GLN 宗教を読む

宗教を読む / 聖書の宗教

◆キリスト教と云う宗教とは
『キリスト教とイスラム教』によると、
 キリスト教の考え方によれば、わたしたち人間は底無し沼にいます。 底無し沼から脱出しようとして、もがけばもがくほど、わたしたちの足は泥の中にのめり込むのです。 わたしたちはこの沼から、自分の力では脱出できません。 自分の手で頭髪をつかんで、引っ張りあげようとしても無駄です。 あるいは、隣りの人の手をとって、その隣りの人を先に脱出させてあげようとしても、それも不可能です。 底無し沼に落ちた人間は、人間の力でもって底無し沼から脱出はできないのです。 すなわち、人間の力による救済は不可能です。キリスト教は、まずこのような現状認識から出発します。
 即ち、他力本願の考え方である。
 
 では、人間は、どのようにして救われるのでしょうか……?
 そのような底無し沼の状況において、イエス・キリストが出現しました。
 キリストは、みずからの身を底無し沼に投じて、底無し沼にあえいでいる人間たちに、 わたしのこの体を踏み台にして、底無し沼から脱出するように……と言われたのです。 キリストの体は、しっかりとした足場になっています。 わたしたちは、それに足をかけて、底無し沼から脱出できるのです。
 これが、キリスト教の基本的な考え方です。イエス・キリストは、 みずからを十字架にかけて犠牲にすることで、人類の救いを果たされました。 十字架におけるキリストの死を、キリスト教では、
 − 贖罪(しょくざい)
と呼んでいます。「贖罪」はまた「贖(あがな)い」ともいいます。 もともとは、代価を払って、土地や奴隷などを買い戻すことを意味することばです。 『旧約聖書』では、神に対する人間の罪の代価として動物の血を祭壇に注ぐことをしました。 そのような贖いの完成者として、イエス・キリストがこの世に来現されたのです。
 
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、 また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」
と、『新約聖書』の「マルコによる福音書」(10)は言っています。 ここに「身代金」と訳されている語が、「贖い」です。
 
 さて、そうだとすれば、キリスト教においては、二つのことが前提になっているのです。
 一つは……わたしたち人間が底無し沼にいるということ。
 もう一つは……イエス・キリストが救い主であること。
 そして、キリスト教徒というのは、ほかならぬこの二つを信じることです。 わたしたちが底無し沼にいること、イエス・キリストが救い主であることが信じられたとき、 そこにキリスト教があるのです。
 われわれが底無し沼にいるということは、あらゆる人間的な努力が「絶望」に終わることを 意味しています。もちろん、わたしたちの努力によって打開できる状況もあります。 しかし、たとえば死といったものを、人間はどうすることもできないのです。 そのような人間のあり方が、底無し沼に譬えられているのです。
 
 では、なぜ人間は、そんな底無し沼に投げ込まれたのでしょう。キリスト教では、 それを「原罪」と呼んでいます。わたしたち人間は、神に背き、神に反逆し、神から離れたのです。 この神に背いた人間を代表しているのが、『旧約聖書』の「創世記」に出てくる アダムとエバ(イブ(Eve)のラテン名)です。 人類最初の男女であったアダムとエバはエデンの園で神に背き、 彼らはエデンの園を追放されました。このアダムとエバの犯した罪が「原罪」で、 原罪は全人類の内に入りこんでいるのです。 この状態にある限り、人間は罪から逃れることはできないのです。それが底無し沼です。
 そして、神に背き、神から離れた人間を、再び神に結びつけてくれたのがイエス・キリストでした。 キリストは「神の子」です。神は、みずからの御子であるキリストを十字架にかけることによって、 全人類の「原罪」と「罪」を贖ってくださったのです。 神から離れたわたしたちは、イエス・キリストが「神の子」であり、 「救世主」であることを信じたとき、再び神と結びつくことができ、 神と人間との関係を正しくする道が開かれるのです。キリスト教では、このように考えています。
 ここでも、イエス・キリストを唯一絶対者(神)とする他力本願の思想である。
 
 なお、ついでに言っておきますと、「宗教」は英語で”レリジョン(religion)”といいます。 これは、ラテン語の”レリジィオ(religio)”に由来する語です。ラテン語の”レリジィオ”は、 ラテン語の動詞”レリゴー(religo)”からつくられた語であって、 「再び結びつける」といった意味です。すなわち、「宗教」とは、  − 神と人間とを再び結びつける
といった意味です。”レリジョン”の訳語としての「宗教」は、ほんらいはキリスト教の用語なのです。 とすれば、仏教を「宗教」と呼んでいいのか、いささか問題があります。 もっとも、日本語の”宗教”といったことばそのものは、もともとは仏教の用語です。 仏教でいう”宗教”は、「レリジョン」ではなしに、 「宗 − 言語によって表現できない究極の真理」と「教によって表現された教え」といった意味です。
 
* 国旗の奥に想定される”もの”
 あらたまった式典会場の舞台壇上の正面には、国旗が掲げられている。
 この場合の国旗の掲揚の仕方は、
(1) 国旗は、式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。
(2) 国旗と共に主催者旗などを併せて掲揚する場合には、 国旗にあっては舞台壇上正面に向かって左、主催者旗にあっては右に掲揚する。
 
 このとき、壇上に進み入る人は、壇に上がったら、まずその場で、 国旗に向って会釈をすることを例としている。 即ち、「国旗に向って会釈する」と云うことは、第一義的には国旗に代表される、 我が日本国の象徴たる天皇陛下に対して敬意を表することにある。 しかして、天皇陛下の(後ろの)奥の方には、すべからく国民が存在している。 つまり、国旗に向って会釈すると云うことは、最終的には、国民に対しても”会釈” していることになろう。 正面に、何も掲げられていないときは、会釈をすることを要しない。
 ところで、正面に主催者旗のみが掲揚されているときは、 関係者は、主催者旗に向って会釈することもある。 主催者とは特別に深い関係のない来賓が登壇したとき、 たまには主催旗に向って会釈する人を見かけることもあるが、 この場合はいかがなものであろうか。
 
 さて、キリスト教徒は、イエス・キリストを救世主として信じることで、 即ち、”神の国”の住人になることを約束され、 晴れて善人として全うな人生を送ることが出来ることになるのであるが……。
 − しかし、教徒は、前述のように、常に救世主の背後に「贖罪」のことを 念頭に置かなければならない義務を負っている。
 一方では、キリスト教信者は、 「私共教徒は、今正に神の国に居るようだ、或いはまた神の国を完成させつつあるのに、 神道などの異教徒たちは、まるで大罪人そのもののようである……」と。
 
 即ち、如何にイエスが、人々の罪を贖ってくれたとしても − 新約聖書 − 、 その背後には旧約聖書の律法が厳然として存在しているのである。

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