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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2001.12.23〜12.28★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2001.12.28(現地12.27)
●メッツとエンゼルスでトレード成立!MVPボーンがメッツへ!
ケビン・エイピアーモー・ボーン
かねてからの噂通り、モー・ボーンケビン・エイピアーの交換トレードが正式に決まった。メッツ入りすることになったボーンは、レッドソックスに在籍していた1995年にMVPを獲得している。今季貧打に泣いたメッツもロベルト・アロマー、ボーン、ロジャー・セデーニョの加入で強力打線に生まれ変わることが予想される。メッツは9500万ドルという予算の中で、エイピアーに対して(来季のボーナスを加えて)900万ドルの予算が必要だったが、エンゼルスへの放出により、2002年の年俸が1000万ドルのボーンへの予算が生まれたことになった。

一方のエンゼルスはエイピアーに加え、FAで獲得したばかりのアーロン・シーリーに加えて、ラモン・オーティスジャロッド・ウォッシュバーンスコット・ショーエンワイスと先発ローテーションが決まった。

●伊良部、レンジャーズとマイナー契約!
伊良部秀輝
レンジャーズはFAになっていた伊良部秀輝ビル・パルシファーの2人の投手とマイナー契約を交わした。32歳の伊良部はここ2年間怪我に泣いており、エクスポズで2年合わせて14試合しか先発していない。今季はわずか3試合の先発で0勝2敗の防御率4.86に終わり、シーズン途中でトラブルもあり、解雇されている。このオフはメジャー復帰を見越してプエルトリコのウインターシーズンに参加している。また、28歳のパルシファーは今季レッドソックスとホワイトソックスの2球団でプレーし、37試合の救援登板で防御率6.00という記録を残している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.053
ジョニー・デーモン★ジョニー・デーモン #8★ ボストン・レッドソックス

2001年オフ、FAの目玉の一人であったジョニー・デーモンが、レッドソックスと4年契約の3000万ドルで契約を交わした。レンジャーズへの放出が決まったカール・エバレットの代わりにフェンウェイパークのセンターを守ることになりそうだ。28歳の先頭打者を得たレッドソックスがいかに変わるかが楽しみである。

2002年からはレッドソックスへ。1992年、サプリメンタル指名(1位指名と2位指名の間)でロイヤルズが指名し(全米35番目)、プロ入りへ。その年にルーキーリーグで50試合に出場し、打率.349の23盗塁を記録するなど高い潜在能力を発揮。1993年は1Aロックフォードで打率.290、59盗塁、1994年は1Aウィルミントンで打率.316、44盗塁と順調に階段の登り始める。

1995年は開幕を2Aウィチッタで迎え、111試合に出場し、打率.343、16HR、54打点、26盗塁を記録し、リーグのMVPを受賞。この年の後半にはメジャーデビューも果たした。マイナーで残した高い打率にスピードは、かつてのロイヤルズの至宝であるジョージ・ブレットの再来と言われるまで評価は高かった。

翌1996年からはメジャーに定着し、レギュラーも確保。しかし、メジャー昇格3年間は、打率としては.270前後をうろつき、盗塁数は約20個前後と期待されている数字を下回り、伸び悩みが感じられた。しかし、1999年に初めての打率.307を記録し、36盗塁を記録し、1番打者が板に付いてきた。

こうして、迎えた2000年は5月に10試合連続ヒットを記録。さらに1979年にブレットが録した11試合連続得点に1試合及ばない10試合連続得点も記録。この年、46個の盗塁を決めたデーモンは盗塁王のタイトルを手するた。ロイヤルズの選手としての盗塁王は、1979年のウィリー・ウィルソン以来である。打率もキャリア最高の.327を記録した。盗塁王だけではなく、リーグトップの136得点に加え、後半戦に限れば、両リーグでトップとなる打率.386をマークし、チームの核弾頭としての働きを十分に果たす、キャリア最高のシーズンとした。

まだ28歳と若い若い。大きな飛躍を遂げたこの年のオフ、ロイヤルズは1年後のオフにFAとなるデーモンの放出を決めた。クローザーの欲しかったロイヤルズは、アスレティックスとの間でジェイソン・イズリングハウゼンとの交換を申し出たが、アスレティックスサイドがこれを拒否。その代わりにデビルレイズに声をかけ、アスレティックスが伸び悩みの感のあるベン・グリーブをデビルレイズに送り込み、デビルレイズのクローザー、ロベルト・ヘルナンデスをロイヤルズがもらうという三角トレードを成立させた。

アスレティックスのユニフォームを着ることになったデーモンだが、移籍前年のアスレティックスはチーム全体で40個の盗塁しか記録しておらず、1人で46個もの盗塁を記録しているデーモンの加入はチームの得点力増大に大きな力となると思われた。若手投手の台頭を始めとし、MVPを獲得したばかりのジェイソン・ジオンビーもいるということで、シーズン開幕前はアスレティックスを優勝候補に挙げる人は非常に多かった。

しかし、シーズンが開幕してみればマリナーズがもの凄い勢いで飛び出し、大きく差を広げられてしまう。期待されたデーモンのバットは開幕から湿り放しで、6月半ばまでで打率は2割前半、出塁率も3割に満たないほどに落ち込み、戦犯の一人として名前が挙がった。

後半戦に入って勢いを取り戻しつつあったチームと共に、デーモンのバットもようやく当たりを取り戻し始める。8月は1試合3安打以上を記録したのが7試合を数えるなどの固め打ちも見せ、この月は打率.308を記録した。結局、2001年は、打率.256、9HR、49打点、27盗塁と期待された数字より下回ってしまった。

地区2位ながらシーズン102勝をあげ、ワイルドカードでプレーオフ進出。デーモンにとって初めてのポストシーズンとなったわけだが、ヤンキースとのディビジョンシリーズでは第1戦、第2戦合わせて9打数6安打を記録し、チームの2連勝に貢献。この中にはマリアーノ・リベラから打った3塁打も含まれる。しかし、チームはこの後に3連敗してしまい、デーモンの2001年シーズンは終わりを告げた。

オフのアスレティックスはジオンビー兄とデーモンの2人がFAとなり、大きく揺れた結果、2人ともよそのチームに行くことになった。1年だけ在籍したアスレティックスに対しても、デーモンは愛着を示したが、残留の道は選ばず、レッドソックスを選んだ。イチローがメジャーリーグ挑戦を打ち出した際、似たような選手として名前が挙がったデーモンであるだけにこのまま終わることはないだろう。

■2001.12.27(現地12.26)
●エンゼルス、31歳シーリーと3年契約で2400万ドル!
アーロン・シーリー
エンゼルスが同地区のマリナーズからFAになっていたアーロン・シーリーと契約を結んだ。契約内容は3年間で2400万ドルというものである。シーリーは今季、マリナーズの先発ローテーション投手として、34試合に先発し15勝5敗の防御率3.60という成績を残している。マリナーズに在籍した2年間でトータル32勝15敗という数字を残しており、4年連続200イニング以上投げているタフな投手である。ちなみにシーリーの通算成績は107勝68敗の防御率4.33である。

エンゼルスは噂されているモー・ボーンのメッツへの放出が確実となれば、ケビン・エイピアーを獲得することになり、来季へ向けて貴重な2人の先発投手を獲得するということになる。

●マリナーズ、FAの36歳シエラを獲得し、レフトの補強!
ルーベン・シエラ
先発投手を一人失ったマリナーズだが、レギュラーポジションの中で不確定だったレフトのポジションに、FAになっていたルーベン・シエラを獲得した。1年契約の190万ドルである。36歳のシエラは1986年にレンジャーズでメジャーデビュー。デビュー後の数年は毎年、20本以上のホームラン、100点前後の打点を挙げるなどパワーを見せていたが、徐々に成績が落ち込んでいき、1990年代半ばは幾多の球団を渡り歩くことになった。

昨年途中にレンジャーズと契約する前はメキシコでプレーしていた。今季はレンジャーズで94試合に出場し、打率.291、23HR、67打点を記録している。メジャーでの通算成績は、打率.270、263HR、1121打点である。

●ジュリアーニ市長、ヤンキースとメッツに新球場建設を示唆!
New York METSNew York YANKEES
今月限りでニューヨーク市長を退任するルドルフ・ジュリアーニ氏が、ヤンキースとメッツが新球場建設するための見通しが立ち、そのためには8億ドルが必要と話した。この金額を等分に分け、現在の球場と隣接する地域に建設するという見通しらしい。実際には後任のマイケル・ブルームバーグ市長がこの計画を引き継ぐことになる。悲しい事件があったニューヨークだが、2012年のオリンピックの候補地として立候補していることもあり、この計画には積極的である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.052
カール・エバレット★カール・エバレット #2★ テキサス・レンジャーズ

歯に衣着せぬ発言で物議を醸す問題児というのがカール・エバレットである。その発言は審判やマスコミにとどまらず、監督やコーチにも襲いかかる。そのエバレットは、2002年はレンジャーズのユニフォームを着ることになった。

2002年からはレンジャーズへ。エバレットはドワイド・グッデンゲーリー・シェフィールドらを輩出したタンパ州で生まれた。高校時代から野球でもそうだが、陸上やフットボールでも活躍するアスリートだった。そして、1990年のドラフトでヤンキースから1位指名(全米10番目)を受けて、プロ入りした。プロ入り3年間は1Aのクラスから上がれず、打率2割半ばで低迷した。

転機は1992年オフ。1993年から創立される新球団(マーリンズとロッキーズ)のエクスパンションドラフトでマーリンズに指名され、移籍があっさりと決まった。マーリンズの2Aハイデザートで3割近い打率(.289)を残すと、7月1日にはメジャー昇格を果たした。結局、11試合に出場して2本のヒットしか打てずに3Aエドモントンへ降格してしまった。

1994年は開幕から3Aで、78試合に出場し、打率.336、11HR、47打点を記録するが、監督をののしり、出場停止にされるなどトラブルは絶えなかった。そして、再びメジャーへ昇格。この年は16試合に出場し、11本のヒットを打った(打率にすると.216)。オフにはキルビオ・ベラスとの交換トレードでメッツ入りが決まった。

1995年のエバレットは3Aでプレーし、打率3割を記録。メッツへ昇格してからは79試合に出場し、打率.260、12HR、54打点をマークした。翌1996年は開幕直後の4月に故障者リスト入りすることも影響あってか、101試合に出場し、打率.240、1HR、16打点と極度のスランプに陥った。

1997年は開幕からメジャーに定着していたが、自分の子供に虐待のようなことをしていたことを妻に責められた。結局、家庭裁判所に行かねばならず、試合に欠場せざるをえないということもあった。さらに前年途中から監督をつとめていたボビー・バレンタインとの確執が原因でこの年のオフには、アストロズへ交換トレードにより放出されることになった。

エバレット加入はチームにとって吉と出るか凶と出るか。アストロズに移籍して1年目となる1998年は、133試合に出場し、打率.296、15HR、76打点を記録し、飛躍のきっかけをつかむ。翌1999年は、オールスター明けに故障者リストに入ることもあったが、123試合に出場し、打率.325、25HR、108打点、27盗塁と全ての部門で自己最高の記録をあげた。しかし、この年のオフ、アダム・エバレット遊撃手、グレッグ・ミラー投手との交換でレッドソックス入りが決まった。この裏には財政削減という理由よりは、エバレットの切れやすい性格が影響したとも言われている。

レッドソックスに移籍した2000年は、打率.300、34HR、108打点という数字を残し、戦力的に欠かせない選手となったエバレット。2001年のレッドソックスはノマー・ガルシアパーラが手術のため、前半戦は出場できないが、ペドロ・マルチネスというメジャーナンバー1の投手に加え、FAでマニー・ラミレスという大砲や、野茂英雄と契約するなど、チーム力がアップし、シーズン前から打倒ヤンキースの1番手として挙げられていた。

2001年のエバレットは、怪我の影響で後半戦はほとんど欠場するという状況で、結局、102試合の出場で、14HR、58打点と最悪の成績に終わった。さらにレッドソックスもシーズン開幕直後こそ好調をキープしたが、徐々に後退していき、優勝戦線から脱落した。

エバレットは監督のジミー・ウイリアムスと衝突し、シーズン途中に投手コーチから監督に昇格したジョー・ケリガンとも衝突し、オフの放出は確実視されていた。ダン・デュケットGMは再契約の意志を見せたが、結果的にレンジャーズへ移籍することが決まった。

■2001.12.26(現地12.25)
●アラバマ州の黒人実業家ワトキンス、ツインズ買収か!?
Minnesota TWINS
アラバマ州の黒人実業家、ドナルド・ワトキンスが削減が噂されているツインズ買収を強く望んでいると報じられた。この買収が成立すると、初めての黒人オーナーということになる。最初はデビルレイズ買収にも強い関心を持っていたが、ツインズが削減候補として名前が挙がった際、ツインズファンから届いた4000通を越える電子メールがワトキンスに決意させた。さらに41年の歴史を持つツインズについても心が揺れ動いたと話している。

ワトキンスがツインズを買収し、メトロドームに代わる新球場の目処が立てば、削減候補からはずれるだろうと、現在のツインズの責任者、ジェリー・ベルは話している。ちなみにワトキンスの資産は15億ドルにものぼるだろうと言われている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.051
ダリン・アースタッド★ダリン・アースタッド #17★ アナハイム・エンゼルス

2000年にシーズン240安打を放ったダリン・アースタッドも、2001年は打率を大幅に落とし(.258)、チームも地区3位に落ち込んだ。オフには一旦はホワイトソックスへの移籍話がまとまりかけるなど、エンゼルス内では放出の候補として挙がっている。

アグレッシブさを前面に出すアースタッド。ノースダコタ州に生まれたアースタッド。高校卒業時には、メッツからドラフト13位で指名されるが、ネブラスカ大学への進学の道を選んだ。大学では野球と共にフットボールもプレー。フットボールでは1994年にネブラスカ大学が全米で優勝を飾ったが、そのメンバーの中にはアースタッドも名前を連ねていた。

1995年に全米1番目の指名権を持つエンゼルスが、アースタッドを指名し交渉権を手にした。マイナーでは3割を越える打率で実力の違いを見せつけた。1996年シーズン途中にメジャーへ昇格し、57試合に出場し、打率.284を記録する。野手の間を抜くシェアな打撃が持ち味で、周囲の誰もがその将来を嘱望した。

1997年は139試合に出場し、打率.299、16HR、77打点、23盗塁を記録。翌1998年は前半戦で、打率.313という記録を残して、初めてのオールスター出場の名誉も手にした。しかし、好不調の波が激しい点もあったが、この年は133試合に出場し、打率.296、19HR、82打点、20盗塁という記録を残した。将来のチームの中心打者として、アースタッドには期待がかけられた。

練習熱心であり、なおかつ研究熱心であるアースタッドはこのままスターダムにのし上がるかと思われたが、1999年はスランプに陥り、8月には右膝の靱帯を痛め、故障者リストに入ってしまった。結局、この年は打率.253と落ち込んでしまった。シーズンで101個の三振を奪われ、チームトップの16併殺打も記録してしまった。

ハッスルプレーでチームを引っ張る。2000年は前半戦で144本のヒットを打ち、、シーズン最多安打記録(1930年にジョージ・シスラーが記録した257安打)を抜く勢いで打ちまくった。が、最終的には240本もの安打を積み重ねていた。打率.355、25HR、100打点を記録し、キャリア最高の年とした。この年、出場した157試合でヒットがなかったのはわずかに29試合を数えるのみだった。1試合で2本以上の人を打った試合は、両リーグトップの77試合である。

本来ならトップバッターを打つタイプの選手ではないが、チームに適任がいないことから、開幕からトップを任されていた。アースタッドは積極的な打撃で期待に応える活躍を見せた。

メジャーに昇格したばかりの1996年は外野手だったが、1997年にはファーストへコンバートされた。翌1998年はセシル・フィルダーが入ってきたこともあり、再び外野との併用になる。ファーストとしては守備率.992を誇ったが、翌1999年にはモー・ボーンが加入したため、またもや外野へ移ることになった。どこを守るにしてもアグレッシブで、守備範囲も広く、スピードもあって、送球も正確ということで申し分がない。

フットボールで鍛えた激しい闘争心を全面に出し、今後もメジャーで活躍していくことだろう。

■2001.12.25(現地12.24)
●どうなる、レッドソックスGMデュケットの今後の処遇!
Boston RED SOX
買収が決まったレッドソックスだが、現在のGMのダン・デュケットの処遇については言及されないまま、不透明となっている。ペドロ・マルチネスや移籍したカール・エバレットとのトラブルなどが絶えなかったデュケットだが、今季オフは積極的な補強にも取りかかっている。デュケット自身は契約があと2年残っているとやる気は十分だ。

レッドソックスの買収が正式に決まるのが、オーナー会議での承認を得てからだ。その後にデュケットの将来が決まることになりそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.050
パット・バール★パット・バール #5★ フィラデルフィア・フィリーズ

全米1番目で指名された選手には大成しないで終わる選手もいるが、ケン・グリフィーチッパー・ジョーンズアレックス・ロドリゲスのように大成功をおさめている選手も数多い。パット・バールもその系譜に並ぶ選手の一人である。

1998年の全米ナンバー1の指名を受けたバール。高校までは体こそ大きいがそれほど評価されていた選手ではなかった。卒業時にレッドソックスからドラフト43位で指名されるが、これを蹴り、名門マイアミ大学への進学を選んだ。大学での開幕戦からバールのバットは火を噴いた。いきなり9打数9安打の大当たりである。しかも、その内訳というのが4本の2塁打と5本のホームランという文句のつけようのないものだった。大学1年生でありながら、打率.484、23HR、64打点と信じられない数字を残した。チームもカレッジ・ワールドシリーズへ導き、バールの名は大学球界に響き渡った。

大学2年時にも、打率.409、21HR、76打点と勢いは止まらず、3年時にも打率.432、17HR、47打点でチームを3年連続のカレッジ・ワールドシリーズ進出へ導いた。こうして迎えた1998年ドラフトでは、全米1番目の指名権を持つフィリーズから1位指名を受け、5年契約の800万ドルという新人としては破格の大型契約でプロの扉を開いた。元々はサードを守っていたバールだが、チームにはスコット・ローレンという不動のサードがいるため、プロ入り後からバールはファーストへコンバートすることになった。

1年目となる1998年は、1Aで37試合に出場し、打率.303、7HR、30打点を記録した。翌1999年は3Aで開幕を迎えるが、壁にぶち当たる形で2Aへ降格。しかし、2Aでは117試合に出場し、打率.333、28HR、90打点をマークし、力のあるところを見せた。バールはこの年のフューチャーゲームでも、2Aのオールスターゲームでも4番を務めた。

チーム内での存在感も抜群だ。2000年の開幕は3Aで迎えたが、メジャーではファーストにリコ・ブローニャがいるため、全てレフトを守って出場した。試合に出られればポジションはどこでもいいというバールはどん欲に練習に取り組んだ。慣れないレフトを守りながら、3Aでは40試合に出場し、打率.294、4HR、25打点を記録した。そして、メジャーからバールに声がかかったのは5月23日のことだった。

2000年5月24日の対アストロズ戦でメジャーデビュー。いきなり5番に座り、最終回にビリー・ワグナーからセンター越えの特大の3塁打を放つなど2安打し、才能の片鱗を見せた。その後はメジャーの投手の変化球に苦しんみ、6月16日の段階では打率.189にまで落ち込んだ。その後、7月2日までは60打数23安打と大当たりし、打率を.276まで上昇させた。結局、111試合に出場し、打率.260、18HR、79打点という成績に終わってしまった。

2001年、フィリーズはマーリンズとの開幕3連戦を3連勝し、勢いに乗った。若い選手の台頭が目立ったこともあり、前半戦を地区首位で折り返した。バールも5月は打率.341を記録するなどチームの快進撃に一役買った。結局、初めてメジャーでフルシーズンを戦ったこの年、バールは打率.258、27HR、89打点という成績に終わったが、満塁で5割近い打率を記録するなどの勝負強さを発揮し、要所要所で存在感をアピールした。

不安視された慣れないレフトの守備でも、リーグトップとなる18個の捕殺を記録し、チームに貢献した。将来的にはフィリーズの中心選手として、毎年40本近いホームランを打つような選手になるだろう。

■2001.12.24(現地12.23)
●FAシャウ、レッズに続いてパイレーツとも交渉決裂!
ジェフ・シャウ
今季シーズン100敗を喫し、クローザーを探しているパイレーツは、FAのジェフ・シャウと交渉を進めていたが決裂に終わった。今季のシャウは、ドジャースで43セーブを記録したが、オプションを行使されずにFAとなり、他球団と交渉を進めているところだ。

シャウは故郷であるオハイオ州の近くのチームと契約したいという希望を持っており、古巣のレッズと交渉を進めていたがこれが決裂したばかりで、続けてパイレーツとの交渉も決裂したことになる。35歳になったシャウだが、来季はどこのチームのユニフォームを着ることになるのか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.049
モー・ボーン★モー・ボーン #42★ アナハイム・エンゼルス

契約期間を残しながらも、エンゼルスから移籍の可能性があるモー・ボーン。ボーンの2001年は怪我で棒に振る結果となっており、2002年は復帰をかけるシーズンとなるのだが、どのチームのユニフォームを着るかはまだ正式には決まっていない状況である。「(古巣の)ボストンに戻りたい」という発言もあり、予断を許さない状況となっている。

大変な人格者でボランティアに力を入れる心優しきボーン。コネチカット州に生まれたボーンは、両親が共に教師という家庭に育った。父親はフットボールやバスケットボールのコーチも務めており、対戦相手にはボビー・バレンタインもいたという。後にボランティア活動に精を出すボーンの礎は両親によって築かれた。

1989年にレッドソックスからドラフト1位指名(全米23番目)を受けて、プロ入り。この年すぐに、2Aニューブリテンで73試合に出場し、打率.278、8HR、38打点を記録。翌1990年は3Aポータケットでフルシーズンをプレーし、打率.295、22HR、72打点を記録した。1991年も開幕は3Aだったが、シーズン半ばにはメジャー昇格を果たした。

メジャーでレギュラーに定着したのは1993年のことで、レッドソックスのファーストを守り、152試合に出場し、打率.297、29HR、101打点を記録し、一流選手への仲間入りを果たした。翌1994年はストライキでシーズンが中断されるが、111試合の出場で打率.310、26HR、82打点を記録し、チームの中心打者としての地位を揺るぎないものにした。

メジャー5年目となる1995年、チームはロジャー・クレメンスホゼ・カンセコの投打の軸が共に怪我で欠くという苦しいチーム状況の中で、ボーンは打ちまくった。オールスターまでに24HR、60打点という猛打ぶりを発揮。こうしてこの年、チームを地区優勝に導き、打率3割、39HR、126打点と文句ない成績を残し、初めてのタイトルとなる打点王をアルバート・ベルと分け合った。

この年のMVPは、本塁打王と打点王の2冠を獲得し、人未踏の50本のホームランと50本の2塁打という「50−50」を達成したベルが有力視されていたが、投票の結果、ボーンがMVPを獲得した。これにはフィールドの中だけではなく、人格者のボーンとマスコミ受けの悪いベルの差とも言われている。当時では史上12人目のシーズン50HRを記録したベルも、その50本のうちの39本はペナントの行方が決まってからの後半戦に打ったという点もマイナスになったのだが。

生まれ育った故郷が近いバレンタインとの一コマ。MVPを獲得した翌1996年は、打率.326、44HR、143打点と全部門で自己記録を更新し、チーム内でもチームリーダーとしての地位を確固たるものとした。1997年は若手のノマー・ガルシアパーラの台頭も相乗効果となり、打率.315、35HR、96打点を記録。翌1998年も打率.337、40HR、115打点ととてつもない破壊力を見せ、チームもワイルドカードでポストシーズン進出を果たした。

1998年オフにFAとなったボーンは、レッドソックスからの意外にも低い評価に移籍を決意。結局、エンゼルスと6年契約の8000万ドルという大型契約を結んだ。ボーンに求められているのは、チームリーダーとしての役割だった。

移籍1年目の1999年は開幕戦でファールボールを追おうとして、相手ベンチに飛び込み左足首を捻挫。この怪我が全てで、レッドソックス時代から続いていた5年連続打率3割という記録もストップしてしまった(打率.281)。チームも不振と逆風に苦しんだ中で、33HR、108打点を記録したのはさすがといえばさすがである。

翌2000年に再起をかけるが、若手のトロイ・グラウスが47HRし、本塁打王を獲得する一方で、ボーンはここ数年で最低の打率.272に終わってしまった。この年のエンゼルスはグラウスの爆発と共に、ボーンが36HR、ギャレット・アンダーソンが35HR、ティム・サーモンが34HRとリーグ初の30発カルテットを形成したが、エンゼルスは地区3位に終わってしまった(ちなみにこの年、ブルージェイズも30発カルテットを形成している)。

グラウスの台頭に隠れつつあったボーンは、2001年シーズン開幕前に左腕の二頭筋の腱を断列してしまう大怪我で、全治まで半年はかかるということから、このシーズンを棒に振ることになってしまった。

かつて病気の子供のためにベーブ・ルースがホームランを打って勇気づけるということがあったが、このボーンも、入院中の子供にホームランをプレゼントしたことがあるという。ボランティア活動に力を注ぐ心優しきボーンだが、打席に入るととんでもない破壊力を見せていたボーン。再び、あの猛打を目にすることはできるか。

■2001.12.23(現地12.22)
●パク、レンジャーズと正式に契約!5年間で6500万ドル!
晴れてレンジャーズの一員となったパク。
今季オフのFAの大きな目玉であったパク・チャンホが正式にレンジャーズと契約を交わした。契約内容は5年間の6500万ドルという大型契約である。昨年、アレックス・ロドリゲスと10年間の2億5200万ドルという破格の契約を提示し、話題をさらったレンジャーズが今オフもパクとの契約を成立させたことになる。

レンジャーズは2年連続地区最下位に終わっており、投手陣の柱となるべき投手を取ることは課題でもあったが、それを見事にパクの獲得でこれを克服した。今季オフも数多くの補強を進め、来季のポストシーズン進出へ期待を抱かせる。

28歳のパクは韓国人選手として初めてのメジャーリーガーとして、1994年にデビュー。しばらくはマイナーで過ごすが、1997年以降はドジャースの先発ローテーションに入り、毎年コンスタントな成績を残した。2001年は15勝11敗の防御率3.50という数字を残しており、5年連続2桁勝利を継続中である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.048
クリフ・フロイド★クリフ・フロイド #30★ フロリダ・マーリンズ

1997年のマーリンズ世界一を肌で知る数少ない選手として、マーリンズを引っ張っているのがクリフ・フロイドである。若手投手の台頭も目立ち、再びワールドシリーズの舞台へ駒を進められるか、チームリーダーのフロイドには大きな期待がかけられている。

故障しやすいことから「ガラス」と皮肉られたのも今は昔。1991年にエクスポズがドラフト1位(全米14番目)で指名。1993年には2Aで打率.329、26HR、101打点を記録し、本塁打王と打点王の2冠王となり、その将来に大きな希望を抱かせた。この年の終わりにはメジャーにも昇格し、10試合だけ出場している。当時は主にレフトを守っていたが、たまにはファーストを守ることもあった。

1994年はメジャーで1年を過ごすが、100試合に出場し、打率.281、4HR、41打点とメジャーの壁にぶち当たった。翌1995年は怪我でシーズンの大半を棒に振ってしまう。再起をかけた1996年は117試合に出場し、打率.242、6HR、26打点という成績に終わってしまう。

1997年のシーズン開幕前にチームはダスティン・ハーマンソンを獲得するためにフロイドをマーリンズへ放出した。この年のフロイドも怪我により、メジャーではわずかに61試合にしか出場することができなかったが、チームは勝ち進み、世界一の名誉を手にした。フロイド自身もワールドシリーズには4試合出場し、打席には2度立った(2打数無安打)。

翌1998年はチームが財政面で苦しみ、主力選手を次々と放出したことから、フロイドも4番レフトというレギュラーの座を手にした。153試合に出場し、打率.282、22HR、90打点、27盗塁という成績を残した。落ち込むチーム成績の中で45本の2塁打を始めとして、ほとんどの打撃部門でチームトップの記録をあげた。また22HRと27盗塁で、球団史上初の「20−20」も達成している。

チームリーダーとしてマーリンズを引っ張る。マーリンズと4年間で1900万ドルという高額契約を結んだフロイドだが、「ガラス」と皮肉られる故障がちな体が大きなネックとなっていた。ようやく花を咲かせようとしていたフロイドのメジャー生活も、1999年は膝の手術のため、開幕からの3週間を欠場したが、今度は6月半ばにアキレス腱を痛め、再び故障者リスト入り。戦線に戻ったのは9月に入ってからであった。

翌2000年も怪我で1ヶ月の離脱と、フルシーズン戦える体を作ることがフロイドの大きな課題であった。しかしこの2年間、少ない出場試合にも関わらず、ともに打率が3割を越えているというところにフロイドの非凡さを感じさせる。

毎年のように怪我に泣いていたフロイドが、2001年は開幕から3番に座り、好調を維持した。チームも前半戦は優勝争いに加わるなどの勢いを見せる。結局、打率.317、31HR、103打点はいずれも自己最高の記録である。ボール球に手を出さず、内角の速球にも長い腕でうまくさばく天性の打撃センスをいかんなく発揮した。守りでも守備範囲の狭さが指摘されるが、無難にシーズンを乗り切った。

オールスターゲームでは、ナショナルリーグの監督をつとめるボビー・バレンタインとの間で出場の推薦の確約をしたしないで揉めたが、結局、出場することができた(結果は2打数無安打)。

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