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宗教を読む / 聖書の宗教

◆世界宗教は神道へ収斂 H22.3.3
 神道(しんとう)とは、 「(1)日本民族固有の伝統的な宗教的実践と、それを支えている生活態度および理念。 アニミズムやシャーマニズムなどから発し、 次第に祖先神・氏神・国祖神の崇拝を中心とするものになり、 大和朝廷によって国家的祭祀(さいし)として制度化された。 外来信仰である仏教に対して形成された概念で、その後、仏教や儒教の影響を受けながら、 両部神道・伊勢神道・吉田神道・垂加神道・復古神道など多くの神道理論が生まれた。 明治以後、神社は国家の管理下に置かれ、伊勢神宮を頂点とする国家神道が形成されたが、 第二次大戦後、神道指令により解体された。かんながらの道。 (2)仏教に対して、鬼神を信ずる邪教。」(goo 辞書)
 神道(しんとう、かんながらのみち)とは、 「日本の民俗的な信仰体系であり、日本固有の多神教の宗教である。
 神道は太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教である。 日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰 ・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。
 なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』、『日本書紀』、 『古語拾遺』、『宣命』といった「神典」と称される古典を規範とする。 森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する。 浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。 他宗教と比べて現世主義的であり、まつられるもの(神)とまつるもの(信奉者) との間の連体意識が強い、などといった特徴がみられる。
 神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように、 地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、 仏教はおもに個人の安心立命や魂の救済、 国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。(Wikipedia)
 
 収斂(しゅうれん)とは、 「(名)スル (1)ちぢむこと。ちぢめること。 (2)〔数〕「収束(しゅうそく)(2)」に同じ。 (3)〔物〕「集束(しゅうそく)」に同じ。 (4)系統の異なる生物が、次第に似た形質をもつように進化すること。相近。」(goo 辞書)goo 辞書) のことであるが、本稿では、いわゆる「収束」「集束」の意と解されたい。
 
 この「宗教を読む」サイトでは、 聖書や仏典などを概観して、私なりの考えを述べてきました。 先人賢人たちの叡智を結集したこれらの教義経典は、 内容が膨大難解につき、私のような浅学菲才の者では、読破し理解することは到底及びませんが、 ある程度は理解しているつもりです。
 
 神道は、わが国特有の民族宗教と云われておりますが、 世界の思想哲学の趨勢は、神道へ収斂されてきているように感じられます。
 特にプロテスト指向の方々は、やがて神道の世界へ到達するように思われます。
 
* 寛容
 ここで指摘したいと思いますのは、自分を振り返って、 他人のことを寛容すると云うことです。
 世界の中で、思想哲学界をリードしているのは、(プロテスタント指向の)キリスト教系 の方々の説であると思います。 これらの方々は、神に認知された信徒として (神の名において)自信に満ちたように、新説を主張し続けています。 即ち、神をバックにした唯一絶対の新説として提示しているのです。
 ところで、地表に漂う酸素は、人間の生存には絶対に必要不可欠なものですが、 あまりにも普遍的に存在しているので、 人々はその存在を別段意識しないで生きています。 もし万一、全世界の人々がプロテスタント系キリスト教の信徒になったとしたら、 唯一絶対神は、普く人々の上を覆うことになりますので、 当該教義教典たる『聖書』は、即ち世界憲法として認知され適用されることになりましょう。
 そうしますと、今まで自分を律してきた『聖書』の神の存在を意識しなくてもよく、 したがって、その代わり、自分が神に代わって自分を律することになりましょう。
 と云うことは、唯一絶対神による救済=他力本願から、 自力(本願)による自分救済へと切り替わっていくことになります。
 これは、神道そのものの姿です。
 
 さて、私共は、世界の中で自分の存在を意識するとき、 出自について、黄黒白色などの人種、日亜(アラビア)英語などの言語、 その他価値観等々いろいろな違いに気付きます。 自分を白紙にすることも、自分の出自を否定することも、 自分の出自にかかる諸々を相手に強要することも出来ません。 その上で、あるがままの自分の説を主張しなければなりません。 自分の立場をしかと認識した上で、物事に対処する心がけが必要になります。
 如何に自分の説が優れ、完璧であると思っても、常に謙虚な態度が求められます。
 即ち、自分を振り返って、他人のことを寛容する 心構え〜姿勢が必要になってくると思います。 何故なら、自分も他人も全てが、それぞれ神として君臨しているからです。
 〔人は神になれるかの項参照〕

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