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宗教を読む / 聖書の宗教

◆目には目を、歯には歯を
『キリスト教とイスラム教』によると、
「目には目を、歯には歯を」といいます。その意味は? 両宗教の「裁き」およぴ 「刑罰」に対する考え方の差を教えてください。
「目には目を、歯には歯を」のことばは、紀元前十八世紀の「ハンムラビ法典」 にその淵源があるといわれています。それが、『旧約聖書』に流れたというのです。 『旧約聖書』には、 「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、 歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(「レビ記」24)
とあります。しかし、このことばは、どうも誤解を招いているようです。 あとでもうー度、このことばの意味を考えてみましょう。
 
「裁き」と「刑罰」に対する両宗教の態度ですが、キリスト教の根底にあるのは、
 − 人が人を裁くことは不可能だ
といった思想だと思います。換言するなら、
 − 裁きは神にまかせておけばよい
ということであり 同時に、
 − 人間にふさわしいのは「赦し」だ
といった考えになります。キリストは、『新約聖書』において、
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(「マタイによる福音書」7)
と言っています。これが、「裁き」に対する、キリスト教の基本的態度でしょう。
 その意味で象徴的な事件が、「ヨハネによる福音書」8に出てきます。 姦通の現場で捕えられた女がキリストの前に連れて来られ、人々はキリストにこの女の処分を求めます。 当時のユダヤの律法によると、姦通した女は石で打ち殺されるのです。ところが、キリストは、人々に、
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
と答えています。そして、全員が逃げるように去って行ったあと、
「わたしもあなたを罪に定めない」
と言っております。つまり、お赦しになったのです。
 キリストによると、先程の「目には目を、歯には歯を」のユダヤ教的報復の原理も、 その権利を放棄し、なおかつ積極的な赦しを相手に与えるのが、 キリスト教徒にふさわしい生き方になるのです。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、 左の頬をも向けなさい」(「マタイによる福音書」5)
 
 このように言えば、わたしたち日本人のあいだからは、 では、犯罪人や罪人をのさばらしておいてよいのか!といった反問が返ってきそうですね。 しかし、それはちがいます。人間がかりに犯罪人、悪人を放置しておいても、 神が必要とされるならその人を罰するであろう……そうした信念が、キリスト教徒の背後にはあります。 また、わたしたち人間は最後の審判といった形で真の「裁き」を受ける。 悪人は必ず、そのときに罰せられる。 だから、いま、わたしたちが性急に悪人を罰する必要はないという信念をもっているのです。
 このような考え方は、現代アメリカの裁判制度のうちにも顕われています。 われわれは、アメリカの裁判は、陪審によって有罪、 無罪の決定がなされる陪審裁判だと教わってきました。 ところが実際は、ほとんどの事件(ある統計では、全刑事事件の九五パーセント以上)が、 被告人からの有罪の申し立て(ギルティ・プリー) によって決着がつけられているそうです。
 被告が自分で有罪の申し立てをすれば、陪審裁判にかからないですみます。 そして、検察側から犯罪事実として持ち出されるものを少なくしてもらい、 刑罰を軽減してもらえる特典がある。 つまり、被告は検察側と取引(バーゲン)をするのです。
 こういう裁判についての考え方には、明らかに、真の裁きは神にまかせておけばよい、 という思想が反映しています。 われわれがする裁判の目的は、たんに社会の秩序を保つためであると考えられているのです。 日本人の考え方と根本的にちがっていますね。 わたしの見るところ、日本人はヒステリックに人を裁こうとする傾向があります。 日本人に真の宗教がないからでしょうか……。
 
 イスラム教では、犯罪を大きく二種に分類し、それに応じて刑罰も二種に分類されています。
 神の権利(ハック・アッラー)としての刑罰……神の命にそむいた犯罪に対して、 神がご自分の権利として科される刑罰。
 人間の権利(ハック・アーダミー)としての刑罰……被害者やその親族が権利として要求する刑罰。
 前者の、神の命にそむいた犯罪は、コーランに明記されているもので、
 1 姦通
 2 姦通についての中傷
 3 飲酒
 4 窃盗
 5 追剥ぎ
です。これは絶対的なもので、人間が勝手な裁量でもって刑罰を加減することはできません。 姦通をすれば石打ちの刑、中傷罪と飲酒罪には鞭打ちの刑(恐ろしいですね)、 窃盗罪には手足の交互切断、追剥ぎは死刑、はりつけ、手足の交互切断、国外追放のいずれかになります。手足の交互切断とは、初犯は右手、再犯は左足、三犯は左手、四犯は右足が切り落とされるものです。 五犯以上はどうなるか? その点は明確ではありませんが、両手両足がなくて、 さて窃盗ができるでしょうか……。
 次に、人間の権利としての刑罰です。これがすなわち、「目には目を、歯には歯を」であります。 イスラム法では、これを「キサース」(「報復」の意)と呼んで、 基本的な考え方にしています。
「目には目を、歯には歯を」といえば、ちょっと恐ろしいことばに聞こえます。しかし、 じつはマホメットが出現する以前のアラブ社会では、もっと酷い報復が行なわれていたのです。 「目には命を」といったくらいの拡大報復が、いわばあたりまえであったようです。 ひょっとすれば、われわれだって心の中では、それくらいの拡大復讐を考えているかもしれません。 それをマホメットは、「目には目を、歯には歯を」の同害報復にまで下げたのです。 すなわち、被害者(被害者死亡の場合はその相続人)には、 自分が受けたと同程度の傷害を相手に仕返す権利が与えられたわけです。
 しかも、イスラム法においては、 被害者はこのような同害報復の権利をできるだけ行使しないようにと求められています。 この場合、被害者のほうがキサースの権利を放棄すると、 加害者には「血の代償」を払う義務が発生します。「血の代償」とは、一種の賠償金です。 実際には、この賠償金によって解決される事件がほとんどです。 したがって、「目には目を、歯には歯を」といった有名な句は、いわば原則を示したものであって、 イスラム教徒が実際にそうやっているわけではありません。
 どうやらこの点においても、イスラム教に対しては、いささか誇張した宣伝がなされているようですね。
 
 以上、キリスト教においては、罪に対しては、一切を神に委ねる  − 人は生来罪人である、故に神は決して人を赦さないでおかない − と云う構図である。 しかしこの場合、生身の被害者の感情は、絶対に無視される、と云うことであり、 そのことで一神教たるキリスト教が成立しているのであろう。 罪人救済、即ち、絶対的他力本願の思想であると思われる。
 しかし、前掲「司法取引」については、 キリスト教を国是とする米国の国内だけに適用されるルールである。 このルールを他国へ応用したり強制したりすることはないのであろうか、 との疑問は残る。
 
 神道では、「罪とは」の項で述べたように、人は「悪を感じる」ことによって、 罪の償いがなされていくことになろう。量刑については、時の道徳律(国法)に委ねられよう。
 何故なら、神道では、人は生来、純真無垢(白紙の状態)であり、 人は基本的にを指向して成長し事を行うものである、と認識しているからである。
 これが、即ち日本人の宗教観であろう。

 朱書きの部分「人間がかりに犯罪人、悪人を放置しておいても、 神が必要とされるならその人を罰するであろう……」 については、日本人〜神道では、賢人たちは、 「人間がかりに犯罪人、悪人を放置しておいても、 罪人本人が必要とされるならその人(自分自身)を罰するであろう……」 と心に誓うと確信する。

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