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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2001.11.22〜11.27★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2001.11.27(現地11.26)
●ブローシャス、引退の方向へ!今季のヤンキースでは3人目!
スコット・ブローシャス
ヤンキースのサード、スコット・ブローシャスがどうやら引退する運びになりそうだ。ブローシャスは1997年オフにケニー・ロジャースとの交換でヤンキース入り。移籍1年目に打率3割の98打点をマークし、初めてのオールスター出場も果たし、ワールドシリーズではMVPに輝く働きを見せた。この年から始まるヤンキースの3年連続世界一の口火を切る形となった。ゴールドグラブ賞も1999年に1度受賞している。ヤンキースにとっては、ポール・オニールルイス・ソーホーに続く、3人目の引退選手となりそうだ。アスレティックスで7年、ヤンキースで4年を過ごしたブローシャスの通算成績は、打率.257、141HR、531打点である。

●オリオールズ、リチャードが手術で来季7月復帰により外野手補強へ!
クリス・リチャード
オリオールズの外野手、クリス・リチャードが痛めていた肩の手術を行い、復帰は来季の7月以降になることがわかった。このリチャードの怪我とブラディ・アンダーソンの解雇でオリオールズの外野手が手薄になるため、1人か2人の補強が行われそうだ。リチャードはカージナルスのマイナー組織で5年以上を過ごし、6年目となる2000年に初めてのメジャー昇格を果たす。そして、この年の7月末、オリオールズに移籍し現在に至る。今季の後半は指名打者となり、打率.265、15HR、61打点という数字を残している。

●FA登録選手、初の契約へ!バンポペルがレンジャーズ入り!
Texas RANGERS
カブスからFAになっていたトッド・バンポペルが、レンジャーズと3年間の750万ドルで契約を結んだ。今季FAになった155人の選手のうち、最初に契約が決まった選手となった。29歳のバンポペルは、1998年に短期間だけレンジャーズに在籍経験がある。そのときは4試合に登板し、1勝2敗の防御率8.84でパイレーツにトレードされている。翌年はパイレーツのマイナーで過ごし、2000年にカブスへ移籍してからはほとんどが救援登板である。今季はカブスで59試合に救援登板し、4勝1敗で自己最高の防御率2.52をマークした。キャリア通算では30勝43敗の防御率5.50という数字を残している。レンジャーズはバンポペルにクローザーとして活躍を期待している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.022
バリー・ボンズ★バリー・ボンズ #25★ サンフランシスコ・ジャイアンツ

37歳という年齢でとんでもない記録をうち立てた男がいる。その男の名はバリー・ボンズという。予想外の悲しい事件でシーズンが1週間も延期されてしまった2001年。野球どころではない、とまで言われたシーズン終盤、その記録は生まれた。

新記録となる71号を打った瞬間。10月5日の対ドジャース戦を迎えるまで、ボンズはシーズン70本ものホームランを打ち重ねていた。約3年前に当時35歳のマーク・マグワイアが樹立した大記録に並んでいたことになる。記録更新が話題となる中、そのボンズに対して先発のパク・チャンホは真っ向勝負。ボンズは第1打席に見事ホームランを放ち、あっさりと記録更新。第2打席にもホームランを放ち、記録を伸ばした。しかし、記録更新を果たしたこの試合、チームは乱打戦の末に10対11で敗れてしまい、ボンズの念願だったポストシーズン出場の道が絶たれた試合になってしまった。結局、ボンズは最終戦にもホームランを放ち、73HRとしてシーズンを終えた。

ボンズは生まれたときからのサラブレッドだった。父親はメジャーリーガーのボビー・ボンズで、母方の従弟にはレジー・ジャクソンがいた。さらに、バリーという名前の名付け親が名選手ウイリー・メイズであり、ボンズは父に憧れる一方、メイズに尊敬のまなざしを送った。

父親に連れられて、当時のジャイアンツの本拠地、キャンドルスティックパーク(後にスリーコムパークと改称)がボンズの遊び場であり、野球少年としてはこの上ない幸せな環境に恵まれている。なお、父は1970年代に「30−30(30HRと30盗塁)」を5度も達成するという名選手だった。

このボンズは衰えることってないのだろうか。父ボビーの自慢であるボンズは、当然のように野球を始め、高校時代の平均打率は.404と才能の片鱗をいかんなく見せつけた。3年生の頃には打率.467をマークし、オールアメリカの代表メンバーにも選ばれている。特に最後のプレーオフでは、16打数で3HR含む10安打で12打点を記録する猛打を発揮。そして、1982年6月のドラフトでは憧れのジャイアンツからドラフト2位指名を受けた。しかし、契約金が求める金額に届かないという理由で大学進学を選ぶ。

大学に入ってもその猛打はとどまることを知らない。大学に在籍した3年間で、打率.357、45HR、175打点を記録し、3年連続でオールスターメンバーに選出された。そして迎えた1985年6月のドラフトでパイレーツからドラフト1位指名(全米6番目)を受け、プロの世界に身を投じた。

指名されたその年、1Aプリンスウィリアムで71試合に出場し、打率.299、13HR、37打点、15盗塁を記録。翌1986年は3Aハワイで開幕を迎え、44試合で打率.311、7HR、37打点、16盗塁を記録し、早くも5月30日にはメジャー昇格を果たした。メジャー1年目は113試合に出場し、打率.223ながら、16HR、48打点、36打点を記録した。このころのボンズは、あまりにも慌ただしいメジャー昇格に不満をぶちまけ、背番号が子供の頃からずっとつけてきた憧れのメイズの24番じゃなく7番だということにも遠慮せず、不満を言った。

それまでの外野フライがスタンド入りと語るボンズ。レフトのポジションを確実に自分のものとし、背番号も希望の24番を手にし、スピード感あふれるプレーで活躍し始めたボンズ。一気にブレークしたの1990年のこと。打率.301、33HR、114打点、52盗塁を記録し、チームも地区優勝を果たしたこの年、ボンズは初めてのMVPを受賞した。翌年も打率.292、25HR、116打点、43盗塁をマークしたが、MVP投票ではテリー・ペンドルドンに次いで2位に終わった。

1992年は打率.311、34HR、103打点、39盗塁を記録し、90年に次ぐ自身2度目の「30−30」を記録し、2度目のMVPも獲得した。このころはチームメイトのボビー・ボニーヤと「キラーB」という名前で恐れられていたが、90年から3年連続地区優勝を果たしながら、プレーオフで敗れ、ワールドシリーズへの進出はできなかった。この年のオフ、FAとなったボンズは、子供時代の思い出がつまったジャイアンツへ移籍を果たした。

移籍1年目、希望の背番号24をつけたいと申し出たボンズだったが、ジャイアンツの24番はすでに永久欠番なため、父のつけていた25番をつけることになった。この年、打率.336、46HR、123打点と打撃3部門でキャリア最高記録を叩きだし、3度目のMVPを自らのふるさとにプレゼントした。

残留か移籍か?是非、自分が納得できる決断を!1996年はメジャー史上2人目の「40−40」を記録し、翌年には通算「400−400」も記録した。しかし、ワールドシリーズでプレーしたボンズにとっては、不満が残った。サンフランシスコに新本拠地パシフィックベルパークが誕生した2000年に自己最多の49HRを記録したボンズは、チームをプレーオフに導くが惜しくも敗れ、またしてもワールドシリーズへの夢は砕かれた。しかし、ボンズ自身もポストシーズンでは打率がわずか2割前後であり、大舞台に弱いというありがたくないレッテルも貼られている。

打撃と盗塁が話題になることが多いボンズだが、レフトの守備も評価が高く、ゴールドグラブ賞を8回も受賞している。まさに攻走守と3拍子揃った選手である。

年齢から晩年にかかると思われたが、さらなるピークは2001年にやってきた。この年、ボンズはホームランという記録に絞っても、オールスター前に39本打ったというのもメジャー記録であるし、30本、40本、50本、60本、70本のいずれもメジャー史上最速で記録している。さらに5試合の間に8本のホームランを放つというメジャータイ記録も樹立しているおり、これは1968年にフランク・ハワードも記録して以来である。

ホームラン以外の記録にスポットも当てても、シーズン177四球というのも1923年のベーブ・ルースの170四球を越えるメジャー記録であるし、長打率.863というのも1925年にロジャース・ホーンスビーが記録した長打率.756というリーグ記録を抜き去り、メジャー記録であるルース(1920年)の長打率.847をも抜き去った。記録ずくめなシーズンとはまさにこのことである。

ジャイアンツに移籍したばかりの1993年、3度目のMVPを獲得したとき、目標は?と聞かれて、今まで誰もやっていない4度目のMVPを取ることと答えたボンズ。時は流れて2001年、大記録を次々と作り、メジャーリーグ史上初の史上初の4度目のMVPを獲得した。

これまで3度のMVPを獲得したことのある選手は、ナショナルリーグではロイ・キャンパネラスタン・ミュージアルマイク・シュミット、アメリカンリーグではジミー・フォックスジョー・ディマジオヨギ・ベラミッキー・マントルと蒼々たるメンバーが並ぶが、ボンズはその中で頭一つ抜けた存在となった。このボンズがワールドシリーズのチャンピオンリングを手にする日は来るのか。

■2001.11.26(現地11.25)
●FAデーモン、アスレティックスへの愛着を語るが・・・!
ジョニー・デーモン
アスレティックスからFAになっているジョニー・デーモンがアスレティックス残留の気持ちがあることを明かした。今季のFAの目玉にはチームメイトのジェイソン・ジオンビーがおり、アスレティックスがジオンビーとの再契約に成功した場合は、デーモンへの資金がなくなるとされ、共に残留という可能性は非常に少ない。しかしデーモンは、アスレティックスはジオンビーがいなくてもポストシーズンに進出する力のあるチームだと語っており、アスレティックスに対しても愛着のある発言もしている。ジオンビーにはヤンキースが7年で1億2000万ドルを提示するという話もある。バリー・ボンズホアン・ゴンザレスなど実力派の外野手選手が多いFA戦線、デーモンはどこの球団を選ぶだろうか。すでにジャイアンツが興味を示しているとも言われている。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.021
ブラディミール・ゲレーロ★ブラディミール・ゲレーロ #27★ モントリオール・エクスポズ

所属チームがカナダに本拠を置く不人気球団であり、さらに英語が苦手で、本人も無口であるため、実力通りの人気が得られていない選手というのがブラディミール・ゲレーロである。走攻守に類い希な才能を見せるゲレーロはすでに一流選手であり、仮に人気球団に籍を置いていたのなら、現時点でとてつもない人気を手にしていることだろう。

恐るべき才能をもつゲレーロ。ドミニカ共和国に生まれたゲレーロは、幼き日から貧しさとともに過ごした。中学に入る前にドロップアウトし、魚などを売り歩き、生計を助けたという。16歳になった頃、ドジャースのアカデミーに参加し、約8週間にもわたってプレーした結果、契約は結んでもらえなかった。続いてレンジャーズのテストにも挑戦したがこれもダメだった。

そして、エクスポズのトライアウトに挑戦。外野から矢のような送球を2つ投げて、その強肩をアピール。打撃ではショートゴロを放ち、1塁へ駆け込んだ際に股関節を痛めてしまう不運。ゲレーロは不揃いのスパイクで臨んだわけだが、これだけのプレーでエクスポズは契約を申し出た。とはいっても実際のところ、この時点でエクスポズは高い評価をしていたわけではない。ともあれ、ゲレーロは見事に契約金2000ドルを手にした。

プロとしてのスタートを切ったゲレーロは、1994年のドミニカ・サマーリーグでは25試合に出場し、打率.424を記録し、才能の片鱗を見せた。翌95年は1Aアルバニーで110試合に出場し、打率.333、さらに翌96年は2Aハリスバーグで118試合に出場し、打率.363をマークし、リーグの首位打者にも輝いた。この年の9月後半、ついにメジャーへ昇格。この時点でまだゲレーロは20歳である。

FAとなったら、どれだけの金額が提示されることだろう。1997年は開幕から新人王の候補に挙げられていた。同じ候補には当時ドジャースにいた実兄のウイルトン・ゲレーロ(エクスポズを経て、現レッズ)もいた。しかし、開幕前に自打球を当ててしまい、いきなり故障者リスト入り。5月に入ってから戦線に復帰するが、結局この年3度も故障者リストに入る不運で、わずか90試合にしか出場できなかった。しかし、その中でも打率は.302をマークしたのはさすがである。

こうして迎えた1998年、前年の鬱憤をはらす大活躍を見せた。打率.324、38HR、109打点をマークし、チームの三冠王となる大活躍。シーズン38HRは球団新記録である。お金のないエクスポズだが、このゲレーロと5年契約を結んだ。

1999年は打率.316、42HR、131打点、2000年は打率.345、44HR、123打点をマーク。落ち込むチームの成績とは別に、ゲレーロはどんどん打ちまくり、球団記録を次々に塗り替えていく。迎えた2001年は、「30−30(34HR&37盗塁)」も記録した。

メジャー昇格後の数年は守備に粗さが見られたが、それも徐々に収まってきた。また、素手でバットを持つ姿も様になっており、昔のメジャーリーグを知る者からすれば、往年のハンク・アーロンなどを彷彿させる雰囲気を醸しているとの声もある。

25歳以下という若さでありながら、3年連続で打率3割、30HR、100打点を記録したのは、ジョー・ディマジオテッド・ウイリアムスジミー・フォックスとこのゲレーロのみである。

■2001.11.25(現地11.24)
●アラバマ州の実業家、ツインズ買収に興味津々!
Minnesota TWINS
アラバマ州の53歳の実業家、ドナルド・ワトキンスが球団を買収したいと動いている、すでにデビルレイズを買収しようとオファーを送っており、その間ツインズにも興味を持っていることを示した。1999年の段階でツインズの価値は8900万ドルとなっているが、その金額はワトキンスの考える上限よりも低いものであるという。仮にツインズを買収した場合は、即ミネソタの新球場建設に向けて動くと言っている。「ビジネスの基本は安く買って、大きな利益」と語るワトキンス。メジャーリーグに旋風を巻き起こすことはできるだろうか。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.020
マニー・ラミレス★マニー・ラミレス #24★ ボストン・レッドソックス

2000年オフにFAとなり、8年契約で1億6000万ドルという破格の金額でレッドソックス入りしたマニー・ラミレス。まさに鳴り物入りで入ったラミレスだが、2001年シーズンは開幕から絶好調。4月は打率.408、9HR、31打点と三冠王も狙えるハイペースで4月の月間MVPを獲得した。シーズンが終わってみれば、打率.311、41HR、125打点を記録。チームは怪我人続出で優勝を逃してしまったが、ラミレスにとって移籍1年目としては合格点の成績を残した。

勝負強い打者として知られるラミレス。ドミニカ共和国のサント・ドミンゴで生まれ育ったラミレス。13歳の頃に家族と共にニューヨークへ引っ越した。国籍はドミニカ共和国だが、ニューヨークのジョージ・ワシントン高校を卒業したためドラフト対象選手となり、結果として、インディアンズに全米13番目となる1位指名を受けた。

プロ1年目の1991年はルーキーリーグで、打率.326、19HR、63打点を記録し、ホームラン王と打点王の2つのタイトルを手にする。93年は2Aシャーロットで打率.340をマークし首位打者を獲得。このころから、出場試合数に近いだけの打点をマークするクラッチヒッターぶりを発揮。こうして1993年にメジャー昇格を果たし、レギュラーに定着したのが1995年のこと。この年、打率.308、31HR、107打点をマークした。

1998年のシーズン終盤には1試合3HRを含む4打数連続アーチを記録するという大当たりで、自己最多の45HRを放った。さらにこの年、日米野球のメンバーとして来日し、特大ホームランを放った。ちなみにラミレスは同郷のドミンゴ・マルチネスの影響もあり、日本のバットをずっと愛好している。

1999年は147試合に出場して165打点をマーク。これは1938年にジミー・フォックスがシーズン175打点を記録して以来の160打点以上である。これにより、この年制定されたばかりのハンク・アーロン賞も受賞した。

打率も高く、ホームランも打てて、打点数も凄まじい。これまで故障者リストに入ることなど1度もなかったラミレスだが、2000年は走塁で左足を痛め、キャリア初の離脱を経験。1ヶ月半の戦線離脱はチームに響いた。結局、チームはポストシーズン進出を逃したものの、ラミレスは、118試合の出場で、打率.351、38HR、122打点と文句ない成績を残した。

この年のオフにFAとなるラミレスの動向はシーズン中からずっと注目されていた。シーズン最終戦では、ファンのチーム残留を求める声の中、最終打席で特大ホームランを放つ。しかし、ファンの声もむなしく、このホームランがインディアンズのユニフォームを着ての最後のホームランとなった。

将来的に指名打者に転向し長くプレーしたいラミレスにとって、移籍候補としては必然的にアメリカンリーグのチームに絞られた。本人はインディアンズ残留も希望していたが、金額的に折り合いがつかず、しかも交渉中に同じくFAのエリス・バークスと契約を結んだこともあり、徐々に残留の可能性は薄れていった。こうしてラミレスは友人のペドロ・マルチネスがいるレッドソックスを選ぶことになった。

シーズン前のエキシビジョンゲームでは打率.138の1HRと期待を裏切る成績しか残せず、周囲から批判の声が相次いだが、本人は全く気にしなかった。シーズンが始まれば、怪我で離脱したノマー・ガルシアパーラの穴を埋める活躍を見せた。

1999年から2年連続で出場試合数より多い打点を叩き出したラミレス。大きな当たりばかりだけではなく打率もしっかりと残している。スイングを見ても決して大振りとは言えないが、コンパクトにまとまっているわけでもない。ただ、スイングスピードの速さが彼のバッティングを支えているといっても過言ではない。

「ニューヨークが勝つのはもう見飽きた」といってレッドソックス入りしたラミレス。このラミレスのいるレッドソックスがヤンキースを敗る姿を見るのは、2002年以降になりそうだ。

■2001.11.24(現地11.23)
●チーム削減問題、期間延長の可能性もチラホラ!
Major League Baseball
今月27日にシカゴにて、オーナー会議が行われる。チーム削減の方向で進むことは間違いないが、障害は想像以上に大きい。コミッショナーのバド・セリグはかつて、ブレーブスがミルウォーキーからアトランタへ移転した際、チームを失う悲しみを知ってるはずだとの批判もある。ひょっとするとチーム削減を1年以上先に延ばす可能性もある。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.019
チッパー・ジョーンズ★チッパー・ジョーンズ #10★ アトランタ・ブレーブス

2001年、アストロズとのディビジョンシリーズ第1戦において2対3と劣勢で迎えた8回表、アストロズのクローザー、ビリー・ワグナーから逆転の3ランホームランを放ったチッパー・ジョーンズ。この1発がチームを勢いに乗せた。ブレーブスはこのシリーズ、あっさりと3連勝を飾り、リーグチャンピオンシップシリーズへと駒を進めた。惜しくもダイヤモンドバックスの前に敗れてはしまったが、チッパーの勝負強さを十分に証明した1発となった。

まさにブレーブスの顔であるチッパー。本名はラリー・ウェイン・ジョーンズ・ジュニア。父親に非常にそっくりだったため、「ア・チッパー・オフ・ザ・オールド・ブロック(親にそっくりな男の子)」という言葉からチッパーの愛称で呼び親しまれるようになった。父はその昔、カブスから下位でドラフト指名されながらプロ入りをためらったという過去を持っている。チッパーは幼き日から父の後を追っかけ、気がつくと当たり前のように野球をやっていた。

現在スイッチヒッターとして名をはせるチッパーだが、これもミッキー・マントルを信奉した父の影響である。ドジャースファンでありながら、マントルを信奉し続けた父は、チッパーが3歳の頃から右と左を交互に打たせていたという。ちなみにチッパー自身はカル・リプケンに憧れていた。こうして順調に育ったチッパーは、12歳の頃にはリトルリーグのワールドシリーズにも出場した。

高校時代からバッターとしてもピッチャーとしても高い成績を残して注目を浴びた。しかし、チームメイトとのケンカが元で、右腕を骨折しながらマウンドで投げ続けたことが、チッパーへの評価を分かれさせた。そして迎えた1990年6月のドラフトでは、ブレーブスがドラフト1位(全米1番目)で指名。金額よりも野球をやりたいチッパーは、指名を受けてからわずか2時間後には契約を交わしていた。さらに2週間後にはブレーブス傘下のマイナーチームでプレー。この年は以前に骨折した右腕の状態もあり、44試合に出場し打率.229に終わった。

両打席からホームランが打てるスイッチスラッガー。チーム一ともいえる練習量をこなしているチッパーへの評価はドンドン高くなっていく。1991年には1Aで136試合に出場し、打率.326を記録するなど確実にメジャーへの階段を登っていた。そして1993年9月、ついにメジャー昇格を果たす。しかし、これからというときの1994年シーズン開幕前、ゴロを追う際に不自然に体をひねってしまい、これが元で左ヒザ靱帯断裂。新人王さえ期待されたシーズンを棒に振ってしまう結果になった。

これまでずっとショートを守っていたが、本格的に復活した1995年からサードにコンバート。ちょうどストライキの明けたシーズンで、野茂英雄と新人王を争ったことでも知られる。結果的に新人王こそ逃したものの、チームはアトランタに移転後初の世界一に輝き、チッパーは記念すべきルーキーイヤーにチャンピオンリングを手にしたことになる。大舞台に強いところはこのころから既に見せており、ブレーブスの将来の鍵を大きく握る男であろうと周囲は確信を持った。

実質2年目となった1996年は打率3割を記録し、ホームランも30本を数え、2年目のジンクスのかけらも感じさせなかった。打撃成績がすべて1年目を上回っているチッパーは、すでにリーグを代表するサードに育っていた。

1999年、打撃に関する安定感はさらに増した。ガンで出場できないアンドレス・ガララーガのいないブレーブス打線を背負い、ワールドシリーズ進出を見事に果たした。シーズン終盤、地区2位のメッツと熾烈な首位争いを演じていたが、直接対決3連戦でチッパーが4本のホームランを放ち、チームは3連勝を飾った。この活躍でブレーブスは地区優勝を決めたといっても過言ではない。

スイッチヒッターであっても左打席からの長打は多いが、右打席の長打は少なかった。しかしこの年から打撃コーチに就任したドン・ベイラーの指導もあり、右打席からのホームラン数が急増した。この年、打率.319、45HR、110打点と文句なしの成績を残したチッパーは初めてのMVPも活躍した(ベイラーは翌年からカブスの監督となったため、打撃コーチとしては1年のみ)。

チームリーダーとしての活躍を十分に見せている。チッパーはマイナーにいた1992年に結婚していたが、後に他の女性との私生児が話題になり、結局破局を迎えてしまう。ボロボロで臨んだはずの1999年だったが野球にトコトン打ち込み、メジャーリーグ史上初の打率3割、2塁打40本、ホームラン40本、100四球、20盗塁以上をそれぞれ記録するなど、精神力の強さも見せた。

2000年いっぱいで契約が切れるところだったが、シーズン途中にブレーブスと6年間の9000万ドルで契約更新。これでグレッグ・マダックスを抜き、チーム1の高給取りとなった。本人は金額のことより、ブレーブスのユニフォームを引き続き着られることに満足感があるらしく、当分の間、ブレーブスの顔としての活躍が期待されている。

2001年シーズン序盤はチームの低迷と共にチッパーのバットも湿った。特に5月は打率.188、7HR、14打点と非常に苦しい内容。しかし、6月に入りチームが勝ち進む中でチッパーも当たりを取り戻し始める。6月16日のレッドソックス戦ではかつて新人王を争った天敵、野茂からキャリア初のヒットも記録し、勢いに乗り始めた。

ブレーブスは投打がかみ合わず、かろうじて10季連続ポストシーズン進出を決めたが、これまでとは違って苦しんだシーズンだった。そのブレーブスの打の軸がチッパーであることは、この年記録した打率.330、38HR、102打点という成績がそれを証明している。ブレーブスとしてはチッパーを相互的に生かせる選手を、なかなか定着させられなかったことが、シーズン通して苦しんだ大きな原因といえそうだ。

■2001.11.23(現地11.22)
●マーリンズ、1億5000万ドル以上で売却か!?
Florida MARLINS
マーリンズのオーナーであるジョン・ヘンリーは球団を、1億5000万ドル以上で売却するということを発表した。ただ実際に売却が承認されるのは、来週のオーナー会議で全30球団中23球団のオーナーが合意した時のみである。噂のチーム削減問題にも影響を与えそうだ。1997年に創立5年目で世界一に輝いたマーリンズ。今季は76勝86敗と地区4位にとどまったが、ここ4年間では合わせて273勝374敗と大きく負け越している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.018
スコット・ローレン★スコット・ローレン #17★ フィラデルフィア・フィリーズ

2001年のオフはバリー・ボンズジェイソン・ジオンビーのFAが大きな問題となっているが、2002年にFAとなるスコット・ローレンとの契約問題も大きな話題となっている。長期契約を結びたいフィリーズは、26歳と若いローレンに対して10年契約の1億4000万ドルの大型契約を提示したが断られてしまった。昨年オフの交渉の際にも長期契約を断られているため、移籍の可能性が現実味を帯びてきた。

フィラデルフィアのフランチャイズプレイヤーになるか、それとも・・・。1993年、ドラフト2位でフィリーズ入り。毎年着々と力をつけてきたローレンは、かつてのフィリーズの名選手であり、殿堂入りも果たしているマイク・シュミットと同じサードを守っていたため、比較されることが多かった。マイナー時代から「シュミット2世」と言われるほどのフィリーズ期待の有望株だった。

こうして迎えた1996年、開幕は2Aだった。そして自らの誕生日(4月4日)に行われた開幕戦でホームランを打つ幸先のいいスタートを切ったローレン。結局、2Aでは61試合に出場し、打率.361、9HR、42打点と文句なしの成績を残し、6月には3Aへ昇格。そして、この年の8月1日には念願のメジャー昇格を果たした。

昇格後、即スタメン入りしたローレンは、メジャーの壁に苦しみながらも結果を徐々に出しつつあった。8月21日の対ドジャース戦では野茂英雄から、メジャー初ホームランを含む1試合2ホームランを記録した。しかし、9月7日のカブス戦でスティーブ・トラクセルから死球を受けて骨折し、戦線離脱。思わぬ怪我でシーズンを終えることになったローレンだが、ちょうど打数が130打数であり、ギリギリで来季へ新人王の望みをつなぐ結果となった(新人王受賞資格は野手の場合、前年まで通算130打数以下でなければならないという条件があるため)。

勝負強さには定評あり。満を持して臨んだ1997年シーズンは156試合に出場し、打率.283、21HR、92打点を記録し、文句なく新人王を受賞。翌1998年にも打率.290、31HR、110打点を記録し、早くも一流プレイヤーの仲間入りを果たした。しかし、1999年はシーズン後半に背中を故障してしまい、終盤の1ヶ月を棒に振ってしまった。この怪我が元で翌年も故障者リスト入りするなど思うような成績を残せなかった。

2001年は、チームが開幕3連勝を飾るなど絶好調なのに対し、ローレンの打棒は湿りがちだった。4月が終わった段階で、打率.205と大きなスランプ状態に陥っていた。監督のラリー・ボーワとの不和も伝えられるなど、苦しい時期だった。オールスターが始まる前までで、打率.278に戻すので精一杯だった。

後半戦に入り徐々に成績を残しつつあったローレン。チームは地区優勝が指定席になっているブレーブスを、シーズン終盤まで大いに苦しめた。特に9月17日のブレーブス直接対決第1試合に、キャリア9度目の1試合2HRを記録し、怪我をする前の1998年に記録して以来のシーズン100打点を達成した。

結局ブレーブスに振り切られ、ポストシーズンに進出することはできなかったが、土壇場でのローレンの勝負強さは十分に知らしめることができ、それはまさにフィリーズの若きチームリーダーとしてのものだった。

強肩であり、さらに守備範囲が広く俊敏なローレンのサードの守備には定評があり、ゴールドグラブ賞をすでに3回(1998,2000,01年)も受賞している。サードを守るショートストップという言い方が適当だ。さらに足も速く、盗塁の技術も非常に高い物を持っている。

球場外では読書を愛する物静かな好青年というイメージだが、死球をぶつけられた野茂に対し翌日ロッカールームに殴り込みをかけたという逸話も持っている。しかし、両親が共に教師であり、後に兄も姉も教師になる家庭に育ったこともあり、実際は非常に物静かな好青年である。

■2001.11.22(現地11.21)
●FAスモルツ、先発かクローザーか!?移籍か残留か!?
ジョン・スモルツ
今季肘の手術から復活したばかりのジョン・スモルツ。そのスモルツがFAとなり、これまで14年間過ごしてきたブレーブス以外のユニフォームに袖を通す可能性も出てきた。復活後、チーム事情からブルペンに回り、後半戦だけで10セーブをあげる活躍を見せている。というのも先発復帰したいスモルツに対し、ブレーブスはクローザーで使いたいという希望があるためである。スモルツ自身は先発なら20勝、リリーフなら50セーブあげられると言っている。すでに世界一になったばかりのダイヤモンドバックスが獲得へ動いているとも伝えられている。

●再び、シカゴでオーナー会議!焦点はもちろんチーム削減!
Major League Baseball
チーム削減の噂に挙がっているツインズの地元ミネソタで、地方判事が球団続行の指示を出したことから、来週再びシカゴでオーナー会議が行われることになった。しかし、チーム削減の流れを止めることはすでに難しい状況になっている。有力な削減候補チームはエクスポズとツインズだが、マーリンズ、アスレティックス、デビルレイズも候補として挙がっている。

●サンディエゴ、新球場建設再開!順調にいけば、2004年開場!
San Diego PADRES
サンディエゴに新しい球場ができることが正式に決まった。3年前に建設が決まったはずだったが、金銭の問題もあり14ヶ月の間、保留されていた。しかしこの度、改めて建設が再開されることになり、順調にいけば2004年には新球場開幕となりそうだ。なお、新球場はサンディエゴの宝であるバルボア公園とサンディエゴ湾の2つをリンクすることになりそうだ。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.017
ジャーメイン・ダイ★ジャーメイン・ダイ #24★ オークランド・アスレティックス

<written by やっち>

2001年のア・リーグ・ディビジョンシリーズ、ヤンキースvsアスレチックス最終戦。フィールド上に彼の姿は無かった。第4戦の3回の打席で彼は自打球を膝下に当て脛骨を骨折してしまったのだ。この時点でアスレチックスの敗退は決まっていたのかもしれない。代わりに出場した選手(ロン・ガントetc)は活躍したのだが彼の戦線離脱は計り知れない程大きかった。波乱に満ちたジャーメイン・ダイの2001年は、こうして静かに幕を閉じた。

まだまだ伸びる余地あるダイ。カリフォルニア州出身の彼は少年時代、あるゆるスポーツに長け、休日には父親と共にサンフランシスコの海岸で釣りに興じる活発な少年だった。小さい頃から運動能力の高さを発揮していた彼がWill C. Wood高校の3年生になる頃にはフットボール・バスケットボール・野球の全てでスター選手になり、Cosumnes River Community大学では外野手よりも投手を務めることが多かった。当時から強肩は際立っていたのだ。

1993年6月のドラフトでアトランタ・ブレーブスの17巡目で指名を受け入団した彼は、指名順位こそ高くなかったものの順調に成長を続け、21歳で迎えた95年にはAA級グリーンビル球団で104試合 打率.285、15本、71打点という好成績を残すまでになり、メジャーまで後一歩のところまで漕ぎ付けたが96年にAAA級リッチモンド球団に昇格してから壁にぶつかり36試合に出場した時点で 打率.232、6本、19打点と不振にあえいでいた。

ところが彼に思わぬチャンスが巡ってくる。メジャーでデビッド・ジャスティス右翼手が右肩を故障し、長期戦線離脱を余儀無くされたのだ。ブレーブスの組織下で有望な外野手の筆頭は彼だった。95年の成績と潜在能力の高さが認められたのだ。

メジャー昇格を果たし、迎えた96年5月17日対レッズ戦。彼はメジャー初打席で本塁打を放った史上71人目の選手になった。この本塁打でチャンスをガッチリつかんだ彼は96年レギュラーシーズンを98試合、打率.281、12本、37打点という上々の成績で終えチームの地区優勝に少なからず貢献した。新人王投票でも2ポイント獲得している。しかし、ディヴィジョンシリーズでは39打数8安打、ワールドシリーズでは17打数2安打に終わり、ポスト・シーズンのルーキーの話題はワールドシリーズ初戦で2本塁打を放った19歳のアンドリュー・ジョーンズの事で持ち切りになってしまった。

アスレティックス加入後、チームの快進撃に大きく貢献。96年Wシリーズ敗退後、ブレーブスは外野陣の大胆なメンバー刷新を図る。まず、レギュラー外野手のマーキス・グリッソムとジャスティスをインディアンスのケニー・ロフトンとトレードしたのだ。ファンの誰しもが、そしてダイ自身も自分とA・ジョーンズにプレーイングタイムを与えるためのトレードだと思っていたが、そうではなかった。

97年シーズン開幕直前、ダイは左腕の中継ぎ投手ジェイミー・ウォーカーと共にロイヤルズの外野手マイケル・タッカー内野手キース・ロックハートとトレードされる。ここからダイの試練が始まった。度重なる怪我によって97年は75試合、98年は60試合の出場にとどまり、打率は2割3分台に低迷した。折りしもブレーブスに加入した2人は内外野の貴重な準レギュラーとして大活躍。トレードはブレーブスだけが成功を収めたといった記事も増えた。怪我に脆い選手というレッテルも貼られた。辛い時期だったに違いない。

長く苦しい2シーズンを終え、迎えた1999年は彼にとって大ブレークの年になった。レギュラーポジションで初めてのフルシーズンを戦った彼は打率.297、27本、119打点、二塁打44本という素晴らしい成績を収め、守備面でもゴールドグラブは逃したがア・リーグ最多の17捕殺を記録する。2000年には打率.321、33本、118打点 二塁打41本と更に成績を上積みし、オールスター先発出場も果たし、ゴールドグラブも獲得した。四球を増やし三振を減らすなど我慢する事も憶えた。

ただ、2000年の成績は確かに素晴らしいのだが終盤かなり失速した感は否めない。4月に2桁の本塁打と二塁打を打ったMLB史上初の選手になりオールスター前に20本塁打を軽くクリアした彼だったが30本に到達してから彼は残りの39試合で3本のホームランしか打てなかった。ロイヤルズの球団記録は36本なだけに好調を持続して欲しかった。

更なる飛躍を期待された2001年、彼は新ストライクゾーンと実績を挙げた事による徹底マークにかなり悩まされた様だ。元々彼のバッティングフォームは決して美しくない。不調に陥るとバットにボールが当たる前にピッチャーに正対する位、体が開いてしまう事がある。好調時でも開き気味に打つバッターなのだ。恵まれた体格から生み出される、せっかくのパワーがバットに完全に伝わっているとは言えない。それでもある程度の打率と30本前後は計算できるのだから、物凄い身体能力の持ち主だ。彼のスウィングで高目の球を強く叩くには始動を早くし確実性は捨てなければならない。ボールを引き付けていたら強い打球は打てない。にもかかわらず彼は高目の球が好きなのだ。そして、不調時の汚いスウィングでもホームランに出来るパワーを持っているから厄介だった。度々高目のボール球に手を出す癖を指摘されている。

ジオンビーとのコンビは今季限りか!?99年彼は高目のボール球を捨てる事を憶え急成長を遂げた。その捨てていたボールがストライクとコールされる事が今年は増えた。せっかく我慢する事を憶えたのに高目の球をスウィングしなければ、益々不利になってしまう。彼は完全にバッティングフォームを崩した。

2001年シーズン終了後、FAとなる彼を引き留めるお金の無いロイヤルズにとってはシーズン前半の彼の不調は、ある意味嬉しい悲鳴だった。放出の口実が出来たのだ。7月下旬ロイヤルズのダイとロッキーズのネイフィ・ペレスとのトレードが決まると、すぐさまアスレチックスがロッキーズに若手3選手(ホゼ・オティーズマリオ・エンカーナシオントッド・ベリッツ)とダイのトレードを申し出て成立させる。

アスレチックスにとって守備力のある右翼手と右の大砲を兼ねる彼の獲得は大成功だった事がすぐに証明される。周りに良いバッターが沢山いる事でプレッシャーから開放されたのか、それとも好調時の自分のビデオを見続けた事が功を奏したのか、彼はフォームを取り戻し、8月に月間MVPとなる打率.330、7本、32打点の大活躍をしたのだ。その後も活躍を続け、ロイヤルズでは97試合で47打点しか挙げられなかったがアスレチックスでは61試合で59打点という勝負強さを見せつけた。守備面でも2年連続でゴールドグラブを獲得した彼が加入した事で、それまで左翼だったスピードのあるジョニー・デーモンに本拠地の広いセンターを任せ、ジェレミー・ジオンビー(弟)やテレンス・ロングの起用法を流動的にする事が出来た。彼の守備範囲は広大で、その強肩は走者が走るのを躊躇する為に捕殺が減少するレベルに達している。オールラウンダーとしても新たな一歩を踏み出したようだ。俊足ながら盗塁を全く試みない事で有名だったが今年は9回盗塁を成功させ、失敗は1個。昨年までの通算は成功7個失敗11個である。攻守両面で彼がアスレチックスにもたらした恩恵は計り知れない。後半戦の快進撃は彼抜きには語れない。

ワイルドカード史上最強の称号を手に入れディヴィジョン・シリーズに乗り込んだアスレチックスだったがヤンキースに敗退した。フィールド上に彼の姿は無かった。長いスランプの後、紆余曲折を経て大爆発し挽回したシーズンだが最後の最後に悔いを残してしまった。実は今年の4月にも彼は自打球が原因で2試合程休んでいる。何とか原因を究明し、同じ失敗を繰り返さないで欲しいものだ。

ジェイソン・ジオンビー(兄)、デーモンそしてダイ自身の動向次第だが、アスレチックスが今期の布陣で来期も開幕を迎えられれば、30代の野手はジオンビー兄ただ一人。28歳で開幕を迎えるダイもこのチームでは決して若い方では無い。チームリーダー的役割も要求されるだろう。加えて投打共に左右のバランスも良いこのチームで彼は右の大砲という重要な役割を担う。「21世紀版ウィズ・キッズ」とも言えるアスレチックスの浮沈の鍵を握るのは間違いなく彼だ。

「“ダイ”ナマイト」の異名を獲る彼だが、時として爆発しなくなってしまう。2000年前半の活躍と2001年後半の活躍を持続できれば彼はその異名に恥じない選手になれる。怪我を早く治し、来季はMVP級の活躍を期待したい。

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