地区最下位だったブレーブスをワールドシリーズへ導いた。

公式戦とリーグチャンピオンシップシリーズで胴上げ投手になったスモルツは、3勝3敗で迎えたワールドシリーズ第7戦に先発。スモルツにとっては子供の頃からの憧れのジャック・モリスとの投げ合いだった。両投手の好投で試合はゼロ行進で進んだ。スモルツは9回に1アウト1塁3塁のピンチを迎えてしまい、ここで降板することになったが、チーム内の信頼を十分に得るだけの投球内容だった(結局、延長10回にツインズがサヨナラ勝ちし、世界一の座を逃した)。

大試合に強いスモルツがクローザーへ。1992年には15勝(12敗)、1993年には15勝(11敗)と成績的には申し分がないが、チームには生え抜きのトム・グラビンスティーブ・エイバリーに加え、1993年からFAで加入したグレッグ・マダックスという豪華な投手陣の中で、スモルツはかすんで見えたのも事実である。

ストライキに見舞われた1994年のメジャーリーグだったが、これがスモルツにとってはそれまで違和感のあった右肘の手術に踏み切らせるきっかけとなった。ストライキが解決した1995年には復活し、12勝(7敗)をマークした。

スモルツが大きな光を浴びたのは1996年のことである。この年の2試合目の登板から連勝街道を走り、4月だけで5勝をマーク。この勢いで勝ち進み、5月24日の段階で2桁勝利をマーク。これは1904年5月22日にジョー・マッギニティー(ニューヨーク・ジャイアンツ)がシーズン10勝目をあげて以来、92年ぶりの最速記録である。結局、連勝は14まで伸びた。

シーズンが終わってみれば、24勝8敗の防御率2.94、276奪三振という記録をあげ、自身初のサイヤング賞も手にした。制球力が定まったこともあり、前年までは9イニング当たり3.32個の四球を出していたが、この年はわずか1.94個と減ったことで投球のテンポがよくなり、これが好調の原因となった。

翌1997年は打線の援護に恵まれず、完投負けが3度もあり、15勝12敗の成績に終わった。しかし、打撃面では打率.228でシルバースラッガー賞を受賞。アストロズとのディビジョンシリーズ第3戦で先発したスモルツは3安打1失点の完投勝利でポストシーズン10勝目をマークし、大試合に強い所を見せた。

バッティングもいいスモルツ。1998年は肘の手術で出遅れ、4月半ばからの復帰となった。5月下旬に再び故障者リストに入ったスモルツだが、6月末にメジャーへ戻ってくると、そこから8連勝を含む13勝(2敗)をマーク。特に9月は4勝無敗の防御率0.67と抜群の成績をあげた。シーズン通して、17勝3敗の好成績で最高勝率のタイトルを2年ぶりに手にした。この年のカブスとのディビジョンシリーズ第1戦に先発し、7回2/3を投げ5安打無失点に抑えて、ポストシーズン新記録となる11勝目もマーク。1999年もアストロズとのディビジョンシリーズ第4戦で勝利をマークし、ポストシーズンでの記録を12勝4敗としている。

2000年は開幕前に手術を決意し、シーズンを棒に振る結果になった。2001年にメジャーのマウンドに戻ってきて、先発からブルペンに回り、最後はクローザーも務めた。この年のアストロズとのディビジョンシリーズでは、ブレーブスがあっさり3連勝しリーグチャンピオンシップシリーズへコマを進めることになるのだが、この3試合全てにセーブを記録している。

「先発なら20勝、クローザーなら50セーブ」と話してスモルツ。現在34歳のスモルツのこれまでのメジャー通算成績は、160勝116敗の防御率3.35である。スモルツは今後、どのようなピッチングを見せてくれるだろうか。

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