Formula One History

予選最速でチャンピオンを逃した6例

−ポール王でも入賞率50%以下ではダメ−

F1の歴史で、予選最速でもチャンピオンを逃した6つの例をあげてみます。誰もが最速と認めながら、ゴールまで車を持たすことができなかったため王座を取れなかった例です。そこから学んで後に王座を取った者もいれば、最速のスタイルを変えずに命を失った者もいます。

 

1950年 ファンジオ(6戦4PP、入賞3回、選手権2位)

      R1 R2 R3 R4 R5 R6
予選最速 ファンジオ
(27点)
予選 3位 PP PP 2位 PP PP
決勝 r 優勝 r 優勝 優勝 r/r
チャンピオン ファリーナ
(30点)
予選 PP 2位 2位 PP 2位 3位
決勝 優勝 r 優勝 4位 7位 優勝

F1世界選手権が開始された1950年、ファン・マヌエル・ファンジオ(アルゼンチン)は、全6戦中、4戦でPPを取り最速でした。5戦を終えて、ファンジオはポイントリーダーでした。

最終戦イタリアGPでPPからスタートしたファンジオは、ギアボックストラブルに見舞われます。乗り換えた車もエンジンが壊れてしまいました。レースはアルファロメオの同僚ファリーナが優勝し、逆転でチャンピオンをさらっていきます。

ファンジオはこの悔しさをバネに、速さだけでなく、マシンをいたわりながら走るようになり、史上最多の5度王座につくことになります。

 

 

 

1962年 クラーク(9戦6PP、入賞4回、選手権2位)

      R1 R2 R3 R4 R5 R6 R7 R8 R9
予選最速 クラーク
(30点)
予選 3位 PP 12位 PP PP 3位 PP PP PP
決勝 9位 r 優勝 r 優勝 4位 r 優勝 r
チャンピオン G・ヒル
(42点)
予選 2位 2位 PP 2位 5位 2位 2位 3位 2位
決勝 優勝 6位 2位 9位 4位 優勝 優勝 2位 優勝

1960年にデビューしたジム・クラーク(イギリス)は、1962年にチャンピオン争いに加わります。全9戦でPP6回、ファステストラップ5回を記録し、最速と認められます。

8戦を終えてポイントリーダーのG・ヒルと3勝は同じでした。しかし入賞回数はヒル7回に対しクラーク4回でした。

最終戦南アフリカGP、クラークはPPから圧倒的な差をつけて1位を走ります。しかし終盤オイルもれでリタイヤし、G・ヒルに栄冠が輝きます。

クラークは1963、65年の2度王座に就きますが、64年と67年は最多PP、最多FLながら王座を他者に奪われました。速すぎるがゆえにマシンにダメージを追う、1968年に事故死するまでそのスタイルは変わりませんでした。

 

 

 

1973年 ペテルソン(15戦9PP、入賞7回、選手権3位)

      R1 R2 R3 R4 R5 R6 R7 R8 R9 R10 R11 R12 R13 R14 R15
予選最速 ペテルソン
(52点)
予選 5位 PP 4位 PP PP 2位 PP 5位 PP PP 2位 2位 PP PP PP
決勝 r r 11位 r r 3位 2位 優勝 2位 11位 r 優勝 優勝 r 優勝
チャンピオン スチュワート
(71点)
予選 4位 8位 16位 4位 6位 PP 3位 PP 4位 2位 PP 7位 6位 9位 5位
決勝 3位 2位 優勝 r 優勝 優勝 5位 4位 10位 優勝 優勝 2位 4位 5位 ns

1970年にデビューしたロニー・ペテルソン(スウェーデン)は、1973年にPP9回という速さを見せます。

しかしペテルソンは前半5戦ノーポイントが響きました。熟成不足のマシンはペテルソンのカウンターステアなど豪快な走りに悲鳴をあげました。ペテルソンは後半戦で4勝を上げますが時すでに遅しでした。スチュワートがこの年の王座につきます。

ペテルソンにとって9PP、4勝という年は生涯で最高成績でした。次のチャンスは5年後の1978年でしたが、チャンピオン争い中にモンツァで事故死してしまいます。

 

 

 

1974年 ラウダ(15戦9PP、入賞6回、選手権4位)

      R1 R2 R3 R4 R5 R6 R7 R8 R9 R10 R11 R12 R13 R14 R15
予選最速 ラウダ
(38点)
予選 8位 3位 PP PP 3位 PP 3位 PP PP PP PP PP PP 2位 5位
決勝 2位 r 16位 優勝 2位 r r 優勝 2位 5位 r r r r r
チャンピオン フィッティパルディ
(55点)
予選 3位 PP 5位 4位 4位 13位 9位 3位 5位 8位 3位 3位 6位 PP 8位
決勝 10位 優勝 7位 3位 優勝 5位 4位 3位 r 2位 r r 2位 優勝 4位

1971年にデビューしたニキ・ラウダ(オーストリア)は、走りが認められて1974年にフェラーリ入りします。その年にPP9回を記録する速さを見せます。

しかし、リタイヤも多く、PPからトップを走りながら失ったレースが4回ありました。王座はフィッティパルディに奪われ、ラウダはチームメイトのレガッツオーニ(入賞11回)にもポイントで上回れませんでした。ラウダは長丁場のレースの戦い方を考えさせられます。

ラウダは翌1975年もPP9回を記録、今度は入賞12回と着実に走って王座に就きます。1984年には3回目の王座。このとき敗れたプロストはラウダからチャンピオンの取り方を教えられます。

 

 

 

1984年 ピケ(16戦9PP、入賞5回、選手権5位)

      R1 R2 R3 R4 R5 R6 R7 R8 R9 R10 R11 R12 R13 R14 R15 R16
予選最速 ピケ
(29点)
予選 7位 PP 9位 PP 3位 9位 PP PP 12位 PP 5位 PP 2位 PP PP PP
決勝 r r 9位 r r r 優勝 優勝 r 7位 r 2位 r r 3位 6位
チャンピオン ラウダ
(72点)
予選 6位 8位 14位 5位 9位 8位 8位 10位 5位 3位 7位 4位 6位 4位 15位 11位
決勝 r 優勝 r r 優勝 r 2位 r 9位 優勝 2位 優勝 2位 優勝 4位 2位

ネルソン・ピケ(ブラジル)は、1981、83年にチャンピオンになり、1984年もPP9回を数えて速さをアピールします。

しかし6戦までノーポイントが響きました。第7戦、第8戦と優勝しますが、年間リタイヤ9回は多すぎました。この年はマクラーレンTAGポルシェが予選で速くなくても、レースは抜群の燃費で制しました。

ターボエンジンの開発競争に敗れたわけで、ピケにはどうしようもなかったと言えましょう。せめて予選で速さを誇示ということでした。

ピケが3度目の王座を取るのは1987年。このときはPP4回で、マンセルのPP8回にかないませんでしたが、着実に入賞を増やしたのでした。

 

 

 

1989年 セナ(16戦13PP、入賞7回、選手権2位)

      R1 R2 R3 R4 R5 R6 R7 R8 R9 R10 R11 R12 R13 R14 R15 R16
予選最速 セナ
(60点)
予選 PP PP PP PP PP 2位 2位 PP PP 2位 PP PP PP PP PP PP
決勝 11位 優勝 優勝 優勝 r 7位 r r 優勝 2位 優勝 r r 優勝 失格 r
チャンピオン プロスト
(76点)
予選 5位 2位 2位 2位 2位 PP PP 2位 2位 5位 2位 4位 4位 3位 2位 2位
決勝 2位 2位 2位 5位 優勝 r 優勝 優勝 2位 4位 2位 優勝 2位 3位 r r

アイルトン・セナ(ブラジル)は、1988年にPP13回、優勝8回という圧倒的速さでチャンピオンになりました。翌89年もPP13回を記録し、序盤4戦で3勝したとき2年連続王座かと思われました。

しかし第5戦から第8戦にかけて、4連続0点を喫します。このとき着実に勝利を重ねたチームメイトのプロストが、セナに20点差をつけてポイントリーダーに立ちました。

14戦を終えて、リタイヤが1回しかないプロストと、5回も数えるセナ。プロスト16点リードで迎えた第15戦日本GPは両者接触でプロストが王座につきます。しかし1年を通してみると、この年から始まったノンターボ・マシンを大事に操ったプロストに一日の長があったと言えました。

セナが翌1990年と91年に王座に就いたのは、勝てない時に着実にポイントを拾う走りをしたからでした。