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13 からめ節金山踊り

 第二節 芸能の沿革
一、作業唄から祝宴の唄へ
 
(一)作業唄としてのからめ節金山踊り
 からめ節金山踊りの「からめ」とは、どんな意味であろうか。この「か
らめ節金山踊り」を理解する上で、「からめ」のことを理解しないと、前
へ進めない。
 
ア、「からめ」とか、「からめる」とかの一般的な国語の表記は「絡める
・搦める」で、「しばる・まきつける」などと解されている。また人と人
との関係においても、この意味が用いられることがある。
イ、柳館会長による古老の話として、次のようなことがあったという。
「第二次世界大戦の最中のころ、仙台のNHKで、からめ節を放送するこ
ととなった。いよいよ出番が近くなったとき、突如中止となった。理由は、
歌詞に卑猥なところがあるという。それは「からめて、からめて、親父が
せめる」の語句で、当時検閲の担当官(軍人)はわい曲、みだらな歌い文
句と判断したらしい。どのように説明しても理解してもらえず、とうとう
出演しないで帰った」と。
ウ、大正十年七月廿八日発行の「鹿角」(発行編輯人大里周蔵)に、次の
ような記述がある。
 からめ節について本場というべき尾去沢元山の古老は、次のように語っ
た。
「金鉱を見出して尾去沢繁栄の基を作ったのは、慶長十年(一六〇五)南
部十左衛門という人と伝えているけれど、それ以前に元山方面において、
銅を吹き出した(銅鉱を溶かして粗銅(荒銅とも。以下本稿同じ。)を造
ること)のであった。当時、石を台として鉱石を上げ(載せ)、鎚をもっ
て打ち砕くことを「からむ」と言った」のであった。すなわち、からめ節
は、鉱石を砕くときの唄というべきであろう。因みに、物を叩きつけるこ
とを、今も(鹿角では)ブッカラムという。
エ、秋田県あたりの方言で、@からめる=物で打つこと。「ぶつ」ことを
「ぶっからむ」という。Aからむ=物で打つの意で、鉱石を金槌でたたき
砕くこと、である。
 
 このように、「からむ」とは、「物を叩きつける」と解すると納得する。
あるいは、鉱石鉱物と脈石鉱物とが絡み合っている鉱石を、ブッカラムこ
とによって、鉱物鉱石のみを選り分け得ると解すれば、なお納得しやすい
と思われる。
 ※「せめる」とは、鹿角では古来「急セかせる」の意と解されている。
 
(二)幕末の「からめ節金山踊り」
 万延元年(一八六〇)盛岡藩主利剛が鹿角を巡見したとき、尾去沢にも
立ち寄り、金場で働く女性たちの歌を見聞している。その様子を随行者の
上山守古が「石からみ節」として『両鹿角扈従日記』に記している(前
述)。
 すなわち、この「からめ節金山踊り」は、藩主など貴人の面前で歌い踊
られたことがあるため、方言混ざりで、しかも作業唄であるに関わらず、
品格があり、奥ゆかしさを内在している芸能である。
 
 しかして万延元年に藩主が「石からみ節」を見聞した田郡と並んで、尾
去沢銅山のもう一つの中心元山地区も、鉱山施設や人家が集中して大変な
賑わいをみせ、からめ節が歌い継がれていた。
 
 昔寛文年中(一六六一〜七三)より明和年中(一七六四〜七二)頃迄は、
からめ踊の文句の通り、元山地方には、金場(選鉱場)、床屋(溶鉱場)
ありしものと考えらるゝも云々。
 然して此方面一帯、金が出て金鉱堀の為裕福な立派な家が揃ひ、田を持
って斗代を取り、倉あり、牛を伺ひ、越後から米つき来りと言ふたのも此
の時代で、永い間に嫁のやり取で皆親類となり、西道御山、五十枚、鶏長
根、湧上り、等度々の大直りにより、からめ節が歌ひ初められ、あの湧上
りに鹿角五万石の土地を眼下に見下し乍ら、馬肉(ナンコ)を大鍋で煮て、
ドブロク飲み飲み親子花見が絶へなかったと、年寄達が昔咄に言ふ。
………ナンコ貝焼カヤキとニゴリ酒をたらふく飲んで、あの湧上りより親子
親類達が千鳥足で花見帰りの唄を歌って降りて来た有様が、年寄達から話
に聞かされて、あの古歌の生まれぬ先の父ぞ恋いしきを思ひ出して、目に
見える様だ………
 
 しかして元山地区は、大正十四年四月十九日、山火事より起こった火は、
国宝級とも推察される元山山神社の彫刻物や額などや庵寺などを焼失し、
また当時の戸数四十三戸のうち焼け残った家四戸であった。村人は、よっ
て、永久にこの地から離れていったのであった。
 
(三)作業唄から祝宴(慶事)の唄へ
 既述のとおり、選鉱作業ないしは粗銅を造るということは、鉱山にとっ
て、とても重要な工程であることがわかる。
 とはいっても、これらの作業は、過酷を極めていたものと想像すること
は難くない。鉱山関係者は、身分の上下を超えて作業に取り組み、また一
方では、夫婦二人だけで、心を一にして採掘と選鉱に従事するなど、自分
たち及び一族の命運をかけての仕事であった。したがって直利が発見され
たり掘り出されたりしたとき、そのような良質の鉱石を手選するときなど
は、鉱山に携わる人々全員の喜びであったのである。
 つらい労働の疲れを乗り越えて、作業の合間に、また帰宅途中に、そし
て宴会のときなどに、「からめ節金山踊り」が「喜びの作業唄」として歌
われ始め、踊り始められたものであろう。
 
 そうしているうちに、時の藩主の前で披露されたり、また、晴れの場で
演じられるようになったのも、十分うなずけるものである。そして、この
「からめ節金山踊り」が広く流布し、また鉱山関係者によって伝承されて
きたものである。

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