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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2001.11.28〜12.2★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2001.12.2(現地12.1)
●エクスポズ、2002年も球場のリース契約は交わしたが・・・!
Montreal EXPOS
チーム削減の本命エクスポズだが、本拠地オリンピックスタジアムとのリース契約は2002年11月30日までと1年間の契約延長となった。しかし、その契約内には「途中で契約を解除できる」とあるそうだ。これはチーム削減を前提としているものだ。しかし、これでエクスポズとツインズが共に本拠地球場と契約を更新したことから、チーム削減問題はどうなるかはわからない。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.027
ロイ・オズワルト★ロイ・オズワルト #44★ ヒューストン・アストロズ

ナショナルリーグ中地区を制覇したアストロズ。ポストシーズンにコマを進めたわけだが、打線が湿りきったこともあり、ブレーブスの前に3連敗してシーズンを終えてしまった。しかし、このシリーズのマウンドにロイ・オズワルトは立てなかった。右股関節に違和感があったため、シーズン終盤からマウンドには上がっていなかったのである。こうしてオズワルトのメジャー1年目のシーズンを終えた。

新人王はプホルスにさらわれてしまった。大学に入ったばかりのオズワルトは磨かれてない原石といった感じの投手だった。その原石を見取ったアストロズがドラフト23位で指名。オズワルトは即入団せず、そのまま大学でのプレーを続けた。しかし、翌年のドラフトが近づくにつれ球速が増し、徐々に評価を高めるオズワルトとなんとか契約しようと、アストロズは50万ドルを用意し、なんとか契約にこぎつけた。

昨年は1Aからのスタート。しかし、5月半ばに急遽2Aに上がり、いきなり15個もの三振を奪う完封勝利を演じた。そのまま2Aに残り、計19試合に登板して11勝4敗の防御率1.94を記録し、オリンピック代表メンバーにも選ばれた。

シドニーオリンピックでは、ベン・シーツに次ぐ2番手の先発として活躍。2試合に先発したが、2試合とも相手は韓国であった。最終的には銅メダルを獲得する韓国相手に、計13イニングを投げ2失点に抑え、チームに貢献し、金メダルを手にした。トミー・ラソーダ監督をして、「オレル・ハーシハイザーに似ている」とまで言わしめた。

アストロズの投手陣には有望な若手が多い。そして迎えた2001年、開幕は3Aだった。メジャーへ昇格したのは、5月に入ってからのことだった。徐々にメジャーに順応させようと、最初は中継ぎでの登板が続いた。そして、3試合目の登板となる5月14日の対レッズ戦で、先発ウェイド・ミラーに続く2番手として、6回から登板。3回2/3を2安打無失点に抑え、メジャー初勝利を手にする。

150キロ台のストレートに、カーブ、チェンジアップを加えた投球はいやがおうにも周囲の評価を高めさせた。そして、チームのローテーション投手だったホゼ・リマがタイガースへ移籍するのと入れ替わり、先発へ移る。初先発となった6月2日の対ドジャース戦は、6回まで投げ、エイドリアン・ベルトレイのソロホームランによる1点に抑えて、初めての先発での勝利を記録した。この1勝をきっかけにその後6連勝をマークする。

8月に入ってからも今季2度目の6連勝をマーク。今季14勝目となる9月9日の対ブリュワーズ戦では、散発7安打に抑え今季最多の12奪三振を記録し、メジャー初完封を記録した。結局、オズワルトは新人としては球団記録となる14勝(3敗)を記録し、防御率は2.73だった。

来季以降のアストロズは、オズワルトの他にも2年目で16勝をあげて飛躍を果たしたミラー、成長著しいティム・レディングカルロス・ヘルナンデスらの若手が中心になって引っ張っていきそうだ。なお、アストロズは若手の躍進もあり、伸び悩んでいたスコット・エラートンをロッキーズへ放出ということもあった。

■2001.12.1(現地11.30)
●世界一ダイヤモンドバックス、いかに1億6000万ドルを捻出するか!
Arizona DIAMONDBACKS
創立4年目のダイヤモンドバックスはお金に困っており、1億6000万ドルをいかに集めるかに頭を悩ませている。元々、ダイヤモンドバックスはチーム創立時、23ものグループにより総額1億9800万ドルを捻出した。現在、球団はオフィスのメンバーの一部を解雇するなどし、対策は立ててはいる。選手総額の年俸を1億2000万ドル以内に納めようとしている動きもある。一部の選手からは、年俸を部分的に先払いにしてもいいという申し出もあるそうだ。

●FA選手契約第2号!アストロズがビスカイーノと再契約!
Houston ASTROS
アストロズはFAになっていたホゼ・ビスカイーノとの再契約を交わした。メジャー11年目となるベテランのビスカイーノは、155人のFA選手の中では2番目の契約選手となった。内容は1年間の170万ドルというものである。昨年は107試合の出場で、打率.277にとどまっている。

●メッツ、和製マダックスこと小宮山と契約へ!
New York METS
メッツは日本プロ野球でFAになっていた小宮山悟と1年契約を結んだ。翌2003年はオプションである。小宮山は「和製グレッグ・マダックス」と言われる36歳の投手で、今季は横浜ベイスターズで24試合に投げ、12勝9敗の防御率3.03という成績を残している。ベストシーズンは現メッツ監督のボビー・バレンタインが指揮を執っていた千葉ロッテマリーンズで、11勝4敗、防御率2.60を記録した1995年である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.026
ベン・シーツ★ベン・シーツ #15★ ミルウォーキー・ブリュワーズ

2000年シドニーオリンピック、決勝戦のキューバ戦にアメリカ代表チームの先発としてマウンドに立ったのがベン・シーツである。対戦相手のキューバは、野球がオリンピック正式競技になった1992年から、28戦で25勝1敗2分けとほぼ無敵を誇っていた。シーツはこの最強軍団キューバを散発3安打に抑え込む完封勝利を演じた。テンポのいいピッチングで、球数はわずかに98球という少なさで、アメリカに金メダルをもたらした。

シーツの名を知らしめたオリンピックの好投。高校時代のシーツはバスケットボールに才能を発揮しており、野球ではそれほどの活躍を見せていたわけではなかった。しかし、高校2年時にマウンドに上がったシーツを見ていたルイジアナ大学のコーチがシーツの隠れた才能を見出したことから、事態は急展開する。投手として130キロぐらいの速球しか投げられないシーツは野球の奨学生としてルイジアナ大学へ進学することになった。

ルイジアナ大学では2年生になってから台頭。3年生になった頃には球速も145キロまでに伸び、この年は14勝1敗の防御率3.11という好成績をあげた。はじめてアメリカ代表メンバーに入ったのもこの年である。そして迎えたドラフトではブリュワーズから全米10番目の1位指名を受け、プロの世界に足を踏み入れることになる。指名されて即入団し、ルーキーリーグと1Aの2つのクラスでマウンドに上がり、合わせて7試合に登板し、計35回2/3を投げ、40個の三振を奪うなど、非凡な才能を発揮した。

翌2000年は開幕を2Aで迎える。ここで13試合に登板し、5勝3敗の防御率1.88という好成績を挙げてから3Aへ昇格。3Aでは3勝5敗ながら、防御率2.87を記録。9月のロースター拡大でメジャー昇格も考えられたが、オリンピック代表として選出されたため、シドニーへ向かうことになった。

シーツの将来性は抜群だ。2001年シーズン前にはメジャー経験が一度もないものの、オリンピックでの好投で一躍知られたことから、新人王候補の筆頭にあげられていた。150キロ前後のストレートとカーブ、チェンジアップが既にメジャーレベルなのは誰もが知るところであり、それぞれでカウントを稼げるというのも魅力である。幸いなことにシーツの所属するブリュワーズは本拠地を、それまでの伝統あるカウンティスタジアムから、開閉式の天然芝球場ミラーパークへと移すとあって、シーツはチームの新しい時代の象徴にも見えた。

順調に開幕をメジャーで迎えたシーツは開幕第4戦に先発を果たす。チームはここまで開幕3連敗と苦しい状況で、新人のシーツに連敗ストッパーとしての役割が求められた。しかし、6回を投げ6安打5四球の5失点という内容でマウンドを降りた。次の登板でも結果を出せず、わずか2試合に投げただけでマイナーへ降格させられた。

チームのエース格であるジェフ・ダミーコが右ヒジに違和感を訴えたこともあり、マイナーで2試合の登板を経てメジャーへ戻る。4月28日の対エクスポズ戦に先発し、6回1/3を投げ、7安打4失点の5奪三振という内容。この試合で主砲のジェフ・ジェンキンスが1試合3発打ったこともあり、シーツはメジャー初勝利を手にした。

1つ勝ったシーツはその後、4連勝をマーク。さらに5月29日の対カージナルス戦では、散発5安打に抑え、3塁すら踏ませない素晴らしい投球内容で初完封を記録した。この完封を機にさらに6連勝。新人ながらオールスター前に10勝をマークし、オールスター初出場の名誉も手にした。オールスターでは、終盤の8回裏にわずか一人に投げるにとどまった。

名誉を手にしたシーツだが、オールスターを挟んでなんと5連敗し、8月頭から9月半ばまで再びマイナーへ降格。シーズン終盤にメジャーへ戻ってくるが、勝ち星を1つ積み上げるだけで精一杯で、期待された新人王は獲得できなかった。シーツのメジャー1年目となる2001年は、11勝10敗の防御率4.76に終わった。なにはともあれ、今後が期待される若手右腕の一人であることは間違いない。

■2001.11.30(現地11.29)
●殿堂入り候補にオジーが初選出!発表は来年1月8日!
オジー・スミス
来年の殿堂入り候補選手が決まった。昨年からの持ち越しの17人に加え、新たに11人が候補になった。この候補になるには10年以上の現役生活に加え、引退後5年が経っていることが条件になっている。10年以上のキャリアを持つ記者の投票で75パーセントの得票があれば、晴れて殿堂入りが決まることになる。しかし、得票が5パーセントを割ることになれば、この候補から漏れることになる。投票は今年の12月31日が締め切られ、1月8日に発表される。

今季から候補になった選手の中で有力な選手がオジー・スミスである。スミスは素晴らしい守備でファンを魅了し、15度のオールスター出場を飾る。19年間のメジャー生活で、2460安打を記録している。また、1977年新人王、1988年MVPのアンドレ・ドーソンも新候補である。ドーソンは21年間のメジャー生活で、通算438本のホームラン、8度のゴールドグラブ賞を受賞している。また、1987年のワールドシリーズMVP、1988年サイヤング賞のフランク・バイオーラも選ばれている。

上記の3人が有力ではあるが、その他には投手ではマイク・ヘンネマンジェフ・ラッセルスコット・サンダーソン、内野手ではアラン・トランメルロビー・トンプソンティム・ウォラック、外野手ではレニー・ダイクストラマイク・グリーンウェルらがそれぞれ選ばれている。昨年からの持ち越し選手には、ゲーリー・カータージム・ライスらが含まれている。

●アストロズ、ワグナーに3年間で2000万ドルを提示!
ビリー・ワグナー
アストロズはクローザーのビリー・ワグナーに3年間で2000万ドルの提示を行ったことが報じられた。今季のワグナーは自らの持つ球団タイ記録、39セーブをマークし、チームの地区優勝に貢献した。すでに30歳になるワグナーは4年以上の契約を求めているとも言われているが、アストロズは1992年にダグ・ドラベックグレッグ・スウェンデルにそれぞれ4年契約を結んで以降、投手に4年以上の契約を提示していない。FAのモイゼス・アルーの契約よりもワグナーの方を重視している。なお、今季大ブレークを果たしたランス・バークマンとの複数年契約も控えている。バークマンの今季の成績は打率.331、34HR、126打点である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.025
ランディ・ジョンソン★ランディ・ジョンソン #51★ アリゾナ・ダイヤモンドバックス

2001年ワールドシリーズ第7戦の8回表、大歓声の中で第2戦で3安打完封、前日の第6戦で7回を2失点に抑えたランディ・ジョンソンがマウンドに上がった。1点ビハインドの中での登板だったが、1回1/3を完全に抑えきり、9回裏の味方の大逆転劇を呼び込んだ。このシリーズでは3勝をあげたジョンソンが、チームメイトのカート・シリングと共にMVPを受賞。208センチの長身が大きく輝いた2001年の秋であった。

愛称は「ビッグユニット」のジョンソン。1963年、カリフォルニア州のサンフランシスコ近くの小さな町で生まれ育ったジョンソン。7歳から野球を本格的に始めたジョンソンにとって、地元アスレティックスの左腕、バイダ・ブルーが憧れだった。ブルーは1971年にMVPとサイヤング賞の同時受賞し、さらに最優秀防御率のタイトルも手にしている大投手である。

幼少時から身長はずば抜けて高かった。さらにその高い運動神経のため、父親から野球の英才教育を受け育つことになる。しかし、自分の体をうまく生かせず、バラバラなフォームのため、ノーコンに苦しんだ。高校に入ってもそのノーコンは続いたが、当時の監督の熱心な指導で、後のジョンソンのピッチングの原型ができあがった。高校最後の試合では見事に完全試合も達成している。ちなみに高校卒業時にはブレーブスから3位で指名されているが、名門南カリフォルニア大学への進学の道を選ぶ。

大学時代の通算成績は16勝12敗。剛速球で三振を次々に奪ってはいくが、同じ数だけ四球も出すという投手だった。しかし、潜在能力の高さは誰もが認めるもので、1985年、エクスポズからドラフト2位指名を受けプロ入りを果たした。

即ルーキーリーグでデビューを果たし、8試合に登板し27回1/2を投げ、0勝3敗。三振は21個を奪ったが、24個の四球を与えていた。これは若い剛速球投手の宿命とも言えるものだが、コーチのアドバイスを有効に生かし、3年目には2Aジャクソンビルで25試合に投げ、11勝8敗を記録し、リーグトップの163個の三振を奪った。一方では四球を128個も与えることが若いジョンソンらしい。

長身から繰り出す速球は簡単に打てない。そして、1988年は3Aのインディアナポリスで開幕を迎え、シーズン終盤の9月半ばにことである。デビュー戦は味方の打線の爆発にも恵まれ、初登板初勝利を記録した。このころは、投手としての才能そのものより高い身長にばかりが話題になってた。

翌1989年は開幕前から校長を保ち、新人王の候補にも挙げられていたが、開幕からまさかの4連敗で3A仁降格してしまった。このマイナーにいた頃にマリナーズへの移籍が決まった。ジョンソンの交換相手にはマリナーズのエース、マーク・ラングストンも含まれていた。マリナーズでのデビュー戦はヤンキースタジアムでの対ヤンキース戦であった。初めての大歓声でのプレーだった。

さらに翌1990年、6月2日の対タイガース戦で球団史上初のノーヒッターも達成した。この年、14勝11敗と好成績を残したジョンソンは、1992年オフにノーラン・ライアンの指導を受け、投手としてさらに一回り大きくなる。1993年は最終戦で1試合18奪三振を奪う好投を見せ、終わってみれば19勝8敗と文句につけようのない内容だった。奪三振数は308個を数えた。この年引退したライアンへの栄誉のため、1試合だけ背番号34をつけてプレーしたこともある。

ジョンソンはマリナーズ在籍時の1995年に初めてサイヤング賞を受賞。18勝2敗のとてつもない成績により、6年連続で2桁勝利をマークし、さらに4年連続最多奪三振のタイトルも手にした。チームも球団史上初のプレーオフ進出を果たすなど、ジョンソンにとっては忘れられないシーズンとなった。しかし、初めてのプレーオフ出場で無理をしたためか、翌年に響いた。1997年、前年の怪我から再起をかけたシーズン。ジョンソンはキャリア初、球団初の20勝をマークするなど、1試合19奪三振を2度も記録した。

風貌が怖いが、心優しい男です。1998年オフにFAとなるジョンソンを、シーズン途中にマリナーズはアストロズのマイナー3選手と交換した。アストロズのユニフォームに袖を通したジョンソンは、11試合の登板で10勝1敗、防御率1.28という素晴らしいピッチングを見せ、チームの地区制覇に貢献した。しかし、今回も悲願のワールドシリーズ進出はならなかった。ちなみに交換でマリナーズ入りした選手とは、2001年のマリナーズ快進撃に貢献したフレディ・ガルシアジョン・ハラマカルロス・ギーエンの3人である。

そして、FAとなったジョンソンはダイヤモンドバックスと4年間で5240万ドルの高額契約を結んだ。移籍1年目に17勝9敗、防御率2.48の364奪三振を記録し、自身2度目のサイヤング賞受賞。さらに翌2000年も19勝7敗、防御率2.64の347奪三振でサイヤング賞を連続受賞した。

そして迎えた2001年、前年途中に加入したシリングと共にダイヤモンドバックスを引っ張っていくと思われた。シリングは開幕から好調で、この2大エースは期待に見事に応えた。ジョンソンは5月8日の対レッズ戦において、9回まで投げたところで20個の三振を奪う快投を見せる。チームの援護がないため試合は延長に入り、10回からはキム・ビョンヒョンにマウンドを譲った。試合は延長11回の末、ダイヤモンドバックスが勝利。ジョンソンは試合後、「この日のピッチングをタイムカプセルに入れて未来の人に観てもらいたい」と名言を吐いた。

ローリング・ストーンズに憧れた男です。7月19日のパドレス戦、照明塔が爆発しサスペンデットゲームとなった前日の試合が、中断した3回から再スタートされた。先発はシリングだったが、3回からジョンソンがまさかの救援登板。前日は2回を無安打に抑えたシリングの後を受け継いだジョンソンは、8回裏2アウトでウィキィ・ゴンザレスにヒットを打たれただけで、7回を投げ1安打無失点に抑えた。圧巻だったのは救援したジョンソンが16奪三振を奪ったことである。救援投手として16奪三振というのはメジャー新記録である。これまでは1913年7月25日にワシントン・セネタースのウォルター・ジョンソンが、延長15回まで進んだ試合で11回1/3を救援で投げ、15個の三振を奪ったのが記録だった

最後は世界一の栄誉も手にしたジョンソンは、1999年から3年連続でのサイヤング賞の受賞も記録した。3年連続というのは1992年から95年まで4年連続受賞したグレッグ・マダックス以来である。通算4度の受賞というのもロジャー・クレメンスの6度に次ぎ、マダックス、スティーブ・カールトンに並ぶ大記録である。

ジョンソンは、子供の頃から絵画や写真などにものめり込むなど、芸術方面に才能を発揮した。野球同様にロックバンドにも燃えたことがあり、野球選手にならなかったらミュージシャンになっていた、と言いきっている。しかし、今は怖い風貌のジョンソンも昔は泣き虫でどうしようもなく、リトルリーグの入団テストでも寂しさに耐えられず途中で家に帰ってくる子供だったとは、今は信じられない。

■2001.11.29(現地11.28)
●困惑するメジャーリーグ!2002年はどうなる!?
Major League Baseball
2002年は現在の30球団から、2球団削減されて28球団で行うことが既に確認されている。多くの赤字球団を抱えているといわれているメジャーリーグだが、選手の年俸高騰は毎年のように進んでいる。いくつかのチーム買収の話も出てきているが、どれも進んでいない。選手会の反発も強まってきており、現時点では2002年の開幕も危うい状況である。

●フライマン、右肩手術へ!来季に再起をかける!
トラビス・フライマン
インディアンズのサードを守るトラビス・フライマンが右肩の手術を行った。2月のスプリングキャンプには間に合う予定である。今季のフライマンはシーズン前に右肘を痛めてしまい、開幕から2ヶ月を棒に振ってしまった。結局、わずか98試合の出場に終わり、打率も.263に終わった。なお、昨年はゴールドグラブ賞を獲得し、打率.321、2塁打が38本の106打点をマークするというキャリア最高の数字を残していた。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.024
ロジャー・クレメンス★ロジャー・クレメンス #22★ ニューヨーク・ヤンキース

2001年、39歳と3ヶ月半のロジャー・クレメンスは史上3番目の高齢でのサイヤング賞受賞投手となった。過去には1978年のゲイロード・ペリー(40歳と2ヶ月)、1959年のアーリー・ウイン(39歳と10ヶ月)がそれぞれ受賞しているが、それに次ぐものである。これで1980年代、90年代、2000年代と、3つのディケイドでの受賞となった。また、クレメンスにとって通算6度目のサイヤング賞受賞であり、これはメジャーリーグ史上でも単独トップである。

「ロケット」の異名をとるクレメンス。1962年、オハイオ州でデイトンに生まれたクレメンスは、まだ1歳になる前に両親が離婚してしまったため、実の父のことをほとんど知らずに育った。やがて母親が再婚したため、義理の父に育てられたわけだが、クレメンスの野球の才能を最初に見いだしたのはこの義父だった。しかし、この義父もクレメンスが9歳の頃に急逝してしまい、一家は途端に生活が苦しくなってしまう。やがて、一家は働き始めた兄の元へ引っ越しすることになる。その引っ越し先というのが、ノーラン・ライアンという大投手を輩出したテキサス州であった。

アストロドームで初めてメジャーリーガーのプレーを生で見たクレメンスは、メジャーリーグへの憧れをさらに増すことになった。特に1980年からアストロズに移籍してくるライアンや、遠征でやってくるトム・シーバーのピッチングはクレメンス少年の心を大きく揺さぶった。

高校時代にはその才能を発揮。しかし、当時のクレメンスはパワーピッチャーというよりはコントロールを持ち味とする投手だった。野球だけでなくアメフトも平行してやっていただけに怪我が絶えなかったものの、名コーチと出会ったこともあり、いつの間にか150キロを悠に超えるパワーピッチャーに変貌していた。そして、1981年のドラフトではメッツから12位で指名を受けるが、契約金で折り合いが合わずにテキサス大学への進学を決める。

当時のテキサス大学は、大学史上最高チームともいわれるチームで、後に9人がドラフト指名されることがそれを証明している。その中でクレメンスは入学直後から第一線で活躍し、チームを2年連続でカレッジ・ワールドシリーズへ導いた。1年目は準優勝に終わってしまうが、2年目は見事にチームを大学チャンピオンに導いた。

史上最多、6度のサイヤング賞獲得。こうして輝かしい実績を抱えて迎えた1983年のドラフト会議。地元に本拠を置くレンジャーズかアストロズが指名するのでは、と言われていたが結局、全米19番目にレッドソックスが1位指名した。契約金は12万1000ドルで、即入団したクレメンスは早速、1Aウインターヘブンに送り込まれ、4試合に先発し、3勝1敗の防御率1.24の成績を残すと、すぐに2Aニューブリテンへ昇格。ここでは7試合に登板して、4勝1敗の防御率1.38の成績を残した。チームは2Aのプレーオフに進出し、ここでもクレメンスの好投が光り、2Aイースタンリーグを制した。1983年はクレメンスにとって、2度もチャンピオンに輝くという、プロ1年目としては最高のスタートを切った。

翌1984年の開幕は3Aのポータケットで迎える。7試合に投げ、2勝3敗の防御率1.93という成績を残し、この年の5月11日にはメジャーへ昇格した。レッドソックスでは大学時代から好んでつけてきた背番号21が空いていたため、この番号をつけてのメジャーデビューとなった。メジャーでは8月最後の登板で右腕に痛みを覚え戦線離脱するが、それまでに21試合に登板し9勝4敗という成績を残した。翌年も開幕からメジャーで投げるが、腕の痛みが肩にまで広がりドクターストップ。結局、この年のオフ、手術に踏み切った。

手術のリハビリからの再起をかけた1986年は、クレメンスにとって飛躍の年となった。4月29日の対マリナーズ戦ではメジャー記録となる1試合20奪三振を記録。この勢いに乗って快投を続けるクレメンスは、この頃から、「ロケット」の愛称で呼ばれるようになる。初めて出場したオールスターゲームでは先発し、MVPも獲得。前年手術した8月30日に、20勝目をマークした。

終わってみれば、24勝4敗の好成績を残し、チームもワールドシリーズへの進出を果たした(しかし、メッツの前に敗れ、世界一はならなかった)。クレメンスが初めてサイヤング賞を手にしたのはこの年のことで、15年後の2001年、共にサイヤング賞を争ったマーク・マルダーが9歳、フレディ・ガルシアが10歳の頃である。そして、1986年12月には待望の長男も誕生。まさにクレメンスにとっては忘れられない1年となった。

4人の息子の父親でもあるクレメンス。メジャリーグを代表する投手となったクレメンスは、1987年にも20勝9敗という成績を残し、2年連続のサイヤング賞を受賞。その後も安定した数字を残し続け、1990年には21勝6敗の防御率1.93を記録してチームもプレーオフに進出。しかし、アンパイアの判定に不服を申しつけ、あっさり退場させられ、クレメンスのシーズンは終わった。この年は好成績を残したが、ボブ・ウェルチ(当時アスレティックス)が27勝もマークしたため、サイヤング賞をさらわれてしまう。

1991年は18勝10敗の防御率2.62、241奪三振で自身3度目のサイヤング賞を受賞した。翌年も18勝をマークするが、1993年以降は肩を痛めたこともあり、成績が急落する。当時はボストンのマスコミとの軋轢もあり、苦しい時期だった。当時のインタビューでは「力が衰えたらすぐにやめる。35歳ぐらいまでだろう。」と話している。

光が再び差し始めたのは1995年のこと。シーズントータルでは10勝5敗という成績に終わるが、肩の故障で初登板は6月のこと。8月以降だけで7勝挙げたことになる。翌年も10勝13敗に終わるが、若い頃の奪三振ラッシュが始まり、自身2度目の1試合20奪三振を記録し、最多奪三振のタイトルを獲得した。そして、オフにFAになったクレメンスはブルージェイズへ移籍することになる。

移籍1年目は、開幕から11連勝をマーク。結局、21勝7敗の防御率2.05、292奪三振でタイトルを総ナメし、4度目のサイヤング賞を受賞。翌年も20勝6敗を記録し、2年連続のサイヤング賞を受賞した。すでにクレメンスは36歳になっていた。

果たしていくつまでマウンドに立ち続けることになるのか。投手としてのタイトルは取り尽くしたクレメンスが手にしていないものが世界一の名誉である。その焦りと不安から1998年オフ、チームの方針に疑問を抱き移籍騒動を起こした。結果として、翌1999年シーズン前にヤンキースに緊急トレード決定。ワールドシリーズで投げたいと希望するクレメンスが、その望みをかなえるのに一番近いチームへの移籍であった。

ヤンキースのピンストライブに袖を通したクレメンスは、14勝10敗の成績を残してチームに貢献。ブレーブスとのワールドシリーズ第4戦では、先発し8回途中まで投げ1失点に抑える好投。見事にチームの世界一に貢献した。初めて世界一となったクレメンスは、その感激に泣きじゃくったという。

2000年のワールドシリーズは同じニューヨークに本拠を構えるメッツとのサブウェイシリーズ。話題はクレメンスとマイク・ピアザとの因縁だった。折れたバットを投げつけたクレメンスに対し、非難が集まったがクレメンスは全く引かなかった。8回を2安打無失点に抑え、チームの世界一に花を添える。

そして、2001年のクレメンスは、開幕から味方打線の援護もあり、20勝1敗と史上初の高勝率をマーク。結局、20勝3敗の防御率3.51でシーズンを終えた。6度目のサイヤング賞となったわけだが、この防御率でのサイヤング賞受賞は、史上2番目に高い防御率である。一番高い防御率でサイヤング賞を手にしたのは1983年のラマー・ホイトの3.66だが、ホイトの場合はこの年に24勝をあげ最多勝をマークしている。

通算記録のほとんどが現役トップといっていいクレメンス。通算成績は280勝145敗で、奪三振は3717個を数える。奪三振はライアン(5714個)、スティーブ・カールトン(4136個)に次ぐ歴代3位という大記録である。

また、レッドソックスにいた1996年5月23日、対マリナーズ戦では外野手がいなくなったため、クレメンスが代打として登場するという一コマもあった。肘にも足にもプロテクターをつけ完全装備で打席に立ったクレメンスは、追い込まれてからノーム・チャールトンの速球をセンター前にはじき返した。これがクレメンスにとって、メジャー初打席初安打である。ちなみにこの翌年からインターリーグ(交流試合)が行われるようになり、アメリカンリーグの投手も打席に立つことになる。

クレメンスには4人の息子がおり、最初の4回のサイヤング賞は息子たちに捧げ、5回目の受賞はクレメンス自身のもの。そして、今回の6回目は自らの母親に捧げるそうである。引退後の殿堂入りは確実な選手であり、20世紀のオールセンチュリーチームに現役投手として、唯一選ばれている。

■2001.11.28(現地11.27)
●注目、オーナー会議!セリグの任期が3年延長されて2006年まで!
バド・セリグ
シカゴで行われたオーナー会議、注目のチーム削減問題に関して、具体的なチーム名は公表されなかった。決定したこととしては、コミッショナーのバド・セリグの任期が当初は2003年12月31日までの5年契約だったが、さらに3年延長され、2006年12月まで務めることになったことだ。前任のフェイ・ビンセントの跡を継いで、1992年9月からコミッショナー代行として任務に当たっており、1998年7月8日に正式にコミッショナーに就任した。つまり、それまでの間はコミッショナー不在でメジャーリーグは動いていたことになる。現在のチーム削減問題に加え、労使協定と問題は山積みである。

●タイガース、36歳ナックルボーラー、スパークスと2年間の契約延長!
スティーブ・スパークス
タイガースはナックルボーラーで知られるスティーブ・スパークスと2年間、契約の延長をした。なお、3年目の2004年は球団側のオプションとなる。今季で36歳のスパークスは14勝9敗の防御率3.65という成績を残し、投球回数は232イニングを数える。これはタイガースでは1990年のジャック・モリスが249回2/3を投げて以来の最長投球回数である。スパークスの今季最後の5試合の登板では4勝をマークし、この間の防御率は1.52と素晴らしい内容だった。

●ハンプトン、左足を手術!2月までには間に合う予定!
マイク・ハンプトン
ロッキーズのエース、マイク・ハンプトンが左足の付け根部の筋肉の手術を行った。執刀に当たった医師によれば、2月のスプリングキャンプには間に合うとのことらしい。昨年オフ、FAでロッキーズにやってきたハンプトン。移籍1年目は32試合に登板し、14勝13敗の成績を残した。打者天国といわれるクアーズフィールドで、完封勝利も1つ記録している(5月9日の古巣メッツ戦)。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.023
野茂英雄★野茂英雄 #11★ ボストン・レッドソックス

2001年4月4日、球場の電気系統の故障で試合開始が43分遅れた。思えば5年前のあの日も雨で試合開始が遅れた。あの日とは野茂英雄がドジャースに在籍していた1996年9月17日のことであり、打者有利といわれるクアーズフィールドで初めてのノーヒッターを達成した日のことだ。

メジャーリーグで、21世紀初のノーヒッター!!2001年からレッドソックスのユニフォームに袖を通すことになった野茂は球団首脳の高い評価に比べ、シーズン前のエキシビジョンゲームでは結果が残せなかった。不安を残した中での公式戦初登板だったが、序盤から見事なストレートの伸びを見せた。5回までは2つの四球、3つの三振を奪う内容。後半もそのストレートに加え、伝家宝刀のフォークボールもキレを増した。6回から8回までの3イニングは5連続奪三振を含む、8個の三振を奪い、計11奪三振を記録していた。

チームの柱であるノマー・ガルシアパーラが怪我での離脱で打撃力低下が課題となっているレッドソックスだが、この日も打たなければいけないマニー・ラミレスカール・エバレットに当たりがでない。一人火を吐いたのが、3回表に2ランホームランを打ち、8回にはタイムリーと全打点を叩き出したブライアン・ドーバックである。

いよいよ、あと3人となった最終回。先頭のブラディ・アンダーソンをピッチャーゴロに打ち取る。続くマイク・ボーディックがセンター前にフワッと上がる打球。一瞬ひやっとしたものの、セカンドのマイク・ランシングがダイビングキャッチ。2アウトとなって迎えるのは、デライノ・デシールズである。野茂がメジャー初勝利をあげたとき、最後のセカンドゴロをさばいたのがこのデシールズで、野茂の最初のノーヒッターを記録したときバックに守っていたのもこのデシールズだった。いわば、因縁の選手である。デシールズは2球目を軽くレフトに打ち上げ、トロイ・オリアリーが捕り、野茂の2度目のノーヒッターは見事に達成された。

見事にゼロが並んだ。両リーグでのノーヒッターは野茂で4人目。これまで達成した3人とは、サイ・ヤングジム・バニングノーラン・ライアンといずれも殿堂入りの大投手であり、その蒼々たるメンバーに加わったことになる。現地4月4日に達成したというのは過去のメジャーリーグの歴史のシーズンの中で最も早い記録達成。また、前回達成したのは、敵地ロッキーズのクアーズフィールド。今回がオリオールズのカムデンヤーズと、共に敵地での達成である。いずれの球場でもそれまでノーヒッターを達成した投手はいなく、野茂が初のノーヒッター達成投手となったのは非常に価値のあるものといえる。

幼き日に江夏豊に憧れた少年。もっと速い球を投げたいと考えた英雄少年があみだしたのが体をひねって投げる投法、つまり後にトルネード投法と名付けられた投法だった。この特異なピッチングフォームにより、高校時代には完全試合も達成した。社会人時代には全日本メンバーにも選出され、ソウルオリンピックにも出場した。オリンピックなどで世界の野球を肌で感じる素晴らしい経験をした。日本のドラフト会議で前代未聞の8球団が1位指名を行い、クジの結果、近鉄バファローズが交渉権を手にした。

プロの世界に足を踏み入れてもその実力はいかんなく発揮され、4年連続最多勝、最多奪三振と毎年のようにタイトルを獲得する。日米野球で来日したロジャー・クレメンスの立ち振る舞いに非常に感動し、いかなる成績を残してもその現状に留まらず、常に上を見ていた。しかし5年目の1994年、右肩を痛めてしまい思うような成績を残せずに終わった野茂は、オフに複数年契約を求めて交渉に臨むが認めてもらえない。元々、トレーニングに関してチームの首脳陣と意見が合わず、その衝突は幾度と伝えられていた。

2001年、2度目の最多奪三振のタイトル奪取。譲らない野茂は年明け早々、任意引退という形になり、ドジャースと契約するに至る。この間、野茂は日本時代から使っていたグラブに刺繍してあるチームの名前と自分の名前をギタギタに切り刻んだ。これは当時の野茂の気持ちを如実に伝えるものであるといえるだろう。また、そこには見えない大きな力が働いているようにも見える。無謀な挑戦と批判の中での渡米だったが、結果として彼のピッチングが、日本に住む多くの野球ファンの目をメジャーリーグに向けさせることになる。

日本人2人目のメジャーリーガーとして、1995年のストライキ明けのシーズンに参加。まさに全米にトルネード旋風が巻き起こり、その年のオールスターゲームのスターティングピッチャーに抜擢され、2イニングを無失点に抑えた。そして、ナショナル・リーグの新人王、奪三振王のタイトルも受賞した。野茂にとっては監督のトミー・ラソーダや捕手のマイク・ピアザなどとの出会いも大きなプラスになった。

翌1996年にはノーヒッターを達成。さらにドジャース入団以来3年連続200奪三振も記録し、アジア人初のホームランも打った。順調だったメジャー生活も1997年オフには右肘を手術。その影響がピッチングにわずかな狂いが生じ、調子が良くない。結局、1998年途中でドジャースを退団し、メッツへ移籍。ここでもなかなか勝ち星に恵まれず、最後は自ら先発を辞退し、中継ぎとして投げた。

イチローとの日本人対決。1999年はキャンプから調子が良く、とある海外のマスコミは、メッツでも先発2番手の力があると報道していた。完全復活は間違いないかと思ってたところ、突然にシーズン開幕直前にメッツからの戦力外通告。カブスでのマイナーチームを経て、ブリュワーズとマイナー契約を結び、メジャーに戻ってきた。奇しくもブリュワーズは、野茂が憧れた江夏が日本球界を追われるような形でメジャーへ挑戦し、その夢が叶わなかった球団である。そして、野茂は12勝をあげる大活躍を見せた。

2000年シーズンを前にFAになり、他球団と交渉。いくつかの噂は流れたが、前ブリュワーズ監督を務め、2000年からタイガースの監督を務めることになったフィル・ガーナーに請われる形でタイガースと契約。伝統あるタイガースは、それまでのタイガースタジアムから新球場コメリカパークに移ることになっており、あらゆる意味で再スタートを切りたいタイガースにとって必要不可欠の選手といえた。しかし、投打がかみ合わず8勝12敗でシーズンを終えた。

タイガースからは再契約の意志がなく、いくつかの球団での野茂争奪戦が始まり、選んだチームがレッドソックスだった。野茂本人も開幕からワールドシリーズを意識できるとご満悦の様子だった。ノーヒッターで公式戦初登板を飾った。さらに5月25日にもブルージェイズ相手に1安打完封勝利を演じた。1シーズンの中でノーヒッターと1安打完封の両方を達成したのは、1997年のケビン・ブラウン(当時マーリンズ)以来の快挙である。

ワールドシリーズへの夢は、チームに怪我人が続出し、オールスター後に消えてしまった。シーズン途中にジミー・ウイリアムス監督が解任されるなどチーム状態も決して良くはなかった。ポストシーズンとは縁なくシーズンを終えた野茂はFAとなり、他球団と交渉開始。レッドソックス残留の可能性もあるが、移籍する可能性も十分にあり得る。2002年8月31日に34歳となる野茂、決して老け込む歳ではない。

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