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01 松館天満宮三台山獅子大権現舞

  二、縁起
 神楽舞が、現行のように大成された芸能として確立するためには、次の
ような要素を具備する必要がある。
 一つには、「芸能を演ずる目的」として、芸能を演ずる場、すなわち舞
楽を神前に奉納するという位置づけを明確化することである。
 二つには、「演目の選定」として、神前に奉納するにふさわしい舞楽を
創成する、また  はこれをよそから導入するかということである。
 三つには、「演技者」として、舞人や楽人を育成し熟達させることであ
る。
 
  (一)、芸能を演ずる目的
 芸能を演ずる目的、それはすなわち神前にその芸能(舞楽)を奉納する
ことにある。
 前記「一、由来」において述べたように、無実の罪を消していただいた
という尊い神霊に謝し、称えるために演ずるのである。わが国における奉
納神楽の第一目的は、神霊を和らぐことにあり、そのためその神霊に感謝
してほめたたえ、慶びを捧げることにある。神楽舞も第一義的には、他の
神楽と異なるものではない。しかし、一方において「権現信仰」に基づく
神楽舞の場合、「演目」そのものが、神様の成り代わりとして衆生済度、
すなわち氏子諸人のいろいろな罪や災いを除去し、願いを成就するために
演じられるものである。
 更に神楽舞の場合、次の『松館村講宿の旨趣(写)』記載のとおり、舞
楽を神前に奉納するということは、氏子たちにとって一層かけがえのない
ものであり、それ故段々と充実してきたのである。以下同写には、縁起を
次のように記している。
 
 日本式目第一条に述べられているように、「神は、人の敬によりて威を
増し、人は神の徳によりて運を添える」といわれいる。然れば、神国に生
れた者は、上は天子から下は庶民に至るまで、不信仰があってはならない
ということである。
 抑そも、当松館村講宿の儀は、寛永の頃(一六二四〜四四)から始まっ
たといわれている。その頃は、未だ講宿、当宿などというものは、他の村
にはなかった。当松館村としても、御役人衆か、肝入所か、老名の内壮年
か心祝等がある時は、産土神の別当(法印家)を招き、別当は天満宮の御
掛物を床間へ勧請奉り、今上天皇はじめ、国主、領主、当村の安全を祈っ
て一統(一同)が拝礼し、式が終ると一統へ御洗米、御神酒が振舞われた。
 然るにその頃は、祝として樽代を持参しなくてもよく、御神酒代として
米酒五合か、御洗米代として一盃ぐらいを、その身分に応じて宿へ持ち寄
り、持ち寄った分だけご神前へ供えた。また、別当へは宿から米一升と銭
百文を差し出した。
 
 その後凶作等があったので、自然にこの行事が廃止されてしまった。と
ころが、寛文三年(一六六三)二月十六日に大火事があり、村中が残らず
焼失した。又吉という者ただ一軒が残った。まことに不思議な火事であり、
風が四方から吹き寄せ、南の家へ移れば北風が吹き、北側の家へ移ると南
風が烈しくなり、東も西もこの状態で、稀にみる焼けざまといい伝わった。
 又吉が運よく焼け残った由を、後日聞いてみると、「自分は、先年より
産土神御縁日には四季を問わず、風雨にかかわらず、毎月々怠りなく神社
へお参りしていた。然るに、正月廿五日夜の夢に、衣冠を正しくした老翁
が枕元に立ち給いて、鈴しき御声で、『汝、我を祈る事、甚だ深切なり、依
て、今、汝に教ゆる事あり。遠からず、当村に火難の患あるべし。其の時
は、必ず驚く事なかれ、兼ねて水神に捧げ置きし幣あり、危急に至らば右
幣を軒先へ立て、一心に礼拝すべし。必ず火難を免るべし』とお告げがあ
った。夢が覚めて、不思議な事だと思い、垢離を取って神に拝礼し、毎日
用心していた。程なく二月十六日夜四ツ半(九時)に出火し、しかも風烈
しく、その火もまた激しく言語に絶した。自分の家も既に危くなったので、
兼ねての霊夢の通りとなるだろうと水神の幣を軒先に刺し、『南無天満自
在天神宮、別ては御水神、何卒神力応護を以てただいまこの火難、免れ給
え』と、一心凝りてお祈りしたところ、不思議なるかな、この幣が動くと
見えしか、忽ち風変りまことに危急難を免れた」と申した。
 このような霊験を聞いて、村中が舌を震わせ拝感の余り、一統相談した。
第一に火難を除き、疫病を消し除くため、村中が別当へ紙と御初穂を持参
し、特別に御幣を切る事となった。
 
 然るに翌年、肝入四郎兵衛家一軒建て、その新宅祝の時、以前の通り村
中を招き、別当も招待されて祈祷し、一統へ先例の通り御神酒、御洗米を
振舞い、一統着座し四方山の話となった。彼の又吉の霊夢により火難を逃
れたことを、皆々この霊験を心根に徹した。近来、神拝を止めておったの
を悔み、是より以前の通り神拝寄合講をすることに相談が成った。
 肝入殿が発言し、「それは各々結構な心掛けである。さぞ神意に叶うも
のであろう。そこで、皆々に相談したいのは、天神堂が処々破損している。
ついてはこの普請料を必要な分だけ村方へ割当てしたいところだが、それ
では小間居(小世帯)は困るであろう。よってこれからは産神講を結んで、
会合のとき各々百文を持ち寄り、これを貯めて普請の代金に用いれば、普
請も容易にでき、皆々も別段苦労がなく済むのではないだろうか」と相談
した。幸い御屋布(領主)御役人はじめ村中全て寄り合っていたので、至
極結構な事であると話がまとまった。その時の申し合わせで、御役人始め
肝入、老名から段々に廻り宿とした。この講宿から別当を招き、御神体を
遷して祈祷することになった。
 
 時を経て元文四年(一七三九)十二月、往古に焼失した神社領地の御証
文を書替えることになった。然るに元文五庚申年から翌寛保元辛酉年(一
七四一)にかけて、御城下並びに墓地に至るまで疱瘡が流行した。御屋鋪
(領主)でも御子様方御三人が疱瘡に罹り、分けても若旦那様が殊に重く
なられたにつき、当村御役人のうち川村安右衛門殿、館澤儀右衛門殿をお
呼びになり、法印家も首尾よく御瘁痘(平癒)の御祈祷を申し上げようと
一同揃って訪問した。御屋鋪に感謝され、早速祈祷を仰せつけられ、沐浴
斎戒(潔斎)し、祈祷に丹精を凝らしたところ、第三日目に旦那様が御夢
を御覧になった。衣冠正しき若君が、緋衣(赤い衣)を着た僧に手を引か
れ、御手に梅花の枝を持たせ給い、若旦那様の御病床へ入られ、この梅の
花一輪を若旦那へ薦められた。この夢によって旦那様は、御垢離を取られ、
御神体安置の間へ出でて、御礼拝された処、その日より若旦那様は、日毎
に御瘁痘されて御機嫌が良く、御三人様共ども御平癒になられた。旦那様
は御満悦になられ、御役人中も恐悦申し上げ、法印家にも色々拝領物があ
った。その節の御意では、「知行所(村役人方)はじめ村方に至るまで、
怠り無く信仰すること。神には別事は無いが取り分け天満宮の儀は、無実
の罪難を救い給うこと、他の神にもまして霊験が著しい。特にこの度の感
応については家来は申すに及ばず、百姓へも申し聞かせて、毎日、御縁日
には拝礼して怠りなく信仰すること。第一に村方上下一統睦まじく和合す
れば神意に叶うものである。故に諸事無難である。この事を諭達(布令)
致したい。且つ、別当へは何かと相談し、格別粗略に取り扱うこと無く、
出家沙門なれば尊崇し、礼儀を正しくしておれば、すなわち神を敬うこと
の一つであり、実体に出あうであろう」と、安右衛門殿、儀右衛門殿に話
され、別当へも神務に怠り無く相励み、下じもへ篤く教諭するよう申し付
けがあった。程なく前両人と別当は帰宅した。

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