トルコ旅行記

ずっと前の話ですが大学の卒業旅行という事で海外に行こうということになりました。

私、アルグローリーと腐れ縁の友人、一人はRTFさんですがもう一人と計3人で参りました。

そこでトルコへ行った全てを話すのではなく、ローマ帝国系に絞ってここでは書きます。

イスタンブル

バルカン半島と小アジアのの間に位置する都市。古代ギリシア時代はビザンティウムと呼ばれていた。東ローマ帝国の便宜上の呼称、ビザンツ帝国はここから来ています。現在トルコ共和国では最大の都市となっています。

歴史
古代ギリシアでも片田舎の都市が歴史の中心となったのは西暦330年のコンスタンティヌス1世が帝国の単独統治者となった後、この都市にコンスタンティノポリスと名を変えたときに始まったといえる。当時のローマ帝国は混乱の極みにあった。内乱と僅かな平和、この激しいサイクル中、数々のライバルを倒し帝国に新たな秩序をもたらしたのがコンスタンティヌス1世であった。そして首都ローマに変わる新たな首都がコンスタンティノポリスであった。ただこの時期のローマ帝国はもはやかつてのアウグストゥスや五賢帝時代のローマ帝国ではなかった。元老院、執政官などの建国からの役職こそ存在したが、多神教のローマではなく、事実上のキリスト教国家ローマであり、共和政の仮面をかぶった帝政ではなく、専制国家・帝政ローマとしてであった。その象徴がコンスタンティノポリスであった。395年ローマ帝国が完全に2つの国家として分裂し、476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国は唯一の正統なるローマ帝国として存続する。東方の専制国家としての機能とローマ以来のシステムの融合、思想としてのキリスト教が新たなるローマ帝国の特色であった。そしてその頂点がコンスタンティノポリスであった。衰退と復活を繰り返しながら1453年5月29日にオスマン=トルコのメフメト2世に占領されるまで帝国の首都でありつづける。(1204年〜1261年の十字軍国家ラテン帝国によるコンスタンティノポリス占領があったことを明記する。)

金角湾

コンスタンティノポリスの旧市街のトプカプ宮殿(オスマン=トルコ帝国の歴代スルタンの住処)より撮影。当時コンスタンティノポリスは世界でも五指に入るくらいの貿易港であった。またコンスタンティノポリスの唯一の弱点が金角湾ルートからの攻撃であった。1453年の攻防の際、対岸まで鎖を繋ぎ完全進入ルートを塞いだ。これに対しオスマン軍は艦隊を陸上ルートから運び金角湾に進入する事に成功する。しかしながらこの奇策だけでは陥落する事はできなかったが、オスマン軍は確実にビザンツ軍を追い詰めていく。

テオドシウスの城壁

330年に遷都したこの都市はテオドシウス2世の時代になり、手狭な都市になり、コンスタンティヌスの城壁より外まで住人が拡大した。そしてそれを囲むように新たな城壁が建設された。その後改修が重ねられ3重の城壁となり1000年近く、様々な敵、スラブ民族・イスラム勢力からこの都市を守った。ヨーロッパ随一の堅牢な防御を持つ都市でもあった。1453年の最後の攻防戦でも90000の大軍に対して僅か7200人で対等に戦えた。最新鋭の大砲をも受けつけないこの都市が陥落した理由は城壁内の扉の鍵の占め忘れだけであった。

聖ソフィア寺院

ビザンティン美術の最高傑作といえる一つ。現在はモスクとしては使用されておらず気軽に見学できる。天蓋の円形ドームはギリシア正教の寺院の特色とも言える。この建物はユスティニアヌス1世の時代に同帝の命に再建されたものであり、以前とは比べ物にならない程の規模となった。1453年にメフメト2世がコンスタンティノポリスを占領すると4つのミナレットを建てモスクとした。1922年共和制になると政教分離の観点から、モスクとしての使用はされなくなった。寺院内は荘厳な雰囲気を漂わせている。

聖ソフィア寺院内部の黄金のモザイク

ビザンティン美術の特色の一つに古代ローマからの伝統であるモザイク画がある。これは、聖ソフィア寺院内部の有名なモスクで、向かって右がコンスタンティヌス1世がコンスタンティノポリスを向かって左がユスティニアヌス1世で聖ソフィアをそれぞれ中央のイエス・キリストに捧げている図である。真ん中の赤ちゃんの絵がイエスでそれを抱いている女性が聖母マリアである。皮肉にもオスマン・トルコに占領された後に漆喰で上書きされたことが良好な保存状態を保つに至った。ビザンティン絵画の大半がこのような形で現代まで残るにいたる。

ウァレンス帝の水道橋

ローマ帝国を表す言葉の一つによくインフラ(社会資本の整備)があげられる。「全ての道はローマに通じる」といわれるほど道路網は整備されている。水道橋もその一つで生活に必要な水はこのような形で首都に送られていった。かつてローマ帝国の領土内にあった場所にはこれがたくさん残っており、西ヨーロッパの中世の暗黒時代には使用目的が忘れ去られ、山の谷間に巨大な水道橋を見たとき人々は悪魔の橋として恐れたという。とにかくローマ人は寛容の精神をもってこれらの施設を占領地につくり、占領された民族に与えつづけることとなる。


これ以外にもオスマン=トルコ帝国時代のトプカプ宮殿やブルーモスク、スレイマン大帝のスレイマニエモスク、そして日本人がだれもいなかった、スルタン・メフメト2世のモスクなどを見てまいりました。ただヘラクレイオス帝の銅像やハギア・ソフィアが自由行動の時間の都合で見れなかったのは残念です。次回もし行けたら見れたらと思います。
でもローマとか他にも行きたい場所があるのでうーんと迷うところです。


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Museo della Civilta Romana

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