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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2001.12.3〜12.7★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2001.12.7(現地12.6)
●アンダーソン、インディアンズと1年契約!
ブラディ・アンダーソン
オリオールズを解雇されたブラディ・アンダーソンが、インディアンズと1年契約を結んだ。なお、来年1月に38歳となる2003年と04年は球団のオプションとなる。14年間もオリオールズ一筋にやってきたアンダーソンだったが、今季は打率.202に終わったこともあり、解雇という憂き目にあった。1996年には1番打者として、シーズン50本のホームランを記録したこともあり、さらに過去3度もオールスターに出場しているアンダーソンは常にセンターを守っていたが、インディアンズでは若いミルトン・ブラッドレーがいるため、レフトを守ることになりそうだ。

●ドジャース、22歳と若きサード、ベルトレイと1年契約延長!
エイドリアン・ベルトレイ
ドジャースは22歳のエイドリアン・ベルトレイと年俸230万ドルで1年間、契約を延長した。今季は開幕から故障者リストに入っていたこともあり、戦線に戻ってきたのが5月12日のことである。126試合に出場し、打率.265、13HR、60打点に終わったが、キャリア最高の17試合連続ヒットも記録した。3年半のメジャー生活で通算打率.270、55HR、234打点を記録している。

●ユーティリティ選手、マクレモアがマリナーズと2年契約延長!
Seattle MARINERS
内外野を守れるユーティリティ選手としてマリナーズの地区優勝に貢献したマーク・マクレモアが、マリナーズと2年契約を交わした。レフトにサード、ショート、セカンド、センター、ライトの6つのポジションを守り、打撃成績も1996年以来最高の打率.286をはじめとして、57得点39盗塁はキャリア最高記録である。シーズン116勝を記録しながら、ワールドチャンピオンになれなかったマリナーズの一員として、雪辱にかける。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.032
ティノ・マルチネス★ティノ・マルチネス #24★ ニューヨーク・ヤンキース

2001年ワールドシリーズ、ヤンキースの1勝2敗で迎えた第4戦、ダイヤモンドバックスに1対3とリードされ、すでに9回裏2アウトとなっていた。ここで打席に立ったのがティノ・マルチネスである。この場面でマルチネスは、クローザーのキム・ビョンヒョンから同点となる2ランホームランを放った。この1発で同点としたヤンキースは延長10回裏、デレク・ジーターにサヨナラホームランが飛び出し、貴重な価値を拾うことになる。それだけ価値のあるマルチネスのホームランだった。

2002年はどこのユニフォームを着ることになるのか。1967年、フロリダ州タンパで生まれたマルチネス。この地はリゾート地としても知られているが、多くのメジャーリーガーを輩出したことでも有名である。古くはドワイド・グッデンスティーブ・ガービールー・ピネラらを輩出し、マルチネスもその系譜に入ることになる。ジェファーソン高校ではルイス・ゴンザレスとチームメイトで共に活躍する。このゴンザレスとは大の仲良しで、後に2001年のワールドシリーズで顔を合わせることになるとは、この当時は予想だにしなかった。

タンパ大学に進学したマルチネスは、大学在籍時に打率.398、54HR、222打点という通算記録を樹立し、これは未だに大学の記録として残っている。そして1988年、ドラフトでマリナーズにドラフト1位(全米14番目)で指名を受ける。その後に行われたソウルオリンピックのアメリカ代表チームに選出され、決勝の日本戦では2本のホームランを放ち、チームに金メダルをもたらした。そしてその後、プロ入りを決めた。

初めてメジャー昇格を果たしたのは1990年のこと。メジャーの大きな壁に跳ね返されることもあったが、1990年、91年と3Aで2年連続打率3割を記録し、メジャーリーガーとしての実力を蓄えていった。1992年以降はメジャーに定着した。時折見せるパワーは素晴らしいが、安定感に欠けるという評価を得ていたマルチネスだった。

マッティングリーの後釜としてヤンキースのファーストを守る。1995年、チームの主力だったケン・グリフィー・ジュニアが怪我で途中離脱というトラブルはあったが、ランディー・ジョンソンらの活躍もあり、球団史上初のポストシーズンへの進出を決めた。シーズンでは、打率.293、31HR、111打点を記録し、大きな飛躍を遂げ、さらにポストシーズンにおけるヤンキースとのディビジョンシリーズでは打率.409を記録し、チームを引っ張った。そして、この年のオフにジェフ・ネルソンらとのトレードでヤンキース入りとなった。

1995年のオフで引退が噂されるドン・マッティングリーに代わるファーストとして活躍が期待された。1996年のシーズンが始まっても、マッティングリーの復活を求める声も多くあり、開幕直後の4月は打率.244と苦しんだ。しかし徐々に結果を出し始めたマルチネスは、このシーズン155試合に出場し、打率.292、25HR、117打点を記録。マッティングリーの後継者として、周囲に認めさせつつあった。ポストシーズンではあまり打つことはできなかったが、初めての世界一も経験した。

移籍2年目となる1997年は開幕から大爆発を起こすことになる。4月に1試合3ホームラン含む9ホームランを放つなど、月間34打点という当時のメジャー記録を樹立。開幕30試合で、史上2人目の記録となる12HR、40打点をマークし、誰もが認めるヤンキースの主砲となった。7月末の段階ではホームランと打点の2つの部門でリーグトップに立っていた。最終的にはグリフィーに抜かれ、共にリーグ2位となるが、打率.296、44HR、141打点という数字を残し、全ての数字がキャリア最高の数字を残した。

翌1998年は、打率.281、28HR、123打点と数字を落とすが、パドレスとのワールドシリーズ第1戦では、2対5と劣勢で迎えた7回裏、チャック・ノブロックの同点3ランホームランが飛び出した後、マルチネスが勝ち越しとだめ押しを決める満塁ホームランを放ち、勝負を決めた。ここから始まるヤンキース3年連続世界一の警報となる1発となった。

1997年以降は徐々に数字を落としていったものの、軽快な守備と勝負強い打撃でチームを引っ張った。2001年は打率.280、34HR、113打点を記録し、打棒復活の兆しを見せる。オフにはFA宣言し、ヤンキースのピンストライプを着るのは2001年限りとなる。

■2001.12.6(現地12.5)
●セリグ、明日公聴会に参加!チーム削減の必要性訴える!
Major League Baseball
コミッショナーのバド・セリグが連邦議会に参加し、チーム削減の必要性について訴える。今季、ブルージェイズの5290万ドルの損失をトップとして、全体で2億3200万ドルの損失があると報じられた。創立4年目で世界一になったダイヤモンドバックスも例外ではなく、3220万ドルの赤字でこれはブルージェイズ、エンゼルス(4530万ドル)に次ぐ3番目である。全30球団で黒字だったのはわずか5球団のみで、ヤンキース、マリナーズ、カブス、ロイヤルズ、ブリュワーズである。球団の資産価値の低下もあわせると、トータルで5億1900万ドルもの赤字となる。

●マーリンズ、エクスポズへ買収される方向へ!
Montreal EXPOS
メジャーリーグは、マーリンズのオーナーであるジョン・ヘンリーに、エクスポズへ売却してもいいという許可を与えた。近いうちに行われるであろうオーナー会議で、75パーセント以上の合意が得られれば確定することになるがこれはさほど難しい問題ではない。削減が噂されているエクスポズも、オーナーのジェフリー・ローリアにとってみれば、所有するチームが変わるということである。ローリアはエクスポズを代表するブラディミール・ゲレーロ外野手、ハビア・バスケス投手の2人と共にマーリンズ入りしたいと考えているが、これには問題が山積みだ。

●カーセイ、4年契約でヤンキース入り目前!
New York YANKEES
ヤンキースはブレーブスからFAになっていたスティーブ・カーセイを4年間の約2100万ドルで契約をまとめそうだ。カーセイはニューヨークでのフィジカルチェック後、問題がなければ正式契約となる。29歳の右腕カーセイは、今季インディアンズで開幕を迎え、31試合に投げ、0勝1敗1セーブという成績をあげた後、6月22日にブレーブスへ移籍。移籍後は43試合に登板し、3勝4敗という成績でセットアッパーとして活躍した。

●ホワイトソックス、クローザーのフォークと2年契約延長!
Chicago WHITE SOX
ホワイトソックスは、来季後にFAとなるクローザー、キース・フォークと2年間の1200万ドルで契約を交わした。今季の年俸が310万ドルだったフォークは今季、45回のセーブ機会での登板で、45個のセーブを記録している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.031
ロベルト・アロマー★ロベルト・アロマー #12★ クリーブランド・インディアンズ

父(サンディー・アロマー・シニア)がメジャーリーガー、兄(サンディー・アロマー・ジュニア)もメジャーリーガーという野球一家に育ったロベルト・アロマー。33歳となった2001年もインディアンズのセカンドを守り、打撃に守備に大活躍した。首位打者争いに絡む打撃を見せ、リーグ3位の打率.336をマークし、守備でも10度目のゴールドグラブ賞を獲得した。

攻守でチームを引っ張るアロマー。プエルトリコで生まれたアロマー。父親の影響で当然のように野球を始める。父に加え、3人の叔父もメジャーリーグに所属していることもあり、アロマー家の子供たちには必然的に注目が集まった。学校が休みになると家族で父に同行し、メジャーリーグの各球場を遊び場にアロマー兄弟は走り回った。後のスーパースター、バリー・ボンズとも遊び仲間だった。リトルリーグに入って野球を始めると、内外野のほとんど全てのポジションを守った。その中でアロマーが好んで守ったのが、父と同じセカンドである。

17歳になったばかりの1985年、パドレスとマイナー契約を結び、プロの世界に足を踏み入れた。後年守備で名を挙げるアロマーも、この頃は守備で苦労した。契約したばかりの1年目は、1Aで137試合に出場し、打率.293をマークしたが、守備では35個のエラーを犯し、これはセカンドとしてリーグ最多記録。言葉の壁もあり、苦しい時期ではあったが、メジャーリーガーになるという強い意志の上で練習を重ねた。

翌86年は打率.346と打撃面で素晴らしい活躍をみせ、さらに守備では前年の半分の18個にまで減らした。俊敏な動きに強い肩と、生まれ持った才能を発揮する一面を見せるが、平凡なゴロをミスするなどのポカが目立っていた。

翌年も2Aで打率.319を記録したアロマーは、1988年のメジャーリーグのスプリングキャンプに呼ばれる。開幕メジャーこそ逃したが、4月22日にはメジャーへ初昇格。その後、2度とマイナーで野球することはなかった。父が3塁コーチをつとめる中、メジャーデビュー戦の相手はアストロズで、マウンドにはノーラン・ライアンがいた。ライアンはその昔、父とチームメイトだったこともあり、この対決には非常に戸惑ったという。結果はアロマーの3塁強襲ヒットだった。

セカンドのレギュラーを手中に収めたアロマーだが、メジャー3年目となる1990年にショートへコンバート。愛着あるセカンドへの復帰を嘆願したが、受け入れてもらえず、シーズン終了後にはブルージェイズに移籍することが決まった。交換相手はトニー・フェルナンデスフレッド・マグリフで、アロマーと共にブルージェイズに行くことになるのが前年にアロマーの兄との交換相手でパドレス入りしたばかりのジョー・カーターだった。ちなみにアロマーと兄とは1988年、89年の2年間パドレスの一員として一緒にプレーしているが、兄は2年で計8試合(88年1試合、89年7試合)に出場したのみでほとんどはマイナーだった。

スイッチヒッターになったのも父の影響。ブルージェイズに移籍しての1年目から大活躍を見せ、この年トロントのスカイドームで行われたオールスターゲームにファン投票で選出。ちょうど前年、ホワイトソックスに移り正捕手の座を獲得したばかりの兄もファン投票で選出され、兄弟が揃ってオールスターのスタメンに名を連ねる快挙もあった。この年は、因縁あるライアンの7度目のノーヒッターの最後の打者になるということもあったが、移籍は大成功だった。オフにジャック・モリスデーブ・ウインフィールドを獲得し、チームとしての狙いも世界一に定まった。

翌92年は開幕から絶好調で、打率.310、8HR、76打点、49盗塁を記録した。チームも順当に勝ち進み、ブレーブスとのワールドシリーズでも勝利を収め、カナダに本拠を置くチームの初めての世界一に貢献した。この年も兄弟揃ってオールスターに出場。奇しくも場所は2人にとって想い出のサンディエゴだった。さらに93年にもフィリーズを敗り、世界一に輝く。父も為し得なかった世界一の座に2年連続して輝いた。

ブルージェイズに在籍していたアロマーは、本拠地スカイドーム内のホテルに住居を構えていた。球場がすぐ近く(?)て、トレーニング機器などの環境も揃っていることから、アロマーにとっては全く問題はなかった。元来真面目な性格であるアロマーは黙々とトレーニングをこなした。

ストライキでシーズンが途中で中断された1994年を境に、チームが主力選手を放出するという方針に不満をぶちつける。結局、1995年オフにFA宣言し、オリオールズを選んだ。この時のオリオールズには連続試合出場を続けるカル・リプケン・ジュニアがおり、2人で二遊間コンビを組めることにアロマーは喜びをいっぱいに表現した。

スター街道を歩いていたアロマーに暗雲が立ちこめたのは、96年9月27日のブルージェイズ戦だった。初回にフルカウントから見送った球をストライクと判定され抗議。一度は引き下がったが、アンパイアがいきなり退場を宣告。これで再び猛抗議し、アンパイア側からラテン系に対する人種差別発言もあり、怒りが頂点に達したアロマーは唾をかけるという愚行を犯してしまった。これにより翌年の開幕5試合、出場停止となった。

これ以降、各地でブーイングを浴びることになったアロマーだが、1998年からFAでインディアンズに移籍することが決定。この年のオールスターではMVPを獲得し、前年は兄がオールスターでMVPを獲得しているため、兄弟で2年連続MVPに輝く快挙を見せた。そして、1999年から兄もFAでインディアンズ入り。再びクリーブランドの地で同じユニフォームに袖を通すことになった(2001年から兄はホワイトソックス)。

インディアンズではショートを守るオマー・ビスケルと二遊間のコンビを組むことになった。毎試合、好プレーを見せる2人は注目の的で、多くのファンを魅了した。2001年、セカンドとして10度目のゴールドグラブ賞を獲得し、ライン・サンドバーグの持っていた9回受賞の記録を塗り替えた。

■2001.12.5(現地12.4)
●コルドバ、オリオールズと3年910万ドルで契約!
マーティ・コルドバ
FAになっていたマーティ・コルドバはオリオールズと3年間の910万ドルで契約を結んだ。これにより解雇されたブラディ・アンダーソンの代わりにオリオールズの外野の一角を守ることになりそうだ。ツインズに在籍していた1995年に新人王を獲得したコルドバは、その後伸び悩むが、インディアンズに移った今季、122試合に出場し、打率.301、20HR、69打点を記録し、さらにリーグ2位となる22試合連続ヒットもマークした。現在、32歳のコルドバはオリオールズに勝利をもたらすことができるか。

●カブス、デシールズと1年契約延長!再びセカンドを守るかも!
デライノ・デシールズ
7月2日にオリオールズから解雇され、7月7日にカブスに拾われる形で入団したデライノ・デシールズが1年間、契約を延長した。今季32歳のデシールズは、代打として打率.438(うち1HR、2打点)を記録した。昨年からレフトを守ることが大半になったデシールズも、FAになっているエリック・ヤングの動向次第ではセカンドを再び守ることになりそうだ。すでにデシールズはセカンドとして1351試合に出場している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.030
モイゼス・アルー★モイゼス・アルー #18★ ヒューストン・アストロズ

2001年6月22日から始まった連続試合ヒットは、オールスターゲームを挟んで7月18日まで続いた。23試合連続ヒットを記録したモイゼス・アルーは、球団記録の24試合(トニー・ユーセイビオ・2000年)連続ヒットに1試合足りなかったが、チームを勢いづかせるのに十分な働きを見せた。アルーはこの年、4月から5月にかけてイチローが記録した23試合連続ヒットという記録に並んだことになる。

2002年はどこのチームへ行くことになるのか。父親が元メジャーリーガーで、後に監督をつとめるフェリペ・アルーで、2人の伯父もメジャーリーガーという野球一家に生まれたアルー。周囲も注目するサラブレッドのアルーは、1986年にパイレーツからドラフト1位指名(全米2番目)を受けて、プロ入りを果たす。

1990年、メジャーに昇格してからわずか2試合に出場しただけで、父フェリペがいたエクスポズへのトレードが決まる。91年は怪我で1年間を棒に振ってしまうが、92年からメジャーに定着。この年から父が監督に就任し、親子で監督と選手という関係が大きな話題になった。1994年はシーズン途中でストライキが起こり、途中でシーズン打ち切りとなったが、この親子のいたエクスポズは地区首位のままシーズンを終える結果となった。ちなみにこの年のオールスターゲームに初出場を果たした息子アルーはサヨナラ2塁打を放ち、父フェリペも最優秀監督賞を手にした。

1995年は怪我でわずか93試合の出場に終わる。この年のオフに両肩を手術し、迎えた1996年は143試合に出場し、打率.281、21HR、96打点を記録。怪我からの再起を見せたわけだが、オフにFAとなったアルーはマーリンズへの移籍を決めた。こうして、父フェリペと同じユニフォームを着るのはこの年までとなった。

1997年にアルーがプレーすることになったマーリンズは、まだ創立5年目の新興チーム。FAなどの大型補強でアルーやゲーリー・シェフィールドボビー・ボニーヤチャールズ・ジョンソンが打線の軸を形成し、ケビン・ブラウンアレックス・フェルナンデスアル・ライターに加え、2年前にキューバから亡命してきたリバン・ヘルナンデスらが先発に名を連ねていた。アルーはこの中で打率.292を記録し、ホームランと打点はチームトップ(23HR、115打点)を記録した。シーズンではブレーブスに9ゲームをつけられての2位だったが、ワイルドカードとしてポストシーズンに進出を果たす。

1997年、マーリンズ世界一に貢献。アルーにとって、初めてのポストシーズンだったが、ジャイアンツとのディビジョンシリーズでは打率.214、ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズではわずかヒット1本しか打てなかったが、チームは初めてのワールドシリーズ進出を果たした。

しかし、インディアンズとのワールドシリーズ第1戦では、1対1の同点で迎えた4回裏、それまで苦手としていたオーレル・ハーシハイザーから3ランホームランを放ち、ハーシハイザーをマウンドから引き吊りおろす大活躍。そして2勝2敗で迎えた第5戦は、2対4と2点ビハインドされた場面から、第1戦と同じハーシハイザーから逆転となる3ランホームランを放ち、チームの勝利に貢献した。このシリーズは第7戦までもつれ込む熱戦となったが、その中でアルーの勝負強さは十分な光を放っていた。こうして新興チームのマーリンズは、ワイルドカードとして初めての世界一の名誉を手にすることになった。

5年間で2500万ドルという長期契約を結んでいたアルーだが、チームの経営難からアストロズへ移籍する事になってしまう。移籍した1998年は打率.312、38HR、124打点と文句ない成績を挙げる。ホームランと打点はいずれもキャリア最多記録である。MVP投票でも、この年ホームラン争いで沸かせたサミー・ソーサマーク・マグワイアに次ぐ第3位に付けるという活躍ぶりである。しかし、9月は1本もホームランが出ず、スタミナ面での課題が残った。

更なる飛躍が期待された1999年だったが、シーズン前に左膝の靱帯を痛めてしまい手術することになってしまう。結局、そのシーズンは1年まるまる棒に振ることになってしまった。復活した2000年シーズンは、126試合に出場にとどまったが、キャリア最高打率となる.355をマークし、復活を大きくアピールした。

34歳で開幕を迎えた2001年、アルーはチームトップの打率.331をマーク。27HRの108打点を記録し、変わらぬ勝負強さを発揮した。ポストシーズンではその勝負強さを発揮できなかったが、満を持してFAとなったオフ、来年35歳になるアルーに対し、多くの球団が声をかけている。この年の途中でチーム不振の責任をとる形でエクスポズ監督を解任された父フェリペをベンチコーチに迎えようとしている球団すらある。

■2001.12.4(現地12.3)
●ジョンソン、FAではなくマーリンズ残留へ!
チャールズ・ジョンソン
チーム削減の候補の一つに挙げられているマーリンズは、正捕手のチャールズ・ジョンソンをFAで失うことがなくなった。1年前にマーリンズと5年間で3500万ドルの契約を結んでいたものの、2001年シーズン終了までに新球場建設の話がまとまらなければ、FAになるという契約条項が含まれていた。チームの不透明な行き先もあるが、ジョンソンにとっては故郷であるフロリダ州で引き続きプレーしたいという気持ちが強いらしい。

なお、ジョンソンは1997年のマーリンズの世界一に貢献後、財政難からドジャースへ放出される。いくつかのチームを渡り歩き、今季から戻ってきたばかりである。今季は打率.259、18HR、75打点と自己最低の数字になった。特に最後の52試合では、わずか1本のホームランしか打てなかった。とはいえ、捕手としての能力は非常に高いものがある。

●41歳フランコ、左肘にメス!開幕に間に合うか!
ジョン・フランコ
41歳でありながら貴重なメッツのセットアップを務めるジョン・フランコが左肘にメスを入れた。わずか20分の手術だったが、これによりフランコを悩ませていた痛みから解放されるのならメッツとしては心強い。今季のフランコは、クローザーのアーマンド・ベニテスにつなぐ8回を投げる投手として58試合に登板し、6勝2敗の防御率4.05という数字を残している。GMのスティーブ・フィリップスは開幕までには合わせろと話している。

●ハウ監督、ジオンビーにオークランド残留のすすめ!
Oakland ATHLETICS
今季のFAの注目株であるジェイソン・ジオンビーだが、すでにヤンキース入りが確実視されているかの報道に対し、アスレティックスのアート・ハウ監督が異議を唱えた。ヤンキースはジオンビーに対し、指名打者ではなくファーストを守らせるとしているが、ハウは平均的なファーストのジオンビーを指名打者として使うということを漏れ聞いたと話している。オークランドこそジオンビーにとって最高の場所と話すハウ。ジオンビーはどっちを選ぶのか。

●ドジャース、トレイシー監督と契約を延長!
Los Angeles DODGERS
ドジャースは、今季最優秀監督の投票でリーグ2位となったジム・トレイシーに対しオプションを行使し、2003年、04年も引き続き指揮を執ってもらうことを決めた。今季監督1年目で86勝76敗の好成績を残したトレイシー。過去7年間のマイナーリーグでの監督としての成績は501勝486敗というものである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.029
デレク・ジーター★デレク・ジーター #2★ ニューヨーク・ヤンキース

<written by ぼお>

いまやアレックス・ロドリゲスノマー・ガルシアパーラと並びメジャーリーグを代表するショートストップに数えられるのがデレク・ジーターである。3人とも同世代で、なにかと比較される存在であるが、この中でジーターのみが世界一を経験している。

球界の貴公子と呼ばれるジーター。ジーターの子供の頃の夢はヤンキースのショートを守ること。そう思うようになってしまったのも、ジョー・ディマジオの大ファンで、ヤンキースを心底愛している祖母の影響である。いつの間にかヤンキースファンになっていたジーターは、小学校時代の寄せ書きには「ヤンキースの選手になる」と書いていた。もともとピッチャーをやりたがっていたジーターがショートに回ったのは、父が大学時代にショートを守っていたからだ。

高校時代のジーターは、5割以上の打率を記録するなど素晴らしい成績を残した。そして、高校卒業時の1992年6月、憧れのヤンキースから1位指名(全米6番目)を受ける。大学進学という未練もあったが、ヤンキースとはオフシーズンは大学に通えるという契約で、プロ入りを決意した。

契約後、ルーキーリーグと1Aグリースボロの2つのクラスで合わせて58試合に出場。打率は2割前半で、守備では21個のエラーとプロの壁に大きくぶつかった。2年目の1993年は1Aグリースボロで128試合に出場し、打率.295を記録したが、相変わらず守備では58個のエラーと精彩を欠いた。コンバート説もあったが、このポジションにこだわりのあるジーターは猛練習でショートの守備を鍛えに鍛えた。

大舞台に強く、まさに強いヤンキースの象徴。守備に安定さの見えてきたジーターは、1994年、開幕1Aから2Aを経て、3Aへ昇格。それぞれで打率3割半ばを記録する猛打ぶり。翌年のメジャー昇格はほぼ確実のものとした。しかし、オフの期間に肩を痛めてしまい、1995年の開幕は3Aコロンバスで迎えることになってしまった。そして、迎えた5月29日のマリナーズ戦でついにメジャーデビューを果たした。デビュー戦は守備でファインプレーは見せるが、5打数ノーヒットという結果に終わってしまった。そして12日後には3Aへ降格となってしまった。

翌1996年、トニー・フェルナンデスに変わり開幕からスタメンショートのポジションを獲得すると、シーズンを通して活躍。打率.314、10HR、78打点を記録し、この年の新人王投票では、28人の記者全員の1位投票を集め、球団史上8人目の新人王に輝いた。この年は22個ものエラーを記録するが、グラブさばきをはじめとして、捕球後の動作が早く、巧みなフットワーク、肩の強さで守備の評価は非常に高かった。ヤンキースの球団史を飾る名ショート、フィル・リズドーもジーターに対し、「ヤンキース史上最高のショートになる」と最大級の褒め言葉を贈った。

新人とは思えない勝負強さを見せつけ、試合のポイントポイントで重要な役割を果たした。それを象徴しているのが、この年のオリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦でのことだった。3対4で迎えた8回裏、ジーターの放った打球はライトへ。ライトのトニー・タラスコの上を越えたその打球は、ライトスタンドで構えていた12歳の少年が掴んで、結果として同点ホームランになってしまう。ジーターの持つ運が発揮された一打となった。これにより勢いに乗ったヤンキースは、18年ぶりとなる世界一の名誉を手にする。

2001年のポストシーズン最高のプレーと呼ばれる「ザ・フリップ」。2000年シーズンにオールスターとワールドシリーズのMVPダブル受賞、記憶に新しいところでは、2001年シーズンのオールスターでのホームランや、ワールドシリーズでのサヨナラホームランなどあげればきりがない。この勝負強さが、数字ではA・ロドリゲス、ガルシアパーラの二人には後れをとっているジーターの価値をあげているといえる。

2001年はキャンプ中の怪我が元で、1998年から続けていた連続200本安打が、ジーターとほぼ入れ替りで引退したドン・マッティングリーと同じ3年連続で止まってしまった。しかし、その中でも100得点をマークしており、これで6年連続100得点となった。この記録がチームの偉大な先輩、ルー・ゲーリックの記録した13年連続100得点にどこまで近づけるかが注目である。またマッティングリーの持つチームのシーズン最多安打記録238安打の更新も期待されている。

ヤンキースはすでにジーターと、10年間で1億8900万ドルという大型長期契約を更新しており、このままの活躍を続ければ彼の背番号2が永久欠番となることは間違いないだろう。すでに殿堂入りへのカウントダウンは始まっている。

■2001.12.3(現地12.2)
●スモルツ、ブレーブスと3年間3000万ドルで再契約!
ジョン・スモルツ
ブレーブスはFAになっていた34歳のベテラン投手、ジョン・スモルツと3年間3000万ドルで契約を交わした。なお、4年目となる2005年はチームのオプションとなることが決まった。スモルツはダイヤモンドバックス、ヤンキースらからも誘われていたが、14年間も在籍していたブレーブスとの再契約に踏み切った。

1996年には24勝をマークし、サイヤング賞を獲得したスモルツ。2000年シーズンは右肘の手術で1年を棒に振った。再起をかけた2001年は先発として復活するものの、チーム事情からリリーフに回り、11回のセーブ機会で10個ものセーブを記録した。通算成績は160勝116敗の防御率3.35である。

スモルツ本人は先発をやりたいが、チーム事情からそれが許されるかどうかはわからない。「先発なら20勝、クローザーなら50セーブ」と話しているが、果たしてどうなることか。ブレーブスは正捕手のハビア・ロペス、オールスターに出場したジョン・バーケットも共にFAであり、再契約を求めて動いている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.028
ホアン・ゴンザレス★ホアン・ゴンザレス #22★ クリーブランド・インディアンズ

2001年、FAで流出したマニー・ラミレスの代わりにインディアンズにやってきたホアン・ゴンザレス。首位打者争いにも顔を出す活躍を見せ、打率.325、35HR、140打点をマークし、チームもポストシーズンへコマを進めるなど、期待に応えた。しかし、チームの方針転換から2年目のオプションが行使されずにFAとなり、2002年は別のチームのユニフォームを着ることになってしまった。

出場試合数よりも多い打点を挙げるゴンザレス。プエルトリコの、近くに野球場もない貧民街で生まれたゴンザレス。プロの世界に足を踏み入れたのは1986年のこと、まだゴンザレスが16歳の頃だった。英語が話せずに苦労したが、4年経った1990年、3Aオクラホマシティで29HR、101打点を記録し、才能を発揮。ホームラン王と打点王の2つのタイトルを獲得し、周囲のその将来に大きな希望を抱いた。

レンジャーズの主力に成長した1992年、まだ23歳という若さで43本のホームランを放ち、タイトルを奪取。23歳未満で40本以上のホームランを打ったというのは、当時で史上6人目となる快挙である。翌93年にも46本のホームランを放ち、2年連続ホームラン王の名誉を手にした。若い長距離砲の出現に注目が注がれた。

迎えた1996年、5月に左足の怪我で25試合も欠場。しかし、134試合のみの出場に終わったゴンザレスは、打率.314、47HR、144打点を記録。チームも地区優勝を果たし、ゴンザレスにとっても初めて経験する優勝だった。ヤンキースとのディビジョンシリーズでは結果的には負けてしまうのだが、16打数7安打(打率.438)の5HR、9打点を記録し、勝負強さを見せつけた。

しかし、ゴンザレスにとって最も嬉しかったのはこの年のオフのことで、初めてのMVPを獲得したことだ。この年のMVP候補は、マリナーズの新鋭アレックス・ロドリゲスだった。メジャーに定着したばかりのアレックスは、打率.358を記録し首位打者を獲得し、さらに36HR、123打点を挙げMVPは確実と言われていた。しかし投票の結果は、ゴンザレスが290ポイント、アレックスが287ポイントとわずか3ポイント差でゴンザレスがMVPを獲得するに至った。僅差のMVP争いでは、1947年のジョー・ディマジオテッド・ウイリアムスにおける202対201、1960年のロジャー・マリスミッキー・マントルにおける225対222に次ぐ、史上2位タイというものであった。1位票でも、ゴンザレスが11票にアレックスが10票とこちらも僅差だった。

ちょっと影が薄い気がするのは気のせいか。レンジャーズの選手におけるMVP獲得というのも、1974年のジェフ・バローズに次ぐ史上2人目の快挙。プエルトリコの選手としても、ロベルト・クレメンテ(1966年)、オーランド・セペダ(1967年)、ウイリー・ヘルナンデス(1984年)に次ぐ4人目のMVP獲得だった。ちなみに1999年にイバン・ロドリゲスがプエルトリコ出身のレンジャーズの選手として、ゴンザレスに続いてMVPを獲得している。

翌97年、ウインターリーグで左手親指を痛め、4月を棒に振り、試合出場は133試合にとどまるが、打率.296、42HR、131打点を記録する打棒を発揮。ここ2年間で267試合に出場し、275打点と試合数より多い打点を挙げた。フル出場すれば、ハック・ウイルソンが1930年に記録したシーズン190打点を超えることが可能ではないかと言われたのも当然のことだ。

1998年は、開幕から絶好調。開幕2試合目に満塁ホームランを放ち、調子に乗ると4月にメジャー新記録となる36打点を記録。前年にティノ・マルチネスが記録した4月35打点という記録をわずか1年で塗り替えた。5月にも35打点をあげて、史上2人目となるオールスター前に100打点突破を記録した。マーク・マグワイアサミー・ソーサのホームランに沸いたこの年、打点の新記録樹立に向かっていたゴンザレスは、後半戦、打点のペースこそ落ちるが、シーズンが終わってみれば、メジャー49年ぶりの157打点を記録して打点王のタイトルと合わせて、自身2度目のMVPも獲得した。打点ペースが落ちた後半戦の打率は.353だった。

1999年は開幕直後は不振に苦しんだが、尻上がりに調子を挙げていき、終わってみれば打率.326、39HR、128打点をマーク。そして、翌年オフにFAとなってしまうゴンザレスを、計9人も動く大型トレードでタイガースへ放出させてしまうことになった。

実力は折り紙付きだけに、怪我だけが心配だ。タイガースの一員として迎えた2000年、腰の故障もあり、開幕から試合に欠場する日も多かった。特に5月上旬には打率が2割前後と落ち込み、デトロイトの多くのファンからブーイングを浴びる。しかし、7月下旬に故障者リストから復帰すると、19試合連続ヒットを含む大活躍で、後半戦のチームを引っ張った。最終的には、打率.289、22HR、67打点とそれまでのゴンザレスらしさが出ない結果となってしまった。

不本意な成績に終わったゴンザレスは、タイガースサイドからの8年間1億4000万ドルという大型契約に首を縦に振らず、そのままFAへ。新本拠地コメリかパークがとても広すぎるという不満を持っており、フェンスをいくらか前に移すという対策も考えられていたが、ゴンザレスの返事はノーだった。

ゴンザレスが選んだのは、親友のロベルト・アロマーも所属しているインディアンズ。腰の不安から他の球団が二の足を踏む中、1年間1000万ドルというゴンザレスクラスの選手にとっては破格の安さで契約を交わした。しかも、本拠地とするジェイコブズフィールドはゴンザレスにとって過去の通算打率.344、12HRを記録しているなど相性がいい球場である。周囲から不安の声も多く聞かれたが、期待に応える活躍でチームを地区優勝に導いた。

ハンク・アーロンの通算ホームラン記録更新が可能な選手として名前の挙がるゴンザレス。数あるタイトルを獲得していながら、唯一手にしていないのはワールドチャンピオンリングである。果たして、彼の行く末は・・・。

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