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宗教を読む / 聖書の宗教

◆天国と地獄
* 天国
 キリスト教の天国は、基本的には「神の支配」「神の国」と捉えられ、 そこは栄光と浄福の世界とされている。 天国において、人々は苦難(贖罪〜課題)から解放され、 この世の不合理が調整される。 また、キリストと出会い、愛する者と再会ができる……。
 イスラム教においては、天国は「楽園」と呼ばれ、コーランによると、
「しかし、信仰に入って諸善を行なう人々なら、 われらは下を河川が流れる楽園に入れてやる。 彼らは、そこに永遠にとどまるであろう。そこには清純な妻が何人もいる。 また、すずやかな木陰に入らせよう」
「神は、信じて諸善を行なう人々を、下を河川が流れる楽園に入れたもう。 彼らはその中で黄金の腕輪と真珠とに身を飾られ、 その衣服は絹である」
「また、その日、喜ぶ幾多の顔もある。 自分の精進のおかげで、満足し、いと高き楽園に住み、 もはや、たわごと一つ聞くこともない。そこには、流れでる泉があり、 もちあげられた寝台があり、すえ置かれた酒杯があり、並べられた褥(しとね)があり、 広げられた敷物がある」
 なお、コーランでは、天国を「楽園」と呼んでいるほか、 「エデンの園」「エデン」「終の住み処の園」とも呼んでいる。
 
* 地獄
 私共日本人の大多数は、仏教の影響を受け、「地獄」と云うものは、 この世で悪事をなした者が、死後において裁かれ、懲罰を受ける場所だと思っている。 実は、「地獄」と云う言葉が、本来が仏教の術語で、「地下の牢獄」といった意味である。 しかしながら、日本人のこのような地獄概念は、イスラム教の地獄観には大体当てはまるが、 キリスト教のそれとは根本的に違っている。 キリスト教においては、地獄と云うものは霊の世界の出来事であるからして、 私共人間の言葉でもってそれを表現することは、本質的に不可能だとしている。 キリスト教では、「地獄とは神からの分離である」と定義することも出来よう。
「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ)
「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(同)
「地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない。 人は皆、火で塩味を付けられる」(マルコ)
 イスラム教では、この世の終末とともに、人間は一人残らず墓から出されて、 死ぬ前と同じ姿になって復活する(だから、イスラム教徒は火葬をしない)。 そして、復活した人間は神の前で審判を受ける。 その際、どの人間もそれぞれの生前の信仰や善行が記入されたノートを渡される。 このノートを秤にかけ、その重さによって楽園行きか、地獄行きかが決められる。 イスラム教では、秤が重く下った者が楽園行きとなる。
 また、コーランには、地獄には七つの門があり、 それぞれの門を天使が番をしていると書かれている。 この記述をもとに、後世のイスラム教徒は七層の地獄を想定した。 上層から下層の順に紹介すると、
 1 ジャハンナム(ゲヘナ地獄)……ここは、 罪を犯しながら懺悔をしなかったイスラム教徒が入れられる地獄である。 しかし、犯した罪に対して一定期間の贖罪をすれば、 あとはマホメットの執り成しによってこの地獄から出され、天国に移される。 とすれば、これは正確には「地獄」ではなく、後で述べる「煉獄」と云える。 罪人が全部いなくなると、このジャハンナムは消滅する。
 2 ラザー(火炎地獄)……キリスト教徒が入れられる地獄。
 3 フタマ (焔の釜地獄)……ユダヤ教徒の地獄。
 4 サイール(焔地獄)……サービア教徒(ユダヤ的キリスト教徒)の入る地獄。
 5 サカル (業火地獄)……ゾロアスター教徒の地獄。
 6 ジャヒーム(火の竃地獄)……偶像崇拝者が堕ちる地獄。
 7 ハーウィヤ(底なし穴地獄)……偽善者が入れられる地獄。
 
 仏教の「地獄」と、キリスト教やイスラム教の「地獄」の差は、 仏教が地獄を一定期間の贖罪の場所と考えているのに対して、 キリスト教やイスラム教では永遠の責め苦を受ける場所とされていることである。 つまり、仏教では、地獄に堕ちても再びそこから脱出できるチャンスがある。 と云っても、一番短い刑期でさえ、一兆六千二百億年とされている。 気の遠くなるような数字であるが、それでも有限は有限で、 決して無限(永遠)ではない。
 この有限の刑期の地獄を、キリスト教やイスラム教の方では「煉獄」と呼んでいる。 したがって、キリスト教やイスラム教の用語で云えば、
 地獄は……永遠の責め苦を受ける場所
 煉獄は……罪の浄めのために一時的に服役する場所
となる。
 イスラム教の煉獄は、七層の地獄のうちの最上層の「ジャハンナム(ゲヘナ地獄)」 である。
 キリスト教には、もともと「煉獄」と云った観念はない。 しかし、中世カトリック教会において、死後の審判の思想が華々しく流行し、 「天国」と「地獄」の中間に「煉獄」が置かれるようになった。 ダンテの『神曲』は、天国、煉獄、地獄の三界遍歴を主題としたものである。 ただし、プロテスタントの方では「煉獄」を言わない。
 
 神道では概ね、 死後は、(自分を含めた親類縁者の)家の近くの山(ふるさとの山)の山腹に 祖霊となって住み(安住し)、 子孫後進の者の希求に応じて、その場、又は下山してその求めに応ずるものと考えられている。
 したがって、子孫後進の者は、祖霊を大切に崇拝することとしている。
 と云うことは(換言すれば)生前、崇拝に値する業績があったかどうかによって、神になり得るし、 神になり得ないこともあると推定されよう。

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