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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2001.12.8〜12.12★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2001.12.12(現地12.11)
●8選手にまたがる大型トレード!アロマーがメッツへ!
ロベルト・アロマー
メッツとインディアンズの間で8人の選手にまたがる大型トレードが成立した。この中で一番の大物は新たにメッツ入りすることになったロベルト・アロマーである。過去12回もオールスターに出場している名セカンドであり、アロマーの加入によって、セカンドを守っていたエドガード・アルフォンゾをサードへコンバートさせることになりそうだ。

アロマーの代わりにインディアンズするのは、今季途中にメッツ入りしたマット・ロートン外野手、メッツの将来の鍵を握るとまで言われたアレックス・エスコバル外野手、27歳右腕のジェラド・リガン投手と後から発表される2人を加えて5人であり、メッツ入りするのはアロマーの他にマイク・バクシック投手、ダニー・ピープルズ一塁手である。

エスコバルはまだ23歳と若く、この放出には疑問の声が聞こえ始めている。さらにセカンドを失ったインディアンズは、フェルナンド・ビーニャポーキー・リースらに興味を持っているという。来季、インディアンズの二遊間をオマー・ビスケルと守ることになるのは一体誰だろうか。

●マリナーズ、24歳の若手捕手デービスを獲得!
ベン・デービス
マリナーズが若い捕手、ベン・デービスをパドレスから獲得した。その他にも内野全てを守れるユーティリティプレイヤーのアレックス・アリアスウォスカー・セラーノ投手を獲得し、交換相手でパドレス入りするのがブレット・トムコ投手、ラモン・バスケス遊撃手、トム・ランプキン捕手の3人である。

デービスは今季、パドレスの正捕手の座を手にしたばかりの24歳である。マリナーズの正捕手ダン・ウイルソンが来季オフにFAとなるため、先手を打った形となる。なお、パドレスはバスケスをショートで使い、今季ショートだったダンジェロ・ヒメネスをセカンド、サードだったフィル・ネビンをファースト、ファーストだったライアン・クレスコをライトに回し、サードには新人のシーン・バローズを起用する予定である。

●ヤングとエンカーナシオンの外野手同士のトレードが成立!
ドミトリー・ヤング
放出が噂されていたレッズのドミトリー・ヤング外野手が、ホアン・エンカーナシオン外野手、ルイス・ピネダ投手と1対2のトレードでタイガース入りすることになった。ヤングは4年連続で打率3割をキープしているが、ケン・グリフィー・ジュニアと成長著しいアダム・ダンが外野にいることと、チームの緊縮財政もあり、放出が決まった。エンカーナシオンは潜在能力こそ認められているが、まだそれを発揮していない。

●ホワイトソックス、クローザーのフォークと契約を2年延長!
キース・フォーク
ホワイトソックスはクローザーのキース・フォークと2年間の1000万ドルで契約を延長した。2000年は34セーブ、今季は42セーブをあげており、ホワイトソックスの球団史上、2年連続で30セーブ以上あげたのはフォークで3人目である。特にここ2年間は本拠地での57回のセーブ機会に54個のセーブを記録。そのうちには29回セーブ成功ということもあった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.037
パク・チャンホ★パク・チャンホ(朴贊浩) #61★ ロサンゼルス・ドジャース

<written by チャンホ大好き>

2001年、怪我人が続出するドジャース先発投手陣の中で、ローテーションを守り続け、15勝をあげたパク・チャンホ。FA権を手に入れたパクは堂々とそれを宣言。5年連続2桁勝利、28歳の若さですでに通算80勝を記録しているパクは、他球団にしてみればのどから手が出るほど欲しい投手であることは間違いない。

韓国人メジャーリーガーとしてCMにも出演。韓国の公州市に生まれたパク。最初に始めたスポーツというのは小学3年生の時の陸上であった。そして、通っていた小学校が全国でも有名な野球の強豪であり、身体も大きく、運動神経も抜群だったパクは野球部の後援会のおじさんにスカウトされ野球を始めることになる。

経済的に厳しかった為か運動よりも勉学に励んでもらいたい両親には反対されるが、中学に入ったら勉強に専念するという約束で4年生から野球部の練習に参加。5年生になると2番サードのというレギュラーの座をつかむ。6年生になると、1番サード。全国大会春季大会では優勝、秋季大会では準優勝という輝かしい記録を手にする。勉強の成績が落ちこみ、さらに両親との約束もあったため悩みに悩んだが、結局、当時の韓国でプロ野球の人気が非常に高くなっていたこともあり、野球をやるとついに決心した。

中学に入ってもポジションはサードだったが、2年生の終り頃からピッチャーの練習を始める。そして、3年生から本格的にピッチャーへコンバート。当時は、度胸がなくて自身なさげなピッチングをすると言われていた。事実、高校くらいまではとても内省的な少年だったそうだ。これを矯正しようと自分なりに考えた結果、ガールフレンドと付き合おうとしたが失敗に終わった。次に考えたことは、度胸をつけるために夜に1人で墓地まで行って、そこで毎日素振りとシャドーピッチングをすることだ。とにかくこのパクは練習(特に個人練習)はよくしていたらしい。さらに3年生の時に全国大会に出られなかったことが、さらに練習を熱心にするきっかけとなった。

高校進学後、周囲の先輩の熱心に練習する姿に更なる影響を受け、ますます個人練習に精を出す。特に力を入れたのがランニング等の足の訓練である。そのせいもあってか、2年生の時はエースとなる。漢陽大(出身大学)のスカウトが来たのもこの頃だ。

球界を代表する右腕に成長したパク。3年生の時は、チームの調子もよくなかったが、アメリカ,韓国,日本の3カ国青少年野球大会の代表に選ばれ、LAを訪問。チョ・ソンミンイム・ソンドンらかねてから有名だった選手らと出会う。この大会で活躍した後、韓国のプロ球団(ピングレ;現在は無い)からの誘いもあった。

高校卒業後、プロに行きたい気持ちが高まるが、そうなった場合、大学との約束を破ることになり、母親が強く反対する(実はお金の事もあったそうだ)。結局、漢陽大への進学の道を選ぶこととなる。

大学に入るなり、大ケガ(右ヒジ骨折)をして、パクは大きな挫折を味った。心機一転、さらに熱心にトレーニングを重ね、速球は152キロを記録した。そして、2年生の時、再び代表チーム入り。アジア大会で1勝3セーブの好成績をあげ、さらにユニバーシアードでは準優勝。この大会にはメジャーのスカウトがたくさん来ていた。

ユニバーシアードが終わって、まず韓国までパクをスカウトに来たのは、ブレーブスであった。続けて、ドジャース、ヤンキースもスカウトにやってきた。韓国人が多く住むロサンゼルスを本拠にするドジャースに絞るが、契約金や兵役問題もあり契約までは非常に難航した。結局120万ドル(日本円で1億円)で合意する。

しかし、大学との話合いが進まず、アメリカ行きがここでまたも難航した。やはりチームのエースを手放すことと、兵役問題が片付いていないこと、さらに数年後にはオリンピックを控えていたことも難航した原因だ。大学としては活躍が保証されていないアメリカに出すことはできない、ということだ。

毎年ローテーションを守るのはチームにとってはありがたい。代理人のスティーブ・キムが中心となり多数関係者との骨の折れる調整の上、ようやくアメリカ行きの道が開ける。留学生としてアメリカに渡り、シーズンオフには勉強をすることになった。フランク・ジョーブ博士が来韓し、ドジャースの身体検査を受ける。そして、1993年12月31日に渡米した。

ドジャースと正式なマイナー契約を結んだのは1994年1月14日のこと。その年の4月8日のブレーブス戦では早くもメジャーのマウンドを踏むことになる。こうしてパクは韓国人初のメジャーリーガーとなった。しかし、大きな壁にぶち当たり、2試合だけマウンドに登っただけで2Aへの降格を告げられる。結局この年はメジャーでわずか4イニングを投げただけに終わった。野茂英雄がメジャー挑戦する1年前の話である。

1995年のシーズン最後にようやくメジャー再昇格。そして3年目となる1996年は開幕からメジャーに入った。この年はおもにセットアップでの起用が目立ったが、108回2/3を投げ、119個もの三振を奪った。メジャー初勝利は4月6日のカブス戦のこと。先発ラモン・マルチネスをリリーフして4回を投げ、3安打7奪三振に抑えて、初白星を手にした。

1997年から先発ローテーションに入り、チームトップタイの14勝をマーク。1998年に15勝、1999年に13勝、2000年に18勝と毎年確実に成績を上げ、チーム内での信頼を築いていく。1999年には乱闘騒ぎを起こし、7日間の出場停止も食らったこともある。

コリアンエクスプレスと言われる剛速球を武器に、メジャーリーグを代表する右腕に成長したパク。英語も堪能で、最近では風格さえ出てきている。なお、1998年オフのアジア大会に出場し、見事韓国を優勝に導いたため、異例の兵役免除も手にした。

2001年オフ、ついにFA宣言。<スーツ事件>
新人への歓迎?である、よく服を隠されて扮装したままで移動させられるというヤツのこと。まだ10万ドル強の年俸だった頃、1300ドルの大枚をはたいて買った大切にしていたスーツを切られて半袖半ズボン状態になっているのを知らされた彼は、それまで約2年の間、チームメート達から見下されていたこともあり、怒鳴るわ椅子を投げるわのマジ切れ状態。マイク・ピアザがとりなす言葉も耳に入らず、怒りが収まることはなかったとのこと。後に自分よりもっとひどい事をされている人もいたし、彼らは楽しんで受け入れていたが自分にとってその洗礼で得たものは何もなかった。ずいぶん経ってから思い出しても気持ちが良いものではなく、これからもルーキーへのその伝統は続くけれど、その度に自分の気持ちがよくなくなる事は明らかだ、と自著に書いている。

当時のチーム内の彼に対する雰囲気も良くなかったみたいで、かなりイヤな思い出として残ってしまったそうだ。

<慈善活動について(1ウォン=1/10円→1億ウォン=1千万円)>

95年 母校 漢陽大に1億ウォン寄付
96年〜99年 三振1個につき100ドルを慈善団体へ助成金として寄付
97年 小、中、高の母校に1億ウォンの基金を奨学金として伝達
98年 水災被害者を助ける基金に1億ウォン伝達
99年 少年少女家長(親が失業して幼くして家長となっている子供達)の為の基金に1億ウォン助成
00年 欠食児童を助ける基金に1億ウォン助成

97年朴賛浩奨学会設立時、1億ウォンを助成し以後4年間に4億ウォンを積立。2000年12月3日、正式に、財団法人として朴賛浩奨学会が発足。過去、奨学会を作るという名目で大企業が脱税をしてきたこともあり、正式発足まで困難だったとのこと。

今オフ、韓国の大手クレジット会社の『国民カード』とCM契約。年間8億ウォンという韓国ではケタはずれ的な契約金で話題。うち1億ウォンは奨学会へ助成。

■2001.12.11(現地12.10)
●チーム削減問題、2003年まで凍結か!?
Major League Baseball
メジャーリーグに降りかかったチーム削減問題。選手会側とオーナー側の話し合いで、削減自体を2003年までに延期しようという話が急浮上してきた。削減予定の2チームの選手に関して、保証の問題などが時間の関係もありまとまらないことなどが原因である。正式決定ではないが、この線で落ち着きそうだ。

●ジオンビー、ヤンキースと7年1億2000万ドルで契約直前!
ジェイソン・ジオンビー
ヤンキースとの契約が目前とされるジェイソン・ジオンビーだが、ほぼ両者間で合意が得られていると伝えられた。その契約内容は7年間で1億1700万ドルから、1億2000万ドルの間という。1億2000万ドルとなると1年当たり1714万ドルであり、これは1年当たりではメジャーリーグ史上5番目の高額となる。ジオンビーの上には、アレックス・ロドリゲス(2520万ドル)、マニー・ラミレス(2000万ドル)、デレク・ジーター(1890万ドル)、サミー・ソーサ(1800万ドル)らがいる。ジオンビーの契約がまとまれば、他にFAとなっている外野手、ホアン・ゴンザレスモイゼス・アルーらにも影響を及ぼしそうだ。

●カブス、ブルージェイズからA・ゴンザレスを獲得!
アレックス・ゴンザレス
カブスはブル−ジェイズからアレックス・ゴンザレスをトレードで獲得した。交換相手は左投手のフェリックス・ヘレディアともう一人は後から発表される。ゴンザレスは、昨年のウインターミーティングで4年間の2000万ドルで契約を交わしている、28歳のショートストップである。カブスはFAとなったリッキー・ギタレスの代わりにショートで起用する予定だ。今季のゴンザレスは、打率.253、17HR、76打点、79得点を記録している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.036
JD・ドリュー★JD・ドリュー #7★ セントルイス・カージナルス

2001年のカージナルスは開幕から主砲のマーク・マグワイアの右膝の状態がおもわしくないため戦線離脱するなど不安要素があったが、新人のアルバート・プホルスの活躍に刺激される形で、ずっと伸び悩んでいた感のあるJD・ドリューが大爆発し、若手2人でチームを引っ張った。ドリューという眠れる獅子がついに大きな雄叫びをあげ、持ち前の長打力を発揮し始めたシーズンである。

2001年、ついにその才能が開花したドリュー。1975年、ジョージア州ハヒラで生まれた。高校時代にジャイアンツから20位指名を受けるが、それを拒否してフロリダ州立大学へ行ったドリューは、大学1年の頃から大活躍。2年生になるとアトランタオリンピックの代表メンバーに選抜される。結局、最終選考に漏れ、オリンピックではプレーができなかったが、これが発憤材料となり、3年生になると67試合に出場し、打率.455、31HR、100打点、32盗塁と大爆発。大学野球史上初となる「30−30」を達成した。

1997年のドラフトでは必然的に注目が集まったドリューは、全米2番目の指名権を持つフィリーズにドラフト1位指名される。この年の全米1番目のクリス・ベンソン(パイレーツ)の契約金が200万ドルだったため、フィリーズはそれをわずかに上回る205万ドルの提示を行った。しかし、この提示も代理人のスコット・ボラスが納得しなかった。

ちょうど前年のドラフトでトラビス・リーを始めとする4人の選手が、野球協約の「ドラフト指名から15日以内に条件提示がない場合、その選手はFAになる」という1点を利用し、指名後にFAとなり他球団と高額で契約するという問題が起こったばかりだった。これを楯に取り、ボラスは高額契約金を要求。これは受け入られないとわかるや、フィリーズが契約条件書を送ったのは、ドリューの両親がすむジョージア州で、ドリューのいるフロリダ州だということを挙げてまでFAであると訴えたが結果はノー。

「30−30」を達成するのもそう遠いことではないだろう。ドラフト問題は棚上げになったまま、ドリューは独立リーグのセントポール・セインツに入団。メジャーリーグ傘下ではないが、プロの組織に籍を置いた者はFAになるのだと主張し始めたが、前例を認めるとドラフトの意味そのものまで疑われる事態になることが予想されるため、慎重に扱わざるを得ない問題となった。セインツでのドリューは注目の的であり、熱狂的なフィリーズファンの嫌がらせなどもあったが、所々でその才能を見せつける。この年は44試合に出場し、打率.341に18HR、50打点を記録。翌1998年も30試合に出場し、打率.386、9HR、33打点をマークし、桁外れの実力を見せつけた。

こうして迎えた1998年ドラフト。全米1番目の指名権を持つフィリーズは、再びドリューを指名するかが注目された。しかし結局、ドリューの指名を避けパット・バールを指名。ドリューを指名したのは、全米5番目の指名権を持っていたカージナルスだった。ドリューは契約金300万ドルで契約を結んだ。

契約後、2Aアーカンサスで19試合(打率.328)、3Aメンフィスで26試合(打率.316)に出場しただけで、メジャーへ昇格。奇しくも昇格した日とはマーク・マグワイアがロジャー・マリスの記録を抜くシーズン62本目のホームランを打った試合だった。結局、メジャー1年目は、14試合に出場し、打率.417(36打数15安打)、5HR、13打点をマークした。チーム内でも当初は「金に汚い」と評判は悪かったが、実力の片鱗を見せると周囲も認め始めた。

1999年は開幕前から新人王のダントツ本命だった。しかしふたを開けてみれば、大きく期待を裏切ってしまった。104試合の出場で、打率.242、13HR、39打点に終わってしまい、新人王投票ではたったの1ポイントも入らなかった。しかし、非常に練習熱心なドリューを見て、いずれは「30−30」を記録するだろうという評価は依然として得ていた。翌2000年は、打率.295、18HR、57打点とつぼみが花を咲かせるにはさらにもう少しの時間を必要とした。

こうして迎えた2001年は、途中怪我で離脱したが、109試合の出場ながら打率.323、27HR、73打点と実力を発揮。今後更なる飛躍が期待される。

■2001.12.10(現地12.9)
●ウインターミーティング開幕!初日は大きな動きなし!
Major League Baseball
チーム削減問題に困惑のメジャーリーグだが、ウインターミーティングが始まった。今季はバリー・ボンズジェイソン・ジオンビーパク・チャンホホアン・ゴンザレスら大物FA選手の行き先が未だ決まらないでいる。今年のFA選手以外にも移籍候補として名前が挙がっているのが、ゲーリー・シェフィールドジャーメイン・ダイスコット・ローレンオマー・ビスケルジェフ・シリーロクリフ・フロイドラウル・モンデシーらであり、目が離せない。

昨年のウインターミーティングでは、初日にマイク・ハンプトンがロッキーズと8年間で1億2100万ドルという大型契約を結んだことが契機となり、アレックス・ロドリゲスがレンジャーズと10年間で2億5200万ドル、マニー・ラミレスがレッドソックスと8年間で1億6000万ドルという大型契約が相次いだ。しかし、今年の初日は何事もなく静かに終わった。嵐の前触れというところか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.035
トラビス・リー★トラビス・リー #16★ フィラデルフィア・フィリーズ

2001年開幕から好調をキープしたフィリーズ。前半戦最後の試合、2対4とリードされて迎えた最終回の攻撃、2アウト1塁3塁という場面で打席に立ったトラビス・リーは見事に値千金となる逆転3ランホームランを放った。この1発でフィリーズは前半戦の単独首位折り返しを決めた。リーはこの2日前にも延長戦で勝ち越しホームランを打っており、勝負強い打撃でチームを引っ張っている。

古巣ダイヤモンドバックス相手にこの一打。ワシントン州のオリンピアで生まれたリー。高校3年時に打率.603を記録し、チームを州のトーナメントまで導く大活躍。しかしそんなリーもこの時点では、メジャーからのドラフト指名はなく、有力大学から奨学金の提示すらなかった。ここでリーは自らのバッティングをビデオに収め、それを使って売り込みを図った。リーの才能を見込んだのはサンディエゴ州立大学の打撃コーチだった。こうして、リーはスターへの階段を登るきっかけをつかんだ。

サンディエゴ州立大学に進学したリーは順調に成長し、3年時には打率.416、17HR、57打点と抜群の安定感を見せた。1996年のアトランタオリンピックでは、アメリカ代表チームの4番に座ったリーには、メジャーのスカウトも当然のように注目する。

この年のドラフトではツインズから1位指名(全米2番目)を受けたが、野球協約の「ドラフト指名から15日以内に条件提示がない場合、その選手はFAになる」という1点を利用し、自らFAを宣言。結局これが認められ、1998年からメジャーリーグに加盟するダイヤモンドバックスと4年間で1000万ドルという破格の金額で契約を結び、大きな話題となった。

1997年はブリュワーズ傘下の1Aと3Aの2つのクラスでプレー。2つのクラス両方で3割を超える打率を記録し、ホームランも合わせて32本も放ち、メジャー昇格前に高い潜在能力を発揮した。

チームメイトに迎えられるリー。1998年、ダイヤモンドバックス創立と同時にメジャーデビューを果たした。そのデビュー戦でリーは3番ファーストで先発し、初打席でヒットを放ち、盗塁も決める。さらに第3打席にはホームランを放ち、球団の初ヒット、初ホームラン、初得点、初盗塁を全てこのルーキーが記録したことになる。順調なデビューを飾ったリーだが、後半戦は故障もあり調子を崩し、記念すべきメジャー1年目は打率.269、22HR、72打点という成績に終わったが、翌年以降の飛躍を十二分に期待させた。

しかし1999年は、プレーそのものに精彩を欠いた。終わってみれば、わずか120試合の出場で打率.237、9HR、50打点という成績である。同じく若手のエルビエル・デュラゾの台頭もあり、本来のポジションであるファーストから慣れないライトへ回されたことも原因としてあげられるだろうが、周囲も予想外の成績下落だった。

翌2000年はトニー・ウォーマックをライトからショートに回したことから、本格的にライトに回ることになったリー。再起をかけたシーズンも前年同様スランプに苦しみ、7月26日には1対4のトレードでフィリーズに移ることになってしまった。交換相手とはカート・シリングで、リーと共にフィリーズ入りするのはオマー・ダールビンセント・パディラネルソン・フィゲロアである。

ダイヤモンドバックス誕生と共にデビューし、ダイヤモンドバックスを背負っていくかと思われた若者だったが、チームがランディ・ジョンソンマット・ウイリアムスジェイ・ベルルイス・ゴンザレスなど30代半ばの選手を多く抱えているため、若者の成長を悠長に見守る暇はなかったのである。

2001年はフィリーズのファーストに定着。157試合に出場し、打率.258、20HR、90打点を記録。本来の潜在能力からすればこれ以上の成績を挙げることは十分に可能だ。要所要所で勝負強い打撃を見せるリーのバットが、フィリーズをポストシーズンへ導く日もそう遠くはないだろう。

■2001.12.9(現地12.8)
●ブレーブス、キャスティーヤを獲得!チッパーをレフトへコンバート!
ビニー・キャスティーヤ
ブレーブスはFAになっていたビニー・キャスティーヤを2年間800万ドルで契約した。現在34歳のキャスティーヤだが、1990年にブレーブスと契約し、プロ生活を始めたという因縁の球団である。結局、1992年の拡張ドラフトでロッキーズに指名され、その後は強打ロッキーズ打線の一役を担った。2000年にデビルレイズに移籍に、シーズン途中にアストロズへ移籍していた。

キャスティーヤのポジションはサードであるため、これまでサードとして5度のオールスター出場を果たしているチッパー・ジョーンズをレフトへコンバートすることになりそうだ。このため、レフトのBJ・サーホフはファーストにコンバートするか、移籍ということになる。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.034
バーニー・ウイリアムス★バーニー・ウイリアムス #51★ ニューヨーク・ヤンキース

<written by ぼお>

いまやヤンキースの不動の中軸バッターになったバーニー・ウィリアムスは、1968年にアメリカ領のプエルトリコに生まれた。1985年にヤンキースとドラフト外で契約し、そのキャリアをスタートさせることになる。

ヤンキース王国の4番に座るウイリアムス。ウィリアムスの多才さはメジャーリーグでも有名である。有名なものとしては走ることとギターの腕前が挙げられる。走ることでは15歳の頃に陸上競技の国際大会で4個の金メダルを獲得するほどの活躍を見せており、ギターの腕前も、野球の選手になるか、ミュージシャンになるかを悩ませたというほどである。陽気に踊っているホアン・ゴンザレスをレンジャーズのスカウトは選び、ヤンキースのスカウトは物静かにギターを弾いているウィリアムスを選んだという逸話からもその巧さがうかがえる。

ウィリアムスがメジャーデビューを果たしたのは1991年になるのだが、このころはまだパワーが不足していた。打順は今では考えられない1、2番を打っており、デビューからしばらくは、3割を打つことができなかった。しかし、このころから守備は華麗なものがあり、ポジションをしっかりと、確保することになる。彼が打撃に目覚めたのはヤンキースが久しぶりにプレーオフに出場した1995年からで、この年初めて打率3割を打った。このころからパワーもつき始め毎年25本前後のホームランを期待できる中心打者に成長する。

堅実な守備でチームを引っ張る。またスイッチヒッターの彼はどちらの打席からでも穴がなく、今シーズンはチームメイトのホルヘ・ポサダとともに、史上初めて同チームの2人が両打席でホームランを放つという記録を作った。打率のほうは今年は父親の死も影響し、開幕のころは2割にもとどかずファンを心配させたが、終わってみればきっちり3割を打ち、これで初めて3割を打った1995年から数えて、7年連続で3割をクリアしたことになる。

イチローも尊敬しているというウィリアムスだが、イチローとは意外と因縁が多く、1998年オフ、ウィリアムスがFAになったとき、もしウィリアムスがチームを離れることになった場合に補填する選手のリストにイチローはあげられていたし、今年イチローの代名詞になっていた得点圏打率も、ウィリアムスの方が上だった。

さらに1997年から4年連続でとっていたゴールドグラブ賞もイチローに奪われたといえるかもしれない。1998年に首位打者になったウィリアムスだが、来シーズンは首位打者争いにも加わってくるだろう。今年はイチローとランディ・ジョンソンとの51番対決だったが、来年はイチローとウィリアムスとの51番対決を繰り広げてくれることだろう。

■2001.12.8(現地12.7)
●ニューヨーク同士のトレード成立!ジャスティスとベンチュラ!
ロビン・ベンチュラデビッド・ジャスティス
ニューヨークに本拠を構えるヤンキースとメッツの間でトレードがまとまった。デビッド・ジャスティス外野手とロビン・ベンチュラ三塁手の交換で、両チームの思惑が一致したトレードとなった。この両チーム間のトレードというのは、1992年以来というもので、メッツが創立された1962年から数えれば、6度目ということになる。

35歳のジャスティスは、過去ブレーブス、インディアンズ、ヤンキースで計10回もプレーオフを経験しており、マイク・ピアザを生かす左の大砲として期待されている。2000年にはインディアンズとヤンキースの両チームで合わせて、キャリア最高の41本のホームランを放った。今季は右足の股関節を痛め、2度も故障者リストに入るなどし、打率.241、18HR、51打点に終わっている。一方のベンチュラはスコット・ブローシャスの抜けたサードに入ることになりそうだ。両選手とも来季オフにはFAとなる。

ジェイソン・ジオンビー獲得まで秒読み段階とされているヤンキースは、スティーブ・カーセイと4年間の2225万ドルで契約をまとめた。なお、5年目はオプションとなる。

●アスレティックス、若きクローザー、コッチを獲得!
ビリー・コッチ
クローザーを失うことが確実となったアスレティックスは、2人のマイナーリーガーと交換でブルージェイズからビリー・コッチを獲得した。コッチは今季44試合に登板し、2勝5敗の36セーブをマークし、メジャーデビューしてからここまでの3年間で、11勝13敗の100セーブという通算成績を26歳の若さで達成している。

代わりにブルージェイズに行くことになったマイナーリーガーとは、エリック・ヒンスキー三塁手とジャスティン・ミラー投手の2人である。今季3Aで打率.282、25HR、79打点を記録しているヒンスキーだが、アスレティックスのサードにはエリック・チャベスがいるため出番がない。一方のミラーは、同じく3Aで7勝10敗の防御率4.75を記録している。共に24歳の期待の有望株である。

●イズリングハウゼン、カージナルス入りがほぼ確実へ!
ジェイソン・イズリングハウゼン
アスレティックスからFAになっているジェイソン・イズリングハウゼンが、移籍先にカージナルスを選ぶことがほぼ確実となった。4年間で2700万ドルという契約内容であり、カージナルスでは当然クローザーをつとめることになる。イズリングハウゼンは、1999年途中にメッツからアスレティックスに移籍してきた。ここ2年間で、合わせて67セーブを記録している。

●FAのロペス、結局ブレーブスへ残留の方向へ!
ハビア・ロペス
ブレーブスは正捕手のハビア・ロペスと600万ドルで1年間、契約を延長した。なお、2003年は選手サイドに選択権のあるオプションとなる。ロペスは今季は打率.267とメジャーで初めてフルタイム出場した1995年以来、最低の成績に終わった。あくまでも本人はプロ生活をスタートさせたブレーブスに愛着を持っており、残留という希望が叶えられた形となった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.033
ゲーリー・シェフィールド★ゲーリー・シェフィールド #10★ ロサンゼルス・ドジャース

2001年のゲーリー・シェフィールドは自らの移籍志願で始まった。ほぼ移籍確実なところまで行ったが、結局は残留を決意。そしてドジャースの一員として、4月3日の開幕戦(対ブリュワーズ戦)で、貴重なホームランを放った。先発パク・チャンホの好投もあり、1対0と辛勝勝ちし幸先のいいスタートを切ることになる。

注目なのは四球の多さであるシェフィールド。シェフィールドは1968年、フロリダ州タンパで生まれた。4歳年上の甥としてドワイド・グッデンがおり、2人は子供の頃からの遊び友達だった。ヒルズボロー高校を経て、1986年にブリュワーズのドラフト1位(全米6番目)を受け、プロ入りを果たす。

1986年のルーキーリーグに参加。57試合に出場して、打率.365をマークし、プロとしての第1歩目を踏み出す。当時のシェフィールドははショートを守っており、初めてメジャーに昇格した1988年にもショートとしてのデビューだった。翌89年途中からサードにコンバートするが、怪我などにより安定した成績を残せずに、1991年オフにはパドレスへ移籍することになる。

移籍1年目の1992年、打率.330を記録して首位打者を獲得。ホームラン数も33本に、打点も100点を記録し、初めて大台に乗せた。そして翌1993年6月25日に創立1年目のマーリンズに移籍することになる。この年のオールスターゲームでは、ナショナルリーグの3番打者として先発し、初回にいきなり2ランホームランをかっ飛ばした。

1994年からは打撃をより生かすために外野手に転向する事になるが、怪我に泣いたシーズンとなった。しかし、87試合のみの出場ながら打率.276、27HR、78打点を記録と潜在力の高さを見せる。翌1995年も同じく怪我に泣き、わずか63試合の出場に終わったが、その中で打率.324、16HR、46打点をマークするなど、仮にシーズンフル出場するとなると十分にクリーンアップを任せられるだけの数字を残していることになる。

移籍の可能性も十分にある。2年連続の怪我に泣いたシェフィールド。こうして迎えた1996年は怪我なく161試合に出場。打率.314、42HR、120打点と素晴らしい成績を残した。ホームランと打点は自己最多であり、球団記録でもあった。しかし、翌1997年は、左手の親指を痛めたことから成績が激減。打率.250を始めとして、21HR、71打点という散々な成績に終わった。絶不調なシェフィールドだったが、チームはワイルドカードの座を手にし、ポストシーズンへの進出を果たす。シェフィールドにとっては初めてのプレーオフである。

ジャイアンツとのディビジョンシリーズでは、3試合で9打数5安打という大当たりを見せ、チームを引っ張った。この勢いでマーリンズは創立5年目のチームとして世界一の名誉を手にすることになる。結局、シェフィールドはポストシーズントータルで、50打数16安打をマークし、ホームランも3本打った。ポストシーズン記録となる20四球で、チームに大きく貢献したことになる。

1998年5月15日、チームの財政難から前年の世界一に貢献したボビー・ボニーヤチャールズ・ジョンソンと共にドジャースへトレードされる。交換相手にはマイク・ピアザトッド・ジールがいるという超大型トレードだった。シェフィールドはドジャースの主砲としての活躍が期待されたが、8月末に足首を痛め戦線離脱してしまった。

1999年は152試合に出場し、自身3度目の3割、30本、100打点(打率.301、34HR、101打点)をマーク。加えて100四球と打撃4部門で大台突破というのは球団史上44年ぶりの快挙であった。9月以降の25試合で12本のホームランという固め打ちが光った。そして2000年も開幕から好調で8月まではホームラン争いのトップを走る。終盤失速したが、打った43本のホームランというのはデューク・スナイダーの持っている球団記録に並ぶものである(翌年、ショーン・グリーンが抜さらに塗り替えることになる)。

若い頃は気性が激しく、乱闘で出場停止になることもたびたびあった。オフには銃で狙撃されるなどとトラブル続きだったが、徐々に落ち着き、今ではチームの中心としてチームメイトから助言を求められることもあるくらいだ。

構えたときにバットを振り回すことで知られるシェフィールドだが、内角球の裁き方は絶品で、バットコントロールとスイングスピードは折り紙付きである。精神的にも一回り大きくなったシェフィールドを、再びワールドシリーズの舞台で見ることもそう遠いことではないのかもしれない。

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