大湯環状列石:@どこからやってきたのか? |
△鹿角は中世までに湖水ではなくなった ところで、縄文時代は、紀元前11世紀ないし紀元前1世紀の約1万年間に相当する 日本の歴史における時代区分の一つとされている。 この時代の期間が長いため、全国的には、大湯環状列石と似たような遺跡、例えば、 @竪穴住居(竪穴式住居) A配石の佇まい B石器や土器の類 などは、各所にみられる。 このことから当然、この時代には人々の移住や交流、物資の移出入が行われていた ことが認められる。したがって、鹿角(鹿角の郷)の縄文人が、 「どの地域から移住してきて、どの地域へ移住していったか」を明らかにする ことは、難しいと云うか、不可能に近いことと思われる。 そこで、(とりあえず)本稿では、鹿角の中で、低海抜の平坦地の乾燥化の 後を追うようにして、高海抜から順次、低地へと移住してきたことについ 考察しているところである。 分りきったことであろうが、鹿角は中世までに湖水ではなくなったことが 知られる。 即ち縄文時代の初め頃から、鹿角の湖は次第に枯渇してゆき、 中世には、完全に干上がっていたのである。 堰止め口の決壊などによる湖水の枯渇の程度にしたがって、 @大地平人は、次第に低地(湿地帯〜草原)へと移住してきた……… A十和田湖噴火による火山灰の被害を受けて、他へ移住していった。 B噴火が落ち着くと、元々の大地平人のほかに、別の縄文人もやってきた……… C段々水位が下がっていった(湿原が後退していった……) D人々は、次第に低地へと移住してきた……… E十和田湖噴火による火山灰の被害を受けて、他へ移住していった。 F噴火が落ち着くと、元々の鹿角の人々のほかに、別の縄文人もやってきた……… G……… (H18.02.18)
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