2001.12.18
シューマッハとハッキネンがもしチームメイトだったらということを想像したことはありませんか。過去、F1の歴史で、チームメイトが現役チャンピオン同士だったケースは、5組しかありません。すべての例で、どちらかが次のチャンピオンになり、関係はその年限りで終わってしまいました。両雄並び立たずという格言通りです。敗れた方もプライドが許さなかったでしょう。なお、どちらかが後に初めてチャンピオンになった例は別です。
1952年チャンピオンのアスカーリ(34歳)と、1950年チャンピオンのファリーナ(46歳)。イタリア人の王者2人がいた1953年のフェラーリ。しかし、アスカーリに勢いがあり、予選・決勝とも圧倒します。
第7戦スイスGPで、アスカーリがチャンピオンに王手をかけていました。レースはフェラーリの1-2-3体制が出来ました。1位ファリーナ、2位ホーソン、3位アスカーリです。フェラーリは順位固定のオーダーを出しました。ところが、アスカーリは「夕陽でサインボードが見えなかった」として、2人を抜いてしまい、優勝します。そして、アスカーリがチャンピオンになりました。
ファリーナは激怒し、レース後にアスカーリに向かって罵りの言葉を山のように浴びせます。アスカーリの答えは「2度目のチャンピオンシップを勝ち取っただけだ。」 ファリーナは以後、アスカーリを決して許しませんでした。ファリーナは翌年もフェラーリで走りますが、アスカーリはランチアに移籍します。
予選対決 | 決勝 | |
アスカーリ | 8勝(6PP) | 34.5点(5勝、チャンピオン) |
ファリーナ | 0勝 | 26点(1勝、選手権3位) |
1963・65年チャンピオンのクラーク(31歳)と、1962年チャンピオンのG・ヒル(38歳)。1968年、ロータスはG・ヒルを加入させ、イギリス人現役チャンピオン同士のチームを組みました。F1で初めてスポンサーから資金を得て、車体に広告を出しました。
コリン・チャップマンは、2人の王者を競わせて選手権を勝とうという方針を立てました。しかし、これはドライバーに必要以上のプレッシャーを与えることになりました。
開幕戦南アフリカGPでクラークはポールトゥウィン。ヒルは2位で早くもロータスが1−2。ところが5月、ドイツ、ホッケンハイムで行われたF2レースで、クラークは事故死してしまいます。
ロータスは意気消沈してしまいました。しかしヒルはチームを鼓舞して選手権を戦い、この年のチャンピオンになり、亡きクラークに捧げました。
予選対決 | 決勝 | |
クラーク | 1勝(1PP) | 9点(1勝、選手権11位) |
G・ヒル | 0勝(2PP) | 48点(3勝、チャンピオン) |
1972年チャンピオンのフィッティパルディ(27歳)と、1967年チャンピオンのハルム(37歳)。マクラーレンは1974年にフィッティパルディを加入させ、王者2人体制を築きました。この年からマルボロのスポンサードを得、資金が潤沢にありました。
このチームは創設者マクラーレンが事故死した後、ハルムが引っ張ってきました。しかし、フィッティパルディが加入するやいなや、2度目のチャンピオンになってしまいます。ハルムは開幕戦に勝ったものの、後は低迷し、この年限りで引退します。
予選対決 | 決勝 | |
フィッティパルディ | 14勝(2PP) | 55点(3勝、チャンピオン) |
ハルム | 1勝 | 20点(1勝、選手権7位) |
1985年チャンピオンのプロスト(31歳)と、1982年チャンピオンのロズベルグ(37歳)。マクラーレンは大物ラウダが引退した代わりに、ロズベルグを加入させ、ジョイント・ナンバーワン体制を継続しました。
シーズンが始まると、マクラーレンTAGはウィリアムズ・ホンダに圧倒されながらも、プロストがチャンピオン争いを演じました。一方、ロズベルグは低迷。最終戦でプロストは2度目の王座に就きますが、ロズベルグは引退します。時代は、荒削りな野武士タイプよりも、スムーズなドライビングを求める方向に変わっていくところでした。
予選対決 | 決勝 | |
プロスト | 12勝(1PP) | 72点(4勝、チャンピオン) |
ロズベルグ | 4勝(1PP) | 22点(選手権6位) |
1985・86年チャンピオンのプロスト(34歳)と、1988年チャンピオンのセナ(29歳)。マクラーレンは、前年と同じ布陣でしたが、セナがチャンピオンになり、2人のチャンピオン体制となりました。しかし、両者のあつれきが表面化していくことになります。
サンマリノGP、プロストは1コーナーをとった方がレースに勝つという紳士協定を提案しました。レースは、プロストがスタートでトップに出ましたが、トサコーナーでセナが抜き返し、そのまま優勝します。プロストは怒り、マスコミにセナが約束を破ったと話します。当時のイモラサーキットは全開区間が長く、最初のブレーキポイントはトサでしたが。
その後のふたりは関係が冷却していきます。セナはリタイヤを連発し、プロストが優位に立ちました。プロストは翌年フェラーリへの移籍を発表します。そして日本GPで両者接触。プロストが3度目のチャンピオンになりました。
プロストはチャンピオン同士の戦いに2度勝利した唯一のドライバーになります。しかし、セナとの争いから2度逃げた(89,93)ことにもなりました。予選対決 | 決勝 | |
プロスト | 2勝(2PP) | 76点(4勝、チャンピオン) |
セナ | 14勝(13PP) | 60点(6勝、選手権2位) |