第一節 湯瀬神明社先祓舞 一 芸能の由来 (一)由来 今を去る約九〇〇年前、八幡太郎義家が安倍一族征伐のために東北地方 にやってきた途中、八幡平の山中で病死したので、その家来が沢沿いに山 を下りて居住した所が兄川(岩手県八幡平市)という。その後その内の士 分(侍の身分)が兄畑(同市)に築城して住み、京都の伏見稲荷神社の分 神を祀った。その神が毎年村内を一巡するとき先祓いに舞ったのがこの舞 であるという。 湯瀬神明社(湯瀬部落)では大正十四年に兄畑からこの先祓舞を導入し、 今に至っている。したがって湯瀬神明社の先祓舞は兄畑流であるとされる。 兄川系の舞はすべて剣を用いるが、兄畑系は一部棒を使用する。つまり 兄畑に住みついた士分の者が扇を一部使用しているのに対して、兄川土着 の郎党等の集落では全部剣を用いるところが異なつているのであるという。 舞は先祓い、後祓いのほか、五穀の作付け、虫除けから収穫までを表現 し、更に無病息災や火伏せなどの祈りをも込めている。 舞は祭典が近づくと練習する。十日〜二週間、行(練習のこと)に入る。 行の期間は女人と接することは許されない。したがって妻帯した者は辞め るので、年少者で構成される。舞人のほか、太鼓、笛、手平鉦が数人であ る。太鼓は一名で、ほかの噺子方の人数には制限がない。 (二)湯瀬神明社(天照皇御祖神社とも) 湯瀬神明社とは、鎮座地は鹿角市八幡平字湯瀬古館、主祭神は天照大御 神、例祭日は七月十六日、特殊神事として神輿渡御・先祓舞がある。 創祀については、不明であるが、江戸時代の初めには創建されていたも のと推測される。 江戸時代中期の延享二〜三年(一七四五〜六)の資料(「神社由緒書上帳」 や「羽州羽黒末流修験」など)によれば、当時は大神宮と称していたよう で、享保十六年(一七三一)に社殿が再建されたことが記されている。 境内社として、山神宮・稲荷社・薬師堂があり、これらも享保十六年に 再建された。 江戸時代には、羽黒修験である大里村居住の明王院の管理するところと なっていた。 なお、修験と共に信仰の指導者である神子(神に仕えて神事を行い、ま た、神意をうかがって神託を告げる者)は、松館村居住の修験法光院の関 係者が湯瀬村を檀那場としていた。 明治六年(一八七三)に無格社となり、天照皇御祖神社と称するように なった。 同四十五年一月十八日に大日霊貴神社(同市八幡平字堂の上十六)に合 併された。それ以来、湯瀬地域から大日霊貴神社に総代を一名出すように なっている。大日霊貴神社が宗教法人となってからも踏襲されてきている。 なお、現在の社殿は同十四年新築(昭和三十八年萱葺から亜鉛鉄板に葺 替え)、境内社は駒形神社・山之神社・八幡神社・薬師神社・稲荷神社であ る。 |