歴代ローマ皇帝列伝 |
フラウィス朝 Flavius |
ヴェスパシアヌス Vespasianus |
本名 ティトゥス・フラヴィウス・ヴェスパシアヌス Titus Flavius Vespasiaus |
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生年月日:9年11月17日〜79年6月23日 | 前職:ユダヤ属州総督 | 先帝との関係:対立者 | ||||
皇帝在位:69年7月1日〜79年6月23日 | 綽名: | 死亡原因:病死 | ||||
主な称号:護民官権限・執政官9回・インペラトール歓呼20回・国父・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号:Imperator Ceaser Vespasianus Augustus,Pontifex Maximus,Tribuniciae Potestatis],Imperator]],Pater Patriae,Consul\ | ||||||
ヴェスパシアヌス帝は、叩き挙げの人間であった。 |
ティトゥス Titus |
本名 ティトゥス・フラヴィウス・ヴェスパシアヌス Titus Flavius Vespasiaus |
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生年月日:39年12月30日〜81年9月13日 | 前職:皇帝親衛隊長 | 先帝との関係:長男 | ||||
皇帝在位:79年6月24日〜81年9月13日 | 綽名:人類の寵児 | 死亡原因:病死 | ||||
主な称号:護民官権限・執政官8回・インペラトール歓呼17回・国父・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号:Imperator Titus Ceaser Vespasianus Augustus,Pontifex Maximus,Tribuniciae PotestatisY,Imperator]Z,Consul[,Pater Patriae | ||||||
皇帝ティトゥスはローマ皇帝史上初めて、父子継承の皇帝であった。 |
ドミティアヌス Domitiamus |
本名 ティトゥス・フラヴィウス・ドミティアヌス Titus Flavius Domitiamus |
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生年月日:51年10月24日〜96年9月18日 | 前職:元老院議員 | 先帝との関係:弟 | ||||
皇帝在位:81年9月14日〜96年9月18日 | 綽名: | 死亡原因:暗殺 | ||||
主な称号:護民官権限・執政官17回・インペラトール歓呼23回・国父・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号:Imperator Ceaser Domitiamus Augustus Germanicus,Pontifex Maximus,Tribuniciae Potestatis]Y,Imperator]]V, Consul]Z,Pater Patriae | ||||||
五賢帝時代とアントニヌス朝 FiveGood And Antoninus |
ネルヴァ Nerva |
本名 マルクス・コッケイウス・ネルヴァ Marcus・Cocceius・Nerva |
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生年月日:35年11月8日〜98年1月27日 | 前職:元老院議員 | 先帝との関係: | ||||
皇帝在位:96年9月18日〜98年1月27日 | 綽名: | 死亡原因:病死 | ||||
主な称号:護民官権限・執政官4回・インペラトール歓呼2回・国父・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号 Imperator・Nerva・Ceaser・Augustus・Germanicus,Pontifex・Maximus,TribuniciaePotestatisV,ImperatorU,ConsulW,Pater・Patriae |
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後世の人から「人類が最も幸福な時代」と賞される五賢帝時代はネルヴァの就任をもってスタートする。マルクス・コッケイウス・ネルヴァは、ローマの北80キロのナルニアの生まれで父は法律家で裕福な身分であった。ネルヴァの一族はローマ政界において高い官職に就きネルヴァ自身も70年にはヴェスパシアヌス帝の同僚執政官、90年にドミティアヌス帝の同僚執政官に選出された。2人の皇帝に選出されたのはネルヴァ自身、野心を持たない温和で健全なバランス感覚をもったジェントルマンで人々の尊敬を集めた人となりが伺える。 ネルヴァが皇帝に就任したとき、けっして前途洋々のスタートではなかった。ドミティアヌス帝の暗殺は軍部の政府の離反を招きかねない事態であった。軍隊にとってドミティアヌスは給料を値上げしてくれたりした恩人であった、しかもネルヴァは軍隊の経験や属州総督の経験も無い人間でおまけに生来の身体の弱さから、これを知っている軍隊が尊敬の対象として仰ぐのはことはできなかった。この時点ではネルヴァにとって支持を得られたのは元老院階級だけであった。97年の半ばには親衛隊のドミティアヌス暗殺者の報復措置にはなんら抵抗することができなかった。ネルヴァの権威は修復不可能な事態にまで陥っていたのである。ちょうどネロ帝が暗殺されガルバ帝が就任したときの状況に非常に近いものがあった。 しかしながら、ネルヴァ帝にはガルバ帝に無いものを持っていた、為政者としての健全なバランス感覚と現実に即した判断力である。ネルヴァ帝とガルバ帝にはどちらも実子はいなかった。その為に当然後継者人事が必要であった。ネルヴァ帝はガルバ帝のような失敗はしなかった、つまり後継者に最終的に低地ゲルマニア属州総督で民衆と軍部の人気の高いマルクス・ウルピウス・トラヤヌスを後継者としたのである。正式な養子縁組は97年の10月末ごろにおこなわれた。 ただし、この養子縁組は先述に「最終的に」と書いた通り決して教科書や受験勉強の歴史の本に書かれているように温和な養子縁組ではなく、ネルヴァの置かれている立場から考えても政治抗争の結果からであった。 むろんトラヤヌスの有能さは就任前の功績がすべてを物語っている。またトラヤヌスが就任前にいた地位ローマ最強軍団であるゲルマニア軍団を指揮していたことからも軍部での実力は確かにそれだけを見れば並ぶものはいない。しかし、その当時トラヤヌスと引けを取らない功績と軍事力を持っている人物がいなければ候補者はトラヤヌス一人だけであろうが、歴史というのは埋もれた人物が数多くいる。当時のローマ世界においてトラヤヌスと匹敵する実績を持った人物、シリア属州総督ニグリヌスがいたのである。ネルヴァはドミティアヌスに近い人物であった、はたから見てもドミティアヌス派の人物と見られても仕方の無いことである。しかし、ネルヴァは反ドミティアヌスの支持を得て帝位についた。これがネルヴァの立場を曖昧にし、後継者候補の支持者達の静かなる政争に発展した。最終的にトラヤヌス派のスラの活躍によりトラヤヌスの帝位継承が行われることとなる。継承政争に負けたニグリヌスはこの後の経歴は残っていない。 五賢帝時代は確かにローマの最盛期ではあった。しかし、その影ではネルヴァのトラヤヌス指名は政治抗争の結果であり、さらにトラヤヌスからコンモドゥスの歴代皇帝は血縁関係にあり、後の人々が賞賛するような「有能な後継者を指名した」といわれるような養子皇帝制などは実体として存在しなかった。ただ、そのことはそれぞれが有能な皇帝である為、五賢帝時代のローマに影を落とすことは無かった。所詮、社会生活を運用するのは人間である。だから同じ政治抗争をしても無能なる人間がすると収拾のつかない事態が起こる。それがネルヴァとガルバの最後に大きな違いとして出たと思われる。 |
トラヤヌス Trajanus |
本名 マルクス・ウルピウス・トラヤヌス Marcus・Ulpius・Trajanus |
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生年月日:53年9月18日〜117年8月17日 | 前職:高地ゲルマニア属州総督 | 先帝との関係:養子 | ||||
皇帝在位:98年1月28日〜117年8月17日 | 綽名:最良の元首=Optimus・Princeps | 死亡原因:病死 | ||||
主な称号:最良の元首・国父・護民官権限・執政官6回・インペラトール歓呼21回・ゲルマニクス・ダキクス・パルティクス | ||||||
死亡時の称号 Imperator・Ceaser・divi・Nervae・Firius・Nerva・Trajanus・Optimus・Augustus・Germanicus・Dacius・Paruthicus,Pontifex・Maximus,TribuniciaePotestatis]]T,Imperator]V,ConsulY,Pater・Patriae |
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ローマ帝国初の属州出身の皇帝、「最良の元首=Optimus・Princeps」の称号を持つ唯一の皇帝。トラヤヌスはヒスパニア(現在のスペイン・ポルトガル)のイタリカで生まれた。もともとの父方は北イタリア出身であったが、やがてイタリカに定住した。まったく同姓同名の父は文武両道の傑出した存在で、軍団司令官、属州総督などを歴任した。当時の皇帝ヴェスパシアヌス帝にも信任があつかった。トラヤヌスはこの才知あふれる父の元で少年青年時代を過ごした。88年には法務官経験者として第7ジェミナ軍団の司令官に就任している。さらに91年には執政官に就任している。96年に高地ゲルマニア属州総督に就任、その後、皇帝ネルヴァにより養子とされ、共同統治者としての道を歩む。トラヤヌス帝の皇帝就任はローマ帝国は新たなる国家のとしての、本国イタリアと属州の政治的格差の消滅、領邦国家ローマ帝国としてのターンニングポイントを証明する一つの事実であった。 後世のイメージとしてのトラヤヌスは、尚武の皇帝としてのイメージが強いが、それは彼がアウグストゥス以来の守勢領土方針を転換して、彼の治世においてローマ帝国は最大版図したことにある。しかし、彼は単なる軍人ではなく政治センスも優れたものをもっていた。 彼の政治手腕の巧みさが現れたのが、当時ネルヴァ帝が手を焼いていた親衛隊の反乱であった、これを首謀者をゲルマニアに誘き寄せ処刑したことである。これによってローマ帝国政府に安定と自信を取り戻させた。さらに国境の防衛を安定化させた後、99年にネルヴァの死後初めてローマに入城したとき、ローマ市民は大歓声で迎え、沿道は人々で溢れ返り、建物の屋根まで見物人であふれかえったという。 トラヤヌス帝は上述のように軍事上のことで優秀さを示したばかりではなく、さらに下記で述べるが内政にも抜群の手腕を示した。元老院との関係は良好で、彼の19年に渡る治世において国家反逆罪の適用を受けた元老院議員は一人もおらず、小プリニウスが『頌詞』で皇帝トラヤヌスをこれでもかと称えたぐらい元老院との関係は良好であった。また、皇帝になって以来の初めてローマ また、アッピア街道の複線化「ヴィア=アッピア=トライアーナ」新設、各街道のメンテナンス、トラヤヌス広場の建設、トラヤヌス浴場の建設。ダキア地方、アラビア地方の新たに獲得した領土のインフラ整備、オステア港の整備改善、トラヤヌス港の新設など経済社会基盤の確立を目指した公共工事を推進した。さらにローマの空洞化を防ぐ為に元老院議員の一部資産の本国イタリアへのシフトを定義づけたりした。 しかし、トラヤヌス帝の内政上の最大の功労は、貧者にも生活必需品を支給する政策や子供達のための養育資金「アリメンタ」の設立で、今まで個人レベルの福祉活動を国家レベルにまで押し上げたことである。トラヤヌス帝は温情主義といわれるくらい穏健な政治をおこなった皇帝であったといえる。 国内では上記のような政策であったが、一方の国外政策では尚武の皇帝らしく二つの外征で彩られていた。 トラヤヌスはスキピオ・アフリカヌスやカエサルとは違った天才型の閃きを持った軍人ではなかったが、それでも優秀なレベルを持った軍人であった。正統的な用兵を好む軍人であった、最もスキピオ・アフリカヌスやカエサルと違い運用できる兵力は圧倒的に違う為あえて、危険を犯す必要性はなかった。とかく、凡人はカエサルやスキピオのような派手や用兵に目を奪われがちだがもし真に学ぶべき用兵ならばトラヤヌス帝の用兵を学ぶべきであろう。「ローマは兵站で勝つ」といわれる用兵を地で行ったのが彼だからである。 ゲルマニアの防衛網強化の為に101年3月25日にダキア遠征へ出発したトラヤヌスの軍勢は補助兵を含め8個軍団15万人、実にローマ全軍の4割近くが投入された、トラヤヌス帝以前のローマにおいてこれほどの兵力を投入したのは初めてであった。ドナウ川を渡りダキア各地で着実に勝利を上げるローマ帝国軍に対してダキア軍はゲリラ戦を展開するが敗北を重ねた。そして、ローマ帝国軍がダキアの首都サルミゼゲトゥザの手前に陣を張るとダキア王デゲバルスは講和を求め、ローマはそれに応じた。これによりトラヤヌス帝はダキウスの称号を得ることとなり。歓呼の中で凱旋式を行った。 しかしながら、平和は長続きせず105年6月再び、ダキアヘ遠征を敢行した。ローマはまたしても勝利を重ね、今度は徹底していた。ダキアの首都サルミゼゲトゥザ攻め落とされ、ダキア王デゲバルスは逃走の末、自殺。106年末には、抵抗運動も沈静化。ここにダキアは、クラウディウス帝以来の新領土、属州ダキアとして、ローマ化が進んだ。この後よりパルティア遠征が始まる113年までローマは前述のような公共事業ラッシュにみまわれ、112年1月1日にトラヤヌス帝広場、ダキア戦役を記念したトラヤヌス帝記念柱が113年5月に一般に公開された。 114年にもう一つの征服戦争がパルティアとの戦いがスタートする、すでに106年に併合されたアラビア属州(現在のシナイ半島)によってローマとパルティアの緩衝国がアルメニア王国だけとなる。そのアルメニア王国の王がパルティア王の息のかかった人物をローマに無断で王につけていた。アルメニア王はパルティアが推薦した王をローマが戴冠されることで東方の平和は50年近く安定していた。しかしこのことにより、微妙なバランスが崩れた。トラヤヌス帝は彼らしく単純な解決方法を行った。アルメニア王国を完全属州にしてしまったのである。さらに大軍を進めパルティアの首都を115年に陥落させた。これにより、元老院はトラヤヌス帝にいつでも凱旋式を行っても良いという権利と「パルティクス」の称号を与えた。 しかしトラヤヌス帝の軍事的成功は長続きせず、ローマがアンティオキアへ撤退するとメソポタミア各地で反乱が起き、117年にはハトラの奪取に失敗した。さらにこれをついてキュレナイカでユダヤ人が反乱を起こした。キュレナイカのユダヤ人反乱は鎮圧したものの、これが原因でトラヤヌス帝の健康は悪化したといわれ、ハドリアヌスが後任の総司令官に就任した。最終的にメソポタミアの反乱は最終的にローマの完全撤退により終結する。 トラヤヌス帝は117年8月9日、トラヤノポリスで死去した。19年と6ヶ月と5日の「最良の元首」の統治の終焉の日であった。遺灰はトラヤヌス帝記念柱のしたに埋められた。 トラヤヌス帝は何かにつけてかなりまじめなタイプであった、小プリニウスとの手紙のやり取りである「往復書簡」、後の歴史家にとっての貴重な資料だが、トラヤヌスはかなり丁寧に答えており全属州総督や様々な人々を相手にしなければならない立場から考えると、まじめなタイプと言わざるおえない。それゆえだろうか、それとも単に非難すべき原史料などが残っていないからだろうか、後世の批評は一様に高い。4世紀になっても元老院は「アウグストゥスよりも幸運で、トラヤヌス帝よりも立派で有るように」と祈り、ルネサンスの詩人ダンテはキリスト教以前の皇帝で彼だけに天国の居場所を与えた。 トラヤヌス帝の誕生によってローマ帝国は支配する側もされる側の属州も運命共同体との道を歩むことになった一つの結果を出した。誰もがローマ市民権を得、皇帝になることかできた。ローマ建国以来の理念である「敗者さえも同化する」理念は始めはイタリア半島のかつての同盟都市国家を引き込み、そして地中海世界の征服地を引き込んだ。トラヤヌスや後の皇帝達も皮膚の色や目の色がちがってもローマ人であった。まさにローマ人とはローマ帝国に所属したすべての人々を指すようになった。しかもローマ帝国に編入されたその日からである。これかこそがローマをヨーロッパの歴史上において唯一の大をなした原因であり近代現代の人々においても魅力を放ちつづける輝かしい歴史を作りつづけた原動力となった。 |
ハドリアヌス Hadorianus |
本名 プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス Publius・Aelius・Hadorianus |
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生年月日:076年1月24日〜138年7月10日 | 前職:シリア属州総督 | 先帝との関係: | ||||
皇帝在位:117年8月11日〜138年7月10日 | 綽名: | 死亡原因: | ||||
主な称号: | ||||||
死亡時の称号 | ||||||
アントニヌス・ピウス Antoninus・Pius |
本名 ティトゥス・アウレリウス・フルブス・ボイオヌス・アントニヌス・ピウス Titus・Aurelius・Fulvus・Boionius・Antoninus・Pius |
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生年月日:86年9月19日〜161年3月7日 | 前職:元老院議員 | 先帝との関係:後継者指名 | ||||
皇帝在位:138年7月10日〜161年3月7日 | 綽名:Pius=敬虔なる者 | 死亡原因:病死 | ||||
主な称号:敬虔なる者・国父・護民官権限・執政官4回・インペラトール歓呼2回 | ||||||
死亡時の称号 Imperator・Ceaser・Titus・Aurelius・Hadorianus・Antoninus・Augustus・Pius,Pontifex・Maximus,Tribuniciae Potestatis]]W,ConsulW,ImperatorU,Pater・Patriae |
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アントニヌス・ピウスは86年9月19日イタリアの都市であるラヌウィムで誕生した。もともと一族の祖先はガリア出身だが、ローマの指導者層になつて久しく、祖父は執政官を2回、父も1回勤めている。こうなればローマでは指導者階級に属することになる。アントニヌス・ピウス帝も順調にキャリアを積み、120年には執政官に就任している。135年には小アジア属州総督に就任する。しかし、軍事に関しては全く経験をつむことが無かったに等しかった。 こうして、138年にハドリアヌス帝の養子になると後継者になり同皇帝の死後、皇帝に就任する。元老院も歓呼し、しかもハドリアヌス帝に仕えた官僚の多くが留任し、難なく皇帝の相続はは終わったかに見えた。 ところが、元老院がハドリアヌス帝の神格化反対、記憶の抹消刑を決議すると、アントニヌス・ピウス帝は猛烈に反対する。この対立の結果は結局アントニヌス・ピウス帝が「そうか、よろしい。ハドリアヌス帝が諸君から見て、心卑しく、敵意に満ち、公衆の敵となるのならば、私も諸君に指図は一切与えない。もし、そうなら諸君はすぐに彼の行為も無効にするだろうから。私の養子縁組もその一つだ。」と涙ながらに訴えたという。こうして、ハドリアヌスの神格化は決定し、記憶の抹消刑も無くなった。これは、どちらかというと感情論ではなくアントニヌス・ピウス帝にとって皇帝の威信や正統性を高める為には必要な処置であった。アントニヌス・ピウス帝はなかなか政治的に高度な判断のできる皇帝と言えよう。 アントニヌス・ピウス帝が統治者として以下に優れた性質を持っているのは次ぎの金銭に関する2つのエピソードがある。妻のファウスティナが夫のケチブリに苦情をいったことがある。これに対して「愚か者だね、おまえも。帝国の主となった今は、以前に所有していたものの主でさえもなくなったということだ。」又「国家の所有に帰すべき資産を必要に迫られているわけでもないのに消費するほど、さもしくも卑しい行為は無い」といった。その為に皇帝就任による恒例のローマ市民に対するボーナスも自らの資産でまかなった。 アントニヌス・ピウス帝は、絶大な行動力や指導力を発揮するのは要所要所だけであった。基本的な統治姿勢は人々の同意を得て、統治を行った。また、ハドリアヌス帝と違いローマからは殆ど出ることなく統治を行った。ローマ帝国の情報網は本国にいつづけることによっても効率的に統治を行える状態であり、またハドリアヌス帝の晩年を見たアントニヌス・ピウス帝にとって旅は肉体を酷使しつづけたものに見えたに違いない。ハドリアヌス帝は62歳で死亡したがアントニヌス・ピウス帝は75歳まで生きた。これがマルクス・アウレリウスを成人させるのに十分な時間を与えたといえる。 もっとも、すでに述べているとおり、ローマ帝国は皇帝を現場に招く必要が無いほど行き届いており、ブリタニアに置いてはハドリアヌス帝の城壁よりさらに北方に侵攻しスコットランド南部を征服し国境にアントニヌス帝の城壁を建設した。国境各地で紛争や小競り合いが発生したもののローマの軍事力に対しては周辺国家も恐れていた為、大半は外交交渉でかなりの成果をあげていたという。さらに148年にはローマ建国900年祭が華やかに行われた。まさにローマ市民は「黄金の世紀」を享受することができた。 ある日の夕食で、アルプス産のチーズを食べ過ぎ、それが原因で嘔吐して発熱を起こした、そして、最後の責務であるマルクス・アウレリウスに政務の引継ぎを行った。161年3月7日、アントニヌス・ピウス帝はローマ近郊のロリヌムの離宮で息を引き取った。彼は死後、反対も無く神格化され、遺体はハドリアヌス帝廟に妻と20年以上前に死んだ息子2人と共に安置されてた。 彼の生涯の評価としてある伝記作家は「ほぼ、全ての皇帝の中でただ一人、彼は権力の座についている間ずっと、市民の血はおろか敵の血にもまったく汚されずに生きた。そして、幸運と平穏と宗教儀式を保持しつづけたことで、ヌマ、その人にたとえられた。」 アントニヌス・ピウスという一人の皇帝に歴史家は共通してトラヤヤヌス帝やハドリアヌス帝に比べ書くべきことが無いという評価が多い、事実アントニヌス・ピウス帝の治世は23年という五賢帝時代でもっとも長い治世を誇りながら、五賢帝の中で最も影の薄い存在といえる。 しかし、特筆するべきことが殆ど無いというのは逆を言えばアントニヌス・ピウス帝の時代ローマ帝国は最も幸福な時代を送れたのではないだろうか。トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝が再び手直しした行政機構をうまく運用することによって帝国は安定した。それは後代の歴史家から「人類が最も幸福な時代」「黄金の世紀」として現代まで評価されつづけた。それはアウグストゥス帝、ティベリウス帝が完成させたローマ帝政という新たな統治システムを受け継いだカリグラがわずか4年で暗殺されたことを考えると、雲泥の差がある。しかも死に際してはアントニヌス・ピウス帝は生を全うした死に方である。先人がどのような偉大なシステムを構築しても運用するものによってはその当人を死に追いやることにもなりかねない諸刃の剣である。それは最も地味で目立つことの無いのかもしれない。しかし、支配される側にとっては歴史上のカエサルやナポレオンなどの転換期の時代に生きるよりアントニヌス・ピウス帝の時代に生きるほうが幸福であるのは自明の理であろう。 |
マルクス・アウレリウス Marucus・Aurerius |
本名 マルクス・アウレリウス・アントニヌス Marcus・Aurelius・Antoninus |
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生年月日:121年4月26日〜180年3月17日 | 前職: | 先帝との関係:養子(娘の夫) | ||||
皇帝在位:161年3月7日〜180年3月17日 | 綽名:哲人皇帝 | 死亡原因:病死 | ||||
主な称号: | ||||||
死亡時の称号 | ||||||
ルキウス・ウェルス Lucius・Verus |
本名 ルキウス・ウェルス Lucius・Verus |
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生年月日:130年12月15日〜169年1月か2月 | 前職: | 先帝との関係:養子(娘の夫) | ||||
皇帝在位:161年3月7日〜169年1月か2月 | 綽名: | 死亡原因:病死(脳卒中) | ||||
主な称号:国父・護民官権限・執政官3回・インペラトール歓呼5回・アルメニクス・パルティクスマクシムス・メディクス | ||||||
死亡時の称号 Imperator・Ceaser・Lucius・Aurelius・Verus・Augustus・Arumenicus,Paruthicus・Maximus・Medicus,Pontifex・Maximus,Tribuniciae Potestatis[,ImperatorX,ConsulV,Pater・Patriae |
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マルクス・アウレリウス帝と共にローマ皇帝の地位に就いた。ローマ帝政史上初の共同皇帝となったルキウス・ウェルスは130年にローマで誕生した。138年2月25日にハドリアヌス帝の死の直前。マルクス・アウレリウスと共にアントニヌス・ピウスの養子になる。そのころより、マルクス・アウレリウスと共にローマのエリート教育を受けるようになる。 154年に初めて執政官に就任。161年3月7日、マルクス・アウレリウスよりも10歳近く若いがマルクス・アウレリウスの要請によりローマ皇帝に就任する。ここに共治帝としてローマ帝国は2人の皇帝を頂くことになる。164年にマルクス・アウレリウス帝の次女ルキラと結婚する。 哲人皇帝マルクス・アウレリウスの影に隠れて実際教科書にも全く触れられていない皇帝ルキウス・ウェルス。確かに能力的なものはマルクス・アウレリウス帝より劣っていた。また、マルクス・アウレリウス帝はストア派の哲学者であり生真面目な雰囲気を漂わせているのに比べ、ルキウス・ウェルスは剣闘士競技や運動競技など、生の悦楽に興味を向けていた。 しかし、ルキウス・ウェルス帝はマルクス・アウレリウス帝を敬愛し良き副官としていようとしていた。マルクス・アウレリウス帝は『自省録』の中で義弟ルキウス・ウェルス帝について「弟の生来の資質は、常に私の自制心をかき乱したが、同時に、彼が示す敬愛の情は、私の心を暖めてくれた」と伝えている。 162年にルキウス・ウェルス帝は東方に幕僚と共に赴き、アルメニアに侵攻し首都アルタクサタを占拠した。もう一方の方面軍を指揮していたカシウスは、パルティアの首都クテシフォンを攻め落としてパルティア王宮を破壊した。これはめざましい軍港と言えたがルキウス・ウェルス帝は殆ど賞賛を与えられていない。なぜなら、彼がダフネで越冬している間、配下の将軍が殆ど勝片付けたからであった。 しかし、パルティア戦役の成功はが満足すべき結果を残した為、166年10月、ローマで凱旋式を行った。この時、ルキウス・ウェルス帝は「アルメニクス」「パルティクス・マクシムス」「メディクス」の称号はマルクス・アウレリウス帝こそ受けるべきだと主張した。 しかし、パルティア戦役は多くの戦利品と共に疫病を持ちこんだ。とくに人口の密集したローマは壊滅的打撃を受けた。これとゲルマン人の侵攻によりマルクス・アウレリウス帝の苦難の闘いが始まるのである。 168年の春、マルクス・アウレリウス帝と共にルキウス・ウェルス帝は前年のゲルマン人の侵攻に対処する為ローマから北方に向かった。しかし、国境の属州を沈静化させた翌年の春、アクイレイアを立ち南へ向う途中、脳卒中に襲われた。そして、アルティウムに運ばれてから3日後に死亡した。彼の遺体はローマに運ばれハドリアヌス廟に実父コンモドゥスと養父アントニヌス・ピウス帝と共に並んで安置された。 あの当時、ローマ帝国に皇帝が2人必要かといわれれば、結果的に必要だったといえるのかもしれない。マルクス・アウレリウス帝にとってルキウス・ウェルス帝の帝位就任要請は哲学を勉強する時間が欲しかったと言われているが、動機はどうあれ複数の同時多発的な事象を同時に解決することにおいて有効であった。皇帝がその方面に臨席し対策を打っているという心理的な面は軽視できない。(最も現実的な戦略が確立していればの話だが)マルクス・アウレリウス帝とルキウス・ウェルス帝に置いて例え共治帝が無能であっても有能な皇帝がコントロールすることによって単独皇帝以上の成果をあげることができる。その実例の一つであったといえる。 |
コンモドゥス Commodus |
本名 ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス Lucius・Aurerius・Commodus |
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生年月日:161年8月31日〜192年12月31日 | 前職: | 先帝との関係:アウレリウス帝の息子 | ||||
皇帝在位:180年3月17日〜192年12月31日 | 綽名:誇大妄想主義者 | 死亡原因:暗殺 | ||||
主な称号: | ||||||
死亡時の称号 Imperator・Ceaser・Lucius・Aelius・Aurerius・Commodus・Augustus・Pius・Firicus・Germanicus・Maximus・Britanicus・,Pontifex・Maximus,TribuniciaePotestatis][,Imperator[,ConsulZ,Pater・Patriae |
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マルクス・アウレリウス帝の10番目の息子で同帝の死後、単独正帝に就任した。マルクス・アウレリウス帝にとっては唯一の成人した男性である。コンモドゥスは早くから後継者皇帝として教育を受けた。5歳で「カエサル」、11歳で「ゲルマニクス」の称号を受けたのも、早い段階でマルクス・アウレリウス帝の後継者としての地位を与えられた何よりの証明であろう。176年にはローマで父、マルクス・アウレリウス帝の凱旋式に参加、177年に共治帝となる。さらにコンモドゥスは178、179年ドナウ方面の前線で父と共に戦っている。 始めは側近の助言に従っていたものの、180年マルクス・アウレリウス帝の死後、側近の意見に逆らいそれまで行っていたドナウ河の戦争を打ち切り和解しローマへ帰還した。結果的にヨーロッパ中部をローマの属州にしたところで北部国境問題が解決するとも思えずしかも、それから数十年間平和であったことを考えると、戦争を自ら指揮することなくただローマの豊かな生活に戻りたいという動機はどうあれ、結果としてはこの判断は正しかった。しかし、この和解はは巨額の援助金の支払いと占領地のローマ軍団の撤退というまるで戦争に敗北したのと同じ状態であった。ローマに戻ったコンモドゥス帝は180年10月22日に凱旋式を行った。 ギボンによるとコンモドゥスは気の小さい、影響されやすい性格と述べている。当初はマルクス・アウレリウス帝の有能な側近が引き続き助言に当たっていた。ドナウ川の撤退を除けばおおむねこれら有能な側近の言に従っていた。しかし、182年に姉ルキラの扇動によりコンモドゥス帝の甥クィンティアヌスがコンモドゥス帝暗殺未遂事件を起こした。彼は「覚悟しろ、これが元老院の贈り物だ」と叫んで襲いかかった瞬間、衛兵に取り押さえられたという。コンモドゥス帝は傷こそおわなかったが、精神的な動揺は計り知れないものがあった。これが統治当初からあった元老院に対する溝をさらに深めた。さらにお気に入りの従者サオテルスが殺されることにより著しく精神のバランスを欠いていく。これがコンモドゥスという血に餓えた誇大妄想の怪物を誕生させた。 コンモドゥス帝の報復はすさまじかった。まず姉ルキラ、甥クィンティアヌスは処刑された。サオテルス殺害に荷担した親衛隊長パテルヌスも処刑された。事件後コンモドゥス帝は公の場に出ることは無く、後任の親衛隊長ペレンニスに対して全てを通すようにと命じた。これによりペレンニスは政府の管理まで権力として握ることとなる。コンモドゥス帝の治世の特色である、寵臣による腐敗政治がこの時より表面に出るのである。こうしてコンモドゥス帝は政治を見ることなく放蕩と奢侈にふけっていった。しかし185年にぺレンニウスが失脚する。原因はペレンニウスがクーデターを起こし自らの息子を皇帝に就けようという噂からであった。その噂がブリタニア軍団よりコンモドゥス帝に伝えられ、ペレンニウスの失脚となった。これは、その年の始めに起きたブリタニア軍団の内乱と反乱の処理が、ペレンニウスによって苛酷だった為の報復的な意味合いも持っていた。ペレンニウス親子は処刑された。 しかし、これでコンモドゥス帝の素行が改まるわけでもなく、ただクレアンデルが新たに側近として台頭しただけであった。こうして、後に悪名を残すフリュギア人奴隷出身のクレアンデルは一代で解放奴隷となり、宮廷の最高権力を得た。だが、自らの私腹を肥やすことしか考えず、気に入らない元老院議員を処刑していった。しかし、190年にローマの穀物不足が原因で、クレアンデルは失脚する。実際の不足に拍車をかけたのは穀物管理官のディオニシスの私服を肥やしたためだと思われるが、ともかくクレアンデルはこれにより処刑された。 クレアンデルの死後、コンモドゥス帝はさらに誇大妄想の兆候を示した。度々、命を狙われた性で、精神バランスを崩したのかも知れない。自らを現人神とし、ヘラクレスの化身と称した。12月の呼び名を自分にちなんだ呼び名に変えさせ、191年のローマの大火災における修復工事をてこにして、公式にローマの名を「コロニア・コンモディアナ」と改名させた。 治世の後半は、情緒不安定になったコンモドゥス帝は、元老院議員を次々と処刑。さらにローマ皇帝として初めて剣闘士として円形闘技場に出場した。剣闘士階級はもともと卑しい階級からの出身の為に皇帝が自らその地位に貶めるごとき行為は元老院階級、騎士階級、市民の多くはショックを受けた。さらに、192年11月、コンモドゥス帝はヘラクレスの扮装で登場した。そして自らをヘラクレスの化身と称した。もはやこのような行為はローマ市民にはついて行けないレベルであった。 もはや、血に餓えた誇大妄想主義者であるコンモドゥス帝と一緒にいる限り、身の回りの安全は保障されないに等しい状態であった。こうして、また皇帝暗殺計画が計画され実行に移された。今度の首謀者は、侍従長エクレクトゥス、親衛隊長ラエトゥス、皇帝の愛妾マルキアであった。192年12月31日の夜、マルキアは密かに毒をもったが、コンモドゥス帝は毒を吐き出し失敗、そこで首謀者は、ナルキッススという若者を送り、絞め殺させた。そして遺体は夜のうちに埋められたが、その後ぺルティナクス帝がハドリアヌス廟に移した。しかし、公式記録からは抹消され、4年後、セプティミウス・セウェルスが神としての祭り上げる。しかし、その後の人々に残ったのは「残虐で誇大妄想」という記憶であった。彼の死によってアントニヌス朝は終焉を迎えた。 西洋の人々にとって、ローマ帝国の衰退が如実に現れたのはこの時期という認識が高い。また、そして帝政ローマは悪、共和政ローマは善という西洋独特の歴史認識感に従えがえば、まさにコンモドゥス帝こそ、絶好の素材である。2つのハリウッド映画『ローマ帝国の滅亡』『グラディエイター』がなぜマルクス・アウレリウス帝の死後を題材にしているのか、『ローマ帝国の滅亡』はローマ帝国の衰退のスタートがこの時期であるという観点から、『グラディエイター』は帝政ローマこそ悪そのもので共和政ローマこそ善の良き政治の象徴であるという観点から書かれているとおもわれる。2人の親子、父は偉大なる哲人皇帝マルクス・アウレリウス、子供は誇大妄想主義で気の弱い愚帝のコンモドゥス、そして歴史の転換点と現代西洋がまさに持つ歴史認識。まさに映画や演劇にしやすい全ての条件が見事なまでそろっている。もしかしたら、コンモドゥス帝を後世の一般の人々が伝えるとすればローマ帝国の映画もので隠れた主役として伝えるのかもしれない。 |