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宗教を読む / 聖書の宗教

◆親族宗教の神々
『キリスト教とイスラム教』によると、
 前述のように、キリスト教もイスラム教も、ともにユダヤ教から出た宗教です。 したがって、キリスト教・イスラム教の神観念を知るには、 ユダヤ教のそれを下敷きにするとよいでしょう。
 さて、このユダヤ教の神=ヤーウエは、みずから預言者のモーゼに語っているところでは、
「私は有て在る者なり」(『旧約聖書』「出エジプト記」第三章。文語訳)
といった存在です。つまり、唯一・絶対の神です。そしてまた、この神の特徴は「義の神」 というところにあります。
 ところで、敬虔なユダヤ教徒は、神の定めたもうた律法を厳格に守ることによって、 神の前に義とされ、神の国に入る資格を得ます。それが彼らの人生最大の目的です。 その意味で、ユダヤ教は「律法主義」の宗教だといえます。
 
 けれども、この世の中には、律法を守れない人間が大勢います。 あるいは、当時の社会では、身障者や不治の病の人々は、律法に触れることも許されない 罪人(つみびと)とされていました。 ユダヤ教では神の国の扉は彼らには閉ざされていたのですが、 イエスは彼らに対する神の愛の福音を説きました。
 したがって、キリスト教の神は、
  − 罪人をも包む愛の神です。ここにキリスト教の神の最大の特徴があります。
 
 ユダヤ教においては、ヤーウエの神(超越神)と「義なる人間」とのあいだには 大きな断絶がありますが、その断絶を埋めてくれる(橋渡しをしてくれる)のが、「律法」です。 同様にキリスト教においても、超越神(キリスト教の神は”ゴッド”と呼ばれます)と 「罪人」とのあいだに大きな断絶があります。 その断絶を埋めてくれる(橋渡しをしてくれる)のが、ここでは「神の子」=イエス・キリストです。 神は、人間を愛するが故に、そのひとり子であるイエス・キリストをこの世に 遣わしてくださったのです。そこでわれわれはキリストを信じることを通じて、神と結ばれるわけです。
 
 ユダヤ教は「律法の宗教」です。それに対して、キリスト教は「愛の宗教」です。
ところがキリスト教は、神の愛を強調して、「神の子」=イエス・キリストを仲介者として 置くことによって、神の唯一の絶対性・超越性を稀薄にしてしまいました。 神に 子」があるとなると、どうしても神はわれわれ人間に近い存在になってしまいます。
 
 その点では、イスラム教は、神観念をもう一度、ユダヤ教の原点に戻したと言えるでしょう。
 イスラム教の神は、よく知られているように”アッラー”と呼ばれています。 これは、「神」を意味するアラビア語の”イラーフ”に、定冠詞”アル”が付加されたもので、 英語の”the God”に当たります。歴史的には、イスラム教の以前から、 アラブ人(とくにメッカの人々)が「至上神」として信仰していた神です。
 
 さて、『コーラン』は、このアッラーの神について、
「おまえたちの神は唯一の神である。それゆえ、このお方に帰依せよ」(22章34節)
と、繰り返し言っています。アッラーは全知全能で、天地万物の創造者、支配者であり、超越者です。 そして、「アッラー以外に神なし」と信ずるのが、イスラム教徒なのです。 イスラム教ではアッラーの唯一性が強調されますから、キリスト教のように「神の子」の存在は 認められません。イスラム教では、イエス・キリストを尊敬しないわけではありませんが、 それはあくまでキリストを預言者と見るからであって、「神の子」とは見ないのです。
 イスラム教では、たしかに一方ではアッラーの超越性が強調されます。 つまり、アッラーは、被造物であるわれわれ人間の類推を許さない存在です。 アッラーと人間は断絶していますから、われわれはいっさいアッラーについて知り得ないのです。 ところが、そうかと思えば、『コーラン』は他方では、アッラーを人間的な神として描いています。 アッラーは悪人を罰すると同時に、善人には恩恵を与えてくれる神です。 なかなか慈悲深い神で、
「主はおまえたちの心の中にあるものをもっともよく知りたもう。もしおまえたちが善良であるならば、 まことに神は、悔い改めて帰ってくる人々に寛容であらせられる」(『コーラン』17章25節)
と、人間を救済される神です。
 こうして見ると、アッラーの性格はいささか矛盾しているようです。 じつをいえば、『コーラン』に表われるアッラーに関する記述を、どのように統一的に解釈するかは、 後世の神学者・哲学者たちの重要な課題となりました。どうやらアッラーは、 ユダヤ教のヤーウェと、キリスト教のゴッドの両面をもっている存在のようですね。 わたしにはそのように思えます。

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