(2001.8.16)
4度のチャンピオン、アラン・プロストは、自分のチームを作りましたが、現役時代には到底及ばない成績が続き、存亡の危機に立たされています。過去、5人のチャンピオンが自分のチームを持ちました。それらの成績はどうだったでしょうか。なお、フィッティパルディは、エマーソンの兄ウィルソンが創設したチームのため除外してあります。
水色線はチャンピオン現役中、青色線は引退後
黄色はドライバーズタイトル、黒色はコンストラクターズタイトル
ジャック・ブラバム(オーストラリア)は、1959,60年にチャンピオンになり、1962年に自チームを創設しました。1966年、排気量が1.5リッターから3リッターになってどのチームも信頼性を失う中、レプコ・エンジンを選んだのが当たって連戦連勝し、3度目のチャンピオンになります。自分のチームで王座に就いたのは、ブラバムだけです。ブラバムは1970年にマネージャのトーラナックに後を任せ、故郷に帰ります。その後、バーニー・エクレストンが運営します。鬼才ゴードン・マーレイが革新的なマシンを次々と出し、1981,83年にピケがチャンピオンになります。エクレストンはチームから手を引いてF1そのものを支配しはじめました。この名門チームは日本人の手に渡った後、資金難で消滅してしまいました。とはいえ、チャンピオンが作ったチームとして、唯一成功した例と言えましょう。
ジョン・サーティース(イギリス)は1964年にフェラーリでチャンピオンになりました。そのフェラーリとはケンカ別れし、ホンダで1勝を上げますが、ホンダも撤退してしまい、とうとう1970年に自チームを結成します。すでにF5000というカテゴリでは実績を上げていました。サーティースはここでとりあげたチャンピオンの中で唯一、設計を行いました。さらにサーティースは、組立・テスト・チーム運営すべてを自分でやりました。元2輪王者は器用すぎたのか、人に任せられないのか、結果は低迷でした。後半は人の出入りも激しくなり、活動資金が底をついて撤退しました。
グラハム・ヒル(イギリス)は1962年にBRM、1968年にロータスとイギリスの本流とも言えるチームでチャンピオンになりました。現役をかなり長く続けながら、自チーム結成の日を夢見ていましたが、1975年に念願のチーム・ヒルを誕生させます。有望な若手ブライズで3ポイントを上げました。しかし、その年の11月、チーム全員を乗せた軽飛行機が墜落。チームは消滅という悲しい結末になってしまいました。
。
ジャッキー・スチュワート(イギリス)は、1969,71,73年のチャンピオンです。引退から24年の月日を経た1997年、息子ポールとともに、スチュワート・チームを結成。当初からフォードの強い支援を得て、1997年、雨のモナコでバリチェロが2位になりました。1999年は開幕から好調。フランスGP雨の予選でバリチェロがPP。そして雨のヨーロッパGPでハーバートにより初優勝をかざります。つくづく雨と縁があります。2000年にフォードが本格参戦となり、ジャガーに発展的解消しました。失敗するチャンピオンが多い中、良い成績の方と言えます。それもこれもすべてフォードとの現役時代からの長いつきあいのたまものでした。
アラン・プロスト(フランス)は、1985,86,89,93年の偉大なチャンピオンです。引退後、マクラーレンに入り、チーム運営を学びます。そして1997年、リジェを買収してプロスト・チームとします。もっとも良かったのは無限ホンダを積んだ最初の年で、パニスが表彰台に上がり、トゥルーリがオーストリアGPでトップを快走しました。1998年からプジョーと組みましたが、成績はまったくダメ。互いにののしりあいして別れました。パニスは追い出され、トゥルーリも逃げていきました。2001年になると有力スポンサーを次々に失って財政危機に陥り、アレジは年棒が支払われないと言って去りました。統率力はまったくなく、人も金も離れていくだけでした。