三 郷に入れば郷にしたがえ 人間社会では数人集えば、そこには必ず「掟」が生れる。あらゆる組織 、集団、家庭などでは、それぞれ固有の「しきたり」が出来上がる。コン ピュータの世界でも、コンピュータ特有の、厳格な法則がある。即ち、 「人は全て間違い人間である」「あなたも確実に間違っている」。 しかして、コンピュータは私共に問いかける、『あなたは今、「良い」 のボタンを押したね。本当かね。間違っていないか。今一度自己反省して、 よく確かめよ。それで納得したら、もう一度「良い」のボタンを押せ』と。 コンピュータの世界に仲間入りするためには、このように「間違いを正さ なければならない」という試練が待っている。 一方、社会の公序良俗の基(もとい)づくりに邁進しておられる、いわ ゆる「お坊ちゃん」は、『私は生れも育ちも申し分がない。学校での成績 も抜群であった。今迄一度も悪いことをしたと思っていない。善人そのも のである。その私に向ってそんなことを……。貴様(コンピュータのこと) は何者だ』 その一方で、研修講習や学校などの教室では、講師の先生は開口一番、 『本日は「郷に入れば郷にしたがえ」について学習する。生徒の皆さんは、 今までの先入観を脱ぎ捨て、家庭のことも、家業のことも、輝かしい業績 のことも、はたまた心配事も、何もかも忘れて、この学習に専念(帰依) してほしい……』と。 例えばのこととして、九々の計算に関して、私共がテストを受けたとす る。一応は誰でも百点満点をとる筈であるが、必ずしもそうとは限らない こともある。学校でのことを思い出すと、大抵のテストでは、だいたい九 十点以上をとる生徒(お坊ちゃん)はクラスの上位に位置づけされ、「優 等生」として一目おかれる。何事も、百点満点をとる必要はなかった。百 点に足りない分は、お坊ちゃんの身近な方々が後始末(補完)をしてくれ るからである。ここに、お坊ちゃんがコンピュータを食わず嫌いしたがる 原因が潜んでいるように思われる。 ご案内のように、コンピュータの原理(処理単位)は1と0との組み合 わせで出来ているので、基本的には易しい仕組みであろう。しかし、原理 が単純でも、それらを織り交ぜたり繋ぎ合わせたりなど、複雑な工程を経 なければならない。複雑なるが故に何となく敬遠しがちになるが、その複 雑性を克服して初めてコンピュータと私共人間との繋がりで出来、それに よって期待される成果が得られれるとすれば、また感慨ひとしおである。 しかし、コンピュータの世界では、どんな易しいことでも、またどんな 難しいことでも、自分の出来得る範囲で満点をとらなければ、コンピュー タは動いてくれない。コンピュータに「お前は間違い人間だ」とヤスメラ レながら、ひたすら「満点」を目指すことになるのであるが……。 四 指一本 パソコンに入力する手段としては、一般的にはキーボードを用いる。キ ーボード配列は、英文タイプライターがその源であり、アルファベットの 順序とは異なっている。わが国で一般的に用いられているJISキーボー ドの配列は、英文配列を真似して出来上がったとされ、覚えにくく不満だ との声もあるが、今更変えられないのかもしれない。 このキーボードは、両手十本の指を用いることを前提として出来ている。 ところが、私共は高齢になると老眼になってくる。老眼には乱視がつきも のであるという。ということは、手書き原稿をパソコンに入力するとき、 乱視の弱点を克服するために、左手の指で原稿の文字をなぞらざるを得な い。したがって私は当初から、キーボード入力するときは、右手の、それ も一番長い中指一本のみでしている。 五 コンピュータの仕組み コンピュータは米国社会の理念に基づいて……と前述したが、わが国の 一般常識と異なることをご紹介したい。 @基点は0である、ということである。例えば、表計算の第一列(第一行) は、1列目ではなく、0列目となる。その頃直輸入の表計算ソフトで、計 算書を作ろうとするとき、大変まごついたものであった。 A英文は、単語の配列であるということである。日本語は、文章の途中で 用紙の端にくると、そこで改行して、次の行へと進んで行くことが出来る ので、通常の帳面には外枠がある。英文では原則として、用紙の右端で単 語を切り離すことをしないので、ノートに外枠を設けようという発想は生 れない。 所詮コンピュータ(ハード)も、プログラム(ソフト)も人間が作った ものであるし、私共が入力したデータや処理成果についても、完全無比だ とは断言出来ない。また何時か、何処かで故障(破壊、消失など)がある かも知れないので、必ず原本(オリジナル)のほかに、こまめにその複製 (コピー)をとっておく必要がある。私は何百回何千回、数え切れないほ ど、関係データを失ったきた。 ところで、コンピュータに業務処理をさせるプログラム上の基本工程は、 人間社会と同じある。例えば、「書棚から帳簿を取り出せ」→「帳簿を開 け」→「必要なデータを書き込め」→「照合せよ」→「間違っていたら修 正し、正しかったら計算せよ」→「納得した成果で出たら、確定(保存) せよ」→「必要により印刷せよ」→「帳簿を閉じよ」→「帳簿を戸棚へ仕 舞え」というようにプログラム化する。コンピュータはその手順どおりに 実行する。これらの手順の内、一つでも省略されているものがあると、コ ンピュータが動かなくなったり、正しい成果が出てこなかったり、折角の 成果が失われたりする。 六 ローマ字入力か、カナ入力か その頃(昭和五十年代後半)には、コンピュータの処理能力が向上し、 一文字十六個の点滅配列が可能となったので、ようやく漢字表記が出来る ようになり、ワープロも使われ始めたと記憶する。 そこで、日本語のカナ漢字変換のときの、「ローマ字入力か、カナ入力 か」については、一般的には、「日本語のアイウエオの文字数は、アルフ ァベット二十六文字の倍もある。そのため、アイウエオの配列を暗記して 打ち込むよりも、アルファベットの配列に馴れた方が容易であり、合理的 である」といわれている。 しかし、私はこれと趣を異にしている。例えば、「教育」という文字を 入力するとき、両者の手順(指の動かし方)にはそれほどの差異はないよ うに思われるのであるが、しかし、と考える。 @キーボード入力のとき、十本の指を同時に使いこなすという訓練を受け ていないのと、老眼と乱視のことがある。 A日本語のカナ漢字変換は、操作者の命令によってコンピュータが自動的 に変換してくれるのであるが、私自身の眼がその変換の様子を観察すると 同時に、頭脳の中でもこれと並行してカナ漢字変換をしているのである。 カナ入力では「きょういく(打鍵)」→「教育」で済むが、ローマ字では 「kyouiku(打鍵)」→「きょういく」→「教育」と変換されてい く、つまりローマ字入力では一工程分だけ余計に眼と頭脳とを使わなけれ ばならないからである。したがって私は当初から、カナ入力に徹している。 未だに素人の域を脱し得ない私であるが、このような昭和時代後半の揺 籃期を経て、この平成の世において、コンピュータ関連業務は、いよいよ 大成しようとしている。 |