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01 松館天満宮三台山獅子大権現舞

 同じ寛保元年四月廿五日、村方上下一統を相集め、以上の御内命の趣旨
を聞かせ、次のような掟が定まった。「三月廿五日から九月廿五日までは、
御宮へ参拝礼し、御供物等は銘々(各人)で思いのまま取りこしらえて持
参し神前へ捧げ、終日神意を慰め奉ること。十月から二月までは寒気で御
宮に詰めることができないので、別当院内にて宿勤し、順次廻り宿にして
相勤めるものとする」。御初穂の儀は、以前は米一升、銭百文あて供えて
きたが、今後は、御宮の普請のための持寄銭も有るので、御初穂まで供え
ると迷惑なこともある故、天神講には御初穂を無くすることを取り決めた。
もっとも御日待(大晦日などのとき、前夜から潔斎して寝ずに日の出を待
って拝むこと)の節は、従前どおり三十三銅を供えることとなった。
 以上のとおり安右衛門殿、儀右衛門殿が御屋布より御内命を受けて、肝
入四郎兵衛始め老名小間居(上下とも全て)まで一統へ御諭達があった。
この取り決めは、後代までの本鑑(本則)となるものであるのでここに誌
した。
 万一、拝式に怠りがあれば、神意に逆らい、領主の命令にも背くことに
なるので、末代に至ってもよくよく勘弁(考えわきまえ)すべきことであ
る。村方には書き置くことが無いと思われるので、時々話して聞かせ、そ
の訳を村中一統が心得ておく必要がある。以上宝光院が代って誌したもの
である。
 その後、御供物並びに色々な賄物の儀は、各人思いのまま取り揃えて御
宮へ持参していたが、他人に劣ってはどうかと気を張り、自然と奢るよう
になった。内々で迷惑の者もあったので、それからは党宿の順番を相定め
て、その宿へ米、銭、御神酒を持寄って、諸事は宿の支度により御供物や
諸賄をすることに相談し決めた。
 別当は党宿から招待され、従前どおり講宿において祈祷した。もっとも
別当が病気のときは、御神体を当院の神前へ飾って置き、一統が参拝礼す
るものとした。例えば講中の人たりと雖も、御神体を俗に渡すことは不浄
のこともあるで、別当不参の時は、御神体を遷さないことを安右衛門殿、
儀右衛門殿のほか御役人、講中が相談して取り決めた。
 かりそめにも、心得を守らないことは、古語にも「鬼神を敬して遠し」
とあるように、この取り決めについては、宝光院内も神前を取り乱すこと
なく、何分にも清浄第一に心掛け、御縁日はもちろん平生とも戒行をもっ
ぱらに心得すべきものである。
   寛保二年(一七四二)壬戌四月
                      寳光院 代誌之

 この記述での大火のことに関連して、後述『松館菅原神社沿革』の項中、
「奉仕社頭之儀明細書上帳」に、寛文三年以降の祭礼の儀は「年々三月二
十五日御湯立修行仕」と記されている。すなわち、大火の教訓として天神
講を怠りなく続けることはもちろん、毎年のお祭りには、しかとお湯立て
を奉仕し、併せて火伏せを祈願し、その神霊をこうむらんとしたものと理
解される。
 
  (二)、演目の選定
 演目の選定、つまり神前に奉納するに相応しい舞楽を創成するか、また
はその演目をよそから導入するかということが必要になる。
 このことについては、たまたま代々の別当は羽黒山(山形県)において、
修験道を修業していた。

 『羽黒山修業』
元禄十五癸未七月二十六日
 法光院 小木文事ヲ羽黒山大先達正穩院法院豫慶ヨリ受ク
元文五庚申年六月二十三日
 智徳坊 小木文事、鰐口ノ大事、九字大事、護身法ヲ持福院法印良營ヨ
リ授与サル
延享二乙丑年七月八日
 法泉坊本光 九字ノ大事ヲ羽黒山寂光寺御師在廳雲林院歓成ヨリ授与サ
ル
宝暦十一辛巳年七月
 宝光院 小木文事ヲ羽黒山執行別当ヨリ授与サル
安永五丙甲年七月
 法光院 小木文事ヲ羽黒山大先達萃藏院竪者法印良珍ヨリ授与サル

 これらの修業の事柄を書き記したものは、現在では判読できないが、上
記の記録は、僅かに残っている紙片を解読して、写し取ったものと考えら
れる。
 すなわち、神楽舞の「舞」や「お湯立て」、また「占」の仕方は、この
羽黒山修業の際に取得した諸々の知識や秘技を基として参酌し、この松館
の地における奉納神楽として真にふさわしいものとして編成し創作したも
のと推測できるのである。無論いわゆる「お湯立神事」は、全国的に行わ
れいることは周知のとおりである。
 一方、「権現舞」も羽黒山修業に因むものとも考えられ、ここ松館の地
に似合った形として、独特な舞い方に発展し、醸成されて確立されてたも
のである。而していわゆる「権現舞」は、東北地方において広く行われて
いるのも周知のとおりである。
 このように松館の権現舞は、よその舞手法に影響されつつ、激しく豪快
に舞い納めるという松館独自の舞い方に創作され、伝わってきたものてあ
ろう。
 
 (三)、演技者
 演技者、つまり舞人や楽人が如何に育成され、熟達したのかを知る必要
がある。
 前述により紹介した各種文書のとおり、館主を引き継いだ別当家(法印)
は、羽黒山において、修験道に関するいろいろな修業を重ねて、例えば占
法(筮竹)、九字の法、湯立ての法など秘技を取得し、別当の職務に精励
しつつ、里人を撫育してきた。
 時を経るに従って、別当の奉仕する祭礼の規模も次第に充実してきた。
やがて寛文三年の大火を機に、天神宮本殿が再建されるに伴い、現在の祭
式や神楽舞の原型が整ったものと考えられる。
 従って、本舞楽、特に「舞人」については、地元松館の代々別当家が担
当してきたものであるが、笛、太鼓、手平鉦、そして御神歌などは村人
(氏子)のうち、芸達者のものがそれを引き継いできたものと推測される。
 その後、大正六年別当(法印)帰幽までは、前述のとおり、神楽舞は別
当自らが主として担ってきた。ところが、別当なき後は、氏子がその舞楽
全般を引き継いできたのである。
 しかし、昭和の初め、新しい社掌(宮司)が就任するまでは、次第に神
楽舞は途絶えつつあった。そこで昭和十二年、地元松館の氏子等の記憶な
どを基にして、更に隣接集落である鹿角市尾去の海沼寅吉氏兄弟を招聘し、
その指導を得て、再興されたといわれている。以来、神楽舞の舞人、楽人
はほとんど全て氏子により構成されているのが実態である。
 なお、文化財収録作成調査報告書第二七二号『秋田の獅子頭』(秋田県
教育委員会)の拠ると、再興のために指導を仰いだ尾去の「大森親山獅子
大権現舞」も、明治、大正期に一時中断し、奇しくも同じ頃の昭和十三年
に復活されたという。

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