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宗教を読む / 聖書の宗教

◆汝の敵を愛せ
『キリスト教とイスラム教』によると、
「汝の敵を愛せ」と、キリスト教では教えます。イスラム教はどうですか。
 キリスト教は、「愛の宗教」と言えると思います。キリスト教を最も特徴づけることばは、 「愛」です。
 では「愛」とは何でしょうか……? ギリシア語では、人間の愛を三つの語で区別しています。
 エロス……男女の愛。自分の好みに合った対象にはたらく愛ですから、自分が対象に 「価値」を認めることが条件となります。
 ピリア……友情。ともに生活したり行動したりすることが条件となります。
 ストルゲー……親子の愛。血のつながりが条件となります。
 これらの三つの愛は、いわば条件つきの愛です。それに対して神の愛は、無条件の愛で、 ギリシア語ではそれをアガペー″と呼びます。神は、無価値な罪人をも愛され、 生活をともにしない敵をも愛され、血のつながりのない異邦人をも愛されます。 そこに、「汝の敵を愛せ」と言われる、キリスト教の「愛敵」の思想があるのです。
 すなわち、『新約聖書』において、イエス・キリストは言っています。
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。 敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(「ルカによる福音書」6)
 ユダヤ教では、「汝の隣人を愛せ」と教えられてぃました。隣人とは仲間です。 仲間を愛する愛は、人間的な条件つきの愛です。 キリストはそれを高めて、神の愛のように無条件の愛が本物の愛であるとして、 「敵を愛せ」と命じたのです。
 では、どうしたら、「敵を愛する」ことが可能になるでしょうか……。 いったい人間に、神の愛が可能でしょうか?
 それについてはパウロが、「ローマの信徒への手紙」(12)のなかで、
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたし が報復する″と主は言われる』と書いてあります」
と述べています。敵を神の審判にゆだねることが、「愛敵」の第一歩になります。 つまり、わたしたち自身が敵を裁き、敵に報復するのではなく、 すべてを神の判断にまかせて、わたしたちは敵を隣人として愛すればよいのです。 それがキリスト教の考え方だと思います。
 イスラム教では、「汝の敵を愛せ」とは言っていません。コーランは、
「信者たちは兄弟である。よって、おまえたち、二人の兄弟のあいだを鎮めよ」(49章10節) と命じています。
 ここにあるのは、仲間(信者)のあいだでの愛です。すなわち、隣人愛です。
 キリスト教側からは、イスラム教が普遍的な愛を説いていないという理由で、 非難・攻撃がなされます。しかし、イスラム教はキリスト教とちがって、 言うなれば「生活宗教」ですから、 愛敵の宗教のように精神的・理念的な愛だけを説くわけには行かなかったのです。 現実生活のなかで愛をどう実践して行くか……に重きを置いて、愛が説かれます。 すると、どうしても「隣人愛」が強調されることになるのです。
 その意味で、イスラム教においては、もてなし(デイヤーファ)
が大事な人倫の一つとされています。見知らぬ者や旅行者を「客」として迎え、 敬意をもって「もてなす」のが、イスラム教徒としての神聖な宗教的義務とされているのです。 また、「もてなし」を受けた者は、喜んでこれに応じなければならない。 「もてなし」を拒んだり、少ししか食べなかったりするのは、相手を侮辱したことになるのです。 イスラム教においては、このように現実的な形で「隣人愛」が説かれています。 キリスト教と表現がちがっているだけで、 根本のところは同じことを説いているのではないでしょうか……。
 
 即ち、前掲「告解」で述べたように、すべからく「神の名」の下に、 (理性によってのみ)「愛の行為」が施されることになる。 しかし、私共は感情を有している……。
 〔愛の行方(三すくみ)の項参照〕

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