平成18年3月鹿角市教育委員会発行、鹿角市文化財調査資料84集 鹿角市指定無形民俗文化財「下川原駒踊」 無形民俗文化財記録作成調査報告書 四 目次 はじめに 例 言 無形民俗文化財記録作成調査委員会 目 次 第一章 調査概要 第二章 芸能の伝承地の歴史と風土 第三章 下川原駒踊の記録 第一節 下川原駒踊の由来 第二節 下川原駒踊の内容 第三節 下川原駒踊の所作 第四節 下川原駒踊の道具・衣装 第四章 近隣地域の駒踊り 第一節 秋田県 第二節 岩手県 第三節 青森県 第五章 芸能の保存伝承 第一節 保存伝承組織 第二節 参加小学生による感想文 民俗芸能調査表 …… 取が行われていた。そのときの重要な道具がザル(篩い)であった。砂金 第三章 下川原駒踊の記録 H18.01.12 第一節 芸能の由来 (一)由来 東北地方で特異的に伝承されてきた駒踊りの起こりは、春に山へ放牧し ていた野生馬を、秋に勢子たちが馬を乗り回して捕まえる、という「野生 馬捕り」の様子を芸能化したものと考えられている。 ここ下川原集落のある鹿角地方は、歴史的に江戸時代には旧盛岡藩に属 し、旧盛岡は馬の生産地として全国的に有名であった。したがって、旧盛 岡藩である岩手県北部・青森県東部、そして秋田県鹿角地方には、今でも それぞれの各地域に「駒踊り」が伝えられている。 一方鹿角地方は、旧秋田藩と接しているため、旧秋田藩で行われてきて いる、いろいろな生活習慣や年中の諸行事の影響を受けやすい環境にある。 したがって、現在下川原に伝承されている「下川原駒踊」は、旧盛岡藩 のそれと、旧秋田藩のそれとが、必然的な形で組み合わされて、伝えられ てきたものと考えることができる。 (二)寿稲荷神社 下川原駒踊の目的は、明らかにその舞を寿稲荷神社に奉納することにあ る。 下川原集落には、寿稲荷神社が鎮座している。この寿稲荷神社は、集落 のいろいろな神社を合祀し、下川原集落の全てのこと、つまりそこに住ん でいる人々やその生活、生業、農耕地や財産などの、安全や繁栄を掌って いる「産土様(うぶすなさま)」である。 寿稲荷神社は、下川原集落のほぼ中央に位置しているが故に、昔から、 集落の自治に中心になってきた。どこかの家に不幸があれば、寿稲荷神社 に関係する行事、例えば、神社の祭礼とか、盆踊りとかは、その年は慎む こととしているのである。 寿稲荷神社のお祭りは、宵宮の夜、ご神体の神幸(渡御とも)から始ま る。 神幸は、ご神体を奉安してある宿元(又は別当家)から寿稲荷神社まで である。その先払い(先祓い・先達とも)を担うのが、下川原駒踊の一行 である。先払いは、ご神体を支障なく、かつ円滑に神社本殿へ到達させる 任務を帯びている。 すなわち、下川原駒踊の種目である棒使いや、街道渡りの舞によって、 そのことが顕著にうかがわれる。 (三)変遷 下川原駒踊は、近世に高屋館に入部した佐藤近江が三河(愛知県)から 移住した折、保持してきたと言い伝えられ、それ以来、下川原集落の鎮守 の寿稲荷神社の祭礼の宵宮に、豊作祈願の奉納をしてきた。 それが奉納され始めた時期は、ここ下川原に寿稲荷神社が建立されたと き、即ち天保飢饉から社会的経済的に人心が立ち直ろうとの気運が生まれ た以降と考えられ得る。 また、かつては、下川原駒踊は盆行事としても演じられていたという。 第二次世界大戦まで(戦前)は、下川原集落の唯一の行事として、集落 (いわゆる「村」)全体で伝承してきたが、戦争の混乱期に中断し、昭和 二十五年に一度復活したかにみえた。人々が都会へと去って行くなかで、 後継者不足もあって伝承することが難しくなった。 それから二十年後、復活の声が高まり、若妻たちの参加を得て、同四十 五年に保存会が結成され、数少ない古老たちの指導を受けながら、順次復 元してきたものである。 昔は、下川原駒踊は男性のみの舞であった。しかし後継者不足のため、 女性も加わるようになったが、女性が加わった当初は、参加できる女性は 下川原生まれの人に限定されていた。現在では、男女とも、下川原在住の、 幼児から、五十代の男女まで、この駒踊りを舞っている。 現在の下川原駒踊は、男性の舞う駒踊りと、女性の舞う奴舞とが組み合 わされて行われる。 駒踊りには、野面を駆ける荒馬の所作がうかがえ、若者の力あふれる、 あくまでも勇ましく機敏な舞である。奴舞は、近世以降流行した奴振りを いろいろな小道具によって表現しているとされ、女性ならではの仕草が感 じられる。 |