GLN 宗教を読む

法華経

◆16.如来寿量品
前の章では人々の疑問を代表して弥勒菩薩が質問されたところで終わりましたが、その疑問に対して釈尊がいよいよ答えられるのがこの章です。釈尊は次のように説かれました。「人々は私のことを王様の子として生まれ、三十才の時に悟りを開いたと思っているが、それは方便なのだ。ここで真実を話そう。私が悟りを開いたのは今から四十年前ではなく、もっとずーっと昔のそのまた昔なのだ。それ以来今日まで長い間教えを説きつづけてきたのだ。そして、これからも未来永劫にわたり教えを説きつづけるのだ。おまえたちの前にいるこの菩薩たちはその長い間に教化され、帰依(信ずる)し、そして、地中の世界に於いて長い間修行を積んで来たのだ。」ここでずっと昔というのは、無限の過去ということです。私たちの頭では考えられない宇宙のはじまりのようにはるか昔のことです。そんな昔から釈尊は悟りを開かれ、教えを説きつづけておられたわけです。人々は釈尊が無限な命を持って、ずっと過去から未来永遠に人々を教え導いておられることを知りました。そして更におどろくべき事を知ったのでした。お経の中には、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来など、誰でも知っている有名な如来さまの他にも、たくさんの如来さまが出て来ます。そういう如来さまはお釈迦さまの分身である。」と説かれたのです。釈尊の本仏としての本来の姿を示されたのです。このように最も大切な本仏である釈尊が、そのままじかに教えを説かれたのがこの法華経です。今、ここにいる無限な命をもつ姿こそ本当の姿なのだと顕わし示されたのです。しかし、実際は釈尊は亡くなられます。ちょうど今お話ししている寿量品を説かれてから数年後です。ではなぜ、せっかく無限な命をもっていることを人々に説かれたのにこの世から姿を消されたのでしょうか。次のようなたとえ話をなさいました。昔インドに大変すぐれた医者がおりました。医者といっても昔は薬を調合して病を治しておりました。ある日外へ出かける用が出来てしまい子供たちに留守をたのみました。いたずらざかりの子供たちは、父親の薬の部屋に入り、手当たり次第に薬をなめはじめました。ところが、その薬の中には毒薬も入っていたのでした。子供たちはでたらめになめたのですから、たまったものではありません。お腹は痛みだし、中には正気を失ったようにあばれまわる子供も出るしまつです。ちょうどそこへ父親が帰って来ました。医者である父親は早速、良く効く薬を調合し、子供達へ与えました。毒を少しなめた程度の子供は父親の言うことを聞いて薬を飲み、苦しみから開放されましたが、大量の薬を飲んだいたずらな子供は、父親の言うことには耳をかさず、ただ苦しい苦しいと泣き叫ぶだけです。このままでは子供は死んでしまう。父親はしばらく考えておりましたが何を思ったか外に出ていきました。途中まで来ると家来の者に家に帰り子供たちへ、「大変だ、お前たちの父親が旅の途中で死んでしまった。」と伝えるよう命じました。自分の父親が死んでしまったと聞けば、さすがに毒で苦しんでいる子供でも、一瞬われにかえりました。そして父親が調合してくれた薬に気がつき、それを飲むことにしました。あれほど苦しんでいた子供もいまは、うそのように良くなり父親の死を悲しんでおりました。その様子を見ていた父親は、我家へ帰り親子ともども、幸福に暮したということです。医者である父親は釈尊(仏)のことです。毒に苦しむ子供達は我々衆生のことです。なかでも正気を失ったように苦しんでいる子供達は、末法に生きる我々のことです。つまり我々は釈尊は健在だと安心していつまでもなまけ心が生じ、少しも努力しようとはしません。そこで我々の目をさますために、この世から姿を消されるというわけです。ですから本当はどこかで我々の様子を見守っていらっしゃるわけです。そして薬を飲んで正気になれば、父親が姿を現わすように、私達も薬を飲めば釈尊が目前にあらわれるはずなのです。この薬を飲むというのはお題目を唱えることです。これを受持ともいいます。お題目を唱え、受持する時に、久遠の命を持った仏さまに見守られている自分を、発見することが出来るのです。
 〔方便(久遠実成)の項参照〕

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