第二節 芸能の内容 (一)村工事 寿稲荷神社のお祭りは毎年四月二十日である。その前日十九日の宵宮に は、神幸や駒踊り奉納などが行われるため、下川原集落の人々は宵宮のお 祭りが本祭りであると思っているようである。 下川原集落の人々(神社の氏子のことで、各家一名ずつ)は共同で十九日、 夕方から始まる宵宮の行事に備えて、早朝から神社及びその周辺の整理清 掃などの作業をする。このような集落総出の共同作業を下川原集落では、 「村工事」と呼んでいる。 朝五時、神幸の道筋、鳥居や参道、境内や神社本殿などの整理清掃が行 われた。 女性たちは、主として神社内の清掃を担当した。 神社内の神前、及び神社の周囲には、紺色の地に「丸に隅立て四つ目」 紋の幕が張りめぐらされた。 下川原集落の姓は、かつては全て佐藤姓であった。このような例は鹿角 では、大曲の山本姓、桃枝の藤原姓、長嶺の阿部姓、堀内の湯瀬姓などが あるが、最近では、世代交代や宅地開発が進んできたため、いろいろな姓 の住民が移住してきたりしている。 下川原集落の佐藤家の家紋は、全ての家が「丸に隅立て四つ目」である。 したがって、前述の幕の紋、旗(幟のこと)の紋、神幸のときの高張提灯 の紋、そして駒踊りの衣装の紋など、全て「丸に隅立て四つ目」の家紋を 用いている。 神社の前に建っている石燈籠の窓には、和紙が張られた。現在では普通、 石燈籠は、神社を装飾する一建造物としてだけの意味しかなしておらず、 したがって照明のために灯をともすことはほとんどない。しかし、ここ寿 稲荷神社では、石燈籠を本来の目的のために、灯をともすこととしている のである。古来の伝統を守り続けていることに、注目することができる。 参道から境内に入るには、石橋を渡る。石橋の下は小川で、清水が流れ ている。 下川原集落では古来、トゲウオ科の淡水魚トヨミが生育している湧水池 から流れ出る清水を、飲み水とか、用水に使用してきた。ということは、 このきれいな清水の流れに沿って、だんだんと集落が形成されてきたもの である。 今でも、この用水路には小魚がすいすい泳いでいるのが見える。 (二)しめ縄づくり 村工事が終わり、各自帰宅して朝食をすませた後、自治会役員や長老た ちが、しめ縄づくりにとりかかった。 下川原地区は鹿角屈指の稲作地帯であるため、かつては下川原の畚(も っこ)は、鹿角での特産品であった。 このため下川原の年配の人たちは、稲わら細工の長けているので、段取 りよく進められた。 まず、全員が仕事はじめのお神酒をいただいた。わらに霧吹きをして湿 らせ、木槌でたたいてやわらかくしてから、左ないに綯うのである。 しめ縄は二本である。つまり一番の大鳥居と、神社前の二番鳥居、いずれ も稲荷神社独特の朱塗りの鳥居で、そこにかけるしめ縄は太くて立派なも のである。 (三)お祭りの神幸 下川原駒踊は、宵宮に奉納される。日が暮れる頃、神前、参道、踊り場 (境内前の市道で舞床とも)などに臨時の照明が点灯された。 神社前には、かがり火が勢いよく燃えてきた。 大勢の見物客に対応するため、舞床に隣接する空地(農地)に板を敷い て拡張し、特設桟敷が作られている。 午後六時、直径はゆうに一メートル以上もある大太鼓が打ち鳴らされた。 拍子は「大の坂」で、打ち方は「下川原節」という。 ご神体は、年によっては稲荷講の宿元に奉安されているとのことである が、今年は全てのご神体は佐藤弥右エ門別当家に奉安されていた。 別当家は東向きで、旧家を髣髴させる造りである。十畳敷きほどの奥座 敷の正面、中央の鴨居の上に神棚があり、そこにご神体が奉安されている。 神棚には注連縄が張られ、御扉は観音開きになっている。 ご神体は五体、@稲荷神の古神璽、A稲荷神の神璽、B八幡神の古神璽、 C八幡神の神璽、D駒形神(蒼前神とも)の神璽である。 (神璽の神名の確認と、順番を調べて下さい) 時刻、別当以下祭員四名 佐藤弥右エ門別当、 下川原自治会長佐藤久、 ○ ○、(役職氏名を調べて下さい) ○ ○(役職氏名を調べて下さい) と、別当の奥方は、神前に進み出て正座し、二拝四拍手一拝をした。 別当は、踏み台(脚立)に載って御扉を開け、ご神体を順次鄭重に戴き 下げた。 ご神体は、年代物を感じさせる、すすで黒くなったような璽箱(しるし のはこ)に納められているようである。璽箱の中のご神体は普通、見ては ならないこととされている。 ご神体(神璽が納められている璽箱のこと、以下同じ。)は、玄関の間 の座卓に仮置きされた。 祭員は玄関に出て下駄を履き、ご神体を順次受け取った。 別当は二体、他の祭員はそれぞれ一体ずつを捧持して神幸の列に加わっ た。 神幸の列は、丸に隅立て四つ目の紋を描いた高張提灯(男性二人)が先 導し、棒使い役(男性二人)がその後に続き、次に別当以下祭員、笛吹き 二人、太鼓打ち、駒踊り役(男性)十二人、奴舞役(女性)二十三人がそ れに続いた。 駒踊りや奴舞は大人だけでなく、幼稚園児や小学生も参加している。参 道脇には、下川原集落の人々が神幸を見送っている。ご神体に向って手を 合わせたり、また孫子の元気な舞い姿に心を躍らせたりなど、人々はこの 神幸に豊作や家内安全を託していた。このお祭りは、下川原集落あげての、 一年に一回の大催事なのである。 サーッ、サッサー、サーッ、サッサーの掛け声(合図)により、「街道渡 り」を舞いながら、行列が参進する。 別当家から神社までは二百メートルほどあり、神幸の行列は、夕闇の迫っ たなかを、しずしずと厳かに進んでいった。 やがて、神社の近くまで進んだとき、サーッ、サッサー、サーッ、サッサ ーの掛け声により、「街道渡り」の舞いが始まった。 終わって、駒踊り役一同は、最前の二番鳥居前に、六列になって整列した。 別当以下祭員は、神社に昇殿して神前を整え、ご神体を神座に納めた。 すなわち稲荷神のご神体は正面の神座へ、その左側の神座には八幡神の ご神体、その左脇に駒形神のご神体が、それぞれ納められた。 別当以下祭員は、正面の神前に正座して、無事ご神体を納め終えたことの 拝礼、すなわち二拝二拍手一拝の作法で拝礼をした。 この拝礼に合わせて、駒踊り役一同も列拝した。 拝礼を終わった駒踊り役たちは、その鳥居前に設定されている舞床、つま り境内前の市道(十字路)に、大きな円形になって、舞いの出番を待って いる。 その外周には、二三百人の参拝兼見物客が、駒踊りの奉納が始まるのを、 今か今かと待っている。 さて神社本殿では別当以下祭員は、それぞれの神前にお神酒などをたて まつり、灯明して宵宮のお参りをし、お神酒を戴いているのがかいま見ら れた。 (四)下川原駒踊の奉納 神社での神事が終った。いよいよ下川原駒踊の開始である。 踊り場では、佐藤文夫保存会会長により、奉納開始の挨拶があった。 馬の胴衣を着けた駒たちは、紅白の旗指物をそれぞれ背にさし、衣装は、 暗闇に照らされた照明をうけて、きらびやかである。 駒踊りが順次、奉納された。 @棒使い 先祓舞のヤチ棒や、杖踊りなどに見られるような武術の型で舞った。若 者二人が棒術の型を二、三回行い、次に刀を抜いて打ち込みの所作をした。 A奴舞「ざい」 女性たちが采(ザイ、長さ約六〇センチメートルの棒に五色の飾りをつ けたもの)を持って舞った。 B奴舞「扇」 街道渡りの時には閉じていた扇を、ここでは開いて舞った。万歳楽を意 味するという。 Cつがい駒 騎馬六頭が紅白に分かれて対峙し、奔馬のように激しい動作で交叉し、 これをくり返しつつ演じた。 D奴舞「奥山」 ただ一つ、唄がついている種目である。 奥山そたちはセーセ 生まれおちればセーセ なにになればセーセ 山の神はセーセ みんな揃ってセーセ 野良の仕事にセーセ 笑顔で働くセーセ 豊年満作セーセ 氏神さまにセーセ 感謝の踊りでセーセ この「奥山」は、まことに奥ゆかしく優雅である。往古の、下川原の人 たちの様子を髣髴(ほうふつ)させるものがある。 奥山のときは、歌謡にあわせて、地元の女性たちが、 「セーエ、セ。ダンコダン」……… と囃している。自分の往時の舞い姿を追想しているようであった。 E奴舞「扇」 前の「扇」と同じ舞を舞った。 F駒奴「御家越ゴエゴシ」 騎馬と奴が渾然一体となり、舞床を輪になって舞い踊った。御家越の意 味は定かでないという。駒踊りと奴踊りが習合した、勇壮かつ賑やかな舞 である。 (六) 直会 宵宮の神事がとどこおりなく終わった。 保存会など駒踊りの人たちは、下川原地域活動センターへ戻って、すば やく着替えをした。子供たちには、お母さんたちが、いろいろ着替えなど の世話をしている。 広間には、すでにお母さんたちによる、手づくりの料理が盛りだくさん 並べられている。 記録保存用として、今年は、それぞれの着姿や楽器、諸道具などをカメラ やビデオにおさめた。 やがて、保存会長のあいさつで、奉納を無事終えたことの会食が始まっ た。 一方、寿稲荷神社では、祭員、自治会役員や会員、稲荷講などの人々に よる直会が始まった。 直会とは、祭式の緊張を解きほぐし、そして神前に供えたお神酒や料理 など、神様に供えたものと同じものを戴くことにある。 直会は、この祭典をとりしきった佐藤久自治会会長、祭員などのあいさ つがあり、なごやかに、かつ盛大であった。 ころを見はからって辞したら、外は雨の心配はなかった。この時期は、 天候が不順につき、関係者をして心配させるのであったが、今年は雨は降 らなかった。 秋田市方面からは、大型バス二台に乗った団体が見物に訪れるなど、近 年にない盛況な宵宮のお祭りとなった。秋の豊作が楽しみである。 (追記)ことし平成十七年の鹿角の郷の稲作は、下川原の人達の願いどお りの豊作となった。 |