愛、寛容、愛情、同情、憐憫(れんびん)は古来最高の徳として、
すなわち人の霊魂の属性中最も高きものとして認められた。
それは二様の意味において王者の徳と考えられた。
すなわち高貴なる精神に伴う多くの属性中王位を占むるものとして王者的であり、
また特に王者の道に適わしき徳として王者的であった。
慈悲は王冠よりも善く王者に似合うとか、慈悲は王笏(おうじゃく)をもってする支配以上であるとか、
これを言葉に表現するにはシェイクスピアを必要としたが、これを心に感ずるにはあえて彼を要せず、
世界各国民皆これを知ったのである。孔子も孟子も、人を治むる者の最高の必要条件は
仁に存することを繰り返した。孔子日く、「君子はまず徳を慎しむ、
徳有ればこれ人有り、人有ればこれ土有り、土有ればこれ財有り、財有ればこれ用あり、
徳は本也、利は未也」と〔『大学』〕。
また曰く、「上仁を好みて下義を好まざる者はいまだ有らざるなり」と〔『大学』〕。
孟子はこれを祖述して曰く、「不仁にして国を得る者はこれ有り、不仁にして天下を得る者は
いまだこれ有らざるなり」と。また曰く、「天下心服せずして王たる者はいまだこれあらざるなり」
と。孔孟共に、この王者たる者の不可欠要件を定義して、「仁とは人なり」と言った〔『中庸』〕。 封建制の政治は武断主義に堕落しやすい。その下において最悪の種類の専制から吾人を 救いしものは仁であった。被治者が「生命と肢体」を全く捧げる時、 残るものは治者の自己意志のみとなり、その自然的結果は絶対主義の発達となる。 これはしばしば「東洋的専制」と呼ばれる、あたかも西洋の歴史には 一人の専制者もいなかったかのごとくに! …… 仁は柔和なる徳であって、母のごとくである。真直なる道義と厳格なる正義とが 特に男性的であるとすれば、慈愛は女性的なる柔和さと説得性とをもつ。 我々は無差別的なる愛に溺れることなく、正義と道義とをもってこれに塩つくべきことを誡められた。 伊達政宗が「義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる」と道破せる格言は、 人のしばしば引用するところである。 幸いにも慈愛は美であり、しかも稀有ではない。「最も剛毅なる者は最も柔和なる者であり、 愛ある者は勇敢なるものである」とは普遍的に真理である。「武士の情」という言は、 直ちに我が国民の高貴なる情感に訴えた。武士の仁愛が他の人間の仁愛と種別的に異なるわけではない。 しかし武士の場合にありては愛は盲目的の衝動ではなく、正義に対して適当なる顧慮を払える愛であり、 また単に或る心の状態としてのみではなく、生殺与奪の権力を背後に有する愛だからである。 経済学者が有効なる需要と有効ならざる需要とを説くがごとく、吾人は武士の愛をもって 有効なる愛と言いうるであろう。けだしそれは相手方に利益もしくは損害を加えうる実行力を 含むが故である。 武士はその有する武力、ならびにこれを実行に移す特権を誇りとしたが、 同時に孟子の説きし仁のカに対し全き同意を表した。孟子曰く、「仁の不仁に勝つはなお 水の火に勝つがごとし、今の仁をなす者はなお一杯の水をもって一車薪(いっしゃしん)の火を 救うがごとき也」と。また曰く「ジュッタ(てき)惻隠の心は仁の端(はじめ)也」と。 かの道徳哲学の基礎を同情に置きたるアダム・スミスに遠く先んじて、孟子はすでにこれを説いたのである。 一国における武士の名誉の掟が他国のそれといかに密接に一致するかは、じつに驚くべきものがある。 換言すれば、多くの非難を浴せられたる東洋の道徳観念の中にも、 ヨーロッパ文学の最も高貴なる格言と符節を合するものあるを発見するのである。もし 敗れたる者を安んじ、倣(たか)ぶる者を挫き、 平和の道を立つること − これぞ汝が業。 と言える周知の詩句を日本の紳士に示せば、彼はただちにマンチュアの詩人〔ヴュルギリウス〕を 咎めて自国文学の剽窃者(ひょうせつしゃ)となすかも知れない。 ケルナーは戦場に傷つき倒れし時、有名なる「生命への告別」を賦した。 彼の短命なる生涯におけるこの英雄的行為を我々は賞嘆欣慕するが、同様の出来事は 我が国の合戦において決して稀ではなかった。我が国の簡潔遒勁(しゅうけい)なる詩形は、 特に物に触れ事に感じて咄嗟の感情を表現するに適している。 多少の教養ある者は皆和歌俳諧を事とした。戦場に馳する武士が駒を止め、 腰の矢立を取りだして歌を詠み、しかして戦場の露と消えし後、兜(かぶと)もしくは甲(よろい) の内側からその詠草の取りだされることも稀ではなかった。 戦闘の恐怖の真唯中において哀憐の情を喚起することを、ヨーロッパではキリスト教がなした。 それを日本では、音楽ならびに文学の嗜好が果したのである。 優雅の感情を養うは、他人の苦痛に対する思いやりを生む。 しかして他人の感情を尊敬することから生ずる謙譲・慇懃の心は礼の根本をなす。 |
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