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聖書の起源

◆治癒神イエスの登場 − イエスの奇跡をめぐる謎
* 百十五もある病気なおしの話
「夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。 こうして、町中のものが戸口に集まった。 イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された」 (マルコー・三一−三四)。
「ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、 『みこころでしたら、きよめていただけるのですか』。 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう、きよくなれ』と言われた。 すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった」(マル一・四〇−四二)。
 福音書には、実におびただしい数にのぼる病気なおしの話がある。 四つの福音書のうち、分量の上ではもっとも短いマルコ福音書だけでも、 癒しの奇跡にふれた部分は、長短合わせて三一十話。福音書全体となると大変な数になる。
 
 重複をいとわず拾いあげていくと、ヨハネを除く三つの福音書をとおして、 ルカに四十三話、マタイに三十六話、これに先のマルコを加えると、 実に百十五話の癒しの話が記録されている。 このうち、イエス以外の弟子たちによる癒しの例が、マルコに七例、マタイに三例、ルカに九例、 合計十九例ほどあるが、それを差し引いた残りの九十六話は、 すべてイエスによる病気なおしの話ということになる。
 ところで、福音書の記録するこの膨大な病気なおしの話をめぐって、これまで繰り返し、 ひとつの素朴な疑問が提出されてきた。 それは、ナザレのイエスが、福音書にしるされているような不思議な仕方で、 驚異の癒しをされたかどうか。 医師たちが見放した不治の病の患者にたいし、癒しの奇跡をされたかどうか、という疑問である。
 この一見素朴な問いは、その包含する史的イエス復原の問題とからんで、 これまで数限りない論争を生んできた。 ここでは、こうした論議には、できる限り深入りしないようにしたい。 というのは、この素朴な疑問の背後には、しばしば強力な神学的護教諭が隠されていて、 史的イエスの論争を一層複雑なものに仕立てているからである。 それはしばしば、崩壊しかけた史的イエスの救難作業の願望とひとつになっている。 こうした願望が、奇跡物語をはじめ、福音書に映しだされた治癒神イエスの研究を、どれ程阻害してきたか。
 
 例としては適当かどうかはご判断にお任せ致したいが、 ファウストの奇想天外な行動を髣髴させる……”ファウストのこと”。
 
 注:イエスとは
 〔ヘブライ語人名イェーシュアのギリシャ語形〕マタイおよびルカ福音書によれば、紀元前四年以前に、ユダヤのベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレで育つ。紀元後28年頃バプテスマのヨハネから受洗。まもなく独立してガリラヤの村々を巡り歩き、神の国がこの世にすでに実現されつつあると説いた。差別されていた社会的弱者と交わり、制度化されたユダヤ教を厳しく批判。30年頃エルサレムで十字架の刑に処せられた。死後、復活したイエスと出会ったと信じる弟子たちはイエスを救世主(キリスト)とみなし、キリスト教会が成立した。イエズス(goo 辞書)。

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