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MLB EXPRESS

MLB EXPRESS REVIEW

★2001.11.17〜11.21★ [MLB EXPRESS REVIEW]

■2001.11.21(現地11.20)
●イチロー、僅差でMVP獲得!新人王との同時受賞は史上2人目!
イチロー
アメリカンリーグのMVPは接戦となったが、イチローが僅差でジェイソン・ジオンビーを振り切り、メジャー史上2人目となる新人王とMVPの同時受賞を手にした。イチローは日本プロ野球で3度のMVP(1994〜96年)を獲得しており、自身4度目のMVPである。ちなみに史上初の新人王とMVPの同時受賞は1975年のフレッド・リンが記録している。

▼American League
1st 2nd 3rd total
イチロー
J・ジオンビー
B・ブーン
R・アロマー
J・ゴンザレス
A・ロドリゲス
J・トーミ
R・クレメンス
M・ラミレス
D・ジーター

11
8
7
2
-
-
-
-
-
-

10
11
4
2
-
1
-
-
-
-

3
7
8
2
3
2
2
-
-
-

289
281
259
165
156
141
107
67
50
42

イチローは1位票が11票、2位票が10票のトータル289ポイント、ジオンビーが1位票8票、2位票11票のトータル281ポイントとわずか8ポイント差だった。これだけ僅差でのMVP投票というのは、1996年にホアン・ゴンザレスが290票、アレックス・ロドリゲスが287票と3票差だったとき以来である。

今年からマリナーズのトップバッターに定着したイチローは、メジャー1年目で打率.350を記録し首位打者を獲得。新人での首位打者は1964年のトニー・オリバ以来の快挙である。さらに56盗塁で盗塁王も獲得し、今季記録した242安打も新人最多安打記録で、これだけ打った選手というのも1930年にビル・テリーが254安打打って以来である。

一方のジオンビーは昨年に続いての2年連続MVPを逃した。しかし、打率.342、38HR、120打点と文句のない成績を残し、チームをポストシーズンへ引っ張った。さらに3位のブレット・ブーンも当初のMVP候補だった。今季のブーンは打率.331、37HR、141打点といずれもキャリア最高の成績であった。

●レッドソックス、タイガースから自由契約になっていたクラークと契約!
トニー・クラーク
レッドソックスはタイガースからウェーバーにあがっていたトニー・クラークと契約した。来季オフにFAとなるクラークはここ数年、怪我に悩まされており、金額に見合う活躍はできていなかったため、タイガースから自由契約になっていた。クラークは1996年に27HRを記録し、新人王投票の3位となった。キャリアベストは1998年で、打率.291、34HR、103打点を記録している。今季はオールスターまでで77試合に出場し、打率.305、51打点を記録し、オールスター出場の名誉も手にした。しかし、後半戦は右手首を痛め、1年通しての活躍ができなかった。

●FAのブーン、高額契約求めて長期戦へ突入!
ブレット・ブーン
MVP投票では3位に終わったが、今季はまさにMVP級の働きを見せたブレット・ブーン。キャリア最高の数字を残し、今はFAとなっているが、既にマリナーズから提示された3年間で約2300万ドルという契約には難色を示している。今季の年俸が325万ドルだったブーンが狙っているのは、1年当たり800万ドルから1000万ドルといった高額である。レッドソックス、レンジャーズも獲得に動いているらしく、長期戦となりそうな気配である。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.016
レイ・オルドニェス★レイ・オルドニェス #10★ ニューヨーク・メッツ

<written by ロビンベンチュラ>

Rey−Oの愛称で親しまれているレイ・オルドニェスはキューバの亡命選手である。1993年、ニューヨーク州バファローで開催された「ワールド・ユニバーシティー・ゲーム」でキューバ代表として参加したときに、宿舎を囲む高さ2.5mのフェンスをよじ登った。その年の秋、ニューヨーク・メッツに入団。ファームで2年を過ごし、96年春からメジャーリーガーの仲間入り。抜群の俊敏性と強肩、軽快なグラブさばき、派手なフィールディングで、いまやスポーツ番組の「好プレー集」には欠かせない存在となっている。

アクロバットな守備が魅力のレイ。デビューは鮮烈だった。1996年4月1日、対カージナルス戦。7回表、カージナルスは一塁にロイス・クレイトンを置いて、レイ・ランクフォードがレフト線を破る痛烈なヒット。ボールが転々とする間に、スタートを切っていたクレイトンは三塁を回る。ここからだ。左翼手バーナード・ギルキーからの中継ボールを、外野深くで両ヒザをついて受け取ったオルドニェスは、そのままの体勢からバックホーム。送球はワンバウンドで捕手トッド・ハンドリーのミットに吸い込まれ、タッチアウト。175cm、72kgの小柄な体格が“初代”にそっくりだったこともあり、キャンプ時から「オジー・スミス二世」と騒がれていた実力を、いきなり開幕から、それも“本物”の前で披露したのだ。試合後、スミスはあきれ返りながらこういった。「これまで“オジー二世”といわれた選手を何人も見てきたが、いつの間にかみんな消えてしまった。ヤツこそが本当にそうなるかも知れない」

この予言は“半ば”的中したといっていいだろう。デビュー当時は派手なファインプレーと凡ミスが同居していたが、年々堅実さを身につけ、その素晴らしい守備で見る者を魅了し続けている。とにかく守備範囲の広さは驚異的だ。全力で背走した末のジャンピングキャッチ。二塁ベース右にまで回り込んでボールをもぎ取るようにつかみ、一塁へ矢のようなスローイング。セカンドゴロや浅いライトフライまで捕ってしまうほどだ。また、エドガード・アルフォンゾ二塁手との絶妙なコンビネーションは必見に値する。アルフォンゾが体勢を崩しながら捕ったボールをオルドニェスにトス。ボールを受け取った瞬間、オルドニェスは目にも止まらぬ速さで一塁に送球し、見事アウトにしたプレーもある。

もちろんゴールドグラブ賞の常連で、1997年から99年まで3年連続で受賞。2000年の途中、走者との交錯プレーにより左前腕部を骨折し、残りのシーズンを棒に振ったため、連続受賞は途絶えた。しかし、故障さえなければ、今後10年ゴールドグラブが彼のものであることは間違いないだろう。

深い当たりにも果敢に飛び込んでいく。2000年3月29日、東京ドーム。日本における史上初の大リーグ開幕戦が東京ドームで開かれた。オルドニェスはこのシカゴ・カブスとの一戦で、まさかのエラー。99年から続いていた遊撃手としての連続ノーエラー試合記録が104でストップしてしまった。大リーグ通の間では「あれを見られただけでも来た甲斐があった」と評判になったほど希少価値のある“ビッグ・プレー”だった。

エラーが話題になるほどの守備力に比べて、打撃にはコレといった特長がない。メジャーデビュー以降、通算打率は.243。8番が指定席になり、“守備の人”に甘んじている。吉井理人投手がメッツ在籍時に、ランナーを置いてオルドニェスに打順が回ってきたとき「俺が打って返すから、オマエは三振してこい」とからかった。そんなエピソードが伝わってくる有り様だ。しかし年々、向上はしている。1999年は打率、打点で自己ベストの記録を残し、2001年は出塁率.299、長打率はキャリアハイの.336をマーク。打撃開眼の兆しは見えてきた。

守備と同じく性格も派手なところがあり、99年には、移動中のバスの中で、同僚のルイス・ロペス選手(現ブリュワーズ)と殴り合いのケンカになり、左目の下を数針縫うケガを負っている。“Nicejobb”のあとベンチに帰って行なう新庄剛志選手とのジャンピング・ダンスも板についてきた。

野生的な運動神経。アクロバティックなミラクルプレー。過去、何人も現われた「オジー・スミス二世」に最もふさわしい選手の座を、現役のショートストップでオマー・ビスケル(インディアンズ)と争えるのは、Rey−Oしかいない。

■2001.11.20(現地11.19)
●73HRのボンズ、史上初のMVP4度目の受賞!
バリー・ボンズ
今季73HRを記録したバリー・ボンズが、1位票を30票も集め、トータル438ポイントを獲得し、ダントツでのMVP受賞となった。ボンズはパイレーツに在籍していた1990年、92年、ジャイアンツにFA移籍したばかりの93年にMVPをそれぞれ獲得しており、今年の受賞でメジャーリーグ史上初となる4度目のMVPとなった。

▼National League
1st 2nd 3rd total
B・ボンズ
S・ソーサ
L・ゴンザレス
A・プホルス
L・バークマン
S・グリーン
J・バグウェル
C・ジョーンズ
T・ヘルトン
C・シリング

30
2
-
-
-
-
-
-
-
-

2
17
8
5
-
-
-
-
-
-

-
8
21
3
-
-
-
-
-
-

438
278
261
222
125
112
109
100
90
24

今季のボンズはホームラン記録に加え、長打率.863と177四球というメジャー記録も樹立。通算ホームラン記録も567本とし、これは歴代7位となる大記録である。すでに年齢は37歳となるボンズだが、ここ5年間においては1年当たり47本のホームランを打っていることになる。

今季限りでFAとなるボンズはオフの目玉の一人である。代理人であるスコット・ボラスは5年契約を結んでくれる球団を探しているという。ボンズが今のペースでホームランを打ち続ければ、5年後の2006年にはハンク・アーロンの通算ホームラン記録を抜く、802本のホームランを打つことになる。しかし、ボンズはそのとき42歳となっている。

トータル2位のサミー・ソーサは、今季打率.328、64HR、160打点と三冠王をとってもおかしくない数字だった。しかし、ソーサに投じられた2票の1位票は地元シカゴの記者だった。3位はルイス・ゴンザレス、4位は新人のアルバート・プホルスだった。

これまで3度のMVPを獲得したことのある選手は、ナショナルリーグではロイ・キャンパネラスタン・ミュージアルマイク・シュミット、アメリカンリーグではジミー・フォックスジョー・ディマジオヨギ・ベラミッキー・マントルと蒼々たるメンバーが並ぶが、ボンズはその中で頭一つ抜けた存在となった。

●環境を変えたいエバレット、レッドソックスへ移籍希望!
カール・エバレット
先週、移籍確実のカール・エバレットに対してレッドソックスは残留もありうるとほのめかしたが、エバレット自身は移籍を希望しているということが報じられた。移籍先としてはデビルレイズ、カブス、ロッキーズが候補としてあげられており、ジェフ・シリーロという具体的な名前も出てきている。昨年は137試合に出場し、打率3割、34HR、108打点を記録したが、今季は右膝を痛めたこともあり、わずか102試合の出場にとどまり、打率.257、14HR、58打点に終わっている。

●リード、移籍か残留か!揺れる心中!
リック・リード
今季7月末にメッツからツインズへ移籍してきたリック・リードが、移籍か残留かで揺れている。3月15日まで契約しなければ、FAでツインズはリードを失うことになるが、ツインズそのものがなくなる可能性もあり、難しい状況になっている。今季、メッツでは20試合に先発し、8勝6敗の防御率3.48だったが、ツインズに移籍後は12試合の先発で4勝6敗の防御率5.15と期待を裏切る形になった。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.015
デビッド・エクスタイン★デビッド・エクスタイン #22★ アナハイム・エンゼルス

<written by 3:16>

デビッド・エクスタインは童顔のルーキーだが、1975年1月生まれの26歳。今年はイチローCC・サバシアがいたため、注目されてはいないが、ルーキーオブザイヤーの投票では3位票を6人も集めた。エンジェルズ期待のルーキーである。

チャンスをつかみ、ひたむきなプレーでそれに答える。いつもひたむきで練習の虫、どこか光るものを感じさせはするのだが、いかにも体が小さいため、なかなかチャンスをもらえないまま、年齢的にもはや期待も失せかけようとしていた矢先にウエーバーでエンジェルズへトレードされ、これが大きな転機になった。

1997年、フロリダ大学にいたエクスタインはレッドソックスに19順目でドラフトされる。シングルAから、AAAポータケットまで、リードオフマンの2塁手として活躍し、どのレベルにおいても、守備はいつもリーグで1位の堅実さ、打率は3割を切ったことがないし、出塁率は、いつでも.425近辺の数字を残してきた。しかし、見た目に上手くなさそうに見えるグラブ捌きや、俊敏そうでない動き、体の小ささ、年齢などの“見た目”の問題でボストンではチャンスに恵まれなかったのである。

エンジェルズに来てからは、多分に運が味方した。3月末、A’ sとのオープン戦で、セカンドのアダム・ケネディが手に死球を受け故障したため、セカンドでの出場機会を得る。このチャンスにスタートダッシュをかけ、4月12日まで打率4割をキープ。普段の練習振りをよく見ていたマイク・ソーシア監督の信頼を勝ち取った。ケネディが戻った後もデビッドを使いたい為、ソーシア監督はショートを守らせる。DHのグレナレン・ヒルが1割台の低打率にあえぐと、DHにも試し、デビッドを使いつづけようと試みた。5月に入り、ベテランショートのゲーリー・ディソーシーナが関節の手術に踏み切った頃、ついにソーシア監督は、デビッドをショートストップとして固定することを決意する。

来年以降も非常に注目の一人である。5月末には、42打席中、41打席に出塁する離れ業を見せた。5フィート8インチ、170ポンドの小さい体を思い切りベースに被せて構え、がむしゃらに出塁する戦法だ。しかし今度は相手チームにインサイド攻めを徹底され、53打数6安打のスランプに陥ってしまう。それでもソーシア監督はデビッドを使いつづけてくれたため、7月19日の4打数4安打でついにスランプから脱出。一方、デビッドはゲームの中で学びつづけ、4月−7月の4ヶ月でたったの9個だった盗塁を、8−9月の2ヶ月で20個も記録する(今年は9・11の事件のため、シーズンの1週間は10月に延期されたので、うち4個は実際は10月に記録)。

8月26日、地元アナハイムのヤンキース戦で、5−6、1点ビハインドの9回裏ツーアウト、ランナーなしの場面で、ファブリガスの2塁打に続いて、デビッドがヤンキース不世出のクローザー、マリアノ・リベラから放ったセンター右への起死回生同点タイムリーは、エンジェルズファンは決して忘ることはないだろう。

この時点で、十分にワイルドカードの可能性もあったチームだが、先発投手陣の経験不足、チーム全体のスタミナ切れもあって、あいにく9月に失速、チーム自体は戦線離脱してしまったが、デビッドは、来年のために学びつづけていたことだろう。

レギュラーに定着した今でも、デビッドがショートから1塁へ送球する時、なぜか持っているボールが大きく見えてしまう。

7歳から野球をはじめ、アトランタで活躍したデール・マーフィーにあこがれ、お父さんの教えで、野球一筋に集中してきた。アメリカでは学生の時代はいろいろなスポーツをこなすのが一般的で、デビッドのスタイルはめずらしい。幸いフロリダは暖かく、冬も野球を練習できたのだそうだ。ジョージア大学のコーチをしているお兄さんと、オフシーズンにも毎日練習する。

デビッドがちびっこファンに送った言葉が、彼のすべてを表わしている。「いつも一所懸命プレイし、野球を楽しみ、いつも自分のベストを尽くすこと。」

■2001.11.19(現地11.18)
●数千人のミネソタ市民、ツインズ保持に立ち上がった!
Minnesota TWINS
雨の降る中、おらがチームであるツインズの保持を訴えるため、数千人のミネソタ市民が集まり、メトロドーム近くの公園で集会を開き、訴えた。1987年と1991年に世界一に輝いているツインズ。今年の夏に殿堂入りを果たしたカービー・パケットデーブ・ウインフィールドもツインズの誇るスター選手である。どういう結果が出ようとも、この問題は大きな傷を残すことは確実で、事態は深刻である。

●ローレン、フィリーズからの10年1億4000万ドルの大型契約を断る!
スコット・ローレン
フィリーズGM、エド・ウェイドはチームの主砲であるスコット・ローレンに10年間で1億4000万ドルという高額契約を申し出た。しかし、ローレンサイドにこれを断られてしまった。来季オフにFAとなるローレンを放出という噂はかねてからあったが、シーズン終盤で見せた勝負に強い打撃はまさに若いフィリーズにとって、必要とされるものである。26歳のローレンが、来季は別のチームのユニフォームを着ているかもしれない。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.014
ジェイソン・ジオンビー★ジェイソン・ジオンビー #16★ オークランド・アスレティックス

2001年8月12日の対ヤンキース戦。2対2の同点で迎えた9回裏、2アウト1塁という場面で打席に入ったジェイソン・ジオンビーがサヨナラ2ランホームランを放った。このホームランがジオンビーにとっては、メジャー通算1000安打となる区切りの一発であり、さらにキャリア初のサヨナラホームランであった。アスレティックスはこの主砲の一発でチーム11連勝を飾り、後半戦の快進撃を支えた。

2002年はどこのユニフォームを着ているの?幼き日にリトルリーグで野球に明け暮れたジオンビー。そんなジオンビーの憧れの選手はヤンキースのミッキー・マントルであった。マントルは既に引退していたが、カリフォルニア州で生まれ育ったジオンビーは父の影響でマントルの昔のフィルムを繰り返し見させられたのが原因である。3歳下の弟、ジェレミー・ジオンビーと共に父の影響を存分に受けた。

高校卒業時にブリュワーズから43位で指名を受けるが、大学進学の道を選んだ。最初は投手だったが、打撃の好きなジオンビーは毎日のように打ち続け、打撃力も飛躍的に伸びた。そして、1992年のバルセロナオリンピックではアメリカ代表に選出されている。ジオンビーは子供の頃、ドジャースタジアムで行われたロサンゼルスオリンピックにおける代表チームのエキシビジョンゲームを見たことがある。後に影響を及ぼすことになるマーク・マグワイアが国の代表として戦っている姿を見ており、国の代表になることに憧れを抱いていたこともあり、この選出には非常に誇りを感じた。

当時のアメリカ代表チームにはノマー・ガルシアパーラフィル・ネビンチャールズ・ジョンソンリック・ヘリングらがいた。しかし、アメリカ代表チームは3位決定戦で日本に敗れ、メダルを手にすることはできなかった。オリンピックの前に行われた6月のドラフトではアスレティックスから2位指名を受けており、オリンピック後、プロへの道を歩み始めた。

入団時はサードを守っていたが、メジャーへ昇格を果たした1995年にはファーストも兼用して守るようになっていた。折しもこの年はチームの看板であるマグワイアが長い冬の時代を終え、再びホームラン量産を図り始めたときだった。このマグワイアから多くのことを学んだジオンビーは、レジー・ジャクソンからホゼ・カンセコ、マグワイアへと続くアスレティックスの強打者の系譜を名を連ねることになる。

長打だけでなく打率も非常に高い。着実に年々記録を伸ばしているジオンビー。1997年途中にマグワイアがカージナルスへ移籍するとファーストへ定着した。メジャー昇格から左投手を苦手としていたが、それも徐々に克服しつつあった。そして迎えた1999年は、打率.315、33HR、123打点を記録。しかもホームでは、打率.353をマークし、これは球団史上最高記録である。押しも押されぬ素晴らしい成績を残したジオンビーは、若手が多いアスレティックスの顔となった。

さらに2000年からは3歳下の実弟のジェレミー・ジオンビーがロイヤルズからアスレティックスへ移籍し、兄弟がラインナップで名前を並べることもあった。この影響もあってか、ジオンビーはさらに飛躍した。打率.333、43HR、137打点はいずれもキャリア最高の記録し、チームを地区制覇へ導いた。そしてこの年、メジャー6年目にしてリーグMVPを受賞した。

2001年は、チームもジョニー・デーモンという核弾頭を獲得し、開幕前からアスレティックスは優勝候補の筆頭とされていた。しかし、開幕序盤で2勝12敗と大きくつまずいたことと、同地区のマリナーズが信じられない勢いで勝ち続けたため、前半戦は下位に低迷した。そんな中、ジオンビーだけは孤軍奮闘のごとく、ひとりで打ちまくった。そしてチームが上昇曲線を描き始めたのは、オールスターの声が聞こえ始める6月下旬からだった。

結局、アスレティックスはワイルドカードではあるがシーズン102勝を記録し、2年連続でポストシーズンへの進出を決めた。ディビジョンシリーズでは前年と同じヤンキースとの対戦だったが、先に2勝し、王手をかけた後に3連敗してしまい、ジオンビーの2001年シーズンは終わった。シーズンで残した数字は、打率.342、38HR、120打点である。

2000年オールスターゲームのファン投票で1位で選出されたジオンビー。2001年にもオールスターに選出。前日のホームラン競争では第1回戦で14本ものホームランを記録した。これは96年に師匠のマグワイアが記録した13本という記録を塗り替えるものだ。今後、ジオンビーはオールスターの常連として活躍していくことだろう。

足が遅いことで知られるジオンビーだが、積極的な走塁でチームを引っ張る。2001年シーズン後にFAとなり、いろいろな噂が広がっている。果たしてジオンビーの選ぶチームはどこになるのか。

■2001.11.18(現地11.17)
●ミネソタ地方判事、ツインズの来季、球団続行を指示!
Minnesota TWINS
球団消滅が噂されるツインズだが、ミネソタの裁判官は来季2002年もメトロドームでツインズがプレーするように命じた。さらにツインズのオーナー、カール・ポーラッドにも球団を決して売却しないようにと命じた。これはメトロドームを管理している会社が、2002年までホーム球場として使うことを契約しているツインズと、球団削減を了承したメジャーリーグに対しての訴えによるものだ。ツインズとメジャーリーグはこの判決に対し、上告するとされている。

●引退したはずのリプケン、FAリストに入った!?
カル・リプケン
今季限りで引退したはずのカル・リプケンだが、フリーエージェントのリストに入った。これにより、今月20日以降は現在所属しているオリオールズ以外の球団とも交渉が可能になり、ひょっとすると来季は違うチームのユニフォームを着て、プレーをしているかもしれない可能性がでてきた。現在、FAリストには151人もの選手が名を連ね、19日がその登録の締め切りである。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.013
ルイス・ゴンザレス★ルイス・ゴンザレス #20★ アリゾナ・ダイヤモンドバックス

2001年ワールドシリーズ第7戦、ダイヤモンドバックスは1対2のまま最終回を迎えた。1点を追いかけるダイヤモンドバックスはマウンドのマリアーノ・リベラを攻める。トニー・ウォーマックのタイムリーで同点とした後、1アウト満塁で打席に入るのがルイス・ゴンザレスであった。今季、シーズンで57本ものホームランを打ったゴンザレスが、前進守備のヤンキース内野陣を越し、創立4年目のダイヤモンドバックスに勝利をもたらした。ゴンザレス自身、キャリア最高の年の最後を、これ以上ない形で締めくくった。

キャリア最高の年になった2001年。フロリダ州タンパで生まれたゴンザレスの両親は、キューバ出身である。特にこのゴンザレスの祖父はファウスト・ラビーヤというキューバでは知らない者はいないほど有名なスポーツライターだった。キューバの野球チームを初めてアメリカへ連れてきたのは、このラビーヤであり、ゴンザレス自慢の祖父である。ゴンザレスは、スポーツライターになれなかったから野球をやっているとうそぶく。

1988年にドラフト4位指名でアストロズへ入団。メジャーへ初めて昇格したのは1990年のことである。この頃はファーストとサードの併用が主で、外野を守るようになるのは1991年からだ。外野転向後からアストロズの外野の一角を占めることになるが、打率は2割台でホームランは一桁という並の打者でしかなかった。93年に154試合に出場し、打率3割、15HRを記録したのが20代のゴンザレスのベストの数字だった。

結局、1995年シーズン途中にカブスへ移籍。その後、97年には古巣アストロズへ、98年はタイガースでプレー。毎年、約30本近い2塁打を記録しているゴンザレスだが、タイガースでの1年でホームラン数を前年の10本から23本へと倍増させ、長打率も自己最多の.475とした。そして、99年からは若手のカリム・ガルシアとの交換で、創立して2年目のダイヤモンドバックスへ移籍する。

「ゴンゾ」の愛称で親しまれるゴンザレスは、選球眼のよさで知られる好打者である。ダイヤモンドバックスのユニフォームを着て臨んだ1999年には、開幕直後の4月11日から5月18日まで30試合連続ヒットを記録。この年はリーグ最多の206安打に加え、リーグ2位となる打率.336をマークした。ホームランも26本を記録した。

人柄の良さは折り紙付き。自らを2塁打ヒッターというゴンザレスが、シーズンのホームラン数が30本を越えたのは、2000年(31本)が初めてであった。30代になってからのここ3年間、ホームラン数を徐々に増やしており、遅咲きスラッガーの名を欲しいままにしているが、これはウェイトトレーニングに取り組んだことと、それまでよりスタンスを広めにとる独特のオープンスタンスに矯正したことも原因としてあげられそうだ。そして、2000年7月5日にはサイクルヒットも記録した。

そして迎えた2001年シーズンは、開幕からホームラン量産という打棒を発揮した。これまでナショナルリーグにおける4月の月間最多ホームランは、11本(ウイリー・スタージェルマイク・シュミットバリー・ボンズゲーリー・シェフィールドラリー・ウォーカー)だったが、4月21日の時点で既に11本を記録。さらに2本上乗せし、1997年にケン・グリフィーが記録した4月13本に並ぶ記録を作った。

オールスターまでに35本のホームランを記録したゴンザレスは、2001年オールスターゲームのホームラン競争へ参加。バリー・ボンズサミー・ソーサジェイソン・ジオンビーらの蒼々たるホームラン打者と共に準決勝へ進出。結果として、ソーサとの決勝戦も見事に勝ち抜き、ホームラン競争のタイトルを獲得した。

そんなゴンザレスを和ませるのが、1998年6月に生まれた3つ子の存在だ。子供との触れあいがゴンザレスを支えているのだ。子供たちと一緒にいると、深く考えないようになり、これがバッティングにいい要素をもたらしているとゴンザレス自身も話している。事実、1999年からの打撃成績は急激に伸びている。

■2001.11.17(現地11.16)
●ヤンキース、キャッシュマンと3年間の契約延長決定!
まさに辣腕、ブライアン・キャッシュマン。
4年連続の世界一を惜しくも逃したヤンキースだが、GMをつとめるブライアン・キャッシュマンとの契約を3年間延長した。今年は35万ドルだったが、来季からは3年間で300万ドルの大金を手にする。王者ヤンキースは34歳のキャッシュマンの力を必要としていた。

1986年にヤンキースにスカウトとして入団。1998年2月にメジャーリーグ史上2番目の若さである31歳で、ヤンキースのGMになった。その年から4年連続でリーグ優勝を果たす辣腕ぶりを発揮した。

キャッシュマンとジョー・トーレ監督は今年のワールドシリーズが行われている10月31日に契約が切れていた。キャッシュマンとは契約を更新させたが、トーレとはまだまとまっていない。

世界一奪回を目指すヤンキースは、レフトのチャック・ノブロック、ファーストのティノ・マルチネス、サードのスコット・ブローシャスがそれぞれFAとなっている。ヤンキースはこのため、オフの動向が非常に注目されている。

●オリオールズ、かつて1番打者で50HR打ったアンダーソンを解雇!
ブラディ・アンダーソン
オリオールズはこれまで14年間もチーム一筋でやってきたブラディ・アンダーソンを解雇することを決めた。5年間の3100万ドルという契約を1年残しての解雇である。今年で37歳となったアンダーソンは1番打者として、打率.202の8HR、45打点の記録にとどまっていた。1996年には球団記録の50HRに加え、50盗塁を記録している。

◆MLB Player's Profiles 2001-2002 Vol.012
イチロー★イチロー(鈴木一朗) #51★ シアトル・マリナーズ

かつてマリナーズにはランディ・ジョンソンという素晴らしい投手がいた。そのジョンソンがつけていた背番号51番をメジャーリーグ1年目の選手が引き継いだ。その選手は開幕から1番ライトのポジションを確保し、チームを牽引。チームは地区制覇、自らは首位打者と盗塁王の2つの打撃タイトルを獲得し、ゴールドグラブ賞、新人王なども手にした。その選手の名はイチローこと鈴木一朗。彼は日本人野手初のメジャーリーガーであり、メジャーリーグの舞台で活躍する前から、すでに輝かしい実績に満ちあふれていた。

華麗なバッティングを見せるイチロー。愛知県西春日井郡豊山町に生まれたイチロー。野球を始めたのは小学校4年の頃であり、最初から投手だった。幼少時から野球というスポーツにのめり込み、野球をやり始めた時から毎日のように自宅近くのバッティングセンターに足を運び、マシンのボールを打ち込んでいた。120キロの速球に物足りなくなった中学生の頃には、特注の強化バネで球速を130キロにまで上げてもらったが、次第にこれにも物足りなくなった。すると正規の打席より前の方に立ち、打つようになった。ボール球には手を出すな、という父の指示に従い、選球眼を鍛えた。

高校は野球の名門として知られる愛工大名電高校を選択し、野球漬けの日々が始まった。「センター前ヒットならいつでも打てる」と豪語したイチローは監督に「宇宙人」と命名される。甲子園には2年生の夏と3年生の春の2度、出場を果たしたが目立った活躍はしていない。そして迎えたドラフトでは、オリックス・ブルーウェーブにドラフト4位で指名される。ずっと投手だったイチローに対して、投手としてか、もしくは野手としてみるかが大きな評価の分かれ目になった。

プロ入り後、最初の2年間は周囲がその実力を認めていようとも、当時の監督とそりが合わず大半を2軍で過ごす。1993年オフ、ハワイのウインターリーグに参加し、未来のメジャーリーガーと共に戦い、その中で首位打者のタイトルを手にした。しかし、これはイチロー伝説のほんの序章にすぎなかった。

1994年、チームの監督が仰木彬に替わるなり、イチローの周囲は激変する。登録名をそれまでの「鈴木一朗」から「イチロー」に変えるというのはその第一歩である。シーズンが開幕してからレギュラーに当然と名を連ね、「振り子打法」と後に名付けられる特異なフォームでヒットを量産。シーズンが終わってみれば、新記録となる210本ものヒットを打ち重ね、打率.385で首位打者となった。20歳の若者が60年近い日本プロ野球の歴史で誰も踏み入れていないシーズン200安打という未知の領域に足を踏み入れた。

背面取りでファンを沸かせるイチロー。「プロは優勝しなければ意味がない」と言うイチローは翌1995年、チームをリーグ優勝に導き、2年連続の首位打者、さらには打点王、盗塁王のタイトルも獲得。さらに1996年にもリーグ優勝を果たし、初の日本一の名誉も手にした。もちろん、3年連続の首位打者にもなっている。

ほぼ毎年のように首位打者のタイトルを取るイチローだが、決して自分の打撃に満足しているわけではなく、常に不満を感じていた。1998年までの5年連続首位打者は、イチローに言わせれば、たまたま打率がリーグトップだけだったとのことである。そして、1999年は球団と提携を結んでいるマリナーズのスプリングトレーニングに参加し、メジャーリーグの空気を吸う機会に恵まれた。

そして迎えた1999年は開幕から打率2割前半の絶不調だった。しかし、何気ないセカンドゴロが求めていた打撃のある感覚を見つけだした。それは自らのイメージと現実との微妙なずれを修正するものである。それ以後のイチローは打ちに打ちまくり、打率はあっという間に3割半ばまで跳ね上がった。シーズン後半は怪我で離脱するが、首位打者のタイトルはしっかりと確保した。

2000年シーズン、すでに打撃に対してある確信を得ていたイチローは開幕から絶好調で4割も可能な位置にいた。しかし、8月末に脇腹を痛め、全治1ヶ月の判断でシーズンを終えることになってしまった。すでに規定打席に達し、打率も.387としていたため、7年連続首位打者は確実なものとしていたが、この離脱の1ヶ月がイチローに大きな扉を開かせることになった。

打撃にある確信を得、1年後にはFAになるイチローには、メジャーリーグ挑戦がすでに具体的なものと視野に入っていた。怪我により1ヶ月間野球ができなかった期間は、自らの気持ちを確かめる貴重な時間となった。球団からは複数年契約の打診もあったが、「メジャーリーグは僕の夢」というイチローの言葉に事態は急変する。球団が下した決断は、ポスティングシステム(入札制)によるメジャーリーグ移籍だ。球団とケンカ別れはしたくないというイチローの意志を尊重したものとなった。

もはやチームには欠かせない戦力。ポスティングシステムの結果、マリナーズが1312万5千ドルという高額で交渉権を獲得した。すでに1年前、佐々木主浩がプレーしていたが、イチローにとってもなじみのある球団である。何度かの交渉を重ねた結果、入団が正式決定。日本のプロ野球で7年連続首位打者と輝かしい記録を持つイチローを、マリナーズは新しいセーフコフィールドでのセレモニーなどにより最高の形で迎えることになる。背番号も日本時代と同じ51番に決定。イチロー伝説の第2章は舞台を日本からメジャーリーグに移すことになった。

当時のマリナーズはアレックス・ロドリゲスのFAが一番の大きな話題。結局、ロドリゲスはマリナーズを流出することになるのだが、絶対的に信頼できる1番打者が欲しいマリナーズにとって、イチローの加入は大きなプラスになるだろうとされ、期待も非常に大きかった。

シーズン前のエキシビジョンゲームでも確実に結果を出したイチローは開幕スタメンの座を確保。開幕するなり、球団の新人記録を更新する23試合連続ヒットを放つ。守備でもレーザービームと名付けられた素晴らしい3塁への好返球もあり、イチローを酷評していたメディアを、そのプレーで黙らせた。

地元セーフコフィールドで行われるオールスターゲーム。ファン投票でダントツのナンバー1となり、日本からの投票を差し引いても1位となるだけの人気者になっていた。アメリカンリーグの1番センターとして先発。相手のナショナルリーグ先発は当初の予定のカート・シリングからジョンソンに替わり、マリナーズの新旧51番対決となった。結果はファースト強襲の内野安打し、すかさず盗塁も決めた。オールスターでは3打数1安打に終わったが、今季限りで引退するカル・リプケントニー・グウィンらと同じフィールドに立つこともできた。

オールスター後は突如のスランプに陥るが、8月に入ってからはさらに打ちまくった。8月末には200安打を記録。その後、9月29日には今季234安打を放ち、ジョー・ジャクソンの持つ新人記録を抜き去った。90年ぶりの記録更新は、古い記録を呼び起こすと同時に、イチローはメジャーリーグ史上最高の新人選手となった。今年から制定された月間新人MVPを4,5,8,9月と4度も獲得している。

シーズンが終了まで242本のヒットを打ち重ねたイチローは、先頭打者としてチームを引っ張り、マリナーズにシーズン116勝をもたらした。ポストシーズンへ駒を進めたものの、リーグチャンピオンシップシリーズでヤンキースの前に敗れてしまった。しかし近い将来、イチローがワールドシリーズの舞台に立つ日が必ずやってくるだろう。

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