@ペルシア伝説
*Zeb:
最近ペルシアにこっているのですが、どうも昔の人がどの程度まで「さらに昔のこと」を知っていたものやら悩む時があります。たとえばプトレマイオス朝のエジプトの人に、古王国の文字は読めませんよね?
*Efendi:
なんですが、エジプトを30王朝に分けて通史を書いたのはプトレマイオス朝の人です。確かに古王国の文字は読めないでしょうが、新王国の人が橋渡しをしているなら可能でしょう。口伝もあるでしょうし。旧約聖書には歴史的事実がいくつか内在していますが、文書にして書かれたのは紀元前6世紀からです。
*Zeb:
また、ササン朝ペルシアの人間がヘロドトスやトゥキディデスを読んでいたのかわかりませんし、シャー・ナーメに出てくる伝説的な王達にアレクサンドロスやらダレイオスやらが出てきますが、もちろん神話伝説的にデフォルメされているでしょう。(一般の図書館とかWebとかで読める翻訳は前半だけなので…)、そうするとフィルドゥーシーは知っていて作り話を書いたのか、知らないで書いたのか、わかりません。
*Efendi:
読んでたのかもしれないし、読んでないかもしれない。{私が}知っていることは、中世ペルシア(パルティアとササン朝)では、文学は発展せず、吟遊詩人が活躍した、ということと、パルティアではヘレニズムとペルシア文化の混交が見られたけど、ササン朝ではローマに対抗する意味でヘレニズム文化が排斥されたということ。
アレクサンドロスは千夜一夜なんかでも出てきますね。イスラムで、知恵の王はスレイマン(ソロモン)、武勇の王はイスカンダル(アレクサンドロス)、公正の王はホスロー(1世)ということになってます。無明時代の人がもてはやされるのも不思議な話ですが、それだけに伝説化しているんでしょうね。
ヘレニズム文化の排斥、というのも難しいですが、彫刻なんかは壊されるだろうけど、文学なんかは登場人物を代えて残ったでしょうね。東西で似たような話があるのは良くあることですよね。
ただより正しいギリシアの知識が流入したのはアッバース朝からか? 同時期、ビザンツではローマとの関係がこじれてギリシア化が進展して、その点でも都合がよかったし。
ビザンツでは9世紀までローマ普遍主義とギリシア愛国主義で揺れ動いていて、どちらの文化も保存されていました。
フィルドゥシーは作者というよりエディターです。彼の書いた作品もあるのでしょうが、ほとんどは口伝を書写したものということになってます。グリム童話のグリム兄弟みたいなもの。ばらばらの物語に、ペルシアへの愛国心というフレーバーを沿えて一貫させたところに彼の功績があるのでしょうね。
*Zeb:
たとえば現代ペルシアではペルセポリスのことを「ジャムシードの宮殿」とか呼びますよね。そういうことは現代はどのくらいわかっているのでしょうか?
*Efendi:
ごめん、これは初耳。そういうこと、がどれかは不明だけど、私に言えるのはそれくらいかな?
*Zeb:
釈迦に説法かもしれませんが、Taght-e-Jamshid(ペルセポリス)のジャムシードというのは、シャー・ナーメに出てくる王で、もともとのペルシア神話では(ゾロアスター教とイスラム教の変質を経るまでは)Jam、ヒンズー教の冥府の神、ヤマ(閻魔)に相当します。偉大な王だったのですが、時を経て傲慢になり、アラビアの蛇王ザッハークに位を奪われます。また、アケメネス、ササン両王朝の記念碑および陵墓があるナクシ・イ・ルスタムのルスタムはシャー・ナーメ最大の英雄の名前です。これらは昔の人にとっての「歴史」がなにを指すものであるかについての証拠になるのではないでしょうか?(見当違いなら素人の考えであるということで大目に見てください。)Nick氏も似たようなことを言っています。
http://www.btinternet.com/~Nick_Brooke/articles/shorthist.htm
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