(2001.9.20)
2001年9月11日に起きたアメリカの同時多発テロ事件により、5千人の犠牲者が出た影響で、グランプリは中止という意見が出されています。過去、グランプリが中止になった例を見てみましょう。その時々の世界情勢、世相が如実に映されています。今回は絵がありません。字だけです。
世界初の自動車レースは、1894年フランス、パリ−ルーアンでした。世界初のグランプリは1906年のフランス、ルマンです。優勝はルノー車でした。1911年にはインディ500も始まりました。
1914年6月28日、オーストリアの皇太子がサラエボで暗殺されたことをきっかけとして、ヨーロッパじゅうが緊張となりました。6日後の7月4日の時点ではフランスGPが開催され、メルセデス車が優勝しています。
1914年8月にドイツ・オーストリア・ロシア・フランス・イギリスなどを含んだ第一次世界大戦が始まりました。極東では日本がドイツに宣戦。ヨーロッパでは自動車レースが中止されました。
1918年11月、第一次世界大戦が終結。翌1919年にはイタリアでタルガフローリオという伝統のロードレースが再開。フランスGPは、6年間の空白を置いた1921年にようやく再開しています。1921年は第一回イタリアGPも行われました。
1920〜30年代はヨーロッパにおいて自動車レース繁栄の時代となり、年間で30レース以上も行われました。この間で最も強かったのはフランスのブガッティと、イタリアのアルファロメオでした。ともに10年間で100勝以上しています。
1930年代後半になると、ドイツ勢のメルセデスとアウトウニオンが台頭。ヒットラーの保護のもと、グランプリを席巻します。
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、イギリス・フランスが宣戦布告。第二次世界大戦が始まりました。グランプリは1939年を最後に中止されました。1941年12月、日本は真珠湾を奇襲。
1945年5月にドイツ、8月に日本が降伏し、第二次世界大戦が終了しました。9月にレースが再開されました。1947年にフランス、イタリア、ベルギーなどでグランプリが復活しました。そして1950年にF1世界選手権が始まったのです。
スカパー解説の小倉氏
「フランスの老人が、戦後、レーシングカーの爆音を聞いた時、平和とレースの復活を実感したと、しじじみ語っていました。」
以後は平和な時代にグランプリが中止・延期となった例です。
1955年のルマン24時間レースは、モータースポーツ史上、最悪の事故となりました。ホーソン(ジャガー)がピットインで車線変更し、あわてたマックリン(ヒーレー)がよけ、これにルベー(メルセデス)が乗り上げて観客席に突っ込み、ルベーと観客80人以上が犠牲になりました。
これにより、世界でモータースポーツイベントに非難の声が上がり、フランス、ドイツ、スイス、スペインのGPが中止になりました。スイスは永久にモータースポーツイベントを禁止しています。メルセデスはこの年以後、レースから撤退しました。メルセデスの名前がグランプリに復帰するのは1993年イタリアGP(ザウバーのイルモアエンジンへの冠)になります。
1955年は、2度のF1チャンピオンであるアスカーリが事故死、インディ500で3連覇をめざしたブコビッチが事故死など、ただでさえ事故の多い年でした。モータースポーツそのものが危機に立ったのです。たび重なる戦争で人命は軽く思われており、それまでレースで事故はつきものとされていました。しかし、この年を境に初めて安全性について考えられるようになりました。
ルマン事故後も開催したイギリスとイタリアは、1950年から2001年まで、1年も欠かさずに続いています。
1952年スペインGP、1957年オランダGPとベルギーGPは、財政的な事情で中止になりました。1958年の開幕戦アルゼンチンGPも直前まで開催か否かでもめ、英国勢抜きの10台で行われました。翌1959年アルゼンチンGPは財政困難で中止になってしまいました。
1960年代〜70年代、事故は相変わらず多く、ローマ法王は死亡事故のたびにモータースポーツを非難する声明を出しました。フェラーリはそれでもレースを続けました。
1973年秋、中東戦争による第一次石油危機でガソリンが高騰しました。1974年、モータースポーツは存続できるのかという危機感がありましたが、それにもめげず、続けられました。
1975年カナダGPは、FOCAと主催者が金銭面でもめ、キャンセルされました。
同年のスペインGPは、安全面で問題があり、フィッティパルディらのボイコット騒動になりました。レースは始まったものの、事故で観客4名死亡となり、短縮終了しました。
1976年最終戦・富士は、大雨でスタート時刻が遅れ、中止になりそうでした。しかしラウダとハントのチャンピオンがかかっていました。レース終了時が日没ぎりぎりの午後3時にスタートが切られました。ラウダは棄権し、ハントが3位になって逆転王座に就きました。
1977年日本GPは、立ち入り禁止区域にいた観客2名がG・ビルヌーブ車の下敷きになり死亡。これは一般マスコミに非難され、翌年から日本GPは開催されなくなります。この当時の日本では、モータースポーツは暴走族と同一視されていました。
1980年スペインGPは、FISAとFOCAの対立から、FISA派の大陸系チーム(フェラーリ、ルノー、アルファロメオ)が参加せず、FOCA派のイギリス系チームのみで強行しましたが、FISAは世界選手権から除外してしまいます。1981年南アフリカGPも同様でした。
1982年サンマリノGPは、前戦ブラジルの1,2位(イギリス系チーム)が失格・ルノーが繰り上げ優勝したことに怒ったイギリス系チームの多くが不参加。14台だけで争われました。1980年代前半はF1が分裂の危機を迎えていましたが、G・ビルヌーブの悲劇などで揺れたF1界は、落ち着きを取り戻していきます。
1985年6月のベルギーGP、スパフランコルシャンでは、金曜に舗装があちこちではがれてしまい、土曜にタイムが20秒以上遅くなりました。このため10月に延期。予選まで行われて延期になったのはこのGPだけです。10月は予選からやりなおしました。
1985年の南アフリカGPは、人種隔離政策にルノーが抗議のボイコット。翌年から南アフリカは除外されます。
1990年7月、イラクがクウェートを占領。1991年1月、多国籍軍がイラクを攻撃。この間もグランプリは続けられました。
1994年サンマリノGPでセナとラッツェンバーガーが死亡したことは、12年ぶりのGPでの死亡事故でした。次のモナコGPでもベンドリンガーが事故で重体となり、中止になりそうでした。相次ぐ批判とスターを失ったF1は、この年もピンチだったのです。
1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生し、4月に予定されたパシフィックGP(岡山・TI英田)は10月に延期されました。10月22日のパシフィックGPと、10月29日日本GP(鈴鹿)は、史上初の1国2週連続開催(F1日本シリーズ)になりました。ともにM・シューマッハが制し、英田でドライバーズタイトル、鈴鹿でコンストラクターズタイトルが決まりました。