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宗教を読む / 聖書の宗教

◆告解(告白)
 「罪」とは一義的には宗教上、、当該教義教典に抵触する行為をした場合のことを云う。 例え宗教の指向する人格なり共同体なりが、成就に向って円滑に行われているとしても、 所詮は人間、教義教典の中の些細な、或いは(社会通念上)理不尽とも思われるような定めに 抵触することもあり得ましょう。 そのようなことがあることを前提に、大方の(世界)宗教では、 告解(告白)と云う”赦免”の場を設定している。
 
 告解(こっかい・こくかい)とは、 キリスト教の幾つかの教派において、罪の赦しを得るのに必要な儀礼や、告白といった行為をいう。 教派ごとに概念や用語が異なっている。 カトリック教会および正教会では、教義上サクラメントと捉えられているが、 聖公会では聖奠的諸式とされる。プロテスタントではサクラメントとは看做されていない。(Wikipedia)
 なお、サクラメント[sacrament]とは、 「キリストによって定められた神の恩恵を信徒に与える儀式。 ギリシャ正教では機密、ローマ-カトリックでは秘跡と称し、 洗礼・堅信・聖餐・ゆるしの秘跡・病者の塗油・叙階・婚姻の七つの式がある。 プロテスタントでは礼典または聖礼典といい、洗礼と聖餐の二儀式とするものが多い。(goo 辞書)
 
 キリスト教では、神は人間の罪を絶えず赦そうとしておられる、と考えている。 どうやって、罪は赦されるのだろうか……? 人間が自らの罪に気づき、悔い改め、回心すればよろしいというのである。
 悔い改めるとは、もちろん、単なる後悔ではない。 犯した罪をくよくよすることでもない。「方向転換(=信仰の道を進む)」を云うのである。 滅びに向かって歩んでいたのを、百八十度方向転換をして、神に向かって歩みはじめる。 そうすれば、罪の赦しは実現するのである。
 罪の赦しを受けるには、まず洗礼がある。 洗礼は、それまで滅びに向かって歩んでいた自分に気づき、 方向転換をしてキリスト者となるために受ける訳である。 洗礼を受けた後の罪の赦しのためには、「告解」がある。
「告解(告白)」は、罪を司祭に個人的に口頭で告白し、 償いを果たすことを条件に赦免を受けるのである。 しかし、形式は司祭に告白するのであるが、 これは司祭なる人に向かってしているのではなく、実は神に向かってしているのである。 そして、告解のために、キリスト教の聖堂の一角には告解場の小部屋が設けられている。 また、「教会法」 には、告白された罪の秘密が守られるように、厳しい規定がある。 たとえ信者が人を殺したと告白しても、司祭はそれをほかに洩らすことはない。 官憲に告げることもない。
 以上はカトリックの場合であるが、プロテスタントでは告解を否定している。 プロテスタントは、個人の内面的な悔い改めを勧める。 ただし、それでは心の平安が得られないと云う信者には、 その人の信仰を助けるための手段として牧師への告白を認めているようである。
 
 イスラム教には厳密な意味での聖職者がいないので、信者が「告解」することは出来ない。
 イスラム教においては、アッラーの絶対性が前提とされているので、 人間の責任がそれほど問われない。罪を犯すか犯さぬかは、人間の自由意志ですることではなく、 そこにアッラーの神意が加わっていると考えるのである。
 したがって、アッラーの絶対性を信じ、敬虔なイスラム教徒でありつづけようとする者は、 その者が犯す過ちは、アッラーによってすべて赦されているのである。 イスラム教徒であると云うことは、六信五行を信仰し実践すればよいので、 それがすなわち罪の赦しの条件だと思われている。
 注:六信五行とは、 「イスラム教で、信仰内容と神への奉仕行為を簡潔な箇条としたもの。 アッラー・天使・コーラン・預言者・来世・予定を信じ、信仰告白・礼拝・喜捨 ・断食・メッカ巡礼を行うこと。六信五柱。」(goo 辞書)
 逆に、無信仰者には赦しがない。無信仰者はカーフィル″と呼ばれる。 これは「神の恩寵を抹殺した者」の意で、カーフィルは神が罰して地獄に堕とされる者であり、 イスラム教徒が近づいてはならない者でもある。 では、どのような罪を犯せばカーフィルになるかと云えば、 たとえば多神崇拝の罪を犯した者でである。多神崇拝は六信五行に反するものである。 多神崇拝者が再び六信五行を受け入れてイスラム教徒に戻れば、 アッラーはその者の罪を赦される。 イスラム教徒であることによって罪の赦しを受ける訳である。
 なお、人間が神の名において特定の行為をする、しないと誓うことがある。 イスラム教徒は日常生活において、 よく「神にかけて(ワッラーヒ)」と誓言をする。 これは、人間が神と契約したものであるから、これを破ったからといって、 人間同士罰することはできない。罰を与えられる (たとえば、その人を地獄に堕とす)のは、あくまでも神である。
 ところが、誓言に反する行為をしても、神の怒りを受けずに済ます贖罪法がある。
 コーランは、 「違約の贖いは、おまえたちが家族に食べさせている中くらいの食べ物を十人の貧者に供すること、 あるいは彼らに衣服を与えること、あるいは奴隷を一人解放することである。 それができない者は、三日間の断食。これが、おまえたちのたてた誓いの償いである」、 と規定している。これによって、誓言に反する行為が赦されるのである。
 
 以上、罪を犯した信者に与える罰は、神の裁量に委ねる、と云うことになる。
 即ち、異教徒を含め、当該教義教典の規定に違反したは、 神の名の下に、(その教徒たちから)罰 − 制裁が科せられる、 と云う構図が導き出されることになろう……。
 
 ところで仏教には、告解の制度はないものと認識している。 ただし、世上の理不尽に対して、その救済を求めるための「駆け込み寺」がある。
 神道においても、告解の制度はない。 自ら罪を犯したと感づいたら、「お祓い(禊・潔斎)」を受け、 爾後、悔いのないような生き方をすべきものと考えられる。 即ち、子孫後進の者の期待される人間になるために……。

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