歴代ローマ皇帝列伝 |
ユリウス・クラウディウス朝 Julius・Claudius |
アウグストゥス Augustus |
本名 ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス Gaius Julius Ceaser Octavianus |
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生没:BC63年9月23日〜AD14年8月19日 | 前職:国家三人委員会 | |||||
在位:BC27年1月16日〜AD14年8月19日 | 綽名:Augustus=尊厳者 | 死亡原因:病死 | ||||
主な称号:護民官権限・執政官13回・インペラトール歓呼21回・国父・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号 Imperator Ceaser divi Firius Augustus ,Pontifex Maximus,Consul]V,Imperator]]T,Tribuniciae Potestatis]]]Z,Pater Patriae |
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ローマ帝国の初代皇帝。 騎士階級に属するガイウス・オクタウィウスとガイウス・ユリウス・カエサルの姪アティアの息子として生まれた。この時の名はガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスといった。父の死後の紀元前45年にカエサルの養子となり、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスと称した。紀元前44年3月15日にカエサルがブルートゥス、カシウスらに暗殺されたのち、遺言書により18歳にして公式相続人に指名された。 それにより、アントニウスとレピドゥスらともに第2回三頭政治を行うが、レピドゥスが失脚するとやがてアントニウスと対立した。そしてアクティウムの海戦でアントニウス、クレオパトラを下すとローマ世界の第一人者となる。 彼自身、身体もどちらかというと病弱で(これが後継者を次々探そうとすることの原因となる)、戦闘指揮能力も凡才であったが、ただ政治能力はスバ抜けており、戦闘指揮能力はアグリッパが助け、マエケナスが広報面を支援することにより最終的に勝利することができた。 BC27年に元老院からアウグストゥスの称号を受けここに事実上のローマ帝政がスタートする。彼の特徴付けたローマの帝政こそ共和政の仮面をかぶった帝政で各論(つまり一点に絞ったところを見れば)合法ではあるが、それを全体から見ると違法であるという、矛盾を生じた集合権力体であった。つまりローマ皇帝とは法的な根拠も無ければ、実際に制度上にある地位ではなく壮大なフィクションの中に存在する、実際に皇帝になった者にとっては極めてバランスをとるのが難しい地位であった。 ただ、現状のローマの諸問題を解決し、かつ、国家を効率良く停滞せずに動かすにはカエサルやアウグストゥスが目指した政治体制を選択するしか方法がなかった。いわゆる、少数寡頭制ではなく、一人の皇帝による独裁的な政治体制を目指す方向にせざるおえなかった。 、カエサルの暗殺に見られるように、元老院は全体として変化を嫌う傾向があり、また独裁に関してのアレルギーが非常に強く為急進的な体制変化は望めなかった。事実、彼自身が元老院に対してとった数々の対応や市民に対しての対応が全て物語っている。つまり、彼が常に取っていた立場は元老院の第一人者(プリンケパトゥス)という立場をとり、そしてこの立場は何もアウグストゥスがはじめて称したわけではなく、過去、共和政下では有力な政治家達が使用していてた称号を使っていただけにすぎなかった。 例えるなら皇帝アウグストゥスは見事な俳優であるといえる。元老院や市民に対して「見たいと思う現実」を見せつづけ時間をかけてローマ皇帝の地位を完成させたのである。 アウグストゥスの称号を受けて以降、彼は次々と権限を手に入れるこことなる。BC27年プロコンスル命令権を得て複数の属州を管轄する権限を得、これにより皇帝管轄属州が成立させた。皇帝管轄属州は国境地帯に集中していた。その為、ローマの軍団の殆どが駐留していた為事実上のローマ全軍の指揮権を持つにいたった。さらにそれ以外の属州に対してもアウグストゥスの命令権が現場の総督よりも上級と位置付けられた為、アウグストゥスは事実上全属州の管轄権限を持つこととなる。さらにBC23年に護民官権限を与えられて、身体の不可侵性と法案に対する拒否権を得て、そしてBC19年にコンスル(執政官)命令権を与えられ首都とイタリアに対する行政の最高責任者の権限を得るわけである。これによりそれぞれの職に就任しなくても職務を遂行できる形となった。さらにBC2年に国父の称号得、これによりアウグストゥスの地位が確立するわけである。アウグストゥス自身が『業績録』で述べている「私は権威において万人に勝ろうと、権限に関しては私の同僚政務官を凌駕することはなかった」とこの一言にこそローマ皇帝という地位の複雑性が隠されているわけである。ただその権威は軍隊と各政務官権限の複合体という裏づけがあるのだが。 ローマはアウグストゥスの元で新たなる平和の時代を得るようになったわけでここに広義の「ローマの平和(パクスロマーナ)」が始まる。アウグストゥスの時代にも領土獲得が続けられ多数の属州が成立したが、それは国境線の長さを短くすることにより軍団や軍事費の効率化を図るためのものであった。もっともBC9年のトイトブルクのローマ3個軍団壊滅後は積極性がなくなっていくわけであるが、多少の失敗はあったもののこれらの多くの軍事的成功により国境は安定し、さらに属州の再編、行政の効率化をはかり帝国に政治的安定を与えた。 ただ、様々な支援者(アグリッパやマエケナスに代表される)に助けれ、様々な偉大なる業績をあげたアウグストゥスであったが、家庭生活は決して幸福であるとはいえず、彼が指名した後継者達の早逝、一人娘ユリアのスキャンダル(皮肉なことにアウグストゥスが定めた「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」抵触)、ティベリウスのロードス島の一時的な隠棲など家庭生活はリウィアとの夫婦生活を除けば決して幸福とは言えなかった。 アウグストゥスは40年に渡りローマ帝国の皇帝でありつづけ、AD14年8月19日に体調不良が原因で死去する。遺灰はアウグストゥス廟に葬られる。 最後にアウグストゥスのエピソードを2つほど。まず、治世の晩年皇帝に対して感謝の言葉を述べたアレクサンドリアの船員に金貨40枚ずつをエジプトで物を仕入れそれを他の地で売ることという使用条件付きで与えたこと。つまり物流の安定と活発化こそが経済の水準をあげ人々の生活を豊かにしていくことを念頭においていた。そして、逝去する寸前の「拍手を送ってくれ,人生という喜劇を演じ終えた私に」と述べた言葉。この2つエピソードこそアウグストゥスという複雑で矛盾の中を自分が目指したものに歩み続けた人生の側面を見れるのではないだろうか。 アウグストゥスの統治を見たとき、ローマ帝政が悪で全てを否定すべき存在だとだれがいえるのだろうか。少なくとも40年近く平和にローマ帝国民は暮らせた、経済生活の高水準化も進み、安定した生活を送れるようになった。世襲が悪いと否定するのなら何故、具体的な政策も持たない2世議員を当選させるのか。現代は法や憲法を絶対的に神聖視するあまり国民の安全保障が心もとない状況にあるのではないか、経済的に安定な生活を送れてるのか。政治家が最も守るべきものは国民の安全で安定した生活ではないだろうか。現代の人々は帝政に移行したローマを悪としてその市民を堕落した者して扱えるのだろうか、共和政を善として守るべき者なら、権利を主張するのではなくそれ以上に義務を果たすべきではないだろうか。そして、アウグストゥスも絶対的な権力を持ちながら、公私混同はしなかった。ローマ市民も権利を確かに要求したが義務も怠らなかった。はたして、現代の人々に帝政ローマを否定できるだろうか。 |
ティベリウス Tiberius |
本名 ティベリウス・クラウディウス・ネロ Tiberius Claudius Nero |
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生没:BC42年11月16日〜AD37年3月16日 | 前職:ライン川方面軍司令官 | 先帝との関係:義理の息子 | ||||
在位:AD14年8月19日〜AD37年3月16日 | 綽名: | 死亡原因:病死 | ||||
主な称号:護民官権限・執政官5回・インペラトール歓呼8回・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号 Tiberius Ceaser divi Augustue Firius Augustus,Pontifex Maximus,Tribuniciae Potestatis]]]U,Imperator[,ConsulX |
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アウグストゥスの3番目の妻リウィアの連れ子。ローマの名門貴族クラウディウス氏族出身。当初は後継者候補からは外れていたが、アウグストゥスが指名していた候補者が次々早逝するなかで、最終的に後継者となる。軍事指揮能力に有能で、アウグストゥスの軍事面でのパートナーであるアグリッパが死亡すると、軍事面で総指揮を取るようになった。AD14年8月19日にアウグストゥスの「公式相続人」であったティベリウスは56歳でローマ帝国第2代皇帝に就任する。 ティベリウス帝の評価は歴史家の間では必ずしも評価が良くない、ローマ帝政時代の最高の歴史家タキトゥスに至ってはことあるごとにティベリウス帝を非難の対象にしている。ティベリウスに対して再評価がされたのはつい最近になってからである。 では、なぜ長い間評価が低かったのかは、彼自身の統治スタイルが市民や元老院に対しあまりにもウケがよくなるような応対をしていなかったからである。私自身のティベリウスのイメージというのがまじめだが決して社交的ではない朴訥とした印象を受け、それが返って彼自身の後の評価を低くした原因であると思える。 即位すると、アウグストゥス帝の後継者としてアウグストゥスの政治を手本として統治を始め、経験の殆どなかった行政手腕にすぐれた能力を示す。帝国を襲った金融危機の対処や辺境の防衛網の確立にすぐれた手腕を示し、治世当初の親族で当初の後継者候補のゲルマニクスとドルススの軍事的活躍、災害被害の迅速な対処など、そしてなによりもティベリウスに批判的なタキトゥスさえも認め、歴史家モムゼンが「ティベリウススクール」と称したほどティベリウスは優れた人材活用をした人物でもあった。それがユリウス・クラウディウス朝におけるローマ帝国の辺境の安定を保証していった。 しかしながら、ティベリウスが優れた行政手腕を示せば示すほど、彼自身はローマ市民に対して落胆の色を強めていく、目先の利益しか走らない元老院議員や派手なサーカス(剣闘士試合や戦車競走)に現をぬかすローマ市民は、生来のまじめなティベリウスにとっては決して良い印象を持つ対象にはならかった。さらにティベリウスの目指した統治スタイルはアウグストゥスよりも共和政よりにあったといえ、任せられる部分があれば人を信じて任せかった。決して社交性があると言えないティベリウスがそのようなことを考え、さらに市民に対しても好きでもない剣闘士などの競技会に出席し対話を務めようとした。この一連の行為はもしかしたらティベリウスはローマ市民に対して古き良きローマ精神を持って欲しいと思ったのかも知れない。 しかし、ついにティベリウスは決して変わる事のとない元老院や市民に対して距離を置いていく、皇帝主宰の競技会の停止、そしてついに市民の前には姿を表さなくなった。これがローマ市民のティベリウス人気を下げることとなり、さらにゲルマニクスの死に始まる家庭内の不和により、人間に対して一種の不信感がつのりついには27年にカプリ島に居を移すこととなる。その間、親衛隊長セイヤヌスがローマに残りティベリウスと元老院との連絡役を務めた。ドルススの死によりセイヤヌスが暴走をすることとなるとやがて、セイヤヌスを排除することになる。しかしながらローマ皇帝としての責務をティベリウスは決して放棄することはなく、優秀な行政手腕を示すものの27年のカプリ島に居を移すこととなって以来、セイヤヌスを排除した後も二度とローマに戻ることはなかった。信じようと務めたものが、家庭や側近に裏切られれればもはや人間は信じられなかったのだろう、それが統治末期の反逆罪などにみられる恐怖政治の原因といえないだろうか。そうした元老院やローマ市民に対して距離を置いた結果がスエストニウスの書いたゴシップ記事につながったのだろう。 ティベリウスは37年3月16日に77歳で死亡した、彼の死亡がローマに伝わったときに市民は「死体をティベレ川(ティベリウス川)に投げ込め」と叫んだという。それを死の直前公式相続人になったカリグラは制止しアウグストゥス廟に葬るのだが。その行為がカリグラの人気をさらに高めた。皮肉だがローマ市民のことを考えた皇帝には侮蔑をあたえ、市民の死刑執行人には歓呼をあげる。4年後の彼らはこのときのことをどう思ったのだろうか。 現代人はおそらく、もしかしたら帝政時代のローマ市民に対してはパンとサーカスや公共施設を要求し、公のことを考えない堕落した集団として映ったのかも知れない。しかし、我々は古代ローマ市民を非難できるのだろうか、結果として我々も変わらないのではないだろうか。結局、選挙でも投票するのはおらが村に橋を掛けてもらえるような人間しか投票することしか考えてはないだろうか。さらに現在の指導者も金儲けのことしか考えてはないのだろうか、確かにローマの指導者層も金儲けの事を考えていたのかも知れない。ただし、少なくとも例え選挙の為とはいえ、自らの私財を投げ打って、公共施設を建設しローマ市民に寄付していった。つまり、社会的公共性を持つことがローマ人の誇りであった。だが、現在の我々はこのような誇りを持つことはあるのだろうか、政治家も確かに堕落しているのかもしれない。ただ、国民もそれ以上に堕落しているのではないだろうか。しかも知識人と呼ばれている、国民に誇りを持たせないように動かしている奇形集団やマスコミと名のるイエローペーパーに我々は踊らされているのではないだろうか。 |
カリグラ Caligula |
本名 ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス Gaius Julius Ceaser Germanicus |
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生没:12年8月31日〜41年1月24日 | 前職: | 先帝との関係:甥の子 | ||||
在位:37年3月18日〜41年1月24日 | 綽名:Caligula=小さな軍靴(カリガ)から | 死亡原因:暗殺 | ||||
主な称号:護民官権限・執政官5回・インペラトール歓呼1回・国父・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号 Gaius Ceaser Germanicus Augustus,Pontifex Maximus,Tribuniciae ConsulX,Imperator,PotestatisW,Pater Patriae |
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ローマ帝国第3代皇帝にして最初の暴君として歴史に残すことになる。カリグラもティベリウス帝同様、当初は皇帝後継者としては考えられてなかった。彼がティベリウスの後継者に選ばれたのはティベリウスの死の直前であった。 即位当初、彼の人気は非常に高かった。なぜなら彼の父はアウグストゥスにティベリウスの後継者に選ばれ、東方戦線で活躍し、19年にに不慮の死で亡くなったゲルマニクス。さらに父は市民にも人気が高かった。さらに母、兄はティベリウスに反逆しようとして失敗し流罪になり、流罪先でなくなっている。幼い段階でこういった形で父と母をなくし、さらに母にいたっては犯罪を犯したとは言いえ市民に不人気の皇帝ティベリウスによって島流しにされたわけで、おのずと市民の人気は高くなるわけである。そして、即位当初の一連のパフォーマンス、母と兄の遺灰とティベリウスの遺灰をアウグストゥス廟に移し、国家反逆罪の裁判を廃止し、親衛隊や軍隊に多額の報奨金をばら撒き、市民に対しては各種競技会(特に戦車競走)を派手に行った。これらはカリグラの人気をいやが上でも高めたといえる。市民にとっては新たなる時代の息吹を感じたに違いない。それが、国父という称号を与えられた理由であろう。 おそらく、カリグラの行った、上記のような一種のバラマキ政策が後の人々にローマの悪徳の一つの表現として「パンとサーカス」が定着したといえる。しかしながら、パンはローマ共和政時代からの小麦法による貧民救済処置であり、サーカスは今で言うところのプロスポーツ観戦であり、そして、スポンサーが皇帝や有力者らがなることにより、ローマ市民に無料で娯楽を提供したわけである。もし、これを悪徳とするのなら、現代国家は一切の福祉政策、プロスポーツの禁止を悪徳とみなさなければならないのである。それに、「パンとサーカス」の項目がでると良くイメージされているのがローマ市民の遊民化、つまりただで娯楽やパンを与えられ働きもしないイメージとして捉えられるのだが、実際には、志願制となったローマの軍団において深刻な正規軍(ローマ市民権所有者からなる)の定員割れによる軍団統統廃合がなく、主力が傭兵や非ローマ市民権所有者にとって代わられたわけでも無いことからも少なくとも責務もきちんとはたしていたのではないだろうか。 即位から、6ヶ月目、カリグラは重病に陥るが、国民は祈祷をして回復を祈った。これはこの時点でのカリグラの人気がまだ続いている証拠であった。カリグラとはティベリウスとは違い、アウグストゥスが創設した帝政の象徴の側面をもっていた。 2ヶ月後、カリグラは完治するが、このころから決定的に変化がでている。いや、その傾向は即位以前からの土壌があったのかも知れない。父を病気でなくし、母、兄を非業の死で失ったことは、家族に対して異常ともいえる愛情を持っていたカリグラ自身の心をひどくかき乱したにことであろう。少年時代、思春期に受けた権力争いに敗れ、非業の死をとげた肉親を見た衝撃はカリグラは「権力を失った者の末路がいかに悲惨な死を受けたか」という恐怖を与えたに違いない。それが重病に陥った孤独感と死にたいする恐怖感として、完治後、暴君の暴走が始まるのである。 カリグラ自身、権力のバックボーンとしては軍隊であることは理解していたと思われる。その軍隊の主力はローマ市民権所有者であるわけで、それに対しての度を越したバラマキ政策は確かにローマ市民の心を掴むことができたのかも知れない。それはローマ皇帝という地位を失いたくないカリグラの一種のパフォーマンスであるといえる。 しかし、元老院とカリグラの蜜月時代は、カリグラの重病完治後にすでに終わっていた。病気後の精神的な病みが猜疑心を増幅させ、ティベリウスに共同後継者に指名されたゲメルス、親衛隊長マクロを死という形で処分した。 さらに、38年に大切な妹ドルシラを失うとカリグラは悲嘆に暮れた、カリグラの4度目の妻カエソニアとの間に生まれた娘の名前にドルシラと衝けたぐらいであるからその度合いがわかるというものである。カリグラ自身4度妻を変えているが、2番目の妻の場合はガイウス・カルプルニウス・ピソの妻を結婚式中に奪い自らの妻とし、2ヶ月後に飽きたということで彼女と離縁した。さらに、自らのお気に入り馬インキタトゥスに贅沢な暮らしを与えたり、その馬の名で人間たちが招かれたり、極めつけは39年の夏、バイアエで気づかせた3キロの豪華な船を並べて作った橋で、自らアレクサンドロス大王の胸当て(アレクサンドリアにある墓から盗んできたらしい)を身につけ、派手なショーを繰り広げた。年寄り連中は眉をひそめたが、若者には受けが良かったという。ちょうど現在のロック歌手を各世代が見たときに漏らす感想に似ているのかもしれない。 このような、度を越したバラマキ政策はティベリウスが残した膨大な国家遺産を食い尽くすこととなり。一挙に財政は逼迫した。その赤字を補填する為の政策が国家反逆罪の復活である。これにより多数の市民が犠牲になり、財産の没収が行われ売春婦に新税を課し、さらに遺産の譲渡を皇帝に譲らせる法的措置をとり、既存の税率に手を加え収入の増大を図った。 さらに、元老院との関係も急速に悪化した。その原因は即位当初、ティベリウス帝時代、母と兄を始めとする国家反逆罪として処刑された人々を追込んだ元老院議員を不問にするという約束を破り、激しく非難し、執政官2人を解任するという騒動までに発展したことと、さらにカリグラの妹2人であるアグリッピナ(後のネロ帝の母)、リウィラと死亡した妹ドルシラの夫レピドゥスの関わったカリグラの排除の陰謀は妹2人はポントゥス島に幽閉、レピドゥスの処刑という血塗られた報復処置をしたことが原因であった。 そして、ゲルマニア、ブリテン島の遠征失敗。自らを現人神(今までローマで神格化されたのはロムルス、カエサル、アウグストゥスのみでしかも死後)称した。これはローマ人の目には非常に奇異に写り、カリグラの人気を失墜させた。 ユダヤ問題の対応の失敗とこのような暴政は各地で支持を失い、さらに皇帝暗殺計画の漏洩はさらなる元老院議員の血で購われたが、しかしさらなる陰謀が進められ41年の1月24日の「パラティヌス祭」の最終日、親衛隊士官カエレアとサビヌスに暗殺された。この暗殺計画と同時にカリグラの4度目の妻カエソニアと娘ドルシラも殺害された。その後、カリグラの妹2人であるアグリッピナ、リウィラは流刑地から戻され、カリグラの遺灰をアウグストゥス廟に収めた。元老院はカリグラの名を公文書から消し、各地のカリグラの像も破壊されていった。その為にカリグラの像は現存するのは少なく、狂気の皇帝カリグラとして民衆の伝説として残るのである。それと彼自身が残したのは財政危機と親衛隊が皇帝を選出するという前例の下敷きを作った。 最後に、ローマ帝国は第3代皇帝にして初めての暴君を輩出した、血統による独裁政治の欠点をカリグラが証明したいことになる。独裁政治の長所であり短所にもなりうるのは独裁者個人の資質である、良き資質であれば国民は幸福な生活がおくれ、悪しき資質ならば国民の生活は不幸な生活を送ることとなる。それは古今東西の独裁者が図らずも証明している。独裁制の最大の長所は政治をドラスティックに運営していくことができる点である。民主制の最大の長所は個人の資質に頼る必要がない為に政治の暴走を抑制することができる。しかしながら政治制度とは、(例えば独裁や民主制など)手段であって最も大切なのは国民の安全で安定した生活ではないだろうか。ただ、私自身はなにも独裁制擁護派ではない。なぜなら、良き独裁者や皇帝など永遠に出つづける保証はないからである。賢帝や名君の血統やおよそ名君、賢帝とよばれる皇帝の後継者指名などで選ばれたからというこでは保証できない。それは歴史が証明しているのではないだろうか。それならば、自らが選挙という権利がある民主制を私は選ぶ。ただ、独裁者を誕生させた最大の原因は国民であるのではないだろうか。歴史を顧みれば確かに、ローマではカエサルは国家のそれまでの体制では行き詰まりを感じたからこそ独裁制を選んだ。古今東西の独裁制を始める独裁者は己が野望を成就させるための者もいれば、国家の組織体制を変え立派な国家を作り上げようとする動機からの者もいる。一見そういった行動は個人の資質や様々な独裁者の動機に注目しがちだが、どの独裁者も国民の圧倒的人気や支持を得ることによって誕生したのである。 |
クラウディウス Claudius |
本名 ティベリウス・クラウディウス・ドルスス Tiberius Claudius Drusus |
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生没:BC10年8月1日〜54年10月13日 | 前職: | 先帝との関係:伯父 | ||||
在位:AD41年1月24日〜54年10月13日 | 綽名:歴史家皇帝 | 死亡原因:毒殺? | ||||
主な称号:護民官権限・執政官5回・インペラトール歓呼27回・国父・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号 Tiberius Claudius Ceaser Augustus Germanicus,Pontifex Maximus,Tribuniciae Potestatis]W,Imperator]]Z,ConsulX,Pater Patriae |
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ローマ帝国第4代皇帝である彼の皇帝就任は、波瀾含みのスタートであった。親衛隊に暗殺された皇帝カリグラ亡き後、元老院側は共和政ローマに戻そうかと画策されたが、親衛隊がいち早くカーテンの陰に隠れていたクラウディウスを発見後、兵舎内へ連れて行きインペラトールとして親衛隊の支持を受け第4代皇帝に就任した。クラウディウス帝はおそらくユリウス・クラウディウス朝の即位した皇帝の中でもっとも皇帝になる確率が低かったのではないだろうか、ティベリウスのようにアウグストゥスに指名されたわけでもなく、カリグラのようにユリウス・クラウディウス朝を象徴したバックボーンも人気なく、またティベリウスに後継者指名されたわけでもないことを考えるとクラウディウス帝には帝位後継の正統性はユリウス・クラウディウス家にただ所属しているということだけであった。その為に彼はカリグラ帝暗殺者およびその関係者の親衛隊は処刑したものの、親衛隊には多額の報奨金をばら撒いた。このことが皇帝を承認するのは軍事力が必要というアウグストゥス以来被っていた仮面の一つが外れることになりった。今後の後継ローマ皇帝の殆どが帝位確立のための軍事力の必要性というのがより際立つようになる。 クラウディウスは生来肉体欠陥があった、話すとどもり、よだれをたらし、ギクシャクした行動は脳性麻痺ではないかと思われる。その為にけっして表に出ることはなかった。はじめて表舞台に立ったのは37年に元老院議員兼執政官に就任することになったときである。47歳にして初めて立つというところであろうか。それまでは快楽に身を窶し、歴史研究に没頭するはがりであっと伝えられた人物が51歳になって皇帝就任である。政治経験や軍事経験の全く無い、しかも後継者教育を受けていない皇帝の誕生であった。ただ経験こそ無かったが歴史家としての研究活動は皇帝就任後の政治スタイルに少なからず影響を与えることとなったと思われる。つまり、歴史に学びことにより、先人の方法論という理論と証明をたくさん得ることとなり、クラウディウスの政治経験不足というハンデを乗り越えるのに大きな助けとなったと思われる。 以上のようなことからクラウディウスがとるべき道は、皇帝の帝権の再確立による、彼自身の権威の確立であった。その為に必要なのがクラウディウス自身の身の安全、支持基盤の獲得、元老院における立場の強化と関係改善であった。 クラウディウスは生来の体質や経歴から必ずしも尊敬を集めることができなかった、それを支えたのはわずかな元老院議員とティベリウスが登用した数々の優秀な人材であった。それが治世当初のクラウディウスのスタートを無難に切らせることに成功する。後にその遺産である辺境の軍団司令官はネロまで助けることとなる。 かれがまず行ったのが上記で述べた親衛隊に対する処分を行った。さらに反逆罪裁判の廃止、カリグラが財産没収した財産の持ち主への返還、北アフリカ、ユダヤの混乱回復など、カリグラの悪政部分はことごとくこれを是正した。 そして、カリグラの乱脈財政で枯渇した国家財産の回復めざし、これは売上税1%の復活、国家支出の徹底的な無駄のカットよる収入と支出の健全なバランスを取り戻すことに目的置いた。さらに、クラウディウスは税の公正化を厳密に徹底させ、税金に関する裁判は自らよくむ赴いたという。これは効果をあげ、歴代皇帝のインフラを下地に国家財政は健全化をたどることができた。 また彼自身がユリウス・クラウディウス歴代皇帝に見られるようにアウグストゥスの政治を手本とするということを宣言していたが実際はティベリウスの統治スタイルに多くの共通点を持つことになる。つまり堅物ではあるが公共の利益を第一に考えたという点で特に重なることと言えよう。ただ、アウグストゥスの政治を手本とすると宣言したことにより元老院との関係も改善されていくこととなる。 クラウディウスの政治の特色としては中央政府における皇帝権力の強化と多数の属州民のローマ市民権獲得による人材登用であったといえる。さらに外征ではアウグストゥス以来の新領土であるブリタニアの獲得があげられる。 それまで緩やかなローマ市民権の付与規制が歴代皇帝のもとで行われていたが、クラウディウス帝はユリウス・カエサル以来と思えるほど積極的にあたえた。さらに皇帝の解放奴隷の皇帝官房の任命による官僚機構の整備により皇帝権力の集権化と図ることができた。もっとも、これはローマの指導層にみられる奴隷の使い方。つまり、近代帝国主義の奴隷に見られような強制労働者ではなく、ローマの奴隷の特色である、少年時代は竹馬の友、家父長になってからは主人の秘書としてというローマ独特の奴隷制度の延長であった。クラウディウスはそれを国政レベルに合わせただけことである。ともあれ官房長官にナルキッススに代表されるように解放奴隷出身がこれより国政や軍団の場でより重要な位置を占めることになる。そして、オステア港の整備やクラウディウス水道に見られるローマ市のインフラをさらに進めた。必要なものには金を使うというクラウディウスの財政政策の一端を表す一つの好例である。 クラウディウス帝の時代は比較的、ローマ市民にとって平穏であった。しかし行政の場はすさまじい権力争いの場であった3番目の妻メッサリナとクラウディウスの解放奴隷官僚、元老院の対立は、最終的にメッサリナの処刑によって幕を閉じた。しかし終わったかに見えた陰謀の渦は、クラウディウスは58歳のときに4番目の妻としてカリグラの妹であるアグリッピナを迎えたことにより再び動き出した。稀代の策士アグリッピナは自らの連れ子であるネロをクラウディウスの実子であるブリタニクスを差し置いて後継者とさせることに成功し、その間にネロの敵対者となりうるものをことごとく追放、53年にクラウディウスの娘オクタウィアと結婚させることにより、不動の地位を確立させる。そして54年10月13日にクラウディウスは突如激しい下痢をおこし、体調を崩し死亡した。アグリッピナによる毒殺ともいわれているが真相は謎である。ひとついえることは彼の死によって暴君の代名詞といわれる皇帝が誕生したことである。クラウディウスはネロによって死後、神格化された。 一人の専制者による政治とは、その人間の生い立ちや環境や過程によって培われた性格や能力が左右されるこれが君主政治みられる長所と短所である。そういう意味ではクラウディウスの治世こそ、その彼の性格をダイレクトに反映したものと言えるのではないだろうか。カリグラに執政官に任命されるまではクラウディウスにとってはいわば一族の恥部としての扱いを受たと伝えられる、けっして公の場に出ることは無かった。母は自分の息子を怪物として愛情を注がなかったという。しかしクラウディウスの治世を見る限り賢帝とは言えないまでもまず良き皇帝としての治世であった。カリグラやネロに見られる専制者としての致命的欠陥である統治者の節度の崩壊が見られない。許容できる範囲の欠点を持った普通の人間の普通の統治であったクラウディウスにとって母親は性格形成上必ずしもプラスになったとは思えない。これは一つの仮定だがクラウディウスが成人するまでアウグストゥスは生きていた、アウグストゥスにとって、もしかしたらクラウディウスも数少ない非常用の後継者として考えていたのかもしれない。あれだけ後継者に先立たれ、クラウディウス4歳時にはティベリウスのロードス島の隠棲のことを考えればその一人としても考えたのかもしれない。犯罪者でなければ一族を大切にしたアウグストゥスである、父を生まれて1年で亡くし、母親に愛情を注がれなかったクラウディウスをアウグストゥスは見捨てなかったのではないだろうか。その治世のスタイルをみればある意味世間の荒波を知らない気の弱い良くも悪くも素直で良家の坊ちゃんをイメージさせる。尊敬すべきアウグストゥスの歩んだ姿や形式を歴史に学ぶということによってまじめに杓子定規で受けたのが皇帝クラウディウスではなかろうか。 |
ネロ Nero |
本名 ルキウス・ドミティウス・アエノバブルス,ネロ・クラウディウス・カエサル Lucius Domitius Ahenobabulus,Nero Claudius Ceaser |
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生没:37年12月15日〜68年6月9日 | 前職: | 先帝との関係:義理の息子で姪の子 | ||||
在位:54年10月13日〜68年6月9日 | 綽名: | 死亡原因:暗殺 | ||||
主な称号:護民官権限・執政官5回・インペラトール歓呼13回・国父・大神祇官 | ||||||
死亡時の称号 Imperator Nero Claudius Ceaser Augustus Germanicus,Pontifex Maximus,Tribuniciae Potestatis]W,Imperator[,ConsulX,Pater Patriae |
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後世の歴史において、暴君の代名詞として伝えられるネロは、ユリウス・クラウディウス朝の最後の皇帝である。ネロは37年12月15日、イタリアの小さな海辺の町アンティウムで誕生した。父ルキウス・ドミティウス・アエノバブルスは共和政時代の名門出身であったが、ネロを皇帝の地位に押し上げたのは、母であるアグリッピナの影響が大きかった。なぜならアグリッピナは皇帝カリグラの妹であるからだった。 幼少期のネロは不遇の時代といってよかった。父を3歳のときに亡くし、母は皇帝カリグラによってポントゥス島に幽閉された(原因はカリグラを参照のこと)。しかし、カリグラ帝が殺されクラウディウス帝が即位すると運命はネロに味方した。母、アグリッピナはクラウディウス帝と再婚。ネロはクラウディウス帝の養子になった。そして、54年10月13日、クラウディウス帝の死により、皇帝に就任する。ネロはこのとき16歳であった。 皇帝就任からの5年間は後世のイメージからは程遠いほどのすばらしい政治を行っている。治世の最初のこの5年間は「クインクエンニウム」とよばれ、後の賢帝からも高く評されている。ネロ帝は就任時の演説のさい、「アウグストゥス帝時代の政治理念に戻る」と宣言した。この演説は哲学者でありネロの家庭教師であったセネカが書いたものであった。そのセネカと共に治世当初のネロ帝を支えたのが親衛隊長ブルスであった。後世の時代、まるで血に餓えた皇帝というレッテルを張られているが、これは後代のキリスト教史観が影響しただけである。 しかし、皇帝即位当初から、徐々に母やセネカ、ブルスの影響から抜け出していく。そして59年の野心家の母アグリッピナとの仲違いの末、母を死に追いやった。息子ネロをあくまで管理下に置きたい母と、その影響から抜け出したいネロの対立からであった。さらに政治的に重要な役割を果たした結婚であるにも関わらず妻オクタウィア(クラウディウス帝の娘)との離婚、島流し末、殺した。ネロはさらに友人マルクス・オト(後の皇帝オト)の妻ポッパエア・サビナを寝取ったが65年の夏に蹴り殺し、新しい妻スタティリア・メッサリナを迎えた。さらに母アグリッピナの死の前後から、夜な夜な街に出て、同年代の友人と窃盗グループまがいの事をしていた。 一方で政治の方は、皇帝としての責務を必ずしも放棄しつづけたわけではなかった。セネカの助けがあったとはいえ、順調であった。ブリタニアの反乱を適切な処置で対応し、アルメニア・パルティア問題も果敢に処理した。しかし、ブルスの死からネロの治世に暗雲が漂う。セネカの退場で助言者の2人を失い。前述の妻オクタヴィアの離婚と死でネロの「血」の後ろ盾を失い皇帝としての「実力」が問われるようになった。 しかし、ネロは実力を発揮しつづけようとはしなかった。アルメニア・パルティア問題も、コルブロの活躍により解決したにも関わらず、それにより市民から支持をネロが受けたにも関わらず、ネロはギリシアでの歌手デビューを果たす。つまり、ネロにとって支持さえあれば何でもやっていいという考えを持つ自制心の効かない男であったとするしかない。本来ならば、支持が高ければ高いほど自制心を発揮して節度ある生活を統治者は行わなくてはならない、つまり、高い支持率は民衆はそれだけ統治者に注目している。そのようなときにネロのように統治者としての持続すべき意思を欠落させた行動は徐々にネロの基盤を蝕んでいくのである。 64年におきたローマの大火後の対応もネロの節度の無さが決定的に現れた事件だった。後世に伝えられているようなネロか放火の犯人であるというのは事実でなく、このときネロはローマから50キロ離れたまちアンツィオの別荘にいた。火事を知った後、ネロは急ぎローマに戻り被災者対策の陣頭指揮をとった。それは迅速に確実に実行された。被災者対策とその為の財源確保政策は、元老院、市民に評判がよかった。確かにここまではよかったのだが、時期を見誤ったドムス・アウレアの建設が市民がネロに対しての反感を募らせるのである。ドムス・アウレア、後世には黄金宮と伝えられる建築物は、ドムス=私邸の意味が示すようにネロの私邸であった。ローマの大火以前より建設が進んでいたネロの私邸は、まさに黄金宮と言われるくらい豪華なものであった。ネロはドムス・アウレアの建設再開を、被災者の住宅再建と同時に始めた。さらにドムス・アウレアの建設費は国費で賄われていた。往古のローマの有力者は私費を投じてローマに公共建築物を寄進するという伝統があった。ネロにとっては国費を使ってでも、建設時期を住宅再建と同時に始めることの価値があると思っていた。それがネロは「これで人間らしい生活ができる」という言葉になった。しかし、被災を受けたローマ市民とって、ネロの私邸建設は、住宅再建を早急に望む市民の心情を無視した行為そのものでしかなかった。さらに、悪いことにはドムス・アウレアの建設地域とローマの大火の地域がほぼ重なっていたことであった。私有財産保護が徹底してたローマでは、必要とあらば皇帝といえども所有者に対して金銭を支払わなければならず、その為に一人一人に交渉せねばならず、時間がかかるものであった。全焼すれば、交渉もしやすい、土地も買収しやすい、ローマ市民にネロは屋敷で「イーリアス」を吟じながら燃え盛るローマを眺めたという噂がたった。これが後世つわった、ネロ=放火犯の遠因になったのである。 どちらにろ、ネロは皇帝就任後、初めて市民の憎しみを受けることになる。憎しみ、反感を受けることになれていなかったネロは大あわてとなった。ドムス・アウレアにしても、ネロは大部分をローマ市民に公開するつもりで作った。ギリシア風のオリンピック、ネロの歌手デビュー、ローマ大火の復旧施策、これらはすべて市民に応えようとした動機からであった。しかし、ローマ大火の復旧施策以外はローマ市民とネロの持つ立場、価値観の違いからローマ市民にと受け入れられるものではなかった。ネロの歌手デビューを面白がりはしたものの、ローマ市民を無視した愚行以外なにものでもないとしか受け入れられるだけでしかなかった。つまり、ローマ大火以前のネロはおもしろい行動をするやんちゃな若者としての親しみはあったものの、ローマ大火後のネロはそれすらも失った。しかし、ネロ自身なによりも不幸なことは親近感と尊敬を受けることの違いについて理解することができてなかったことである。 ネロはこの憎しみをそらす為、ローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害する。なぜ、キリスト教徒が迫害されたのか、それは当時のローマ市民大半がキリスト教徒を忌み嫌っていたからである。それはなぜか、キリスト教のミサにおいて、パンはキリスト肉、ワインをキリストの血として供される。これが人身御供を嫌うローマ人にとってはキリスト教は野蛮な宗教以外のなにものでもなかった。後代の歴史家タキトゥスにしても人類共生の不吉な敵という認識であった。これが帝政ローマ初期のローマ市民のキリスト教徒の認識であった。 しかし、極端な度を越した残忍な迫害は、ネロの支持を回復させるどころか、かえってキリスト教徒の同情をかうばかりであった。これにはネロもうろたえるほかなかった。 ネロはさらに支持を回復すべく、さらに極端な行動に出る。ローマ市民の前で歌を歌い衰えた人気の回復とギリシア文化の浸透を図った。しかし、ローマ上流階級にあるまじき行為。歌手としては容認される行為でも、皇帝としては決して尊敬されない行為が、ついに元老院階級・騎士階級という、ローマ指導者層に対してネロの排除という陰謀へ向かわせていく。 65年、「ピソの陰謀」といわれる事件がおきた。これはネロ派と呼ばれた人々が「共同体の利益」を守る義務感から皇帝に相応しくないネロの暗殺を目的とし代わりにガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に挿げ替えるという陰謀であった。しかし、陰謀は実効前に発覚、一人を除き全員が処刑された。そのなかにかつてのネロの師セネカも自死という形で処分された。(セネカがピソの陰謀に加わっていたかは不明。但し、セネカの甥は加わっていた。) さらに、「ピソの陰謀」後、ネロは上記で述べたコルブロのアルメニア・パルティア問題解決で一時的に人気を回復したにもかかわらずそれを持続させることを怠った。ギリシアへ歌手の力試しに旅立とうとする。その計画中に第2の暗殺計画、「ベネヴェントの陰謀」が発覚、未遂のうち終った。これは芽のうちに摘まれ、ネロもさしたる心配もせずギリシアへ旅立つ。しかし、この陰謀に荷担したのはローマ前線の将校たちであった。つまり、ネロはローマの軍人からも皇帝としては不適格と烙印をおされたのである。陰謀に荷担した将校は死刑に処した。しかし事後処理を決定的に失敗する。コルブロ、及びライン河8個軍団の司令官2人を、確実な証拠もないのに、呼び寄せ殺した。彼らに忠実な部下から引き離した後で死を命じたという卑怯なやり方で。 しかし、ネロはそれでも我、関せずという認識で、ギリシアの旅を楽しみ、紀元68年1月下旬、ギリシア巡業に対しての「凱旋式」を行った。ネロの足元は確実に崩れた。まず、ガリアで反ネロに立ちあがった、ガイウス・ユリウス・ヴィンデックスがタラコンネシス属州総督ガルバに親書おくり、皇帝就任を扇動。ヴィンデックスはルフス指揮下のゲルマニア4個軍団に蹴散らされたものの、ガルバ支持は増える一方で各地の属州総督が支持、ついにネロは元老院から「国家の敵」としての宣告を受ける。ネロの周りからはさながら沈みゆく船から逃げ出すネズミのように人が消えていった。こうして最後を悟ったネロは自殺する。68年6月9日享年30歳であった。遺体は元奴隷女のアクテによって火葬されマルス広場に葬られた。 確かにネロは賢帝というカテゴリーに入るわけではない、なぜならば統治者としての節度、持続する意思が決定的に欠けているからである。さらに、ネロが最高権力者としての決定的に欠けていたのが一連の名声を軽蔑するかような行為が、それを評している。しかしながら、暴帝というカテゴリーにも入らないのではないだろうか、少なくとも他者の補佐があるとはいえ、統治の最初の5年間は後の賢帝たちも高く評価したわけであり、ブリタニアとユダヤ問題では適切な処理をした。ある意味、1度のキリスト教徒迫害がネロの後世の評価を悪逆非道な皇帝としてのイメージをつけたのではないだろうか。なぜならば、皇帝ネロの墓には花や供え物が絶えなかった。これはローマ市民がネロを尊敬こそしなかったが愛していた何よりの証拠ではないだろうか。これよりおよそ300年後、キリスト教が帝国の宗教の勝利者となったとき、そのプロパガンダとして利用しやすかったのではないだろうか。どちらにしてもネロは後世の暴帝と比べれば、その評価が必ずしも適切とはいえないと思える。皇帝個人の生活面は非難されるべき点は多々あるものの、必ずしも政治面では、ローマ大火の対策、アルメニア・パルティア問題のコルブロに対する権限委譲、ユダヤ戦役のヴェスパシアヌス(後の皇帝)の起用など、決して非難のオンパレードにはならない。ネロとローマ市民にとっての不幸は彼がユリウス・クラウディウスの血を受け継ぐものであったことである。 どちらにろ、ユリウス・クラウディウス朝はネロの死を持って断絶した。ローマ市民はユリウス・クラウディウス家の血は捨てたが、帝政は捨てることができなかった。それほど帝政はうまく機能していた。しかし、ユリウス・クラウディウス家の血に変わるものを構築する戦い。最悪の1年、1歩間違えばローマ帝国の滅亡といわれる4帝乱立の幕があけるのである。 最後に、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝たちは皇帝就任に対して全てアウグストゥスの政治理念に戻ると元老院に対して演説をしている。事実上の独裁制であるのに、共和政シンパである元老院にとってはいかに居心地のいい政治体制であったのかを証明する何よりの言葉であろう。元老院を尊重し、面倒な政治実務をすべてするアウグストゥスこそ「見たいと思う現実」の象徴であった。人類の歴史上全てに共通する、独裁政治の誕生プロセスの原型こそ「ローマ帝政」ではありえないだろうか。共和政の仮面を被った独裁者は現在でもたくさん存在する。情報化社会といわれる現在でも、ネット社会が進んでいる現在でも独裁者はたくさん存在する。つまるところ人間の根源的な精神構造は変わっていないのではないか。つまり、「任せられるなら任したい。」「面倒なことはしたくない。」というものである。変化していると言っているのは、価値感の多様化による表層的な部分だけを見て述べているのではないだろうか。 |
ガルバ Galva |
本名 セルウィウス・スルピキウス・ガルバ ServiusSulpicius Galba |
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生没:BC3年12月24日〜AD69年1月15日 | 前職:タラコネンシス属州総督 | 先帝との関係:なし | ||||
在位:AD68年6月8日〜AD69年1月15日 | 綽名: | 死亡原因:暗殺 | ||||
主な称号: | ||||||
死亡時の称号 | ||||||
皇帝ネロがローマ世界においての権威が著しく失墜しもはや追込まれた立場になると、各地でネロに対する反乱が起きた。この状況は元老院にとっては共和政回帰の最大のチャンスであった。しかしながら帝政というシステムはすでにローマにおいては不可欠な要素になった、元老院が選んだのは共和政ではなく軍団に推戴された新たな皇帝であった。 セルウィウス・スルピキウス・ガルバ、ローマの名門貴族であり彼自身もローマの名門貴族がたどる道を順調にたどり名声を獲得していった。ティベリウス帝に見出され、カリグラ、クラウディウスの両帝にも気に入られた。一時アグリッピナ(ネロ帝の母)に不興を買い10年近く政界から遠ざけられたが、アグリッピナの死後、復職し翌年にタラコネンシス属州総督に就任しまずまずの善政を挙げる。ユリウス・クラウディウス家以外の者から皇帝を選ぶとすれば、彼であると言われるほど経歴、家門ともまず問題なかった。 皇帝即位にからむ状況はガルバにとって有利な状況であった。ネロを支持するものはすでに無く、ガルバ側はルシタニア属州総督オト(後の皇帝)、ガリア属州総督ウィンデクス、バエティカ属州総督、エジプト属州総督、マウレタニア属州総督、アフリカ属州総督の支持を取り付け、68年4月3日、配下軍団のインペラトール歓呼により皇帝を宣言した。さらに6月8日に元老院よりの承認を受け正式に皇帝になる。ローマ皇帝に即位しその地位を維持する際に最も必要な要素である軍事力の保持ということがクラウディウス帝に続く2度目の例となった。軍事力を失ったネロはこの翌日、親衛隊長ルフスに暗殺される。 しかし、ガルバにとってこれだけ有利な状況を得ながら皇帝在位はわずか半年あまりという短命に終わる。支配者にとって決定的な力量が欠けていたというくらい失政を繰り返すのである。指導者に必要なのは「正統性」「権威」「力量」の3つであるといわれている。即位当時のガルバには元老院から皇帝に承認されることにより「正統性」は確保されていた。しかしまだ「権威」は確立されておらず、「力量」においては平和なタラコネンシス属州総督としての安定した地域の当地こそまず合格点であったがネロ暗殺後、混乱したローマに対しての収拾能力はこの時点では未知数であった。アウグストゥスの「力量」は「正統性」「権威」を確保した。それゆえユリウス・クラウディウス朝歴代皇帝はアウグストゥスの後継者ということで「正統性」「権威」を始めから持つことができ、「力量」を示すだけでよかった。カリグラとネロは「力量」を示すことができなかったので「正統性」「権威」を失うことになった。つまり、「力量」は「正統性」「権威」を生むための大切な土壌である。もっとも「力量」を持っていても「正統性」「権威」を作るための努力を惜しめば、悲惨な末路が待っているのだが。 その欠けた「力量」がガルバの命を奪うばかりか、タキトゥスをして「ローマが滅亡するかどうかまで追い込まれた1年」言わしめるくらいの危機的な状況に陥るのである。 まず、即位した時点でガルバがするべきことは一刻も早く首都ローマの混乱を収拾すべきであった。しかしガルバは首都ローマに入ったのは10月、皇帝を宣言したのが4月、承認されたのが6月だから余りにも遅い首都到着であった。つまりネロ暗殺から3ヶ月近く権力の空白状態が続いていたということである、しかもローマに向う途中においても何ら対策を講じてなかった。 第2の失敗は、軍団の支持を自ら捨てるような形をしたことであった。歴代皇帝が行った即位時の親衛隊への下賜金の支給の拒否、それも「自分は兵士を徴用したことはあるが、金を出して買った覚えはない」といったという。たしかに普通に聞けば正しい言い分ではある。しかし、政治とは良くも悪くも正しい目的の為には手段や非倫理的なことを視野に入れなければならない場合がある。この時点でのローマにおいての目的は秩序の回復であった。小手先の青臭い正義を実施する段階ではなかった。これと第3の失敗がガルバのローマ市民に対する評価、強欲な皇帝というイメージを植え付けることとなった。 第3の失敗は財政再建策の失敗である。ネロの放蕩によりローマの国庫は空になっていた。それを補う為の方策がネロが与えた現金や不動産などを返還せよというものであった。ネロの治世は14年に及ぶ、つまり物によっては14年前のものを返せと言っているようなものであり、しかもネロ本人がいっているはない。そして、ネロが与えたのは貧民層であった。つまりローマにおいて最も数の多い階層に恨みを買ったことになる。カリグラの財政改善策は誉めたものではないが没収した相手は上流階層に限られていた為、絶対多数を敵に回すことはなかった。ガルバの政策はひどさにおいてそれを上回るものであった。 さらに第4の失敗は皇帝の即位時に助けたオトの恨みを買ったことであった。オトに対しては何ら功績に対して報いなかった。自分の周りを固めたのはローマ市民になじみないガルバ配下の軍団長であるを同僚執政官に任命したり、経験もないただの名門貴族だけというピソを養子にし後継者に選んだりした。少なくともオトは彼らに比べ遥かに名声があったし、実績もあった。オトを選べば多少はましな結果になっていたのかもしれない。ローマ市民も軍団もガルバには見切りをつけていたが次のオトならとわずかな光明を見ていたのにそれを消してしまった。さらに自己の保身を図るためだけの重要地域のライン川軍団司令官にそれぞれ低地ゲルマニア軍団司令官には元老院階級に属すヴィティリウスと、有能でかつ皇帝ガルバ支持を表明していたルフスに代わり高地ゲルマニア軍団司令官には高齢で消極的なフラックスを任命した。 こういった、数々の失政が、ガルバを悲惨な末路にいざなう。69年1月2日まずライン川軍団7個軍団全てがガルバの任命したヴィティリウスを皇帝として支持をし南下してきたのである。さらにオトが親衛隊の支持を受けた。そしてその騎兵がガルバの輿を襲い殺害する。そして、ピソ殺害され、2人の首はさらし首にされた。 ガルバのタキトゥスの評価は「皇帝になる前は偉大な人物に見え、このまま皇帝にならなかったら最も皇帝にふさわしい人物に万人はいつまでも認め続けただろう。」と称している。現在においても、「総理にしたい人」ということで挙げられた人でガルバのタキトゥス評でこの言葉にふさわしい人物の多いことが痛感させれる。さらに街頭インタビューを聞くたびに受ける人、する人のレベルを聞く限り、この国には民主政治が合わないのかとときとして思うことがある.。 |
オト Otho |
本名 マルクス・サルヴィウス・オト MarcusSalviusOtho |
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生没:32年4月28日〜69年4月16日 | 前職:ルシタニア属州総督 | 先帝との関係:支持者 | ||||
在位:69年1月15日〜69年4月16日 | 綽名: | 死亡原因:自殺 | ||||
主な称号: | ||||||
死亡時の称号 | ||||||
ガルバの暗殺のあと、皇帝についたのがオトである。これが軍事力による皇帝就任の3例目である。 マルクス・サルヴィウス・オト、37年の人生の中で前半生と後半生の評価が全く違う人物である。オトの出身はローマの古くからの名門出身ではないが一族は歴代皇帝に仕え一族の地位を確立しそして祖父の代に初めて元老院議員となり、父の代で執政官となったローマによくみられる新興貴族ひとりであった。 オト自身はネロの親友だった。5歳下のネロとは気が合ったようである。若い頃はネロの遊び仲間として、夜の繁華街とか歩き周り、ローマではなうてプレイボーイであった。よくいえば活発、悪く言えば不良グループであった。 オトとネロの破局がきたのは58年にあった。オトの妻であるポッパエア・サビナにネロが惚れてしまいオトから奪おうとしたのであった。ネロはオトをルシタニア属州総督にすることで辺境へ追いやる。そしてネロはポッパエア・サビナを公然と皇帝の愛人とし、妻に迎える。 一方、追放されたに等しいルシタニア属州総督オトはこれまでの放蕩振りから考えられないような善政を敷く。もちろんとりたてて際立った特色ある政治をしたわけではないが的確な指示、適切な対応をしたわけである。ローマの属州総督には総督の任期終了後、属州民から不当であると認識された場合、裁判を起こされ敗訴すれば厳しい処断が待っている。つまり属州において善政を続けないと総督任期終了後に地獄が待っているということである。またローマの軍団の殆どは国境地帯に集中している為オト、ガルバの統治するイベリア半島各属州には全部で当時1個軍団6000人しか駐留しておらず、あとは同数の現地人の捕助兵力しかおらず都合12000人しかいないのである。しかも補助兵力は現地スペイン人であるため、ある程度の信頼置ける兵力はイベリア半島では6000人しかいないのである。任期在任中でも暴動を起こされれば地獄が待っているしかないのである。かといってローマ本国に戻ったときのことを考えればに属州よりの政治をするということは難しい。そうなるとおのずと絶妙なバランスが要求されるような形になる。ローマの属州統治はやはり近代帝国主義とは一線を画した統治になっている。 オトの善政はこれだけが原因ではないと思われる。オトの変わり様は遠くローマまでも伝わっていたことを考えれば相当精力的な行政官に代わったのだろう。その原因はポッパエア・サビナにあったように私は思う。オトはポッパエア・サビナを本当に心から愛していたのではないだろうか、それがネロに奪われたことによって心に埋めようのない喪失感をつくり、その穴埋めをもしかしたら総督職に集中することで求めたのかもしれない。だからこそネロ打倒とチャンスにいち早くガルバ支持にまわったのではないのだろうか。 オト自身、数々のガルバの失政に愛想を尽かしたのかも知れないし、ガルバの冷遇にも忍耐の限界が越えたのかもしれない。ともあれオトは親衛隊の歓呼の後、元老院の承認を受けた。 皇帝オトにとっての当面の課題は南下するライン川軍団対応であった。しかしながら首都ローマではネロ派であった人間を復職させたり、ネロの像を修復したりしている。ローマ平民のネロの人気の高さを考えて上での配慮であった。また、サビヌス(皇帝ヴェスパシアヌスの兄)を首都長官に任命したのはオトの人事成功例のひとつして残っている。しかしその間、ウィティリウス配下の将軍に率いられたライン川軍団は速度を緩めず南下を進めていた。これに対してオトは親衛隊やローマ海軍兵、剣闘士を徴兵した混成軍団とオト支持を表明したドナウ川軍団の先発隊で迎撃準備をする。こうしてローマは100年ぶりの大規模な内戦に陥る。しかし今までの内戦と違いリーダーが陣頭指揮をしたのではなく、オト、ヴィティリウス共に戦場から離れた地域で報告を待っていた。また両軍指揮系統が煩雑を極め戦場はジェノサイドと化していた。結局「第一次ドリアクムの戦い」は兵士の士気に勝るというだけでライン川軍団が勝利をした。しかし両軍とも多数の死者を出しただけの闘いだった。その報を聞いたオトはドナウ川軍団本隊の到着を待って再起を図るようにいう忠告を無視するかのようにその夜、胸を突き刺して自殺する。タキトゥスは「ローマを流血から救う為の潔い最後」と称えてはいるが、もしかしたら本人はガルバのような惨めな最後だけにはなりたくないと思っただけのことかも知れない。なぜなら、オトの配下に対しての寛大な処遇をヴィティリウスに頼んではなかったからである。これが原因かどうかわからないがヴィティリウスの戦後処理の稚拙さは内乱の温床を残すだけであった。 もし、オトが平時であればまず良き皇帝の一人して数えられる皇帝の一人であったとは思う、軍事に関しては?が付くが行政官としては属州総督としての手腕、わずか3ヶ月でも皇帝としてのローマ市民の対応が証明し有能の片鱗をみせたからである。ただ、平時では皇帝にユリウス・クラウディウス一族が引き続き皇帝になっていたわけでなれなかっただろうし、非常時では史実にみられる最後が待っているのみで、彼にとっての皇帝という地位は悲劇を招くだけの物でしかなかった。 |
ヴィティリウス Vitelius |
本名 アウルス・ヴィティリウス AulusVitelius |
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生没:12(15)年9月7(24)日〜69年12月20日 | 前職:低地ゲルマニア軍団司令官 | 先帝との関係:対立者 | ||||
在位:69年4月16日〜69年12月20日 | 綽名: | 死亡原因:処刑 | ||||
主な称号: | ||||||
死亡時の称号 | ||||||
ヴィティリウスを評するのならば「誰も皇帝になってもらうこと期待もしないし、皇帝になるべき人物ではない」ということだろうか。彼の皇帝就任は非常に幸運な状況に彼がいたからである。 ヴィティリウスの出自は父は執政官を務めてティベリウス門下の一員として有能な活躍をしたということぐらいで、祖先の歴史はいろんな説があり不明である。そして、ローマでは皇帝になる為には出自ではなく、現在の置かれている立場であった。 その意味ではヴィティリウスの置かれた立場は幸運以外の何物でもなかった。ガルバ帝の任命により低地ゲルマニア軍団司令官に任命された。当時、両ゲルマニア地方はローマ帝国でも7個軍団を抱え、同じく七個軍団を抱えるドナウ河方面と共に帝国最強軍団の一つであった。 ヴィティリウスの司令官就任前のゲルマニア軍団は司令官ルフスのもとで帝国の防衛に当たっていた。ルフスは有能な人物で彼の元でゲルマニア軍団兵は忠誠を誓い、ルフスを尊敬していた。その為にガルバ帝にとっては、いつルフスに帝位を取って代わられる恐れがあったために、元老院階級というだけでさしたる能力もない人物ヴィティリウスを低地ゲルマニア軍団の司令官に、高地ゲルマニア軍団司令官には高齢で消極的なフラックスを任命した。それが帝国最強を誇る両ゲルマニア軍団の自尊心を傷付けた。さらにルフスのローマでの処遇(ルフスはこの後にガルバに新たな職を任じられていない)、ローマでの同僚執政官人事、後継者人事の失敗。そして、ガルバの皇帝就任に至った経緯、軍団が皇帝を推戴することが可能ならばゲルマニア軍団が皇帝を推戴することもできるのではないのかといった思いが、ヴィティリウスを皇帝に推戴させた。 ただゲルマニア軍団にとってヴィティリウス皇帝就任というのはどうでも良かったに違いない、なぜならばヴィティリウス推戴の前日すでに皇帝に対する忠誠拒否という使節をローマに送った。いわば皇帝に対する明確な反乱である、さらにこれが司令官クラスからの主導では無く一般の軍団兵士から起き、整然とした形でだされた忠誠拒否ではなく一種の熱気や興奮状態で出されたノーである。こうなれば熱気や興奮が冷めればどうなるか反乱を起こしてしまったとう不安感にさいなまれる。普通一般の人間ならば熱狂や興奮状態で反社会的、反体制的行動とった後に冷めてしまうとそうなるのが常である。そうなると、毒を食らわば皿までというわけではないが軍団兵士はただ皇帝ガルバに対するノーという態度をどこに着地すべきかという点を求めたに過ぎなかった。それならば、すでに着任し兵士を失望させたフラックスよりも着任して日も浅く勝つ有能な父ルキウスの息子ならばと、これがヴィティリウスが擁立された理由である。こうしてゲルマニア軍団は皇帝ガルバに忠誠を拒否しヴィティリウスを擁立、ヴィティリウスは自らの意思ではなくただ棚から牡丹餅という状態で69年1月2日軍団から皇帝として推戴された。 ヴィティリウスはオトに勝利し、69年4月16日、元老院とローマ市民により皇帝に承認される。こうして内乱は終わったかに見えたが、ヴィティリウスの敵方の兵士の処分は反ヴィティリウスを大量に製造するはめになった。司令官クラスは不問にしたが、問題はここから先の百人隊長と一般兵士の処遇であった第一は「第一次べドリアクムの戦い」で参加した各軍団百人隊長は死刑、「第一次べドリアクムの戦い」で被害を受けたクレモナの人々への償いという形でドナウ軍団兵士に円形闘技場建設、これはドナウ川軍団兵にクレモナの人々は同じローマ市民に向かってなすもとはとても思えない侮蔑的な言動を与えたらしく、敗北の打撃と屈辱の思いはヴィティリウスに対しての憎悪にかわるのにさしたる期間を要しなかった。オト派として戦った第14軍団、ブリタニアへ帰還する際には補助兵ローマ正規兵に監視させに屈辱を与えるような帰還のさせかたをし、ローマ第一海軍にはスペインの辺境地へ追いやれた、彼らにしてみれば元老院や市民に承認された正当な皇帝オトに従っただけである。その心をヴィティリウスは読めなかった、ガルバに見られる共通点、他人の心など考ることがてきないこれが2人の皇帝の最後を悲惨なものとしたわけである。ヴィティリウスが述べた言葉、第一次ドリアクムの戦いの戦場跡視察で「敵の死骸の匂いも甘いが、同胞の市民のそれはもっと甘い」と述べたという、ヴィティリウスは統治者として決定的な人の心を考えることが欠如していたのである。 さらにローマ入都への至る道は、毎日が大宴会で、周辺住民に拠出させている。記録によるとヴィティリウスは大食漢でデブだったと伝えられている。ローマ入都には6月の末、オト自死から半年後のことであった。かれはローマ入都後、ガルバ殺害、オトに組したということで、親衛隊、首都警備隊を解散、解雇し代わりに配下の軍団にその地位を就けた。ここでもヴィティリウスは解雇された親衛隊、首都警備隊を敵にした。ヴィティリウスはローマにとっての新たな秩序を与えるべき存在で無かった、彼は無気力、怠惰な存在で、もはや配下の軍団を掌握できなかった。その為に第一次ドリアクムの戦いで指揮した二人の将軍ウァレンスとカエキーナの派閥争いが起こるのである。 さらに69年7月、東部属州で、ユダヤ属州総督、ヴェスパシアヌスが皇帝を宣言、ヴェスパシアヌスの同盟者でシリア属州総督ムキアヌスがローマへ向って進軍する。これに先立ち、ヴィティリウスに対し復讐に燃えるドナウ軍団がローマに進軍、「第二次べドリアクムの戦い」でヴィティリウス軍を撃破すると、その復讐心はクレモナの町にも向けられ、クレモナは壊滅的被害を受けた。ヴィティリウスがその間、怠惰に過ごすだけであった。ゲルマニア軍団はヴィティリウスが倒れればクレモナの悲劇が降りかかるとばかりに迎撃に出るが各地でドナウ軍団に敗北、内部崩壊で裏切るものまで出る始末だった。 せまりくる、ドナウ軍団にヴィティリウスは身の安全を図るために退位を宣言するものの、支持者たちには承知されず宮殿に押し返された。この間、元老院はヴェスパシアヌスの平和裏に皇帝即位を画策するためにヴェスパシアヌスの兄で首都長官サビヌスのもとを訪れるが、これを知ったヴィティリウス支持の兵士が暴発、サビヌスはカピトリヌス丘へ避難するもののユピテル神殿の炎上し、サビヌスは捕まり命を落とした。これを知ったドナウ川軍団は首都ローマへ進軍し首都ローマは戦場と化した。その間、ヴィティリウスは逃げ場探すかのことく、さまよったがドナウ川軍団兵に見つかり、処刑され遺体はティベレ川に投げ込まれた。 その数日後、もはやヴェスパシアヌスの右腕と目されるシリア属州総督ムキアヌスがローマに入都、ローマはやっと新たな秩序を回復すべき人物を皇帝に頂き、その右腕を首都治安回復の人物として迎えることかができたのである。 |