PFM '75 来日公演ライブ・レポート その5
by 烏天狗さん


PFM 来日公演レポート〜PFM'75 その(5)

 今回はコンサート後に出た雑誌からの彼らのインタビュー抜粋、そして皆さんからの質問等にお答えできればと思います。

 PFMの来日時のインタビューは『ミュージックライフ』と『音楽専科』の76年1月号(共に75年12月発売)に掲載されています。『ミュージックライフ』は、『来日したPFMにインタビュー アメリカ合衆国を痛烈に批判したニュー・アルバムChocolateKing』という題で2ページ、『音楽専科』では、『ダイナミックな躍動感、PFMもう1つの世界』という題で23日の渋谷公会堂のコンサートレポートがモノクロ写真がメインで2ページ、さらに『PFMにきく彼らの《音楽》』と題したインタビュー記事が2ページ掲載されていました。

 驚きだったのは『ミュージックライフ』のほうで、水上はる子編集長のインタビュー記事です。マウロの発言はかなり強烈であり記者達を驚かせたそうです。すこし要約してみましょう。

★イタリアは政治的、経済的に大変不安な状況で髪を伸ばしたりロックをやることは政治的に反体制とみなされる。
★イタリアではコンサート会場やプロモーターに対する政治的圧力が強く、暴動を恐れた政府によって警官に囲まれた中で行われることもある。
★アメリカでは1968年をピークに学生運動が下火になったがイタリアは今(1975)が1968年である。

 そもそも、PFM達がこれほど政治的な部分に注目している等とは思っていませんでしたしイタリアがそんな状況である事も知りませんでした。実はこれらの状況下で『チョコレート・キングス』が生まれたのですね。彼らの音楽に対する進化は実は必然であったのしょう。また、『マウロ・パガーニはグループのリーダーでバンドのスポークスマン。ミラノ大学在学中は急進的な左翼セクトの運動家だった。』とも記載されていました。この時点でのリーダーはマウロだったのでしょうか? 

 そしてこれらの発言は彼らの今後の方向性、特にマウロの脱退にも関係があるようにも思われます。また、当時のイタリアでは『アレア』(パトリック・ジヴァスの元居たバンド)がかなり政治色の強いバンドであり、イタリア共産党の集会での演奏等で若者に人気があったということにかなり影響を受けている気がします。『アレア』のメンバーはマウロのファーストソロアルバム『地中海の伝説』でも大活躍しており、当時のマウロが彼らからの多くの影響を受けていたものと想像しています。

新作『チョコレート・キングス』については『ミュージックライフ』と『音楽専科』双方のインタビューに共通して書かれていました。

★ベルナルドの参加について
・PFMのメンバーはそれぞれ楽器の演奏を得意としているのでどうしてもボーカルよりも演奏に片寄ってしまう。ボーカルの持つ大きな意味を認めるならば、天性のボーカリストが必要である。
・ベルナルドは英語が得意であり、歌詞を通してPFMの言いたかった事がストレートに表現できる。(元々イタリア語の歌詞はマウロの担当であったが、今回はピート・シンフィールドの英詞ではなく、マウロの歌詞がベルナルドの協力でストレートな英詞になっていることを意味していると思われる。)

★『チョコレート・キングス』について
・シンプルかつストレートに仕上げられており、ステージで演奏するのと同様に、多重録音や録音後の複雑な技巧的処理をしていない。これは今の自分達の感覚を表現するのに最適と判断。(マウロ・パガーニ)
・オルガンの多用については、機敏なリズムを強調した内容にはオルガンやエレクトリック・ピアノが最も相応であると判断。(フレビオ・プレモーリ)
・今回のアルバムは今までPFMが経験してきた全ての音楽の集成である。(フランツ・ディチョッチョ)
・言葉の相違はあるだろう。でも我々の言いたい最小限のことは演奏を通じて分かってもらえる筈だ。新作に於ける我々の転換に依って10%のファンを失うかも知れない。しかし30%の新しいファンが得られるなら幸せだ。(パトリック・ジヴァス)
以上『音楽専科』より
・『チョコレート・キングス』というタイトルはアメリカに対する皮肉の意味があるんです。第2次世界大戦のあと、アメリカの兵士たちはイタリアに上陸してきて、子供たちや女性にチョコレートをばらまいて、主義主張を押しつけてきた。そして国は巨大になり、あることなく戦争をくりかえしている。僕はアメリカの人民たちを非難する気は毛頭ありません。ただ、その腐敗した政府を支えているのが自分たちなんだということを自覚してほしいのです。(マウロ・パガーニ)
以上『ミュージック・ライフ』より

ついでにマウロが当時を振り返ったインタビューも記しておきます。

★『marquee』volume 068 Oct.1996より
「Chocolate Kings」はアメリカ人に対してベトナム戦争についてからかったものなんだけれど、今それを読んでみると、これはずいぶん固い考えだったと思うね。なされるべき戦争じゃなかったんだから、観念的には、今でもそれに賛成だけれど、今の私ならこんな曲はやらない。アメリカの皆の悲劇について皮肉を言うなんてね...。彼らの人生観を変え、疎外したわけだから。それに人の苦痛を笑うのはけっしていいことじゃない。(マウロ・パガーニ)

結果的に『チョコレート・キングス』はイギリスやヨーロッパでヒットしたそうですが、やはりアメリカでは受け入れられず、彼らのアメリカン・ドリームも陰りが出てきてしまった様です。

(その2)において下記の様に書きましたが、上記のインタビュー記事を読むとやはり既に『チョコレート・キングス』は9月に本国では出ていたようです。英米日のマンティコア盤の発売が遅れた事情について詳しい資料はありませんが、英米日ジャケットの作成期間やタイトル曲の政治性にもひょっとしたら関係があったのかも知れませんね。(汗!)

>この間、伊盤の情報も輸入盤店に出てきませんでした。昨今イタリア本国での発売が75年9月との情報もありますが、シングル盤『チョコレート・キングス』の発売月と間違えているのではないでしょうか?

 PFMのリーダーについて75年当時はマウロがスポークスマンであったためにリーダーの様に見えたのでしょうか? 実際には以下の記事も見つけました。

★『音楽専科』74年3月号
Q.結成時のリーダは誰でしたか?
A.僕達はかつで一度もリーダーを持った事がないんです。しれがイタリーでは常だし殆どの場合、ひとりのリーダーを置くと、必ずと言って良い程種々の問題が起きてくる。だから僕達はあえて言うならマネージャー、プロデューサーをも含めてメンバー全員がリーダーという事になるでしょう。そのためにうまく行ってます。

・・・・・・・中略・・・・・・・・・

最後に、皆さんどうもありがとうございました。最後の最後まで長文でどうもすみません


管理人より
 実は中略の部分で,管理人や掲示板へ書き込みいただいている方々からの質問に対する烏天狗さんの解答があります.ただ,掲示板のやり取り抜きに載せてしまうのは誤解の原因にもなるし,今回はあえて削除させていただきました.
 その間のやり取りは弊HPのBBSに(過去ログ;136〜167)あるので,興味のある方はそちらをご覧下さい.

 読み応えたっぷりだった烏天狗さんの’75年のPFM来日公演レポートも今回で終了です.
 が,もしかしたら,’02年の来日レポもあるかもしれません......

(次回へ続く...かも?)

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