歴代ローマ皇帝列伝

 

第2次4帝乱立期

 

ペリティナクス
Pertinax
本名
プブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクス
Publius Helvius Pertinax
生年月日:126年8月1日〜193年3月28日 前職:ローマ首都長官 先帝との関係:
皇帝在位:191年1月1日〜193年3月28日 綽名: 死亡原因:暗殺
主な称号:
死亡時の称号:
 リグリア出身の解放奴隷の息子、父は奴隷だったが解放身分となり、羊毛の取引で成功をおさめる。そのおかげでぺリティナクスは古典教育を受けることができた。ぺリティナクスは始めは教師を職業としていたが35歳のとき軍人に転じた。まず、シリア駐屯のガリア人部隊の指揮官に就任。その後、順調に昇進、ヨーク駐屯の第6ウィクトリクス軍団の司令官を経て、ゲルマニア地方での北部戦争ではマルクス・アウレリウス帝の部下として活躍。そのときの褒賞として元老院議員に選ばれた。その後175年に執政官、モエシア属州総督、ダキア属州総督、180年にはシリア属州総督に就任。コンモドゥスの信頼も得てブリタニアで勃発した反乱を鎮圧し、アフリカ属州総督を経て189年にローマ首都長官に就任した。
 コンモドゥスの暗殺を知ったのは、首都長官としてであった。暗殺の首謀者である侍従長ラエトゥス、親衛隊長エレクトゥスは暗殺後、ぺリティナクスの家へ向い、帝位に就くように願い出た。ぺリティナクスは驚きながらも、2人の説得により帝位につくことになる。その為に親衛隊に12,000セステルティウスを支払い、元老院の承認を受け、帝位に就いた。
 ぺリティナクスの性格は高潔な性格であった。彼自身の徳性はコンモドゥスの行った悪徳や暴政の跡を修復しようと心がけたが、その改革は性急で厳格なものであった。財政再建、悪税の廃止、国家経費の削減、さらに親衛隊の軍規を正すなど政治家としては高潔な理想家であった。
 しかし、コンモドゥスの悪徳と堕落な生活に12年間も慣れきった親衛隊に厳しい軍律を性急にきかすのは返って反発を買うだけだった。また、コンモドゥス暗殺は親衛隊の総意ではなく親衛隊長エレクトゥスの独断で行われていた為に、決して心からぺリティナクスに忠誠を誓っているわけではなかった。むしろ、親衛隊にとってはしつけばかりいう小うるさいおっさんのイメージでしかなかった。この後の親衛隊の行動は現代の甘やかされたガキや不良息子が訴える行動と非常に似ている。つまり、暴力である。親衛隊は過去2回、皇帝を擁立しようとクーデターを実行するが2回ともぺリティクナスに察知され、未遂に終わっている。2回目に至っては首謀者である親衛隊数人を処刑しただけであった、この中途半端な措置が返ってぺリティナクスの身をさらに危険にしついに193年3月28日、親衛隊300人がぺリティナクスを襲撃する。ぺリティナクスは逃げも隠れもせず、説得によって事態の解決を図ろうとしたが、説得の最中に兵士の一人が突進し、さらに他の者も加わり、殺害した。わずか87日の統治であった。
 ぺリティナクスの在位治世をみると、政治というもの難しさを非常に痛感させられる、彼はその高潔で公正な政治を目指そうとして返って反感を買い、志し半ばにして殺された。次の皇帝である
ディディウス・ユリアヌスとは結果は同じでも原因が余りにも対照的であるからである。
 最後に、ローマの奴隷制度は古代ギリシア、近代帝国主義時代の奴隷制度とは一線を画している。よくイメージされる奴隷の子は奴隷とか一生奴隷ではなく、資産させ稼げば、それと引き換えに奴隷の身分から解放される。これを解放奴隷といい、前出のクラウディウス帝に見られるように、後に政府の要職や資産家として名をはせるものも少なくない。また、ローマの奴隷の息子は使えている主人の息子と共に高等教育を受けることも良くあることだった。これは将来息子が独り立ちをしたときに有能で忠誠心厚い秘書官をつくる上で有益な措置だった。国家政策上においてもやがてローマ市民権を得て、ローマの構成員を加える上でも有益な措置だった。ギリシアポリスはギリシア人、近代帝国主義国家は本国人しか所属体の一般階級としての権利をもてなかった、しかもその民族しか持てなかった。しかしローマは肌の色や言語、民族が違ってもローマ市民権を持つチャンスは何時でもあった。ローマ元老院の構成民族は歴史が進むにつれて多様な民族構成になっていった。ローマの奴隷制度は近代の帝国主義が持ち得なかったある意味の寛容を持っていた。その意味では、近代国家はローマを越えることができなかったと言える。
ディディウス・ユリアヌス
Didius Julianus
本名
マルクス・ディディウス・セウェルス・ユリアヌス
Marucus Didius Severus Julianus
生年月日:133年1月30日〜193年6月1日 前職:元老院議員 先帝との関係:
皇帝在位:193年3月28日〜193年6月1日 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 ディディウス・ユリアヌスはローマ帝国史上最も奇想天外な方法でローマ皇帝の地位に就任した。彼はローマ皇帝の地位を「公開競売」で競り落としたのである。その時のオークショニア兼売主は親衛隊であった。
 ディディウス・ユリアヌスは「公開競売」に頼らずとも有力な帝位候補者の一人であった。彼はミラノで元老院階級の一族として生まれた。幼少の頃、マルクス・アウレリウス帝の母、ルキラに育てられた。彼は成人するとたくさんの下級職をこなし、172年ごろに第22軍団プリミゲアの司令官に就任した。175年にぺリティナクスと共に執政官に就任。172年から190年の間に、低地ゲルマニア、アフリカなど4つの属州総督を歴任し、ぺリティナクス帝暗殺当時は有力元老院議員の一人にまでなっていた。
 ぺリティナクス暗殺後の「公開競売」にはディディウス・ユリアヌスの対立候補として元執政官で資産家、ぺルティナクスの妻の父であるスルピキアヌスが挙がった。最終的にディディウス・ユリアヌスは「スルピキアヌスが皇帝に就任すれば、奴の手でぺルティナクス殺しの復讐をされるぞ」と親衛隊に脅しをかけ、スルピキアヌスより高値を付け、親衛隊の後押しにより皇帝位を物にした。
 しかし、皇帝に就任とたんディディウス・ユリアヌスは自分の置かれた地位の脆さに気づく、その為に「皇帝就任の最初の夜、頻繁に目を覚まし、そのような運命を選んだことに心を乱した。」と伝えられている。
 さらに、ディディウス・ユリアヌスはその帝位就任の経緯からローマ市民からは尊敬されず、親衛隊には約束の金を払うことができず。彼の支えるべき支持者を無くしていくありさまだった。すでに就任直後からローマ皇帝としての「正当性」を失っていた。これに皇帝の地位を金で買うという愚行を見せつけた。最終的に親衛隊に金が行くという結果は同じでも歴代の皇帝とは明らかに見せ方が違った。およそ古今東西において、人間の心理として、ある人間が行った行動がそれを見た人間に対して確実に嫌悪感を与える行動は俗にいう「金の力にものをいわせて」ということである。さらに約束を反古されたと受けた人間は嫌悪感を示す。ディディウス・ユリアヌスはこの二つの行動をしてしまったのである。これが、ディディウス・ユリアヌスの政権に確実な致命傷を与えた。
 さらに属州からの反乱の火の手、パンノニア属州総督セプティミウス・セウェルス、ブリタニア属州総督クロディウス・アルビヌス、シリア属州総督ぺスケンニウス・ニゲルが皇帝を僭称し首都ローマに進軍を開始した。しかし、この3者は最終的にローマ帝国の最強軍団であるライン川とドナウ川軍団の支持を得たセプティミウス・セウェルスが勝利し、ローマに進軍することとなる。これに対しディディウス・ユリアヌスはローマの防衛を固めることや(親衛隊はこれに対してサボることしか考えなかった)、セプティミウス・セウェルスに刺客を差し向けたりしたが失敗。この切羽詰った状態でディディウス・ユリアヌスはセプティミウス・セウェルスを共治帝とすることを元老院に依頼する。しかし、そのことを知ったセプティミウス・セウェルスにとってはこれには必要性を感じず、すでにセプティミウス・セウェルス側に寝返った元老院はディディウス・ユリアヌスを処刑することセプティミウス・セウェルスを皇帝として承認することを可決した。こうして皇帝就任から66日後、ディディウス・ユリアヌスは一人の士官によつて処刑されることとなった。
 ディディウス・ユリアヌスは先帝のぺルティナクスとは反対の形で自らの命を失った。4つの属州総督の経験者からも(さらに勤務地が前線だった)およそ統治者としての「力量」はそれなりに持っていたと思われる、しかし非常事態を収拾する「力量」は持ち得なかった。しかも、すでに形骸化したとはいえローマ帝国の主権者はローマ市民であり、また皇帝は諮問機関でもある元老院との関係は最悪の状態であったそれゆえに「正統性」を失い。また、皇帝就任の経緯からも「権威」を失うに十分であった。
 皇帝でも大統領でもまたどのような政治体制の指導者でも政治を行う場合、求められる「力量」のひとつに健全なバランス感覚がある。ここでいうバランス感覚は正しい目的の為ならば清濁を合わせて飲むことができるということと人民に指導者は正しき道徳の持ち主と見られるように務めることである。ディディウス・ユリアヌスとぺルティナクスは両方を飲むことができなかった。暴帝と呼ばれている皇帝は濁のみを好んで飲んだ。およそ賢帝や名君と呼ばれている皇帝、または様々な政治体制の指導者は清濁を必要なときに適時飲んでいった。なぜならば、歴史上名を残した名君や名指導者は歴史の教科書においてはまるで高潔な指導者として書かれているが、彼らの手は誰一人として汚れていないものはいない。国家の究極の目的である、国民が安全で安定した生活を送れることを維持していく為には指導者は必要に応じて清濁を合わせて飲むことができなければならい。これがディディウス・ユリアヌスとぺルティナクスに欠けていたものではないだろうか。

 

セウェルス朝(前期)

 

セプティミウス・セウェルス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
カラカラ
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
ゲタ
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 

 

マクリヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 

 

セウェルス朝(後期

 

エラカバルス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
アレクサンデル・セウェルス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 

 

軍人皇帝の時代

 

マクシミヌス・トラクス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
ゴルディアヌス1世
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
ゴルディアヌス2世
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
プピエヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
バルビヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
ゴルディアヌス3世
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
フィリップス・アラブス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
フィリップス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
デキウス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
へレンニウス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
トレボニアヌス・ガルス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
ウォルシアヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:実子
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
アエミリウス・アエミリアヌス
Aemilius Aemilianus
本名
マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス
Marcus Aemilius Aemilianus
生年月日:207年頃〜253年10月 前職:上モエシア属州総督 先帝との関係:対立者
皇帝在位:253年8月〜253年10月 綽名: 死亡原因:自軍の兵により殺害される。
主な称号:
死亡時の称号:
 トレボニアヌス・ガルスと実子ウォルシアヌスが兵士の手によって殺害されるとアエミリウス・アエミリアヌスの手に政権は渡る。出身はアフリカのジェルバ島で生まれのムーア人、元老院議員、執政官の経験もあった。
 トレボニアヌス・ガルス軍に勝ったが、もう一人のライバル、ヴァレリアヌスと対峙するものの、自軍の兵士に殺害され88日間の治世で終えた。彼が死んだ場所は、後に「ポンス・サングイナリウス(血の橋)」呼ばれるようになった。
ヴァレリアヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
ガリエヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
クラウディウス2世ゴティクス
Claudius,Gothicus
本名
マルクス・アウレリウス・ヴァレリウス・クラウディウス・ゴティクス
Marcus Aurelius Valerius Claudius,Gothicus
生年月日:214年5月10日〜270年8月 前職:騎兵軍団司令官 先帝との関係:部下
皇帝在位:268年8月〜270年8 綽名:Gothicus=ゴート人征服者 死亡原因:病死
主な称号:
死亡時の称号:
 クラウディウス2世・ゴティクスは「危機の三世紀」「軍人皇帝の時代」といわれた中で傑出した業績を残した皇帝の一人である。クラウディウスと名乗っているが、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝とは血縁の繋がりは無く(おそらくクラウディウス帝の開放政策により姓名を得たと思われる)、また、生まれはイリュリクムのダルマティア地方の農村で、父と母との名前は伝わっていない。
 268年、元老院と市民の歓迎の中、軍団の推戴により皇帝に就任すると、先帝ガリエヌスの跡をついでガリア帝国側のアウレオルスを下した。さらに元老院にガリエヌスの神格化を承認させる。
 同年秋、アレマンニ族(ゴート族の一派)を撃退すべく、北イタリアのガルダ湖畔で撃破し勝利する。完敗したアレマンニ族はドナウ河の北へ逃げ帰った。これにより、元老院はゴティクス(ゴート人を征服せし者)の称号を送った。
 269年、ゴート族を撃退すべく遠征し、バルカン半島で激突し撃退する。
 この、ゴート族戦後、ラウディウス帝はドナウ河周辺の荒れた地域を再興させる為に、ゴート族に対して若手で壮健なものは軍隊への入隊と武器を放棄したものは属州モエシア内での耕作地を与えるこことと妻子を呼び寄せる条件で入植させることに成功させる。
 270年にこの時代の皇帝にしては珍しく、シルミウムに冬営中疫病で死んだ。これ以降の皇帝の努力により、ローマ帝国は危機の3世紀といわれる迷走する帝国から脱出することとなる。
 彼の皇帝在位期間は2年と短い時期であったが、その素朴な人柄、二度にわたるゴート族撃退の実績から「皇帝列伝」では最大の賛辞を得ている。3世紀後半の軍人皇帝として帝国逆襲を初めて実現した皇帝として特筆されるべき存在であるといえる。
 また、クラウディウスの出身地であるイリュリクム地方はこの後、アウレリアヌスやディオクレティアヌスなど多数の皇帝を輩出するこことなる。クラウディウス帝iにみられる皇帝の出自もまた、ローマ帝国らしさであるといえる。
クィンティルス
Quintillus
本名
マルクス・アウレリウス・クラウディウス・クインティルス
Marcus Aurelius Claudius Quintillus
生年月日:不明〜270年9月 前職: 先帝との関係:弟
皇帝在位:270年8月〜270年9月 綽名: 死亡原因:自殺
主な称号:
死亡時の称号:
 クラウディウス2世・ゴティクスの弟である彼は先帝クラウディウス2世・ゴティクスの元老院とローマ市民に対しての絶大な人気を背景に、クィンティルスに政権が渡った。彼自身はクラウディウス2世・ゴティクスの生存中は北イタリアの防衛に当たっていた。しかし彼の治世は2ヶ月とは続かなかった。味方と思われたドナウ川軍団が騎兵隊司令官のアウレリアヌスの支持を決めると、事態を理解したクィンティルスは、アクイレイアから出撃することなく、医者を呼び、自分の血管を切開させて命を絶った。
アウレリアヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
タキトゥス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
フロリアヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
プロブス
Probus
本名
マルクス・アウレリウス・プロプス
Marcus Aurerius Probus
生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
カルス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
ヌメリアヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:カルス帝長子
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
カリヌス
本名

生年月日: 前職: 先帝との関係:カルス帝次子
皇帝在位: 綽名: 死亡原因:
主な称号:
死亡時の称号:
 
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